クラウス・パイマンとブルク劇場
                               寺尾  格
  序
  1 パイマン・スキャンダル
  2 「ブルク」の伝統
  3 「ブルク」の矛盾
  4 「騒動家」 クラウス・パイマン
  5 パイマンの舞台
  6 クラウス・パイマンとブルク劇場
 
                 序
  1990年は、いわゆる東西ドイツの統合の年として今後とも記憶される激しい変化の年であった。経済的な統一としての7月の通貨統合と10月の政治的な統合というふたつの激動の間にはさまれた9月、ドイツの演劇雑誌に、いかにも対照的にも思えるようなインタビューが載った。インタビューの相手はウイーンの劇場の総監督で、世間で大騒ぎをしているドイツ統合は一言も触れられず、その劇場の一年を振り返るだけという具合で、いかにもひどく狭いテーマのみが話題にされている。それだけならば、現実に背を向けた好事家がひたすら趣味的に芸術談義をしているだけともうけとられかねないが、しかし雑誌が辛口の演劇評で知られる テアター・ホイテ Theater heute の年誌 THEATER 1990 であり、前のページをのぞくと、ドイツ統合が今後のドイツ演劇に与える影響についての記事も幾つかあるし、演劇雑誌にもかかわらず、ひたすらドイツ統合のみを - いささか美的な視点ではあるものの - 語りつづける記事さえ見受けられる。しかもインタビューの相手が、オーストリアの保守頑迷ぶりを罵倒してやまないクラウス・パイマンであれば、芸術談義には違いないものの、話題をブルク劇場のみにあえて抑えたと言えるであろう。インタビューの冒頭はこう始まっている。
 
 ・・ パイマンさん、ブルク劇場の総監督としてちょうど4年が終わりました が、最初のいわばハネムーンの年を別にすれば、始めて何のスキャンダルも起 こらなかったシーズンでしたね。
 パイマン そう。無意味な争いから自由なシーズンでした。私たちは馬鹿馬鹿 しい議論でボロ切れにならずにすんだ1)
 
 インタビューには「ドイツ語の国民劇場を! Deutschsprachiges Nationaltheater !」というタイトルがついている。ブルク劇場のめざす純演劇的理想を語るパイマンの言葉をそのまま引用したタイトルであるが、「国民的 National」 の一語を持ってくることで、ドイツ統合という現実が自ずから重ねあわされるところに、編集者の明確な意図が読みとれよう。
 それでは、1990年に「スキャンダル」2)と言われたのは、具体的にどのようなものであったのだろうか。
 
    1  パイマン・スキャンダル
  上述のインタビュー記事を2年ほど遡る1988年5月22日、ドイツの代表的な新聞ツァイト紙に、パイマンとの同様なインタビューが載った。パイマンがブルク劇場の総監督になって約2年の経験をふまえて、かなり自由率直に、いかにもパイマンらしい毒舌であれこれを述べており、これが、もともとウイーンにくすぶっていたパイマン批判に火をつけることとなった。毒舌とは例えば次のようなものである。
 
 ・・ ウイーンでの活動をあなたは今後いつまで続けるおつもりですか。
 パイマン 生産的な仕事ができる限り。私がここでどんなにくそったれなひどい目にあっているか Was für eine Scheiße ich hier erlebe! とてもわからないでしょう。こんな劇場はクリストが覆い隠して壊してしまえば良い。私は明日にも全てを放り投げるかもしれない。オーストリア首相のヴラニツキイの手元には私の辞職願いがある。
・・ その手の脅しはもう何度もなさっていますね。こんどは何が問題なのです  か。
パイマン 空調設備ですけれどもね。劇場には三つの空調があるのに、みんなお 役所の規制で、まともなのは一つもない。四つめが今ほしい。この国はまるで 狂っている Irrenhaus。例えば、鉄製のどんちょうを降ろすレールの箱は、建 設大臣が個人的に責任を負わなければならない。前舞台で吸うタバコについて は総理大臣が決定する。こうした恐ろしくも馬鹿馬鹿しい類が私のじゃまをし ている。
・・ そうでなくて本質的な問題にあなたは注意を向けている。        パイマン 箱は本質的ですよ。タバコもね。これは演出家にとっては命に関わる。 トーマス・ベルンハルトならばタイプミスが二つもあれば、作品のゆがみのあ まり、自殺してしまう。3)
 
