骨と排泄物

―――ヴェルナー・シュヴァープの「肉」的言語について―――

      寺尾 格

 

みにくい肉体(シェール)、筋肉と脂肪、人間なんて、まんなかに管のある(ねり)()のかたまりにすぎない。      加賀乙彦『フランドルの冬』より

 

1 はじめに

2 聖書における「肉」

3 ヴェルナー・シュヴァープの演劇言語

4 『かぐわしきかな天国』                                                         

5 『重すぎる、くだらない:無形式』

 

 

1 はじめに

 

 「食べる」とは、単なる生理的な問題ではなくて、すぐれて社会的、文化的な行為であり、複雑な人間関係や価値観を示す記号でもある。狩猟や農耕、宗教儀礼をめぐる文化人類学の諸研究を引き合いに出すまでもなく、我々の日常生活での食事を巡る様々な価値判断をいささかでも省みれば、このことは明らかであろう。いつ、どこで、何を、誰と食べるかは、人生の最重要事のひとつなのである。それゆえ、いわゆる「食卓共同体」という言葉もある。そのような食卓共同体における判断の心理学を、エリアス・カネッティは「食べる」ことの権力関係と述べたうえで、食事と「笑い」について、なかなか興味深い指摘をしている。彼は「笑い」を「優越」感から説明するホッブスの伝統的な理解を引き合いに出しながら、[]それが「真理の半面しか含んでいない」と批判し、「笑いはポテンシャルな食物を逸してしまうことに対するわれわれの肉体的な反応」であり、「われわれはそれを食べる代わりに笑う」と説明する。[]

カネッティは人間に固有の「笑い」という心理的反応が、実は「食べる」という直接的な欲望に関わる「動物的な反応」を示す「シンボル的な行為」と見ている。ここでカネッティの言う「シンボル」とは、単なる社会的・記号的な関係にとどまらない複雑さを示す言葉だろう。むしろ記号の向こう側が重要である。つまり「笑い」における「優越」という心理の背後に、実は欲望と記号、動物と人間、身体とシンボルとの解きがたい絡み合いが存在する。近代ヨーロッパの悪夢とも言えるファシズムの暴力の根源を探るカネッティは、「笑い」という側面においても、われわれの言語的、記号的、権力的関係の意識の背後に控える二元論的発想の伝統的価値観を問題視している。つまり人間と動物、文化と自然、精神と身体といった相違による優越意識が、ひたすら実体化されて行く危険である。

さて、カネッティは19948月にチューリッヒで亡くなっている。89歳であった。同じ年の元旦の朝のウィーンで、急性アルコール中毒で死んだのが、35歳のヴェルナー・シュヴァープである。オーストリア社会の隅々に漂うファシズム的状況を、カネッティとも共通するグロテスクな言語的感性で、刺激的、挑発的に描いた作家である。カネッティの舞台作品については、「彼が初期作品の言語的素材である<音響的仮面(akustischen Masken)>を見出したのはウィーン」であり、[]彼の舞台においては「言葉が他の一切から切り離され、純粋な音響と化す」との評価があるのだが、[]同様な課題を独自の視点から展開したのがシュヴァープであり、その「シュヴァープ語」世界を「肉」的言語として具体的に考察するのが、本稿の意図である。

 

2 聖書における「肉」

 

シュヴァープの「肉」的言語に入る前に、まずは前提として、そもそもヨーロッパ文化における「肉」のシンボル機能が示す「精神」優位の問題性について、ごく基本的な指摘を行っておきたい。それは、とりわけキリスト教における「パンと肉」という「食べる」行為のカニバリズム的なシンボル化において顕著となるだろう。まずヨハネによる福音書の第6章48節以下を挙げる。ルター訳の聖書からの引用である。[]

 

わたしは命のパン(Brot des Lebens)である。あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死んでしまった。しかし、天から下ってきたパンを食べる人は、決して死ぬことはない。わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉(Fleisch)である。

 

 「パン」も「肉」も、まずは「イエスの教え」の比喩である。「食べる」という外面的な行為は、イエスへの信仰という宗教的内面の精神性を示すシンボル的な行為となっている。ここで聖書の主張が具体的な手ごたえを与えているのは、暖かく語りかけるような平易さで何度も繰り返す日常的な文体のリズムの効果でもあるのだが、基本的には日常的で平易な用語の背後に、壮大な崇高さが分かちがたく重ねられるという複層的な意味のイメージの一体性にある。[]「パン」の比喩は、さらに「肉」という言葉で繰り返されて、同じ内容を異なった言葉でたたみかけられることによって、聴く者の心に入り込む具体的な説得力が獲得されている。

ところで「肉」という言葉は、「パン」と共に繰り返される比喩であるわけだが、単なる食物としての「パン」よりも一層強く「身」にしみる言葉だろう。というのも「パン」も「肉」も、どちらも身近で日常的な食物ではあるものの、しかし「肉」という言葉は、食べ「物」でしかないパンよりも、我々自身の「肉」である「身体性」と強く共鳴できるリアルな存在感を持つ言葉だからである。そうであるからこそ、引用箇所の後も、さらに続けて四回も、「肉」という言葉がひたすら繰り返されているのである。

 宗教的内面性を唱道する聖書において、「肉」という言葉は、人間の欲望の衝動をコントロールするべく、精神性と身体性との「間」を揺らぎながら漂う言葉である。従って「肉」に関する聖書での言及は、常に独特の生々しさから離れることがない。例えば聖書冒頭の創世記第2章でのアダムとイヴの創造の場面、「身体」の文脈で使われている言葉が「肉」である。

 

   そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉(Fleisch)でふさがれた。(略)これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉(Fleisch von meinem Fleisch)。(略)それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体(ein Fleisch)となるのである。       創世記2-21~23

 

 もちろん聖書的文脈における「肉」は、神に対する即物的な物質として否定的に見られるが故に、信仰における「霊(Geist)」の永遠性と対照的に、時とともに滅びるもの、はかなく無意味なもの、つまりは「肉」=「罪(Sünde)」の等値関係の中で言及されるものでしかない。

 

そこで主は言われた、「わたしの霊(Geist)はながく人の中にとどまらない。彼は肉(Fleisch)にすぎないのだ。」                  創世記 6.3

 

 神がもしその霊(Geist)をご自分に取りあつめられるならば、すべての肉(Fleisch)は共に滅び、人はちりに帰るであろう。            ヨブ記 34.14-15

 

また新約聖書でも、パウロの書では、以下のように述べられている。

 

  律法が肉(Fleisch)により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様(Gestalt des sündlichen Fleisches)で罪のためにつかわし、肉において罪(die Sünde im Fleisch)を罰せられたのである。これは律法の要求が、肉(Fleisch)によらず霊(Geist)によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。なぜなら、肉(Fleisch)に従う者は肉(Fleisch)のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。肉(Fleisch)の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安である。なぜなら、肉の思い(fleischlich gesinnt)は神に敵するからである。すなわち、それ(Fleisch)は神の律法に従わず、否、従い得ないのである。また、肉(fleischlich)にある者は、神を喜ばせることができない。 ローマ人への手紙 8.3-8

 

 このような「罪」である「肉」への言及は、聖書において、ほとんど数えきれないほどに多用されるが、それに対して「肉」と同様な意味であるはずの「身体(Körper)」という言葉は、信仰によって「霊」へと高まるという救済の文脈でも語られる。

 

 天に属するからだ(himmlische Körper)もあれば、地に属するからだ(irdische Körper)もある。  コリント人への第一の手紙 15.40

 

  Körperで示される「身体」である人間は、天上と地上との二重性の中にある。そもそも「罪」は「救済」の裏側というのが、キリスト教の基本的な弁証法だからである。同じことを「肉」と「霊」との二重性と言っても良いのだが、そのような「身体」は、表記の上でも二重性の中にある。

 

 肉のからだ(ein natürlicher Leib)でまかれ、霊のからだ(ein geistlicher Leib)によみがえるのである。肉のからだがあるのだから、霊のからだもあるわけである。                同上 15.44

 

 ルター訳を元にしたドイツ語訳聖書のコリント人への第一の手紙では、パウロの言う「身体」は、同じページであるにもかかわらず、KörperLeibと二つの言葉が並列的に用いられている。残念ながら聖書の全体を網羅して調べたわけではないのだが、ルター訳の聖書に出てくる「身体」は、「肉」という言葉を使わない場合には、実はKörperよりも、Leibばかりがひどく目につくのである。

例えば有名な個所を幾つか探ってみると、旧約聖書では上掲の創世記以外でも、「わたしは裸で母の胎(Leibe)を出た。また裸でかしこに帰ろう。(ヨブ記第1章)」、「主を恐れて、悪を離れよ。そうすれば、あなたの身(Leibe)を健やかにし、あなたの骨に元気を与える。(箴言第3章)」、「多く学べばからだ(Leib)が疲れる。(伝道の書第12章)」。   

