ドイツ演劇2009年   「危機に対抗する芸術」宣言  

                         寺尾 格

リーマンからドバイへと続いた世界的な金融危機は、どの部門でも財政的な問題を引き起こしている。例えばトリーアで毎年行われていたフェスティバルが資金難で中止、ケルンのザクセンリング劇場が市の補助金カットにより閉鎖、ヴォルムスのニーベルンゲン演劇祭も2010年は中止、ハレではオペラとフィルハーモニーを統合して予算を20%削減する提案が出て、抗議運動と、様々な分野で、改めて文化予算の意味が問い直されている。ドイツに特徴的なのは、オペラのような「音楽劇」の強い伝統のためか、演劇界と音楽界とが融合している事実で、その土台には、劇場やコンサートホールのそれぞれが独自のアンサンブルを持ち、それによって維持されるレパートリーシステムがある。

象徴的なのが150年もの伝統を誇るドイツ舞台協会(ビューネン・フェライン)で、これは演劇界と音楽界の両方を含む組織であり、ドイツにおけるほとんどすべての主要な劇場やオペラ座、コンサートホール、オーケストラ、さらに舞台に関わる団体やラジオ、テレビ、出版社までをも統合する。ドイツにおける舞台芸術の理論的、実践的、政策的な啓蒙と活性化に努めるのみならず、実質的な経営を担う職能団体でもあり、オーケストラ団員組合との今年の賃金交渉は、ベルリンで提訴が行われるほどにヒートアップした末に締結された。そのドイツ舞台協会6月の年次総会の場で、「危機に対抗する芸術」というライプチヒ宣言が出された。

「芸術的活動とは社会的なリアリティを反映/反省(ドイツ語では同義)する機会を与えるもので、危機の時代にこそ、永久の成長という経済イデオロギーの神話に対抗する美的価値の意味をあらためて確認しなければならない。芸術によってこそ、社会は内的連帯を確保できるのであり、従って子供および若者に対する美的な形成/教育/開発/教養(ドイツ語ではすべて同義)は社会的連帯のために不可欠であり、その活動を支えるのが、劇場および音楽家のアンサンブルとレパートリーの継続性である。」同様のアピールは4月の都市連合文化委員会でも出されており、「物質的な価値は再建可能かもしれないが、一度失われた非物質的な文化価値の再建は不可能である。それ故に文化価値は、危機であるからこそ守られねばならない。」あるいはベルリン演劇祭での開会コメントで強調されたのは、「市民とは社会の中で生きるだけではなく、その社会を変えようと努める人間のことである。」そしてベルリン・シャウビューネ劇場の総監督のオスターマイヤーに言わせれば、「演劇人とは常に左翼保守主義者なのだ。つまり演劇活動はそもそもが資本主義に批判的なのであり、常にシステムを考慮しつつ別の可能性を考えることができるというのは、危機にこそ必要な態度ではないのだろうか?」

アピールの成果という単純な話でもないのだろうが、秋に発表されたドイツ舞台協会による2007/2008年舞台統計では、観客数は前年比13万人増の1900万人で、初演500を含む5100本の舞台作品(新演出は2300本)が作られ、その上演回数も1100回ほど増加の64700回と好調で、ドイツの演劇界は、しっかりと金融危機に対抗している。その結果、補助金総額は7700万ユーロと、実は前年よりも200万ユーロほど増えており、単純に仕分けするような乱暴な削減にはなっていないようだ。

例えばドイツの14の都市演劇がスペイン・インド・イスラエル等々、世界の様々な都市と共同で行われる二言語共同プロジェクトを支援する連邦文化基金15万ユーロが新設。文化大臣のベルント・ノイマンは、文化施設の改築に約1億ユーロの予算を公表している。フランクフルトでは複数の大学、劇場、カンパニーが協力して「フランクフルト・ラボ」を設立して、音楽・ダンス・演出等々の現代的アンサンブルのための活動を行い、そのために企業の財団支援と並んで、市の文化基金が120万ユーロを出資。またハイデルベルクの市立劇場の改築費用約5300万ユーロのうち、市の負担は2500万ユーロ。ベルリンのコーミッシェ・オペラ座の改築が2013年から始まるが、その費用が7300万ユーロで、その代替となるシラー劇場の改装だけで2300万ユーロと、オペラがらみは費用が嵩む。クーダム活性化の切り札となるコメディ座とクーダム劇場の救済に、ベルリン市は33万ユーロの補助。ミュンヘン市はドイツ劇作家奨励基金を創設して、賞金15000ユーロに出版、上演をセットで提供。人口96万のケルンでは、月刊演劇新聞akTが創刊と、危機を迎えるほどに、ドイツ演劇は元気になるようにも見える。