  以上のような官僚的な演劇政策を批判することで始まったインタビューでは、オーストリア(「この国のカトリック的な個人政策は悪臭が空までにおっている。」)に対する批判はもとより、ブルク劇場の俳優や他の演劇人にたいする批判が次々に行われる。例えばブルク劇場でもしばしば活躍している演出家の ジョージ・タボリは「仕事中はどうしようもない暴君/絶対的な雌豚 eine absolute Sau in der Arbeit」であり、年間ベスト演出に何度も名前が挙げられるペーター・ツァデックの仕事は「低級なナイトクラブ Amüsierbetrieb」扱いで、劇作家のフランツ・クサファー・クレッツ の作品は「吐き気もの Auskotzstücke」、同じく作家の ペーター・ハントケは「自殺の薬を吐き出して死にそこなった。」と来ると、さすがにいささか言い過ぎの感が否めない。
  以上のような発言は、それだけを取り上げると実に非常識な印象が免れないものの、パイマンは、同時に自分自身についても率直に語っており(「父は典型的なナチだった。私たちはユダヤ人が殺された強制収容所の存在を知っていた。」)何よりも演出家としての行動基準(「私は抵抗を突破する。演出家というのは誰だってそうだ。」)や演劇観を語るのに熱心であり、上述の発言もそのコンテクストで出てきたものと言える。例えば「俳優というのはたいがいひどく馬鹿 dumm なのだ。」という問題発言は、俳優と演出家との機能の相違という原理的な区別のパイマン風表現であろう。
  しかし、そうはいっても実名を挙げて無能呼ばわりをしたり、「豚」や「くそ」や「げろ」と来ては、ブルク劇場の関係者でなくとも穏やかでない気持ちにならざるをえない。パイマンに対してもともと批判的であったウイーンの新聞は、特にプレッセ紙やノイエ・クローネン紙などが中心となって、ほとんどがパイマン非難の一色に染まってしまう。批判の趣旨は、ウイーン文化の粋としての誇りをもって語られるブルク劇場の最高責任者という地位にもかかわらず、なんという下品な男であることか、そもそもあんな男の芝居が芸術と言えるのか、ウイーンの伝統はどこへ行ってしまったのだ、そもそもウイーンにあんな北ドイツ人などはふさわしくないのだ、パイマンをウイーンから追い出せ!ということである。
  クラウス・パイマンは、大勢の役者やスタッフからなるアンサンブルをたばねていく総監督であり、何よりも演出家は明示的な台詞の背後に隠された行間のつながりを、常に具体的・効果的に計算するのが仕事である。決して単純に、ナイーヴにツァイト紙のインタビューに応じているわけではない。またツァイト紙の方でも、ことさらエキセントリックな方向が編集で強調されすぎているという面もある。あまりの反響、と言うよりも罵倒的非難の大合唱に対して 、例えば 雑誌テアター・ホイテが、もともとのツァイト紙のカットした部分をも載せることによって、パイマン擁護の論陣を張って、非難の不当性を明らかにしようという動きも見られた4)
  しかし演劇専門誌の理性的な主張ごときでは、一度火のついたパイマン非難の雰囲気はとてもおさまるものではなく、ついには足元のブルク劇場の俳優の過半数から不信任が出されるような状況に立ち至る。そしてそれに対するパイマンの反論の過程で、例えばアンサンブルの代表者とパイマンの間には、就任以来ほとんど話し合いがなされていないといった事態も明らかにされる。
  ところでパイマンの前任者は アヒム・ベニング という人で、1977年から1986年までの9年間、更にその前の ゲルハルト・クリンゲンベルクは、71年から76年の5年間、それぞれブルク劇場の総監督人を勤めており、この二人は、どちらも70年のころにブルク劇場12人委員会を作って、ブルク改革の先頭を走っていたのである。特にベニングは、その委員会のスポークスマンであり、「新しい監督の選出にあたってはアンサンブルの意見を尊重してほしい」5)などという要求を出している。
  従ってブルク劇場のアンサンブルにしてみれば、パイマンという外部の人材を呼ぶ背景にはクリンゲンベルクやベニングなどによる内部的な改革努力があって、それなりの成果と改革リズムができていたところに6)、押しつけられた形で突然に新しい総監督が決まってしまったことになる。パイマンという男は、聞くところによるとドイツでは一流の演出家として有名で、しかも若者にひどく人気があるらしいが、どうも少しばかり強引に過ぎないか、ウイーンにはウイーンの、ブルクにはブルクのやり方と伝統がある、あんなよそ者の思い通りにさせてなるものか、という気持ちが自ずと生じてくるわけである。  
  そうなるとパイマン批判の直接の原因は、もちろん彼の発言そのものにあるのだが、背景を考え合わせてみると、なかなか興味深い問題が隠されている。ウイーン人のドイツ嫌いはしばしば耳にするし、あるいは「生きている人間は決してほめない」というウイーン気質もよく口にされる。7)文化とは常に同質性と異質性との間でせめぎあっているが、ここでは視点を演劇に絞ると、パイマンとブルク劇場、あるいはパイマンに代表されるドイツ現代演劇と、同じドイツ語圏でありながらハプスブルクの文化伝統を色濃く残すウイーン演劇との異質性という問題が出てくる。おおげさに言えば、美的伝統と革新の対立ということになろう。
  では、パイマンが直面したブルク劇場の伝統とは如何なるものであったのだろうか。    
 