あるいは新約聖書で最も有名な個所であろうマタイ伝の山上の垂訓では、「あなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。五体の一部を失っても、全身(der ganze Leib)が地獄に落ち込まない方が、あなたにとって益である。」あるいは「何を着ようかと自分のからだ(Leib)のことで思いわずらうな。」そして何よりもイエス自身を示すはずの文脈で語られる際の「身体」、とりわけ最も重要な儀式であるミサ・聖餐に関わる言及では、ほぼ例外なく、KörperではなくてLeibが使われている。

 

  一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「取って食べよ、これはわたしのからだ(Leib)である」。

マタイによる福音書 26.26

 

わたしたちが祝福する祝福の杯、それはキリストの血にあずかることではないか。わたしたちがさくパン、それはキリストのからだ(des Leibes Chriti)にあずかることではないか。パンが一つであるから、わたしたちは多くいても、一つのからだ(ein Leib)なのである。みんなの者が一つのパンを共にいただくからである。

           コリント人への第一の手紙 10.16-19

 

 自分のからだ(Leib)は、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮で(ein Tempel des Geistes)あって、あなたがたはもはや自分自身のものではないのである。(略)それだから、自分のからだ(Leibe)をもって、神の栄光をあらわしなさい。

同 6.19-20

 

 「肉」である「身体」の「罪」は、十字架に架けられた「イエスの身体・からだ」を媒介として、救いへと質が転換する契機である。従って聖霊による救済の弁証法という文脈での「身体」は、霊(Geist)との対応における罪の二重性を抱えているので、ラテン語の「死体(corpus)」を原義とするKörperに対して、イエスの復活と永遠の生(Leben)を体現するLeibという言葉の方に、原義への無意識的な誘惑が現れていると言えるのであろう。聖書のドイツ語訳に見られるようなドイツ語の語感においては、宗教的、実存的なLeibに対して、即物的、機能的なKörperという対比を見ることもできるだろう。従って「肉」という言葉も、当然、このような「身体」の二重性の間で揺れ動くことを、まずは確認しておきたい。[]

  

3 ヴェルナー・シュヴァープの演劇言語

 

 1990年のウィーン・デビューから三年後の死去まで、ウィーンやミュンヘンを始め、さらに死後も各地で次々と上演され続けているヴェルナー・シュヴァープの特異な作品の数々は、すでに1990年代以降のドイツ語圏演劇を語るための伝説のひとつともなっている[]。伝説を補強するのが、シュヴァープの舞台に触れた多くの観客や演劇人の批評や感想である。特に2008年に出版されたWerner Schwab. 1989-1991. Vom unbekannten Dichter zum anerkannten Dramatiker.[]は、その副タイトルが示すように、まだ無名時代からのシュヴァープを身近に知る写真家Bernd Höferによる回想オマージュである。1989422日にグラーツのディスコ劇場Bronxで、俳優朗読のスタイルで初めて公開されたシュヴァープ作品を聴いたHöferは、その才能に驚嘆して、以後、自らが関わるグラーツの文化フォーラムにシュヴァープを誘い、その後も多くの関係者とのコンタクトを積極的に引き出すと共に、グラーツから二十数キロ離れた国境近くの田舎(Kohlberg)に住んでいたシュヴァープに対して、州都グラーツでの住居を提供し、さらには演劇都市ウィーンでも同様の支援を行って、彼の伝説的なデビューの基礎を築いた友人かつパトロンである。

 19901月にウィーンで上演されたシュヴァープの初の本格的な作品『かぐわしきかな天国』[10]の初演評は、主にその内容的な側面のみを見て、「女性蔑視」「人間嫌悪」「失敗したファルス」と、必ずしもまだ積極的な評価ばかりではなかったのだが、[11]1991年の第二作目の『重すぎる、くだらない:無形式』では、宣伝ポスターとして示された台詞が、Wir sind in die Welt gevögelt, und können nicht fliegen. (俺らは鳥みたいに乳繰り合って生まれたのに、誰も飛べない。)で、動詞vögelnの意味を原義の名詞「鳥(Vogel)」へと意味を迂回的にずらすことに注目し、「ホルヴァート的教養語ジャルゴン」「言葉のゴミ」との批評がテアターホイテ誌に出て、シュヴァープの言語の特異性に焦点が当てられている。[12]更に同じ年の11月にミュンヘンでの三作目『民衆根絶あるいは私の肝臓は無意味』の劇評が、テアターホイテ誌とツァイト紙という、ドイツを代表する演劇誌と新聞に相次いで掲載されて激賞されるにおよんで、シュヴァープ現象に一気に火がつくことになった。[13]デビュー後に上演された三作に『わが犬の口』を加えた四作品が「排泄ドラマ連作(Fäkaliendramen)」と銘打たれて、1991年にウィーンのDroschl社から出版された。五年後にはすでに四版を出している[14]

グラーツで初めてシュヴァープの演劇言語を耳にしたHöferは、次のように書いている。

 

シュヴァープのテクストは全く別だった、ただ突然、戸を叩くこともなく、私の中にあった、そして私はすぐに、それらの言葉が私の中に入ってくるのを許し、否応もなく受け入れた、それほどに力強いテクストだった。[15]

 

Höferによれば、彼が初めてKohlbergを訪れ、シュヴァープの部屋を覗いて驚かされたのが、部屋の隅に置かれた籠の中の様々な動物の骨であった。骨は「肉屋から調達してものとか、あるいは森の中で見つけたもの」で、「残った肉をきれいにするために、ぼくはそれを森の中の蟻塚に置いて、蟻たちが熱心に働いて骨を白くする様子を何時間も見ていた」[16]とシュヴァープは答えたそうである。骨の入った籠は、それ以後、グラーツでもウィーンでも、ギンギンのハード・ロック音楽や強いアルコール飲料と共に、シュヴァープの仕事部屋には欠かせない小道具であった。

ちなみにグラーツで初めて公開された作品名は、いかにもシュヴァープらしい矛盾したタイトルで、『命あるものは命無いもの、そして音楽、またの名を死体作品(Das Lebendige ist das Leblose und die Musik alias Ein Kadaverstück)』で、これを「音響言語作品のテクストと音楽的響き(Texte und Musikklänge des Ton-Sprech-Stückes)」と特徴づけたHöferは、さらにシュヴァープ自身による演出および舞台装置にも触れて、次のように述べている。

 

舞台背景には長い角を持った恐ろしげな雄牛の頭蓋、舞台左側には蓋の無い便器、鏡の欠けたフレームだけの鏡。これらは無常の象徴だろうと思う、つまり骨と排泄物(Knochen und Fäkalien)で、これらの言葉がシュヴァープのテクストにつきものだとは、当時はまだ知らなかったのである。[17]

 

肉をそぎ落とした骨、そして排泄物は、どちらも肉が利用された後の残りかすであり、モノとしての死体あるいは廃棄物に分類される。シュヴァープ世界で提示される生々しい廃棄物としての身体であるKadaver(死体、死肉、腐肉、遺骸)、あるいはそれに関わる排泄と猥褻の小道具は、それらが単なる言葉としてでなく、具体的な舞台形象として観客の前に現れると、見世「物」の存在感によって、実にグロテスクな挑発に満ちた衝撃力を孕むことができる。1990年代の初期の批評も、まずは嫌でも目につく、それらのグロテスクな印象を生み出すテクストについての内容的な側面からの指摘が多かったのだが、しかし見世「物」としてのグロテスクさ以上に挑発的なのが、実はシュヴァープの破壊的言語そのものである。これについては、すでに初期から「シュヴァープ語(Schwabisch)」として意識はされながらも、本格的な検討は最近になってようやく始まったと言える。[18]

1990年代のドイツ語圏演劇の新しい流れをシュヴァープ以上に代表するのが、2004年にノーベル文学賞を受賞したエルフリーデ・イェリネクであるが、[19] 彼女もシュヴァープの言語の持つ可能性を高く評価して、次のように述べている。

 

  シュヴァープによって私が困惑するのは、彼の言語が自閉症のそれに似ていることである。この不気味さは、官僚的な言語が持つ野蛮さである。アイデンティティが崩れると、空虚な形式化が現れる。私は同じことを女性文学にも見出すのだが、つまり女性にはいかなる主体も与えられていないということなのだ。[20]

 

  イェリネクの言う「自閉症」とは、外界とのコンタクトを欠いて自身に閉塞し、語る言葉を持たないジェンダー的状況の非主体的な問題性を指摘するための比喩であるが、これをシュヴァープ言語に即して言い換えれば、対象という外界との結びつきを示す「意味」を欠いて、対象と共に語り手もまた消滅するような、あるいは言語が言語自身を語るような、つまり語り手としての主体を欠いた言語だけの自己閉塞的な世界である。この閉塞をシュヴァープが簡潔に表現すると、例えばHöferがグラーツのディスコで初めて聞いた、以下のような台詞になる。

 

  私が歌うのではなく、私は語られるのだ。(Ich singe nicht, ich werde gesprochen.[21]

 

