ドイツ演劇2005年 日本におけるドイツ年      寺尾 格

 

ドイツ語圏の演劇状況を紹介するという本稿の趣旨からは、やや外れるかもしれないが、2005年は「日本におけるドイツ年」のおかげで、「同時代性」を保っているドイツ演劇の日本上演や出版がめだった。ベルリンを代表する三つの劇場公演が春のフォルクスビューネ劇場を皮切りに、シャウビューネ劇場、ドイツ座と続いたのは画期的であろう。日本の劇団によるものも、ハイナー・ミュラー『ホラティ人』(ポルトB)、ペーター・トゥリーニ『ねずみ狩り』やビュヒナー『レオンスとレーナ』(うずめ劇場)、ブレヒト『肝っ玉おっかあ』(シアター・カイ、新国立劇場、KAZE)、そしてヨッシ・ヴィーラー演出の『四谷怪談』(シアター・カイ)はベルリンでも12月に上演された。2006年6月にはミュンヘンのカンマーシュピーレ劇場でも上演の予定。地味な翻訳についても、ドイツ現代戯曲選30本の刊行が12月に開始され、翻訳ラインナップの中から多くのリーディングが世田谷パブリック劇場で行われた。あるいはドイツ現代演劇の翻訳を載せている雑誌『デリ』も現在5号まで出ており、ドイツ演劇との言葉の垣根を低くするための土台作りの努力が精力的になされている。

 

同様にグローバルな垣根を低くしようと提唱された「世界演劇日」では、特別賞としてクルト・ヒュプナー(89歳)が選ばれている。1960年代以降の彼の、特にブレーメンでの活躍無しには、ファスビンダー、ツァデック、シュタイン、ノイエンフェルス等々、以後のドイツ演劇を代表する演出家たちの活躍は考えられない。ところでドイツ現代演劇とくればまず脳裏に浮かぶのが「ブレヒト」となるが、そのアシスタントおよび共同作業も行い、1961年に西に移って以降もリアリズムを基調に活躍しつづけたペーター・パリッチュが86歳で亡くなった。そのパリッチュも演出した(1991年『パーティー・タイム』など)ハロルド・ピンターのノーベル文学賞受賞は、1960年代前半の「イギリスの不条理」の印象が強く、昨年のイェリネクのような「驚き」の無い冷静な反応であった。同じ1960年代でも終わりの頃に『マジック・アフターヌーン』と『チェンジ』によって、1970年代へのポップなデビューを印象付けたヴォルフガンク・バウアーは8月、まだ54歳なのに心臓発作で亡くなった。

 

 アーサー・ミラーも2月に89歳で死去したが、最近のドイツでは、代表的な演出家によるアメリカの社会派心理ドラマの古典上演が目立つ。3月の東京でのフォルクスビューネ劇場『終着駅アメリカ』(カストルフ演出)は、テネシー・ウィリアムズ『欲望という名の電車』の東独翻案もので、2000年のザルツブルク演劇祭初演だった。『焼けたトタン屋根の上の猫』がウィーン・ブルク劇場でアンドレア・ブレート演出(2004年11月初演)、あるいはエドワード・オールビーの『ヴァージニア・ウルフなんかこわくない』(ベルリン・ドイツ座、2004年11月初演、ユルゲン・ゴッシュ演出)はベルリン演劇祭招待の出来で、またユージン・オニール『夜への長い旅路』(ハンブルク・タリア劇場、4月初演)がタールハイマー演出という次第である。

 ドイツでの昨年前半の「スキャンダル」としては、ドレスデンで2004年10月初演、ハウプトマンの『職工』(フォルカー・レッシュ演出)において、オリジナルなコロスの語りを付け加えたための騒動がある。昨年報告で触れたHartz Wと呼ばれる失業保険改革(改悪?)を取り上げた演出で、政治家は「シュレーダー首相の豚!」、所轄大臣は「愚かなメス豚!」等々の罵倒を舞台上で繰り出したおかげで上演差し止め請求の騒ぎになった。州裁判所の判断では「人格権」侵害は認められないものの、オリジナル改変が出版社側の「著作権」を侵害していると認定した。劇場側はもちろん異議申し立てを行ったが、結局、幾つかの過激なテクストを削除した形での上演続行という妥協策に落ち着いた。

 