     2 「ブルク」の伝統
 
  ウイーンでは「ブルク劇場 das Burgtheater」 と言うよりも、簡単に「ブルク die Burg」と呼ぶが、これはもちろんハプスブルクの「ブルク」であって、要するに宮廷劇場であることを示している。
  ブルク劇場は1741年、マリア・テレジアが認可した「宮廷隣接劇場 Theater nächst der Burg」が前身で、さらに1776年、ヨーゼフII世による国庫負担による「宮廷および国民劇場 Hof- und Nationaltheater」として成立したのが創立とされている。1789年にJ.F.ブロックマンが総監督になってからでも200年以上の歴史を持っており、パイマンが39代目となる。単純計算をすれば一人が約5年ということになるが、パイマンを除く38人の中で、10年以上の在職期間を示しているのはわずか6人で、1年以内が11人、2年が3人、3年が4人、5年が4人と、5年以内が22人と半分強となり、なかなかの激職であることがうかがわれる。
  従ってブルク劇場の伝統を作り上げたとされる重要な総監督は、いずれも10年内外の在職を示しており、たとえばブルク劇場の芸術的な基礎作りをした6代目のヨーゼフ・シュライフォーゲルは1814年から32年の13年間、そして3月革命の後の9代目 ハインリッヒ・ラウベ は1849年から67年までの18年間、そして11代目のフランツ・フォン・ディンゲルシュテット( 1870-81 )と16代目のマックス・ブルクハルト( 1890-98)の4人がとりわけ評価の高い総監督で、それぞれがブルク劇場のレパートリーを広げ、あるいは演出方法を改革することによって、ブルク劇場を高い地位に押し上げる力となったと言われている。
  しかしブルク劇場の伝統という場合、単に歴史が長いというだけではなくて、ウイーンの人々の心の中に占めている特別な位置がある。パイマンのボッフム時代からのアンサンブルの中に三人のドラマトゥルクがいるが、その一人である ヘルマン・バイル は、もともとウイーン育ちで、子供の頃の思い出としてこう述べている。「両親は私が眠る前には、グリムではなくてブルク劇場の話をしてくれた。」8)
  このバイルの思い出に出てくるようなウイーンでのブルク劇場の心情的な特別性について、84年には「他の劇場と何が違うのだ!」と述べていたパイマンも、90年のインタビューではこう答えている。
 
  ・・・ ウイーンについての誤算はありましたか?
 パイマン 誤算はかなりのものだった。来る前とは大違いだね。ブルクも他の 劇場と変わらないと最初は思っていた。冗談じゃない。つまりブルク劇場は国 民的なアイデンティティの一部なんだ。私は、オーストリア人とドイツ人とが ひどく近いと考えるという北ドイツ・プロイセン風の大ポカをやったことにな る。私のような北ドイツ人から見れば、オーストリアもバイエルンも似たよう なものだ。この違いがちゃんとわかるのにずいぶん時間がかかった。・・・オ ーストリアは根本的に外国なんだ9)
 