ここでは主体=主語としての「私」が、受動的な立場の中で、その主体性=主語性を拒否されている。[22]このようなポストモダン的とも言える言語認識それ自体は、すでに戦前のダダからの系譜をたどることができるだろう。特に戦後のオーストリアはG・リューム、E・ヤンドル、H・C・アルトマンらのウィーン・グループ(Wiener Gruppe)の詩人たちによって、様々な実験詩の試みが行われている。[23]しかし詩的言語としての実験的な試みでは、言語を語素(Lexeme)や形体素(Morpheme)、あるいは抽象的な音素(Phoneme)へと分解する音響性や、あるいは視覚による絵画性に解体、抽象化する方向に重点が置かれている。1990年代にいたるまでは、舞台という具体的な形象を前提とする演劇言語では、エルンスト・ヤンドルやペーター・ハントケを例外とする散発的な試み以外に、必ずしも十分な展開がなされていたわけではない。[24]と言うよりも、むしろカネッティを含み、ネストロイmでをも視野に入れて、さらにはイェリネク、シュヴァープへとつながるオーストリア的な言語意識は、今日における演劇的パフォーマンスの文脈からとらえ返されることによって、その本来の意義が比較的クリアに見えてくるように思える。繰り返すが、そのように多様な可能性をはらむ「シュヴァープ語」の可能性を、主に「肉」的視点から焦点を当てようとしているわけである。

まずはシュヴァープ自身の言葉を確認しておきたい。

 

私にとっての演劇の魅力とは、演劇が途方もなくアナクロだということと、言語を純粋な人間の肉(Menschenfleisch)に変え、そして逆に人間の肉を言語に変えようというわたしの倒錯した演劇理念とのふたつである。さもなければ演劇などはまったく退屈な豚の糞(Schweinescheiße)でしかない。[25]

 

この短い文章はなかなか含蓄が深い。演劇表現はすでに時代認識としてはアナクロであるという事実、つまり映像とデジタルの流れから取り残された前(前々?)世紀の表現媒体にすぎないという否定的な自己認識と、しかしそこに魅力があるのだという「倒錯」的な姿勢である。そして演劇とは「豚(Schweine)」の「糞(Scheiße)」だと最後に吐き捨てる彼の言葉の誘因力は、批判の強さから来る自虐的内容とともに、何よりもドイツ語に印象的なschの響きを重ねた頭韻による子音連続(Konsonanz)[26]、そして同じふたつの幹母音eiと同じ語尾-eと、母音と子音でたたみかける二重の反復、それらの繰り返しの中でズレを生じさせる子音wßの転換移動という、なかなか凝った音声リズムによる音楽的効果が著しい。Höferが驚嘆したシュヴァープ語の強い魅力の本質が、この一語からも明らかに読み取れる。

しかしこの文章で最も重要な内容は中心で述べられている部分で、「言語を肉に変え、肉を言語に変える」という認識そのものの「倒錯」である。つまり言語とは「肉」なのである。これはどういうことなのだろうか?言語=肉というシュヴァープの発想は、「さもなければ」と否定的に続いて、「豚の糞」という全否定につなげられているのであるから、その文脈の向こうには「骨と排泄物」とが暗示されているだろう。事実、別のエッセイで、シュヴァープは次のようにも述べている。

 

言語は誰のものか。言語は汚穢のものだ。汚穢が言語を作り出した、それは美が無防備に目的のない戦争を宣言せねばならなかったときだ。

Wem gehört die Sprache?

    Die Sprache gehört dem Dreck!

   DER DRECK HAT DIE SPRACHE ERFUNDEN, als die Schönheit ungeschützt einen ziellosen Krieg erklären mußte. [27]

 

 ここでは言語=汚穢(Dreck)である。もちろん汚穢が宗教的意味と関連することは、さしあたりメアリ・ダグラスの次の言葉を引用しておけば充分だろう。

 

 汚穢(けがれ)の考察とは、秩序の無秩序に対する関係の考察を意味し、存在の非存在に対する関係、形式の無形式に対する関係、生の死に対する関係等々の考察を意味するであろう。[28]

 

従ってドイツ語のDreckは単なる「汚れ(Schmutz)」よりも強いニュアンスをもつ。比喩的に無価値(wertlos)、無意味さ(unbedeutend)を示す文脈であろうけれども、Dreckは文字どおりには、日常語で「糞(Kot, Scheiße)」の意味ともなるので、しばしばひどく下品な罵倒表現として多様な応用力を示す言葉である。もちろん典雅な文学テクストによるハイカルチャー世界では、あまり顔を出さないような「言ってはいけない」言葉のひとつでもある。[29]従って「汚穢」という日本語訳の嫌悪感はドイツ語と見事に対応するのだが、もしかしたら水洗の普及とともに死語となりつつある日本語かもしれない。他方、ドイツ語の「糞」は、DreckKotScheißeStuhlも、いずれもしっかりと現役の指示詞であると共に、嫌悪と罵倒の言葉として、日常でもしばしば多様に使用されている。いずれにせよシュヴァープの標榜する「言語=汚穢」という認識には、単なる言語不信や無意味さの主張とはレベルの違う、より積極的で強い身体感覚的な嫌悪感が鮮明に打ち出されているし、何よりも一行目の疑問符、二行目の感嘆符、そして三行目の大文字と、視覚的な効果も忘れていないことが重要であろう。

かつてホーフマンスタールが20世紀冒頭に『チャンドス卿の手紙』で示した意味論的な言語「不信」の表明は、20世紀半ばのベケットやイヨネスコにおける「不条理」、すなわち実存の不安に対応する言語の「無意味」さ、およびダダやウィーン・グループによる言語の「解体」を経て、ついに20世紀末のシュヴァープにおいて、言語はむしろ積極的に嫌悪し、罵倒し、忌避すべき「糞」「汚穢」にまで至ったとも言えるだろう。20世紀におけるこのような展開は、そのまま「言語」を「演劇」に代えて繰り返すことができるし、あるいは「世界は・・・」「われわれは・・・」と応用することも可能だろう。演劇は豚の糞である。世界は豚の糞である。われわれは豚の糞である・・・

これらのシュヴァープ的ニヒリズムには、「美が無目的な戦闘を開始したとき・・・」という条件がついている。いわば「美」が無意味さの自己主張をするために、その対応として言語が糞になったということであるから、わかりやすい普通の表現に直せば、美の自立宣言と言語への嫌悪感とはパラレルであるということになる。つまり言語が示すべき美という理念には何の実体もない。そして、もしも「言語=肉」であり、同様に「言語=糞」であるのならば、論理的には当然、「肉=糞」とならざるをえない。これは単なる比喩というよりも、むしろ生物学的な身体変容の客観的事実の指摘であるだろう。比喩とは現実なのだ。

 

4 『かぐわしきかな天国』

 

以上を前提として、さらに具体的にシュヴァープの肉的言語世界に入っていこう。最貧の掃除婦三人の会話劇である『かぐわしきかな天国(原題はDie Präsidentinnen)』は、三人それぞれの願望を互いにふくらませながら、それが同時に相互の抑圧を生み出すという会話のバトルであり、言葉の暴力の自己増殖の様子に独特の魅力のあるテクストである。内容的には、せっかく甘い夢想を構築して、それぞれがいい気分になっているエルナとグレーテルの二人に対して、そこから排除されていると感じたマリードゥルが、二人の夢想をスカトロジーを駆使して情け容赦なく否定し、さらに続けられるマリードゥル自身の夢想の自分勝手さを恨む二人によって殺害される。設定としては一種の復讐劇ということになる。「排泄劇連作(Fäkaliendramen)」と銘うっているように、夢想の内容がひたすら排泄物がらみであり、演出によっては文字通りに「糞まみれ」の舞台となる。内容的にはナチに関わるオーストリアのカソリックに対する冒涜的な批判が顕著であること、さらに夢想とリアルな状況との奇妙な錯綜等、テクストのみならず上演においても、多様な演劇的魅力を示すのだが、ここではその語り口である「シュヴァープ語」自体に焦点を絞る。[30]   

まずは『かぐわしきかな天国』に関するシュヴァープ自身の但し書きである。

 

女たち三人の産み出す言葉は、彼女たち自身である。しかし自分自身を産み出す、あるいは明らかにするとはなかなか厄介な仕事であり、それ故に、全てがそれ自体に対する抵抗となる。そういうことが芝居の中での必死な努力として感じ取れると申し分ないのだが。

Die Sprache, die die Präsidentinnen erzeugen, sind sie selber. Sich selber erzeugen (verdeutlichen) ist Arbeit, darum ist alles an sich Widerstand.  Das sollte im Stück als Anstrengung spürbar sein.       (F. S.13)

 

