ドイツ演劇2011

フクシマ原発とイェリネク『光のない』       寺尾 格

 

  二十世紀との決別を国際政治で象徴したのが9.11のニューヨーク・テロであった。おそらく同様の衝撃を世界に与えたのが、昨年の3.11ではなかっただろうか。今やFUKUSIMAは、HIROSIMAと並ぶ歴史的、文明論的な意味合いを持つ普遍的な象徴語となっている。ところが当事者である日本での反応は、過度にセンチメンタルな「絆?!」の物語性ばかりが目立つのと対照的に、政治的、思想的な反応の鈍さが際立つように思えるのは、例によって例のごとく(?)極東の島国の「謎」であるだろう。謎で終わらせないために、例えば「現代演劇」という仕掛けが存在する。社会的な問題を個人心理に隠蔽する情緒的な物語化に対抗するためには、「言語」という「手段」への意識を異化的に先鋭化することが重要だからである。

 

 1967年以来、国際演劇協会(ITI)は327日を「世界演劇の日」としており、昨年報告集の冒頭、ウガンダのジェシカ・A・カアゥワさんのアピールをご参照いただきたいが、「演劇は・・・単純かつ率直に生活と政治にかかわり、それらを結びつける」と強調している。「世界に発信する演劇の言語は、平和と宥和のメッセージ」であり、「武器よりもはるかに人間的で、安上がりで、有効な代替手段」云々と格調高く宣言している。

 

 ドイツの演劇報告を逸脱しているとお叱りを受けそうな導入になってしまったのは、3.11に対して敏感に反応したドイツ社会を彷彿とさせるようなイェリネク『光のない』(演出:カリン・バイアー、20119月初演、ケルン・シャウシュピール)に是非とも触れるプロローグのつもりである。ノーベル文学賞受賞者であるイェリネクの他の作品同様、ソフォクレスのサテュロス劇などの引用を交えながら、第一バイオリンAと第二バイオリンBの二人による長大なモノローグ風のかけあいで、原発事故にさらされる人々の衝撃と不安を浮かびあがらせるというテクストである。音楽演奏に託した台詞であるのだが、過酷な状況に向き合わされる不安感が、時に喜劇的とも思えるような長広舌によって産み出され、内容の苛烈さと語りの不条理さとが絡み合ったイロニーとなっている。イェリネクのテクストの音楽性はつとに指摘されており、次々とたたみかけられる言葉の音楽的な旋律のインパクトが、強烈な記憶を引き起こす連想の迫力による戦慄へと変わるので、テクストを読みながら、思わず何度もうなってしまったほどである。

 

カリン・バイアーの演出は、例えば最初は雑音をも交えた語りを、真っ暗闇の中で10分間も続けるような導入で、観客の不安を増幅させながら、テクストが告発する「われわれの混乱と無責任ぶり」を展開しながら、原発の産み出す電気の「光」および原子炉融解による放射能の「光」を、連想的・感覚的に了解させる。バイアー自身は、「攻撃的な道化性と怒りで、破局的なテーマにおける責任に対する意識を立ち上げたい」などと言っている。ケルンの演劇シーン活性化の中心にいるカリン・バイアーは、芸術性のみならず経営的な才能もあるようで、ケルンの劇場の赤字解消の結果、2010年のベスト・文化マネージメント賞を受賞して、2013年からはハンブルクのシャウシュピールハウスの総監督になることが決まっている。

 

ちなみにハノーファー州立劇場で活躍している原サチコも『光のない』に客演しているのだが、彼女はハノーファーで「HIROSIMA SALON」なるイベントを主催して、広島風お好み焼きを食べながら、ドイツの市民に広島原爆の啓蒙を定期的に行っているそうである。

 

ケルン・シャウシュピール  イェリネク『光のない』原サチコ

 

原サチコは7月の東京ドイツ文化センターで、「VISIONEN ドイツ同時代演劇リーディング・シリーズ」企画の第4回目で、ルネ・ポレシュ『あなたの瞳の奥を見抜きたい、人間社会にありがちな目くらましの関係』(20101月ベルリン・フォルクスビューネ劇場初演)のリーディングを、彼女自身の訳で行い、さらに9月には同作品のベルリン・フォルクス劇場上演(俳優ファビアン・ヒンリッヒス)の映像の字幕付き鑑賞も行われた。ルネ・ポレシュの『無防備映画都市 ― ルール地方三部作・第二部』(20096月、ミュルハイム初演)も、フェスティバル・トーキョーの一環として、東京の豊洲公園特設野外劇場で、ベルリン・フォルクスビューネのアンサンブルにより上演された。ロッセリーニ監督の映画をベースにした資本主義パロディーということになるのだが、広い野外の映画撮影現場で、車やオートバイを駆使して俳優がわめき回るハチャメチャさに唖然とさせられる。

 

冒頭に挙げたイェリネクの『光のない』は林立騎訳、長谷川寧演出で、ITI世界の秀作短編研究シリーズとして、12月に東京イワト劇場でリーディング公演。このシリーズでは、他にハイナー・ミュラー『画の描写』(谷川道子訳、ドイツ初演は1984年)、デーア・ローアー『言葉のない』(阿部剛史訳、ドイツ初演は2007年)のふたつが小山ゆうな演出で、アンドレアス・キック/ ゲジーネ・シュミット『キック』(新野守広訳、棚瀬美幸演出、ドイツ初演2005年)もイワト劇場で、さらにローラント・シンメルプフェニッヒ『イドメネウス』(阿部剛史訳、ドイツ初演2008年)、ファルク・リヒター『氷の下』(新野守広・村瀬民子訳、論創社、ドイツ初演2004年)も東京青山のドイツ文化センターでリーディング上演された。特にシンメルプフェニッヒとファルク・リヒターの二作は田中麻衣子演出で、前者はリズミカルな群読風、後者はモノローグ風と対照的なスタイルであったが、どちらもテクストの持つ「語り」の可能性を「上演」という現前性へと説得的に展開して、個人的にはこういう舞台をもっとみたいと思わせてくれた。