  ドイツには見いだし難く、ウイーンでは目だつものを、パイマンはいみじくも「アイデンティティ」と名付けた。例えばムージルの小説『特性の無い男』では、「古き良きオーストリア文化」を示すものとして、「宮廷博物館に飾ってあるヴェラスケスやルーベンスの美しい絵、モーツァルト、ハイドン、シュテファン寺院」等と並んで、「ブルク劇場」の名前が、貴婦人ディオティーマによって挙げられている10)。ムージルの描くディオティーマの視線は「古き良き」失われたカカニア時代の幻影と重なるが、しかし失われているからこそ、かのハプスブルクはウイーン人には「神話的な」魅力を醸し出す。「神話」にせよ「アイデンティティ」にせよ結局のところ「過去」は「現在」を基礎づけることで生き続ける。それは「過去」のしたたかさであると共に、危うさ、うさんくささの源泉ともなる。「伝統」によって媒介される「過去」と「現在」との緊張した絡み合い、それがウイーンであり、とりわけパイマンの率いる「ブルク劇場」なのである。  従ってブルク劇場に見られる過去と現在との緊張関係とは、時間的にも空間的にも多様な矛盾として内在しており、パイマン・スキャンダルはそのごく表層的な現れにすぎない。ではブルク劇場の矛盾とは具体的には何だろうか。
 