 冒頭を文字どおりに訳せば、「女三人」ではなく「女大統領たち」である。コーヒー・フィルターの代わりに新聞紙を使って節約するほどの最貧状態にいる掃除婦三人を「大統領たち」とは奇妙な皮肉だろうが、もともとのフランス語presiderは、原義のラテン語praesidereと同じく「会議の前に(prae)+座る(sedere)」、つまり司会者として会議を支配する意味があり、さらに会食のホストとしてパーティーの会話をリードするニュアンスもある。三人それぞれが、ワインをチビチビとなめながらのミニ・パーティーで、満たされぬ自分の夢想を互いに延々と語りあうという点では、日常会話の主導権を巡るささやかな権力闘争を示すタイトルだろう。「彼女たちの言葉が彼女たち自身である」のだから、ここでは語り手と言語との主体・客体関係が倒錯して、語り手が言葉を統御するのではなく、産み出された言葉が語り手自身となるのであるから、言葉は言葉自身を受け身に「語られる」しかない。このような関係は「自己言及性(Selbstreferentialität)」と呼ばれ、パフォーマンス論の基本用語の一つであるが、ここで言葉は単に「語られる」のではなく、具体的な物質としての感覚と共に「生み出される(erzeugen)」ところが重要だろう。法律用語で「作り手(Erzeuger)」とは父親のことだが、単なる権利関係ではなくて、親子の血のつながりという実質を前提とした父親を指す。つまり三人により「産み出される」言葉とは、単に意味が「語られる」媒体としての記号的なシニフィアンであるよりも、まずは言葉自身の存在感を「生み出す」身体的な感覚であり、つまりは物質的で身体感覚的な実体としての「肉」の様態と呼応するのである。

これを具体的に見れば、『かぐわしきかな天国』において中心となる言葉は「糞(Fäkalien)

」であり、テクスト上ではScheiße, Scheißedreck, scheißen, Stuhl, Jaucheと並ぶ。さらに「便所」はAbort, Klo、そして「便器」Muschel等々、これらの一連の言葉は、テクストの全体の中で枚挙のいとまもなく頻出するという設定である。

 

マリードゥル:わたしはウンコって言葉なんてこわくないわ。本ものだって平気よ。だって、それが何なの?どういうものか、みんな知らないのよ。ホヤホヤの出来たてで新鮮だと、とても柔らかいのよ?暖かいのよ?(誇らしげに胸を張る。)

MARIEDL: Ich habe keine Angst vor den unteren Wörtern und auch nicht vor einem echten Stuhl.  Weil was ist es schon, wenn einer nicht weiß was es ist? Weich ist es und warm, wenn es frisch ist. (Sie richtet sich stolz auf.)  F. S.22.

 

  和訳では一括して意訳してしまったが、まずは「シモの言葉(untere Wörter)なんて・・・」とテーマを控えめに示してから、次に「本もの(Stuhl)だって」・・・と、どちらも婉曲表現(Euphemismus)で直接的な言及を避けながら「糞」を示している。聖地への巡礼に熱中する信心深いマリードゥル(Mariedl)の名前は、マリア(Maria)に由来したMarieがウィーン方言の縮小語尾-derlをつけて、それがさらに縮小した形である。[31]従って「小マリア」であるマリードゥルは、「十字架で苦しんだイエス様の犠牲」を常に心にかけていて、詰まった便器に「ゴム手袋なし(ohne)」で手を突っ込むのを誇りにしている。なぜならば「主なる神さまが世界をお造りになった時に、人間のウンコ(Jauche)だって創造なさった」からである。神の正義が支配するはずの世界に、なぜ悪や汚穢のように汚いマイナス面が存在するかの理由を問いかける神学的な論議を弁神論、あるいは神義論(Theodezie)と言う。マリードゥルの神義論では、イエス様(Jesus)の架けられた十字架と、糞(Jauche)の詰まった便器とは自虐的に同等視されて、Jesus = Jaucheとなるわけで、シュヴァープの倒錯的冒涜がよく見える個所であるが、実は引用した真ん中の文章は、厳密に言えば、よくわからない奇妙な文章である。

Weilと理由を示すはずの接続詞を出しながら、それと関わらずに「それが何なの?(Was ist es schon?)」と間投文的に挿入し、その同じ文章を副文に変奏して繰り返し、それを「人が知らなければ(wenn einer nicht weiß)」と別の副文に続けている。結局、weil文章もwenn文章も、どちらも副文にも関わらず、論理的な結論となる主文がどこにも示されていない。音楽の進行で言えば、多彩なコード進行を示しながらも和声上の解決を行わずに、いつまでも後ろに引っ張るような中途半端な印象が醸成される。それにもかかわらず、何となく意味を納得してしまうのは、「それが何なのか」という文章の主文と副文との交代による繰り返しと、何よりも冒頭から5回も反復する頭韻的な「ヴ(W)」による響きの反復リズムである。このリズム感は、声に出されることで初めて体感することができる質のもので、次の文章(Weich ist es und warm, wenn es frisch ist.)でも繰り返され、さらに強調されているのが、強い響きの「ヴ(W)」である。

Wのリズムに着目すれば、最初に婉曲的に示された「シモの言葉たち(untere Wörtern)」も、以後の文意(糞)を意味的に展開するのみならず、まずは以下で反復されるWとも音声的に呼応する響きであり、それによって「下にあるuntere」という限定詞も、単なる糞を忌避する婉曲表現であるのみならず、文字どおり「以下にあるW」という直接的に意味的な指示へと回帰することができる。ここにも、言葉は「汚穢」であり、しかも元の「肉」へと、音楽的なイメージを保ちながら意味的に回帰する「シュヴァープ語」の言語身体性を支える具体的な変容の戦略が見えてくるであろう。

マリードゥル以上にファナティックなカソリック信者が、エルナである。[32]エルナ(Erna)という名前は、ドイツ語のErnst(まじめ、本気、真剣)をラテン語化したErnestusの女性形Ernestaの短縮形である。[33]マリードゥルと同様、いわゆる「説明的名前(sprechende Namen)」で、「名は体を表わす」という点では「肉」と化した言葉であるとも言えるだろう。

 

エルナ:わたしだって大きな硬いウンコをするけれども、だって息子のヘルマンが心配で、身体の中にいっぱいたまっちゃうんだから。

Erna: Ich habe ja auch oft einen großen festen Stuhl, weil sich der Stuhl wegen der Sorgen um den Hermann in meinem Körper angesammelt hat.      Erna. S. 23

 

 マリードゥルの糞賛美を批判するエルナは、しかし自分でも糞にこだわり、特に息子が便所紙を無駄に使って詰まらせないように、いつも監視を怠らない。詰まった便器に喜々として手を突っ込むマリードゥルに対して、便所の息子に耳をすませ、心配のあまり硬い糞をためこむエルナが対応している。便器も身体も、硬い糞で詰まってしまうという点では全く同じであり、共に糞を貯める容器でしかない。そして糞の原料は、もちろん酒と肉である。

 

マリードゥル:それでみんなは、おいしいビールをたっぷり飲んで、おいしい料理もたっぷり食べて、それでみんな我慢できなくなる。もうおそろしく我慢できなくなる。だって飲んだり食べたりした物が、身体から外に出たがるんだから。栄養が消化されてるんだから。

Mariedl: Und die Menschen trinken viel von dem guten Bier und essen das gute Fleisch, und da bekommt ein jeder einen Drang, einen fürchtelichen Drang, weil die Lebensmittel heraus wollen aus dem menschlichen Körper, wenn die Nahrhaftigkeiten herausverdaut sind.      F. S.40

 

 「おいしい料理」との意訳は、もちろん「肉」である。以下、特に後半の日本語訳では、食べたものが消化されると・・・という日常的で当たり前の内容が、ビールと肉は「食品・生命手段(Lebensmittel)」あるいは「栄養豊富性(Nahrhaftigkeit)」と抽象名詞の誇張法(Hyperbel)で示され、「消化する(verdauen)」は「外へ」の意味の前綴りherausをつけた造語(Neologismus)になり、便意は「人間的な身体から外へ(herau aus dem menschlichen Körper)」と無駄な冗語による重複(Pleonasmus)で示される。その結果、文脈上の意味と、レトリックを駆使した奇妙なシュヴァープ的言語の身体的な感覚性との間のズレが、ひたすら増幅し続けるという、シュヴァープ語の特異な世界が展開される。

 しかしながら「ビールを飲んで、肉を食べて」の「肉」は、シュヴァープ語的に抽象化された流れの中で語られるものの、あくまでも食物としての「肉」にすぎない。しかし最後の場面で、マリードゥルの首を切り落としたエルナの言う「肉」は、少々雰囲気が異なる。

 

でも人間って、こんなに沢山の血が肉の中にあるんだ。

Erna: Daß der Mensch aber auch so viel Blut haben muß im Fleisch.  F. S.56

 

 この台詞には状況説明のト書きがついている。

 

二人は慎重にマリードゥルの首を切り落とす。エルナはすぐにバケツと雑巾をあてがい、この屠殺場が血で汚れるのを防ぐ。

Sorgfältig schneiden sie ihr den ganzen Hals durch. Erna ist gleich mit Eimer und Fetzen zur Stelle, um eine größere Schweinerei zu verhindern.  F. S.55.