 

同様な印象が、2011年の世界演劇日の受賞者であるデア・ローアーの『最後の炎』(2008年、ハンブルク・タリア劇場初演、アンドレアス・クリーゲンブルク演出、三輪玲子・新野守広訳、論創社)のHmpシアターカンパニーの上演(11月、川崎市アートセンター アルテリオ小劇場、笠井友仁演出)で、ローアーの硬質なテクストの身体表現としての可能性を感じさせてくれた。

 

東京ドイツ文化センターにおけるドイツ現代演劇の紹介が意欲的である。上述の「VISIONEN ドイツ同時代演劇リーディング・シリーズ」は1月に第2回でカトリン・レグラ『私たちは眠らない』(植松なつみ訳、上村聡演出、論創社、ドイツ初演2004年)、7月に第3回マティアス・チョッケ『文学盲者たち』(高橋文子訳、松井周演出、論創社、スイス初演1994年)、そして上述の第4回ルネ・ポレシュで、さらに20122月には第5回としてオーストリアのホルガー・ショーバー『HIKIMKOMORI』(高橋文子訳、長谷川寧演出)。これは20061月のウィーン初演が小劇場のグンペンドルファー通り劇場だが、2010年には老舗のベルリン・ドイツ座(演出:ドミニク・ギュンター)でも上演。また昨年報告のクリストフ・シュリンゲンジーフ『外国人は出て行け』の映像上映や、ポストドラマの碩学ハンス=ティース・レーマン教授の講演、ベルリン演劇祭国際フォーラム参加者のシンポなど、東京ドイツ文化センターからは目が離せない。

 

ちっともドイツの演劇報告になっていないと、またしてもお叱りを受けそうだが、要するにグローバル化の中で、いかにドイツと日本との演劇事情が同時代的に接近しているかを示したいのである。日本での上演とドイツ初演との年を比較して頂きたい。典型的なのが20112月の神奈川芸術劇場におけるシー・シー・ポップ『TESTAMENT(遺書)』およびリミニプロトコル『ブラック・タイ』のふたつの上演である。まずリミニプロトコルは2008年、2009年に続く三回目の来日公演で、内容は昨年発行の年鑑において『黒いネクタイ』のタイトルで報告済み。上映途中に機器の不具合により、語りながらのパフォーマーの画像操作が中断したので、生身のパフォーマンス性が強調されたのはケガの功名。虚構ではなく実際の自分史を語るパフォーマンスという点では、『TESTAMENT』も同じである。『リア王』を引用上演しながら、俳優の「実際の」父親が三人登場して、リア王、各自の問題提起、そして議論という三つのテクストのレベルが交錯するという刺激的な展開である。しかもこの2月の日本での舞台は、ベルリンHAU劇場での上演と完全に同期していて、5月にはベルリン演劇祭に招待され、モルゲンポスト紙の賞を受賞した舞台である。

 

  以下は国際舞台芸術ミーティングin 横浜のHPより。

  Black Tie

 

 Testament

 

 

昨年のミュルハイム劇作家賞は、またしてもイェリネク『冬の旅』(演出:ヨハン・シモンス、20112月初演、ミュンヘン・カンマーシュピーレ劇場)で、シューベルトの歌曲からイメージを膨らませた長大なモノローグテクストで、これはテアター・ホイテ誌による年間ベスト戯曲ともなっている。他方ベスト演出もイェリネクで、これは冒頭の『光のない』と同じカリン・バイアー演出による三つの作品をコラージュした『作品/ バスの中/墜落』(201010月初演)で、ケルン・シャウシュピール劇場は年間ベスト劇場にもなった。

 

オーストリアのネストロイ賞でのベスト・ドイツ語上演は、ベルリン・ドイツ座のミヒャエル・タールハイマー演出によるハウプトマン『職工たち』(20111月初演)。ベスト演出はアンドレア・ブレート演出『予期せぬ出来事』(20112月初演、ウィーン・アカデミー劇場)で、10人の俳優が90もの役柄を30の場面で演じる、三人の作者による短い散文のパノラマ。ベスト作品のペーター・ハントケ『いまだに嵐』(20118月初演、ザルツブルク演劇祭)は、故郷ケルンテン州への叙情的な旅と家族の自伝的語り節。

 

個人的におもしろかったのが、カストルフ演出のチェーホフ『モスクワへ!モスクワへ!』(20105月初演、ルリン・フォルクスビューネ劇場)で、内容は『三人姉妹』なのだが、貧しい村へ戻った農民の話をからませて、三人姉妹の贅沢さと対照させるスラプスティックな調子。もうひとつはカトリン・レグラ『関与する人々』(演出:シュテファン・バッハマン、201010月初演、ウィーン・アカデミー劇場)で、国際会議場での同時通訳ブース席にスタンバイしている通訳者たちの愚痴(?)のモノローグの堆積で、通訳の言葉や意識の混乱がひたすらに増幅してゆく。また2010年の若手作家ベスト作品はニス・モンメ・シュトックマン『船は来ないだろう』(演出:アンネッテ・プレン、20102月、シュツッツガルト州立劇場)は、ベルリンの壁崩壊をめぐる劇を書こうと父親にインタビューする新進劇作家の苦闘が、ドイツ社会と演劇界へのイロニーになっている。同じく2011年の若手作家ベストがヴォルフガング・ロッツ『宇宙への報告』(演出:アンネッテ・プレン、20112月、ワイマール国民劇場)は、現代風のベケットという雰囲気。