昨年前半のベルリン演劇祭での3sat演出賞は、ミュンヘン・カンマーシュピーレ劇場のヘーベル『ニーベルンゲン』を演出したアンドレアス・クリーゲンブルクで、6時間の重厚なテクストを軽やかな家庭劇風に扱ったらしい。新作の評価基準ともなるミュルハイマー劇作家賞は、スイス人ルーカス・ベーアフスの『バス』(ハンブルク・タリア劇場、1月初演、演出シュテファン・キミッヒ)。神の啓示を受けて巡礼地に行こうとした娘の乗り込んだバスが間違っていたという設定。信仰をめぐる運転手や乗客とのやりとりが、深刻さとコミカルさとを絡み合わせ、「ポスト・ベケット」との批評もあり、観客の人気と批評家の評価とが珍しく一致した作品と言われている。なお、ベーアフスの2003年初演『親たちのセックスノイローゼ』は、昨年5月発行『デリ』5号に翻訳されている。

 

 ドイツ演劇誌は幾つもあるが、その中でも評価の高い「テアター・ホイテ(今日の演劇)」誌を1960年に創刊したエルハルト・フリードリッヒが78歳で死去した。この間にフリードリッヒ出版は、演劇のみならず、オペラ、バレエ、音楽、文学と次々に批評誌を創刊し、ドイツにおける芸術活動の全体に、批評という側面からの活性化に貢献してきた。それにしても演劇批評専門誌「テアターホイテ」の発行部数が2万部近いというのは、日本から見ると驚きではある。夏休み明けに特別号を出して一年を回顧するが、その際に行われる演劇批評家アンケートによる各部門のベスト発表は、本稿筆者も毎年お世話になっている。ちなみに『バレエ・ダンス』誌の批評家アンケートでは、アメリカ人ウィリアム・フォーサイスがベスト振り付け家。また『オペラ世界』のオペラ批評家アンケートによるベスト舞台は、前出のヨッシ・ヴィーラー演出のブゾーニ作曲『ファウスト博士』(シュツッツガルト歌劇場)。

 

2005年前半のドイツ演劇ベスト作品は、前出の『バス』が選ばれた。期待の新人ベスト作家として、アーニャ・ヒリング『私の若く愚かな心』(イェーナ・テアターハウス劇場、3月初演、演出マルクス・ハインツェルマン)の作品が挙がっている。下町のアパート5階に住む一人暮らしの女が自殺を決意しているが、次々と現れる訪問者に邪魔されて・・・と書くと、いささかドタバタ風に聞こえるが、深みのある内的モノローグで複雑に絡み合う構成の質は、まだ30歳の二作目とは思えない力量を感じさせる。レッシング賞のフリッツ・カーターは、『500万人の中の三人』(1月、ベルリン・ドイツ座初演、演出アルミン・ペトラ:作者本人)で、1932年に出版されたレオナルド・フランクの小説を下敷きにした失業者三人の放浪物語。今や大御所のペーター・ハントケが「もう賞なんかいらない」とミュルハイム賞候補を辞退した作品が『地下鉄ブルース』(2004年10月、ウィーン・ブルク劇場初演、演出フリーデリケ・ヘラー)。地下鉄の中でひたすら「乗客罵倒」を続ける男の長いモノローグ・テクストで、初演の演出はト書きをほとんど無視したロック音楽演奏家風の四人を絡めた舞台にしている。

 

ハントケと並ぶ大ベテラン、ボート・シュトラウスが還暦にもかかわらず異様に元気で、昨年は三作も発表している。まず『もう一人の女』(1月、ミュンヘン・レジデンツ劇場初演、演出ディーター・ドルン)は、25年ぶりに再会した宿命のライバル女性二人の対話。3月にはベルリーナー・アンサンブルで、ユッタ・ランペとエーディット・クレーファーの二人をルック・ボンディが演出で、往年のファンならば泣いて喜ぶキャストだろう。二作目の『はずかしめ』(10月、パリ・アトリエ・ベルチエ劇場初演、ルック・ボンディ演出)は、シェイクスピアの『タイタス・アンドロニカス』の改作で、暴力と復讐の連鎖という大枠はそのままだが、舌を切られたラヴィニアに同時通訳者がいたり、ビデオを意識した楽屋裏の場面Making ofを挿入したり、特に後半のシュトラウス風の変奏がおもしろい。三作目が『愛の後に始まる物語』(9月、チューリッヒ・シャウシュピールハウス劇場初演、演出マチアス・ハルトマン)で、冷え切った夫婦間に「愛・情欲」」を再燃させようという寓意の枠に、シュトラウスお得意の現代的な社会像を多彩に絡める。