 

「屠殺場」と訳した言葉はSchweinereiで、辞書的には「不潔、無秩序、不快、不道徳」という訳語が並ぶが、文字どおりには「豚(Schwein)」に接尾辞-eiをつけて、「軽蔑的な行為」または「場所」を表わす言葉である。ちなみに「豚」の動詞化である「schweinen(豚する?)」は古語で、「ferkeln(子豚のように不潔な言動をする)」を意味する。[34]

エルナの言う「肉」は、通常の表現であれば「身体(Körper)」というべき個所であろう。「でも人間って、こんなに沢山の血が身体の中にあるんだ。」ただし「首」を切り落とすような凄惨な場面であるから、「肉」という表現に違和感はない。というのも食べ物を意味する「肉」が、場面と言葉の両面からの「血」と対応することで、「血と肉」である「身体」の意味へと無理なく連想が転換されているためである。ここでは作品全体が焦点を当てていた「肉」の側面が、容器である「身体」の中にたまる「糞」という消化された「肉」ではなくて、逆に「血」を中にためる「身体」という容器へと、「肉」の位相が大きく変わっている。

 実は『かぐわしきかな天国』において、「肉(Fleisch)」という言葉はわずか三か所でしか使われていない。上記の「身体」の意味以外の二か所は、いずれも食物としての対象という「肉」の文脈である。また「肉」と代替された「身体(Körper)」という言葉だけを見ても、実は「糞」の多用とは対照的にわずか六か所しか出てこない。『かぐわしきかな天国』では、「肉」と「身体」はスカトロジーの方向に圧倒されて、そのキリスト教的な文脈は暗示されてはいるものの、必ずしも明確に焦点化されていない。「肉」が「身体」との関わりで全面展開されるのは、『かぐわしきかな天国』に続く二作目、『重すぎる、くだらない:無形式』の方なのである。

 

5 『重すぎる、くだらない:無形式』

 

 二作目は、一作目の貧しい掃除婦のダイニングキッチンから、やはり貧しげで古ぼけた場末の飲み屋へと舞台設定が移り、登場人物も三名から九名に増えている。人数が増えるのに対応して、内容的にも、構造的にも、また舞台形象としても、何よりも言語においても、表現世界の奥行きが格段に深く、複雑になっている。社会生活の底辺部で閉塞する人間たちの抑圧意識を動因にした一種の復讐劇と言えるのは一作目と同じだが、ここでは、たまたま客となった若い男女二人の美しさと贅沢さと自信ありげな態度とが、すすけた飲み屋に集まった屈折した常連たちの憎悪の犠牲になることによって、社会的な広がりと抑圧感の表現がより具体的になり、何よりも一作目以上にカソリックにおける光と影との対比が強烈である。「ヨーロッパの晩餐(Ein europäisches Abendmahl)」との副題が付いているように、キリスト教の信仰を象徴するミサの儀式の中心にある「聖餐式(Abendmahl)」をなぞったカニバリズムのグロテスクさは、他に類を見ないほどの迫力に満ちている。  

 冒頭の舞台および人物説明は詳細を極めて、時代からとり残されたような場末の飲み屋の細かい描写が、配置の対照を際立たせている。[35]例えば左奥にいる「美しいカップル」のテーブルにはテーブルクロスが掛けられて、花瓶には花まであり、若い二人は高いシャンペンを飲みながらイチャイチャしている。他方、右手前のテーブルは対照的に調味料入れが置かれた安物のデコラで、やはり右手にあるカウンターと共に常連たちが集まって、強い酒を飲みながらクダを巻いている。

登場人物の説明も同様に細かいが、近代劇のように各自の個性的な内面を反映させた外面的な指示ではなく、むしろパターン化された寓意的とも言える人物説明である。それは一作目と同様の「名は体をあらわす」「語る名前(sprechende Namen)」に明瞭である。例えばSchweindiは「豚(Schwein)」に縮小語尾-iをつけた名前で、「表現の全体がかなり猥褻だが、それをおおげさに強調する身振りはしない」。あるいはFotziも同じ縮小語尾-iをつけた俗語で、これはちょっと説明しがたく直接的な卑語で、「愚鈍な身振りで他の者から距離を取っている。露出狂的な動作でエロティックにしようとして、うまくいかない。格子模様の短いスカート、グロテスクな下着。」ちなみに格子模様とは、「頭がおかしい」というほどのニュアンスを持つ。[36]彼らの語り口は、いずれも例によってシュヴァープ調の奇妙にネジクレタ文体と内容の嘆き節であり、それについてのシュヴァープの但し書きを以下に挙げる。

 

言語について:話し手が対象に語りかけることによって歩みを進める道は、それなりに快適であるということを特に示していただきたい。そうすれば語り手と語られる相手とが実に明白に混ざり合うので、それによって「不純な」効果が出てくる。その結果としての汚さ(Dreck)は汚さ自身に属するものであり、明白さ(Klarheit)を獲得はするが、見通し(Einsicht)はない、そういうことを作者は希望する。  F. S.60.

 

登場人物たちの屈折と鬱屈がそのまま語り口に現われているような台詞に対して、「快適な」道とはいかにも皮肉な言い方であるが、ここでシュヴァープは、語り手と語られた相手や対象との区別、つまりは人称主体の相違や主客の区別といった、認識を支える言葉の分節と分類、つまりは意味そのものがあいまいに混ざり合うのが「不純さ」の効果であり、それが「快適」という感覚性へと積極的に肯定されることを宣言している。後半の「不潔さ(Dreck)」が「明白さ・明晰さ・明るさ(Klarheit)」でありながら、「見通し・洞察・理解(Einsicht)」ではないという「非」論理も同じことで、言語的論理的「理解」ではなく、DreckKlarheitklarは「濁り・不潔」に対する「透明さ」)であるという矛盾論理(Oxymoron)において示される感覚性の体感的「意味」が、以下に示されるような「肉」の倒錯を支える表現上のシュヴァープ的戦略なのである。

 全体は古典的な三幕構成で、一幕では左隅にいる「美しいカップル」は一言も発することなく、二人だけの世界にひたりきって、常連たちを完全に無視し続け、最後に常連たちの自己憎悪の犠牲になる。二幕ではカップルに向けられたカニバリズムに対する常連たちの自虐的反省と後悔が疑似的ミサにまで盛り上がる。三幕はカップルが店に入って飲み食いを注文する場面から始まるので、すでに示された一幕の前の時点に戻っているようにも見えるのだが、カップルは「いくらか下品で、いかにもニューリッチに」なっており、一幕とは対照的に常連たちと積極的に関わり、彼らを見下すような台詞を露骨に語りあうので、明らかに一幕とは全く位相が変化しており、二幕のカニバリズムをシュールな世界へと相対化すると共に、二幕終わりのミサ(Abendmahl)で示されたキリストの「再生」儀式の枠組みを結果として示唆しているのだろう。

 一幕での常連たちの会話は、各自それぞれの嘆き節と共に、「ソーセージ」から「パン」へと、一種の宗教論争を展開する。教師でインテリのユルゲンは、添加物まみれで不健康なのが「ソーセージ」ではあるけれども、大衆との「文化的な同志愛の隠喩」としての象徴的価値を強調し、ソーセージを積極的に擁護する。ちなみにユルゲン(Jürgen)とは、十字軍の守護天使聖ゲオルク(Georg)が低地ドイツ語化した名前で、[37]カニバリズム的野蛮に対するキリスト教的「理性」を唱道する役割を揶揄しているように思えるし、あるいはいかにも啓蒙的な良識を語り続ける様子からは、ユルゲン・ハーバーマスを思い起こさせもする。

 教員らしい啓蒙的理想を口にするユルゲンに対して、刑務所に入ったこともあるらしい暴力的なカルリ(Karli)は、「くだらん、くそったれ。ソーセージはソーセージで、食らうだけで、それだけさ。」と即物的に返す。[38]それに対して、ユルゲンに賛成するシュヴァインディは、次のように述べる。

 

わたしにはわたしの身体の中に大衆的なパン感情が必要だな。パンは本来、聖なるものだ、人はそれを大切なものとして大事にしなければならない。パンとソーセージ・・・すばらしい、主なる神のからだと地上の肉だ。パンは人間にとって、もちろんソーセージよりは健康的だ。 

Ich brauche das massenhafte Brotgefühl in meinem Körper. Brot ist von Natur aus heilig, man muß es bergen als eine Kostbarkeit. Brot und Wurstgroßartig, der Leib des Herrn und das Fleisch der Erde. Brot ist für den Menschen allerdings gesünder als eine Wurst.                     F.  S.65.