   3 ブルク劇場の矛盾
 
  すでに触れたように、ブルク劇場はそもそも「宮廷および国民劇場Hof- und Nationaltheater」として始まっており、この名称が示すように、「宮廷Hof」と「国民National」という二つの課題を設立の当初から担っていたと言える。マリア・テレジアのお声掛かりで始まったブルク劇場の歴史は、ヨーゼフ2世の意志により、ドイツの劇作品Sprechstück育成という錦の御旗を掲げるが、この背景にはレッシングの唱える「国民劇場Nationaltheater」を要求する時代の主張がある。ところが宮廷の論理として語られるNationalとは、広大なハプスブルク帝国の統合という課題に見合った理解でしかない。つまりあくまでも「宮廷および国民 Hof- und National」であろう。しかしレッシングの言うNationalには、宮廷の枠組みに納まりきれない響きが含まれている。「わがドイツ国民は演劇に対して実に無関心、じつに冷淡である。」11)との彼の嘆きの裏には、ドイツ文学の自立の主張、いわゆる啓蒙的な文化理解が前提される。「愚昧」な演劇を払拭して「真に文学的な」演劇活動を行うためには、貴族や宮廷といった私的な支えではなくて、広範な観客を経済的な背景とする自由な演劇活動が不可欠であり、その限りにおいても近代的な市民である自立した個人が必然的に要請されるであろう。
  ブルク劇場は、一方では「宮廷劇場Hoftheater」として経済的、社会的に宮廷の機構にはめ込まれているとともに、他方では「国民劇場Nationaltheater」としての文化的・社会的な広がり、つまりは単なる一つの王朝文化を越えたドイツ演劇を代表する劇場であるという自負を持っている。それ故にブルク劇場の伝統という意識が、単なるハプスブルクの郷愁にとどまることなく、現在にまで強い影響を持つことができるのであるが、その伝統意識は他面、宮廷とのつながりを強く意識するものであり、その両者の矛盾が、あいまいなままでブルク劇場の「伝統」と化している。それが「宮廷および国民劇場Hof- und Nationaltheater」なのである。
  もう少し具体的にブルク劇場の二面性を見てみる。ハードとソフトという表現を借りれば、まずブルク劇場のハード面、建築構造を検討すると、現在のブルク劇場は、1888年に建てられたものが第2次大戦で破壊されて、1955年に再建された建物である。いくつかの技術的な改良はなされたが12)、あくまでも戦前のブルク劇場の再建であって、かつてのハプスブルクを想起させる「伝統」を忠実に残しているのは、例えば戦後に建てられた劇場でありながら、桟敷席を温存させていることからも言える。
  戦前のブルク劇場の基本設計はゴットフリート・ゼムパーで、彼はバイロイト祝祭劇場の元になったミュンヘン祝祭劇場をも設計している。バイロイトもミュンヘンも、いわゆる額縁舞台、プロセニアム・ステージの徹底化、すなわち舞台世界に没入できるために舞台と観客とを厳密に分離して、それによって客席を均質な空間にしたてあげようという考え方に基づいている。観客の均質化のためには、桟敷は廃止されて平土間だけになり、観客は暗闇の中で一人一人が均質の個々人となって、舞台と向かい合う形になる13)。これがワーグナーの基本理念の具体的な表現であり、バイロイト祝祭劇場において実現したことは劇場史の基本知識であろう。
  先に挙げたレッシングは、周知の通り、これまで特権的な貴族社会を素材とし続けてきた「悲劇」に対して、市民階級の台頭にタイ・アップした近代的な素材と演劇理念を、新たに「市民悲劇」という形で提出している。啓蒙主義者と言われる由縁である。封建的な身分に対抗する平等な個人としての市民というレッシングの啓蒙的な理念を劇場空間的に表現すれば、隅々まで同一の音響と視線を差別なく共有できるプロセニアム・ステージということになる。事実、劇場の近代史は、そのような平土間の「国民劇場Nationaltheater」を指向して進んできた14)
  しかしブルク劇場のもう一つの側面である「宮廷劇場Hoftheater」という場合、単に経済的に宮廷に支えられているというだけではない。例えばブルク劇場の場合、俳優は身分的には宮廷官僚とみなされていたことからもわかるように、劇場は宮廷の一部と見なされていた。皇帝は居室から直接に専用の桟敷に行くことができて、事実ヨーゼフ2世はほとんど毎晩のように劇場に顔を出したと言われている15)。そうなると皇帝の回りに貴族達が群がるのは当然の結果であり、劇場は単に観劇という娯楽の場であるのみならず、同時に社交手段として欠くべからざる重要な場になる。
  「社交」という点から言えば、芝居を「見る」ことではなくて、むしろ自分が「見られる」ことが重要な関心事となる。集まる目的は観劇であれ、音楽会であれ、あるいは祝祭であれ、とにかくそこに出席すること、そして自分がその場に出席している事実を周りに示すこと、そのように互いが互いをアピールしあうこと、それが「社交」というものであろう。
  社交の場としての劇場では、従って観客同士が「見」かつ「見られ」なければならない。そうなると、先述のプロセニアム・ステージのような均質な観客空間は、舞台を見るという一方向の視線が最優先にされる構造をしており、例えば互いがあいさつをしようとしても非常に具合が悪い。ここに桟敷席のひとつの意味がある。舞台を鑑賞するためには桟敷の視線は不合理な無駄が多い。しかし自分が見られる、めだつ、という点から言えば、桟敷席は非常に有効な場である。そこでは観劇という名目の下に、こころおきなく互いを観察し、互いをアピールし合うことができる。それが「宮廷劇場Hof-theater」の実質的な存在規定とさえ言えるであろう。