 

クラウス・パイマンの後継者で、1999年よりウィーン・ブルク劇場総監督のクラウス・バッハラーは、伝統と革新のバランスのとれたラインナップによって、毎年のようにベルリン演劇祭招待作品を量産したが、2008年よりバイエルン州立歌劇場へ移る。代わりはまだ未定。フランク・カストルフは2010年までフォルクスビューネ劇場(1992年より)に、クラウス・パイマンも2009年までベルリーナー・アンサンブルに残るとのこと。

 

サッカー・ワールドカップの開会式における20分のショーの演出は、ミュンヘンのフォルクス劇場の監督クリスチアン・シュトュックルが行う。彼は十年に一度の上演で有名なオーバーアマンガウの受難劇の演出家でもある。ウィーン芸術祭では、フランク・カストルフ+フォルクスビューネ劇場によるドストエフスキー連作の四つ目、『罪と罰』の舞台美術が三階建て、メタルの壁、巨大なスクリーンで評判。ベルリン・シャウビューネ劇場では、独立プロジェクトを立ち上げたバレエ部門のサーシャ・ヴァルツが、演劇部門のトーマス・オスターマイヤーと補助金の配分をめぐって対立とのこと。

 

 カトリン・レグラ『ジャンク・スペース』(2004年10月、チューリッヒ・ノイマルクト劇場初演、演出ティナ・ラニク)は、ゼミナールに現れない男について皆がひたすら語り続けるというベケット風の設定、同じく『外で吹き荒れる不気味な数字』(6月、ウィーン・フォルクス劇場初演、演出ショルシュ・カメルン)は、カード破産をめぐる皮肉なコメントや深刻なモノローグの集積テクストで、どちらの作品も省略が多くて難解なテクストだが、ひたすら追いつめられるビジネスマンの焦燥と不安を描く文体に迫力がある。レグラが意識しているエルフリーデ・イェリネクの新作『バベル』(3月、ウィーン・アカデミー劇場初演、演出ニコラス・シュテーマン演出)は、イラク戦争批判のイェリネク的モノローグを、グロテスクな騒音とカニヴァリズムの血まみれ舞台にして、最後は十字架にくくりつけられたブッシュ大統領が上から降りてくるような演出。

 

 「血まみれのグロテスク」をパロディーにしたような怪作とも言えるのがオーストリアのフランツォーベル『我らは今メシアを欲する、あるいは快速家族』(10月、ウィーン・アカデミー劇場初演、演出カリン・バイアー)。今年だけで幾つかの初演を行ったほどの多作なフランツォーベルは1990年代に登場し、悪ふざけのギャグとグロテスクを掛け合わせたような作品を書く。ヴェルナー・シュヴァープとイェリネクを思わせるようなところもある。基調は『バス』と同様のキリスト教批判なのだろうが、はるかに始末に負えないハチャメチャぶりで、でっぷり太った裸のイエスがPCを前にポテトチップスを食べながら「マスターベーションの方が良い!」と叫び、あるいは環境破壊を嘆きながら「チキータ・バナナ」や「ナイキのシューズ」や「シェル・ガソリン」を罵倒、あげくにケチャップを体にかけて自分で自分を十字架に釘付けしようとする、混乱したスラプスティックな笑いと毒ということになる。

 

アンドレアス・ヴァイル『キック』(4月、バーゼル劇場・ベルリン・ゴーリキー劇場共同初演、演出アンドレアス・ファイエル)は、16歳の言語障害の少年が三人の遊び仲間に虐待されたあげくに殺され、肥だめに放り込まれるという陰惨な事件を解明する裁判劇で、証言というスタイルを維持しつつ、暗澹たるモノローグを積み重ねて、東独の貧しさと失業のやるせなさに焦点をあてる。モーリッツ・リンケ『カフェ・ウムベルト』(9月、デュッセルドルフ・シャウシュピールハウス劇場初演、演出ブルクハルト・C・コスミンスキー)も、職業斡旋の待合室のコーヒー・コーナーを舞台に登場する失業者たちのやりとりで、どうも失業がらみの話題が目立つ最近のドイツ演劇ではないだろうか。

                    

国際演劇年鑑2005 諸外国の演劇事情 

                    発行:国際演劇協会(ITI/UNESCO)日本センター