 

最初の文章では、「大衆的なパン感情」といった独特な抽象語によるシュヴァープ調が明瞭だろう。『かぐわしきかな天国』では、ソーセージはレバーケーゼ(Leberkäse)、ブラウンシュヴァイク、血のソーセージ[39]と様々な種類で言及されていたが、いずれも「糞」と対応した食物としての「肉」でしかなかった。ここでシュヴァインディは、「ソーセージ」とともに「パン」こそが最も重要であるとの宗教的な意味への転換を示す。この台詞からは、第一に「肉とソーセージ」が等置され、そして「肉とパン」とが対応されることで、「肉」の位相が宗教的に変化させられ、主イエスの象徴へと神学的に抽象化されている。同時に、「肉」と対応する「身体」が、ドイツ語ではKörperLeibとの二種類で対比的に示されていることも確認しておきたい。       

まず「パンと肉」に関するシュヴァインディの台詞のカソリック的背景については、本稿冒頭に引用されたヨハネによる福音書の第6章48節以下を、再度指摘しておけば十分であろう。シュヴァインディの「パン」および「ソーセージ」の論議においては、これまでに挙げてきたシュヴァープの扱う「肉」の多義性を、聖書的な使用と対応させている。食物素材(Lebensmittel)である「肉=ソーセージ」は、まずは活動のエネルギー源としての身体的栄養物、つまりは対象に対する一方的な「食・欲」の対象として消費的、物質的、操作的にとらえられている。これを「肉」のKörper的側面と仮に呼ぼう。

 他方、シュヴァインディが「主なる神のからだと地上の肉」と対応させる場合、宗教的な「罪」にまみれた「肉=ソーセージ」は、「主なる神のからだ(Leib)=パン」へと二語一想的に変容させられている。「パンはソーセージよりも健康的」であるという観点からの「肉」は、「キリストのからだ=パン」によって救いへと導かれるべき罪のレベルという宗教的な自己認識であり、そこでの「肉」は単なる食物ではなくて、宗教的、実存的な救済の契機としての「キリストのからだ」という別種の「肉」へと象徴的に変容している。これを「肉」のLeib的側面と呼ぼう。

 『かぐわしきかな天国』における「糞」は、体内消費の後に利用されずに残った単なる余剰物であり、排泄物としての「肉」である。そこでの「糞」は「肉」のKörper的側面しか明らかにしていない。他方、「糞」は社会の表面から無視され、排除され、嫌悪され、常に見えない対象として否定的に扱われるにもかかわらず、実は我々の身体のみならず、精神的な健康の維持にも不可欠の重要さを持っている。「食」欲の対象である「パン」が、イエスを媒介として「肉」欲の対象へと倒錯的に変容するのであるから、「肉」である「糞」もまた、単なる残滓、余剰物のみならず、イエスを媒介とした救済へと弁証法的・弁神論的に変容することができる。すなわち「糞」は「肉」のKörper的側面のみならず、Leib的側面をも明らかにするのである。

ゴム手袋という媒介無しで、糞の詰まった便器に手を突っ込む信心深いマリードゥルの直接性は、主観的には救済の自己確認であるが、客観的には汚物まみれのみじめな姿でしかない。[40]「糞」のLeib的側面を見つめようとするマリードゥルは、他の二人からのKörper的側面からの無理解と向き合うことになる。この外的な対立は、詰まった便器の中に隠された贈り物、つまりフランスの香水とカレーの缶詰という対比的な「香り」に象徴的に集約されることで、マリードゥルの身体で内的な分裂を呼び起こし、悲しくなったマリードゥルの空想が過激化する基本的な原因となる。[41]

 同様にシュヴァインディのパン賛美は、「肉」のLeib的側面の称揚であるにもかかわらず、常連たちの会話は、むしろ「肉」のKörper的側面である「糞」の現実、つまり自分たちのみじめさを露呈する方向にしか進まない。「糞」のKörper的側面である残滓、余剰物、排泄物にすぎない自己憎悪の増幅と絡み合いは、やがて店の隅で楽しくいちゃついている「美しいカップル」へと憎悪の矛先が反転することになる。

 

 シュヴァインディ:奴らは卑劣だ、まっとうな市民じゃない、戦争犯罪人で、こう考えているに決まっている。パンなんか糞(Scheißdreck)だ、パンなんか無(ein Nichts)だ、俺達なんか無だと思ってるんだ。                   F. S.83.

 

 パンに象徴される救済を否定するのは、「糞」と「汚穢」を重ねたScheißdreckである。パンの否定は、自分たち自身の否定へと短絡し、その絶望感が他者への憎悪と転換される様子が明瞭である。そしてヘルタを除く全員が若い二人に襲いかかって、殺害へと至る。そのト書きの最後の部分を以下に挙げる。

 

 人々は美しいカップルを床に押し付けて、そのからだ(Leib)から服を引きはがす。カルリは、若く美しい女性の強姦に取り掛かる。シュヴインディは含み笑いをしながら若く美しい男のズボンを下ろす。その男の顔の上に、店の女将がエプロンドレスをたくしあげて座り込む。ハージはシュヴァインディの後ろで、シュヴァインディの勃起を利用しようと待ちかまえる。美しいカップルは、襲いかかる身体たち(Leiber)の下に、今や完全に埋もれてしまう。最後に血が飛び散る。      S.85

 

 店を差配している女将が、若い男の顔の上に座るのは、女性に対するカルリの強姦に対応する行為であるとともに、「糞」=排泄行為への連想でもあるだろう。二人の殺害が性的な凌辱として行われるのは、それまでの会話において、常連たちの自己憎悪が性的不能と結び付いていることの反映である。襲撃の直前、シュヴァインディが二人を反キリスト教的と非難する台詞では、その根拠として、高価な衣服を着ている身体(Körper)を持つにもかかわらず、避妊という、家族を産むための性的責任を放棄する無責任を最も強い根拠として挙げている。

 

 シュヴァインディ:ああいう奴らは遠慮無しで、奇妙な連中だけど、お上品で、全身に(im ganzen Körper)お高い布地がいっぱいさ。あまりにも高価すぎる召し物(=皮膚Haut)、自分たちだけの言動(eine Weltfremdheit im Menschenausdruck)。ああいう人間は、きっと自分たちの子供を世間に産み出す能力なんか全くないんだ、家族敵対性(Familienfeindlichkeit)だ、(中略)キリスト教的理性をおもしろがって死へと追いやる避妊具人間(Verhütungsmittelmenschen)だ、つまり性的責任無き性的人間だ。(中略)自己満足の人生は、まるで山脈が自己満足しているみたいだ、愛国心がないんだ、海や森みたいに無責任なんだ。                  F. S.79.

 

シュヴァインディが非難して襲われる二人の「身体」においては、世界との実存的な関係を無視(Weltfremdheit)した、無責任で操作的な「肉」のKörper的側面のみが強調される。そのような身体は襲撃されなければならず、社会的な記号である「衣服を引きはがされた」生身の身体によって「肉」のLeib的側面が明らかにされなければならない。従って、襲撃のト書きで現れる二人の「からだ(Leib)」は、襲いかかる者たちの「からだたち(Leiber)」の下に埋もれ、全ての「からだたち(Leiber)」の全体が「一体」となることによって、「肉」のLeib的側面が示される。一体化を確認し、保証するのが「飛び散る血」である。血まみれとなった舞台上で大勢が一体化して絡み合う凌辱のアンサンブルでは、誰が誰であるのかが判然としなくなるような血まみれの狂騒となって、一幕が終わる。

 一幕の襲撃の意味が明らかになるのは、実は二幕の終わりなのだが、二幕の冒頭がなかなか刺激的な舞台となる。「かなり食いつくされて、むき出しのあばら骨の突き出た死体(Kadaver)が二つ。死体の残り(Leichenreste)の周りに女主人、カルリ、ユルゲン、フォッツィ、シュヴァインディ、ハージィが半裸になって、混乱し、乱れた姿で、血をしたたらせ、ひざまずいたり、しゃがみこんだりしている。美しいカップルを食いつくして」「痛みと喜びのうめき声を挙げる」と、いかにもグロテスクなカニバリズムの舞台である。ミュンヘンの公演では、何人もの観客が耐えきれずに出て行ってしまった。

このト書きでは、「死体」が二種類のドイツ語で示されている。Kadaverはラテン語のcadaverがドイツ語化した言葉で、一義的には動物の腐肉の意味を示す点で、明らかに「肉」のKörper的方向である。他方、Leicheは中世ドイツ語のlich、古ドイツ語のlihとさかのぼることができて、単なる「死体」と言うよりも、感情的な一体化を伴う「死者」の身体であり、「肉」のLeib的方向なのは言うまでもない。

演劇表現におけるカニバリズムは、エウリピデスの『バッコスの信女』やシェイクスピアの『タイタス・アンドロニカス』などの例は挙げられるものの、各種の神話や散文作品における素材化に比べれば、しばしば目にするような周知のテーマとは言い難いだろう。上述の二作品でも、カニバリズム自体は報告形式か、あるいは食べ物のパイへと穏便化されて舞台に現れる。たとえ「見世物」のスペクタクルを重視するような場合においてすら、また特にドラマというテクスト形式を基本とする近代以降の演劇表現ではなおさら、直接的にグロテスクな舞台表現は注意深く避けられていたと言えるであろう。

従ってシュヴァープのト書きが示す視覚的な血なまぐささは、一見すると、中世の処刑場面に参加しているように直接的な残虐さにあふれているのだが、他方、これまでに明らかにされたような独特のシュヴァープ語表現が媒介されることによって、場面の残虐さが言語的に、そして行動的にも中和されるような効果が現れる。つまり舞台を見ている眼と、台詞を聞いている耳とが、奇妙な不協和音をかなでるのである。