演劇界と音楽界の融合とは、もちろん表現における緊張関係を含む。例えばライプチッヒでのワーグナーのオペラ『さまよえるオランダ人』(200810月初演)では「噛み付き合う犬」や「牛の解体映像」等、若いミヒャエル・フォン・ツァ・ミュラーの演出に対して、観客席が大騒ぎのスキャンダルとなった。ワーグナー協会からは「青春後期のスカトロジー空想」「暴力と血とセックスのオルギー」との批判が寄せられたので、おおむね舞台のイメージが湧く。「芸術的に無意味で反モラル」との非難は、歴史的アヴァンギャルド以降の現代芸術に対して、常にお題目のように繰り返されてきた言葉で、演出家はニンマリしていたとの記事もあるのがドイツらしい。あるいは3月のウィーン・ブルク劇場で初演されたクリストフ・シュリンゲンジーフ構成・演出の『メア・クルパ(我が過ち)』は、「レディメイド・オペラ」と称して、古典から現代までの作家、音楽家、思想家の言葉や音楽の演奏、歌(特にワーグナー)、台詞や映像という素材のみならず、それを表現する側の俳優、歌手、素人、裏方、さらには観客までをも巻き込んだ「ごった煮」のようなオペラ(?)風パフォーマンス舞台で、そこに肺ガンで闘病中の演出家自身の思いをぶつけて、演出家のセラピーを兼ねた生前オマージュになっている。「芸術」「意味」「モラル」という類の固定観念を全て括弧に入れてしまうのが「死」であり、それと向き合う「今」を浮き出たせる「舞台」という特殊な場において、私的でも公的でもありうる「死」の「政治性」を表現する試みということだろう。ところで出演していたブルク劇場正式団員の原サチコはハノーバーに移籍したが、彼女のブログ「サチコのドイツ演劇体験記」は内側からの興味ぶかく貴重な証言。

プライベートの政治性を表現するという点では、ベルリンのリミニ・プロトコルが意欲的で目が離せない。『カール。マルクス:資本論、第一巻』(演出ヘルガルド・ハウグ、ダニエル・ヴェツェル)は、もともとは2007年のラジオ作品で、4月にはウィーンの演劇祭でも上演されたが、3月の「フェスティバル/トーキョー」の巣鴨でお目見えをした。12月には『Cargo Tokyo – Yokohama』(演出イェルク・カレンバウアー)で、トラックの荷台を客席として、観客自身が「荷物」となって物流の現場から「都市」を体感する。どちらの場合も、俳優ではない「本人自身」による「ポストドラマ」という問題意識がよくわかる仕掛けだろう。そもそもリミニ・プロトコルの本拠地ベルリン・HAU(ヘッベル・アム・ウーファー)劇場の存在するクロイツベルクは、トルコ系が多く住んでいるカウンター・カルチャー地区で、『ラジオ・ムアッジン』(演出・構成シュテファン・ケーギ、200812月カイロ初演、20093月ベルリン初演)では、カイロのモスクの塔から礼拝を拡声器で呼びかける四人の告知人(ムアッジンと言う)本人が、コーラン詠唱で客席を包み込みながら、各自の個人史や職業上の問題などを語り続ける。同じく3月に初演の『黒いネクタイ』(演出ヘルガルド・ハウグ、ダニエル・ヴェツェル)では、赤ん坊の時に孤児として韓国から養子でドイツに送られた女性が、パソコンを手のひらの遠隔装置で操って様々な画像やデータを大きな画面に投影しながら、全く未知の故国でのルーツ探しや遺伝子検査を受けるまでの自分史などを語る。客席は舞台の上にあり、しかも奥から誰もいない観客席を眺める位置に設営されているので、彼女の喪失感が空間的に増幅される仕組みになっていた。

ミュルハイム劇作家賞とテアター・ホイテ誌のベスト作品、更にはネストロイ賞ともなったのが、エルフリーデ・イェリネクの『レヒニッツ(皆殺しの天使)』(演出ヨッシ・ヴィーラー、200811月初演、ミュンヘン・カンマーシュピーレ劇場)。ハンガリー国境近くのオーストリアのレヒニッツという寒村で、SSとナチ高官によるパーティーが行われ、ユダヤ人強制労働者が180名も「狩猟」で殺されたという事実を素材にしている。五人の俳優がオペラの『魔弾の射手』をバックミュージックにしながら、「明るく、楽しく、そしてみだら」に、「リアルな狩り」を楽しむ。ちなみに副題はルイス・ブニュエルの映画の引用らしい。同じくイェリネク『商人の契約書』(演出ニコラス・シュテーマン、20094月初演、ケルン・シャウシュピール劇場)は、ウィーンの高級スーパーの代名詞でもある「マインドゥル」銀行の金融危機をめぐる「経済喜劇」で、「お金はじっとしていると退屈で、退屈で、とにかく遊びたい、楽しみたい、運動したいから、ダンスをして、お祝いをして、満足して・・・」。俳優のみならず、演出家、演奏家、イェリネック役も舞台上に登場した「音楽セッションとインスタレーション」。

ユルゲン・ゴッシュが611日に65歳で亡くなった。1978年に旧東ドイツから移り、50歳を過ぎてから急速に注目を浴びるようになった遅咲きの演出家で、ドイツには珍しくドラマトゥルクを置かない「孤高の演出家」だが、2009年のベルリン演劇祭でも、チェーホフの『かもめ』(ベルリン・ドイツ座)とシンメルプフェニッヒ『今、ここ』(チューリヒ・シャウシュピール劇場)と、二つも選ばれたのは彼だけであったし、『かもめ』の方はテアター・ホイテ誌のベスト演出にもなっていた。惜しい。そして630日には「ダンス演劇」のピナ・バウシュが68歳で亡くなった。日本でも大きく取り上げられたので、おそらく紹介の必要はないだろう。故人であるにも関わらず、ファウスト賞受賞が決定した。息子が責任者となって「ピナ・バウシュ基金」が創設された。またヴッパータールの今後のアンサンブルは、最初期からのダンサーであるドミニク・メルシイと10年来の芸術アシスタントのローベルト・シュトゥルムとの二人で共同指導とのこと。更にデュレンマット『物理学者』やトーマス・ベルンハルトの『座長ブルスコン』で人気の現役俳優トラウゴット・ブーレも、7月に80歳で亡くなった。

ウィーン・ブルク劇場は、総監督がクラウス・バッハラーからマティアス・ハルトマンに代わった新シーズンにゲーテ『ファウストT・U』を持ってきて、きら星のごとく有名俳優たちを並べたが、「知的挑発は皆無のナイーヴな演出で、無能を暴露した安っぽさ」と悪評ばかり。ベルリン・ドイツ座も新しい総監督ウルリッヒ・クーオンだが、こちらはアンドレアス・クリーゲンベルク演出、イギリス小説であるコンラッド『闇の奥』の舞台化で、アフリカの密林の沈黙の中で「待つこと」をコロス的に表現して、好評。総監督と言えば、ユルゲン・フリムは20109月からベルリン国立歌劇場に移るので、2011年までの契約の残っているザルツブルク祝祭はどうなるのか。やはりウンター・デン・リンデンにあるコーミッシェ・オペラ座は、ウィーンのオペラ座に習って、座席後部に英語とドイツ語の字幕装置をつける予定で、設備に60万ユーロ、翻訳に90万ユーロとのこと。イェリネクを演出したヨッシ・ヴィーラーも、2011年からシュツッツガルトのオペラ座の総監督になる。

2009年の日本での注目は「フェスティバル/トーキョー」以外に、秋に論創社から二冊の出版があった。まず『崩れたバランス/氷の下』(新野守広他訳)は、ベルリン・シャウビューネ劇場の座付き作家兼演出家ファルク・リヒターの翻訳で、前者は2005年、後者は2003年の作品である。一応、社会風刺劇とも言えるだろうが、様々な人間模様を同時並行的に複雑に絡み合わせ、統一的なドラマの解体した後の試行錯誤を、現代メディア的な感性で鋭く表現している。出版にタイアップして、文学座(中野志郎演出)での上演も行われた。

もう一冊はエリカ・フィッシャー=リヒテ『パフォーマンスの美学』(中島裕明他訳)で、ハンス=ティース・レーマンの『ポストドラマ演劇』(谷川道子他訳 2002年 同学社)と対応する現代演劇の理論書である。アメリカのパフォーマンス論が、むしろ社会論や文化論へと拡大する傾向が見られるのに対して、フィッシャー=リヒテの本書は20世紀のアヴァンギャルドや戦後のハプニングなどをも含む形で、パフォーマンスをあらためて「上演の美学」と再定義して、基礎的な概念を構築しようとしているので、現代演劇に関する必読の基礎文献であろう。 http://homepage2.nifty.com/famshibata/index.html