例えば二幕冒頭、我に返ったユルゲンの最初のセリフでは、「ぼくらはこの人たちに何てことをしたんだ。(Was haben wir nur aus uns und mit diesen Menschen getan.)」と始まるのだが、nur aus uns undという奇妙な挿入部分を交えた反省の言葉は、すぐに「ぼくらは人間性に対して犯罪を犯した、ぼくらはぼくらのぼくら性に対して犯罪を犯した。(Wir haben uns an der Menschlichkeit vergangen, wir haben uns an unserer Unshaftigkeit vergangen.)」と続く。第一に「ぼくら(Wir, uns)」という共同主観の代名詞の不自然な多用、第二に「人間性(Menschlichkeit)」という抽象名詞による一般化、第三に「ぼくら性(Unshaftigkeit)」という不自然で聞きなれぬ造語、第四にWir haben uns an … vergangen.という全く同一の二つの文章を単純に反復すること、これらによって、舞台上の残虐さに対する身体感覚的な違和感の印象は、言語的な違和感から醸成される別種の身体感覚による距離感との緊張関係の中に置かれる。その後のやり取りから、彼らの犯罪行為が決して突発的に行われたのではなく、常に日常的に繰り返されていたことが明らかになるに及んで、最初の突発的で残虐な印象による視覚感覚的な違和感は、次第に言語的な認識による違和感へと急速に転化される。

 この後の二幕で繰り返される彼らの論議は、一幕以上の広がりを持つ抽象的なテーマを展開しつつ様々に繰り広げられるのだが、ただ一人だけ、この惨劇に参加しなかったヘルタの超越的とも言える預言者的ユートピア風の語りにおいて、作品タイトルの意味とからんで「肉」が提示される。

 

 ヘルタ:くだらない。重すぎるのよ、くだらない、あんたたちの国なんか全部ひどく不格好ね。( Unwichtig. Ein Übergewicht, unwichtig, euer ganzes Land eine Unform.)(大声で)/ わたしたちって、何でもくだらない超感覚性(Übersinnlichkeit)で、だから当然、それほどオゾマシクなくったって全部、いつも必ずガツガツ食いつくされちゃう(auffressen)のよ。何故って、どんな変態の美だって、全体がここでは重すぎて、くだらなくて、不格好だってことを思い出させるんだから。(weil ein jedes abartige Schöne daran eine Erinnerung macht, daß das Ganze bei uns übergewichtig ist, unwichtig und unförmig.) みんながわたしの美のおしゃべりをむさぼり食らい込む(herunterfressen)のは、そうすればわたしの美が口を閉じなきゃいけないからよ。だってみんな見たがっていたでしょ、どんなぐあいに美は素材を離れるかってことを、どんなぐあいに肉が骨を後に残さなきゃならないかってことを、だって永遠のこぶしの下で肉がすべり落ちるのだから。(wie ein Fleisch einen Knochen zurücklassen muß, weil es herunterrutscht unter der ewigen Faust.)      F. S. 98.

 

 一読しただけでは難解な個所であるが、自分たちのおぞましい罪への苦悩の重さに不格好にのたうちまわっている人物たちの中で、一人だけ酔っぱらって立ち上がって語るヘルタという配置である。ちなみにヘルタという名前は、ゲルマン民族の「大地母神」Nerthusに由来するそうで、彼女の高踏的で断片的な言動も、死と再生に関係する時間と永遠との比喩を暗示しているのであろう。[42]カルリによる暴力に隷従していたヘルタは、二幕では無垢のマリアに擬せられ(「カルリ:俺のヘルタは処女ヘルタだ、処女マリアってほどに完全じゃあないが。」F.99)、皆からの倒錯的な崇拝を受けて、荘厳?なミサ風の場面へと接続する契機となる。

 この引用の冒頭で、タイトルとなっている三つの言葉ÜBERGEWICHT, unwichtig:UNFORMが初めてセットで出てくる。まずは「あんたたちの国の全部(euer ganzes Land)」と言っているが、二度目では「わたしたちの全体( das Ganze bei uns)と主客を転倒させて繰り返している。それが「重すぎる、くだらない、不格好(übergewichtig, unwichtig, unförmig)」なのだから、意味的には自分たちの閉塞状況の確認の表現と言えよう。自分たちの「全体」を「わたしたちのところ(bei uns)」と表現しているのは、まずは自分たちのいる舞台上の安酒場のことではあるが、さらにオーストリア、そしてヨーロッパへと地理的に広がる(über-)し、文化的なカソリックと歴史的な過去であるナチの記憶とも、接頭辞un-を媒介としながら遡っている。(「女将:人間なんか皆、犯罪者さ。全ヨーロッパには犯罪者人間しか存在してないんだ。」F. S.101

しかしそのような「全体」は単純な反省という「おしゃべり」なのではなくて、「ガツガツ食いつくされる」し、あるいは「美のおしゃべり」自体が「聴く」のではなくて「むさぼり食らい込む(herunterfressen)」。あるいはそもそも「美は素材を離れている」のであるから、ここでは視覚(文字)と聴覚(聴く)を介した理性的な言語感覚が、「食らう(fressen)」という動物的な身体表現によって覆われている。「肉」が「食らわれた」あとに「骨を後に残す」のは、「時間」という「永遠のこぶし」によって、肉が「すべり落ちる」からである。言語であれ、「美」であれ、いずれも言語的な理性によってではなくて、むしろその「肉」的な実質と、それが「すべり落ちた」「骨」あるいは「糞」への変容のレベルから提示されているのである。

カニバリズムの儀式における「肉」の変容は、単なるKörper的な「肉」をLeib的な「肉」へと、つまり社会的なカニバリズムの儀式へと文化的に変容させる「象徴化」の根拠である。オロカイヴァ族において人肉を食うのは、殺害された戦士の魂を食う象徴行為であった。[43]カソリックのミサにおけるパンとワインがキリストの血と肉であるのは、いわゆる「化体」と言われる実体変化であるのか、それとも単なる象徴的行為にすぎないのか、キリスト教信仰では、イエスの「象徴」を巡る神学的な大問題であるらしい。[44]

そもそもÜBERGEWICHT, unwichtig:UNFORMという三つの言葉の連鎖からなるタイトルは、それが示す内容のみならず、むしろ視覚的な変容に現れた差異(大文字と小文字)と連続(コンマとコロン)との、そして音響的な変容の差異と連続との緊張関係において受け取られるべきシュヴァープ語世界の宣言である。そこでの言語的な意味(Sinn)は、言語理性的な感覚(Sinn)である視覚と聴覚にとどまらず、さらに「超感覚性(Übersinnlichkeit)」を求めて、カニバリズム的に「食らい尽くす(auffressen)」ような味覚の感覚性(Sinnlichkeit)と官能性(Sinnlichleit)へと解体する。それは対象的な意味による「肉」のKörper的側面においてではなく、むしろ身体の内部に感応するような食欲と性欲と暴力という身体感覚的で官能的な意味性(Sinnlichkeit)をも伴った「肉」のLeib的側面において行われる。つまり言語を美というロゴスへ昇華させるのではなく、むしろ骨と排泄物に向けられる嫌悪を組み込んだ「肉」の変容という地平から、新たな演劇言語を身体感覚的に再構築しようとする点に、シュヴァープ語の特性が示されなければならないのではないだろうか。

 

*本稿は平成十九年度専修大学個人研究助成(研究課題:ドイツ演劇の問題性)の成果の一部である。

 



[] 笑いに関する「優越」と「矛盾」のふたつの伝統的な理論については、以下に詳しい。Walter Hinck, Einführung in die Theaorie des Komischen und der Komödie. In: Die deutsche Komödie. Hrsg.v.Wlter Hinck. Düsseldorf. 1977. S.14. また20世紀以降の理論的整理は、Metzler Lexikon Theatertheorie. Hrsg.v.Erika Fischer-Lichte, Doris Kolesch, Matthias Warstat. Stuttgart. 2005. S.171ff.

[] エリアス・カネッティ『群衆と権力』上、岩田行一訳 法政大学出版局 1996年、327頁以下。

[] Siehe, Harenberg Schauspielführer. Dortmund. 1997. S. 191.

[]宍戸節太郎「武器としての笑い カネッティにおける言葉の闘争」 In:『オーストリア文学』第22号 オーストリア文学研究会 2006年 21頁。

[] Die Bibel oder die ganze heilige Schrift des Alten Testaments. Nach der Übersetzung Martin Luthers. Württembergische Bibelanstalt. Stuttgart.4. Auslage. 1972. 口語訳聖書は日本聖書協会による1955年改訳版。

[]旧約聖書の文体についてのアウエルバッハの以下の指摘は、聖書の全体についても妥当するであろう。「日常生活のリアリズム、すなわち日常性の要素は、ホメーロスにおいては、牧歌的な静謐さの範囲をでないが、旧約においては、日常茶飯の現実に、最初から崇高性、悲劇性、問題性が突入している。(略)ここでは神の崇高な働きが日常性に深く突入しているので、壮大さと日常性の二領域は事実上不可分であるばかりでなく、根本的に両者は渾然一体のものなのである。」E・アウエルバッハ『ミメ―シス』篠田一士・川村二郎訳、筑摩書房、1967年、27頁以下。

[] エリカ・フィッシャー=リヒテ『パフォーマンスの美学』(中島裕明他訳 論創社 2009年)特に第4章の1身体性および解説を参照。 

[] シュヴァープの劇作18本の半分が没後に初演されている。また例えば『かぐわしきかな天国』は20081月にウィーンでハンブルク・タリア劇場が客演、10月にベルリン・ドイツ座でも、看板女優のレギーネ・ツィンマーマンがマリードゥルを演じた。20091月にはシュツッツガルトで『重すぎる、くだらない:無形式』上演、同年5月にはベルリン・フォルクスビューネ劇場で『かぐわしきかな・・・』が、ポーランドの劇団により客演。

[] Bernd Höfer, Werner Schwab. 1989-1991. Vom unbekannten Dichter zum anerkannten Dramatiker. EDITION VE BENE, 2008.

[10] 原題はDie Präsidentinnen.(女大統領たち)。『デリ』第1号(沖積舎、2003年)110頁以下に寺尾訳がある。シュヴァープの邦訳は他に『魅惑的なアルトゥール・シュニッツラー氏の劇作による魅惑的な輪舞』寺尾訳 ドイツ現代戯曲選24、論創社、2006年。

[11] Lona Chernel, Gegen Gott und Menschen. In: Wiener Zeitung von 14.2.1990.

[12] Peter von Becker. “Wir sind in die Welt gevögelt und können nicht fliegen.” In:Theater 1991. Jahrbuch der Zeitschrift Theater heute, S. 140f.

[13] Michael Merschmeier, Vampir Familie oder Odipus, Farce.In: Theater heute.Heft11992S.32ff. Helmut Schödel, Wie ein Stück Schnitzelfleisch in einem fremden Stück. Mit Werner Schwab, Felix Mitterer, Frau Maria und der städtischen Bestattung von Wien den Totenfluß hinunter. Eine Erfahrung. In: Die Zeit. 1.2.1991.

[14] Werner Schwab, Fäkaliendramen. Graz/Wien Droschl.  1991. (以下、作品テクストの引用箇所は本文中にFとして示す。下線および枠による強調は、引用者による。)

[15] Höfer,S.58.

[16] Ebd., S.21.

[17] Ebd., S.56.

[18] G.Fuchs und P.Pechman(Hrg), Werner Schwab. Graz/Wien Droschl. 2000;  Harald Miesbacher, Die Anatomie des Schwabischen. Werner Schwabs Dramensprache. Graz/Wien Droschl 2003.;  Artur Pelka, Körper(sub)versionen. Europäischer Verlag der Wissenschaften. Frankfurt am Main 2005.

[19] Vgl; 寺尾格「ウィーン/ベルリン二都物語 1990年代のドイツ演劇」In:<戦後文学>を越えて 1989年以降のドイツ文学 初見基編 日本独文学会研究叢書002号 2004年、76頁以下。 

[20] Roland Pohl, Schrille Wort-Arien wider das Patriarchat. Elfriede Jelinek über Männerwahn und Frauenleidnicht nur am Theater. In: Der Standard von 15. 3. 1994.

[21] Werner Schwab, Hochschwab: Das Lebendige ist die Leblose und die Musik. Eine Komödie. In: Königskomödien. Graz/Wien: Droschl 1992. S.96.

[22] 同じことを演出家のアイナー・シュレーフに言わせれば、以下のようになる。「我々は大衆の時代に生きている。個人が存在したのは、カスパー・ダヴィッド・フリードリヒなどのロマン主義なのだ。けれども私が家に帰って、どこに個人がいるのだ。ここに私がいて、あそこにテレビがある。それだけだ。」Spiegelgespräch,” Die Droge bin ichIn:Der Spiegel, Nr.20, 1998, S.218.

[23] ここにヘルマン・ニッチュの「狂宴神秘劇」の動物解体パフォーマンスも加えるべきだろう。エリカ・フィッシャー=リヒテ 前掲書76頁以下参照。なお、ブルク劇場での公演DVDも入手できる。Hermann Nitsch. das orgeien mysterien theater, 122.aktion. DVD-Produktion Burgtheater. Aufzeichnung aus dem Burgtheater 2005.

[24] ダダのKurt Schwittersのブルク劇場上演に関しては、以下を参照。寺尾格「演劇する都市ウィーンあるいはブルク劇場 秋の巻ふたたび クルト・シュヴィッタース『原音ソナタ』上演について 専修大学人文科学年報 第39号 200973頁以下所収。またWiener Gruppeに関しては、Jutta Landa, Schwabrede=Redekörper. In:G.Fuchs und P.Pechman,ebd., S.40f.

[25] Aus: Axel Schalk, Das modern Drama. Reclam. Nr.17648. S.220.

[26] ドイツ語はできないのだが、イタリア語に堪能な某知人女性の感想によると、「ドイツ人って、いつもシューシュー言ってばかりいるわね」。ちなみにドイツ語のschの発音は、まずuの口の形から発音されるために、「イ」の口から発音されがちな日本語の「シュ」よりは、はるかに子音の響きが強く聞こえる。

[27] Werner Schwab, Der Dreck und das Gute.  Das Gute und der Dreck.  Graz/Wien:  Droschl 1992. 初見基訳『善と汚穢』 In:『デリ』第12003年 沖積舎

[28] メアリ・ダグラス『汚穢と禁忌』塚本利明訳 思潮社 1995年 26

[29] 罵倒語辞書によれば、DreckからDreckstückまで、29個もの単語が並んでいる。

 Herbert Pfeifer, Das große Schimpfwörterbuch. Wilhelm Heyne Verlag. München. 1996. S.88ff.

[30] Vgl: 寺尾格「排泄と猥褻の暴力 ヴェルナー・シュヴァープの三位一体」In:『デリ』第1号、138頁〜142頁。

[31] Julius Jakob. Wörterbuch des Wiener Dialektes. 5.Auflage. Wien. 1972. Copyright 1929 by Gerlach & Wiedling. S.122.

[32] シュヴァープの母親は、貧しい掃除婦兼アパート管理人で、何かと言えば聖水をかけてまわるような敬虔なカソリック信者で、宗教観をめぐるシュヴァープとの対立もかなり強かったようである。ちなみにマリードゥルというのは、母親とも非常に親しくしていた信者仲間の名前であるらしい。Vgl: Höfer. S.73ff.

[33] Duden. Das große Vornamen Lexikon. Mannheim. 1998. S.104.

[34] Duden. Das große Wörterbuch der deutschen Sprache. 10.Bde. 3.,neubearb. u. erw. Aufl. 1999.

[35] ト書きにあったSparvereinskästenというのが理解できず、ミュンヘンでの観劇の際に隣の方に尋ねたところ、私の周囲の観客たちの間で論争になってしまった。要するに常連客が払う酒代のおつりの小銭を客ごとに貯めておく貯金箱の共同設置のようなものらしい。たまたまウィーンのホテルで、普段は使っていない臨時の朝食ルームで発見して、オーストリアの旅行者の方々の説明によって得心したことがある。以前はどこの飲み屋にも設置されていたのだが、最近はあまり目にしないとのことであった。

[36] Siehe: Heinz Küpper, Illustriertes Lexikon der Deutschen Umgangssprache. Ernst Klett, Stuttgart 1983. Band 4. S.1422.

[37] Das große Vorname Lexikon. a.a.O. S.163.

[38] シュヴァープ研究者のArtur Pelkaは、カルリを「プロテスタント的」と述べているが、筆者にはカール・マルクスを揶揄しているようにも思える。Siehe:Artur Pelka, S.135.

[39] Braunschweigは地名だが、文字どおりには「茶色の沈黙」なので、どうしてもナチズムの印象がある。あるいはまた血のソーセージ(Blunzen)と共に、いずれも形と色から「糞」のシュヴァープ的連想が出てくるだろう。

[40] 「マリードゥル:飲み干した空の香水を手に持って、内側は世の中のお上品なレディのようにすてきな香りで一杯。でも外側はくさいウンコまみれで、それが彼女をほんの少し悲しくさせます。(略)インドのカレーとフランスの香水、このふたつが同時に体の中で一緒にあるというのは、いかにも良くないのです。」『かぐわしきかな天国』131頁。

[41] ゲオルク・ジンメル「何かの匂いをかぐことで、私たちはその印象、あるいはその匂いを発する客体を、私たちの内部、私たちの内なる中心に深く吸い込み、いわば活力ある呼吸行為により、客体を私たちに密接に同化させる。客体をこれほど深く、密接に吸収するということは、それを食べるということをのぞけば、他のいかなる感覚によっても不可能である。誰かの雰囲気を嗅ぐ時、私たちはその人を最も親密に知覚することになる。その人はいわば空気となって、私たちの感覚の最内奥まで浸透するのだ。」エリカ・フィッシャー=リヒテ 前掲書 173頁以下。

[42] Das große Vorname Lexikon. a.a.O. S.142.

[43] ペギー・リーヴズ・サンディ『聖なる飢餓 カニバリズムの人類学』中山元訳 青弓社 1995年 22頁参照。

[44] 岡田温司『キリストの身体』中公新書 2009年 80頁以下参照。