  桟敷に象徴される社交的な祝祭空間としての宮廷劇場は、従って何よりもきらびやかな雰囲気を大切にしなければならない。クリムトに金の功労十字勲章を与えた天井の装飾壁画、ロビーに輝くシャンデリア、派手な額縁に納まった名優たちの横顔の数々、大理石に深紅の絨毯をひいた階段を見おろす花づな装飾の円柱、何よりも様々な装飾レリーフ等々。しかしその華やかさが、逆にハード面におけるブルク劇場の欠点をも作り出している。「劇場空間Theater-raum」というよりも、誇大なルネッサンス風の衣装の目だつ建築は、「非劇場 Untheater」と呼ばれるほど見にくく、聞きにくく、遠すぎる舞台は微妙な演技を不可能にして、建築当初から「演劇的要素よりも、むしろオペラ的要求を満足させるもの」と強く非難されていた16)。ブルク劇場で演じられるのは、地味よりも派手、観客に考えさせる現代劇よりも大仰な動きの古典劇が好まれ、舞台は観客個々人を担い手とし、かつ対象とする理性的な「国民的劇場 Nationaltheater」というよりも、祝祭性を優先させる共同経験としての「宮廷劇場 Hoftheater」、つまりは大がかりな、見てくれの良い「大芝居Großschauspielerei」になる傾向がある17)。これが Hof-und Nationaltheaterとしてのブルク劇場の、劇場空間というハード面からの矛盾である。  
  次にソフト面からのブルク劇場を考えてみると、ここにもやはり宮廷劇場の伝統が顔を出す。劇場が一種の「祝祭」としての「社交」の場である限り、その場の興味関心は「人」に集中する。客席については「誰が」来ているのかを知ることが重要であり、その心情からすれば、舞台に関しては「何が」演じられるかよりも、むしろ「誰が」演じるのかに強い関心が向けられる18)。その結果、観客に対して何らかの問題提起をするようなアクチュアルな演出は評価されず、むしろスター俳優中心のいわゆる宝塚風の「お芝居」、あるいはせいぜい洗練された台詞回しWortspielとしての演技をなめるように鑑賞する「通」向けの舞台になる。
  19世紀のオーストリアと言えば、検閲のきびしかった時代であるが、ブルク劇場には検閲が行われなかったようで、つまり検閲されるような芝居がブルク劇場の舞台にあがる筈がないので、初めから検閲の必要が無かったほど、名優による名演技の「お芝居」を見る「洗練された」観客だけであふれていたのである。例えば社交的にきどった態度を「ブルク風」という意味でB-Stil、またそのような折りのきどった言い回しをB-Deutschと呼ぶ。これがいわゆる「伯爵令嬢の劇場"Komtessen-Theater"」としてのブルク劇場である19)
  ちなみに現在でもウィーンの劇場には「格」のようなものが漂っていて、ブルク劇場では上流階級にふさわしいソフォクレスやシェイクスピアのような古典悲劇がかかる。昔ならば皇帝や貴族が来て、今では”教養市民”というのが来る。「ヨーゼフシュタット劇場 Theater in der Josephstadt」では、それにもう少し娯楽性がからんだシュニッツラーやネストロイが増えて、中流好みの出し物が多い。「民衆劇場 Volkstheater」には労働者階級が多く、ブレヒトなどが見られる。もちろん今ではこれらの「格」も決して絶対的なものではなくて、ブルク劇場にライムントもかかるし、民衆劇場もシェイクスピアをしばしば取り上げる。しかしこれらの劇場間の観客層と演目の区分は、何となく不文律として残っていて、ブルク劇場は一つのステイタス・シンボルになりうるだけの雰囲気をいまだに保持しており、「ペーター・ハントケのような劇は主義としてやらない」20)と主張する俳優がブルク劇場の内部に出てくる背景になっている。ここにもブルク劇場が宮廷劇場からひきずっている問題が見られよう。国民劇場として自立しようとする方向と、宮廷劇場として伝統にひきずられる傾向とが、演目の選択にあたっても現代劇の扱いをめぐる対立として現れ、「宮廷あるいは国民劇場Hof- oder Nationaltheater」とならざるをえないこともある。これがソフト面からのブルク劇場の矛盾であるが、そこにパイマンが登場することで、矛盾が露呈することになった。
  ではパイマンという人はそもそも何をやってきたのだろうか。
 
     4 ”騒動家”クラウス・パイマン
 
  クラウス・パイマンは1937年にブレーメンで生まれ、ごく若いときはともかく、もっぱら演出家として活躍している。1966年から69年までフランクフルトの 「塔劇場 Theater am Turm」で共同監督、70年から71年にペーター・シュタインのシャウビューネ劇場でやはり共同監督、74年から79年にシュツッツガルトの「市立劇場Stadttheater」での演劇部門の責任者である演劇監督、続いて79年から86年にボッフムの「シャウシュピールハウスSchauspielhaus」で劇場総監督、そして86年からウィーンのブルク劇場の劇場総監督として現在に至っている。
  演出家として最初に注目されたのは、1966年にフランクフルトで初演されたペーター・ハントケ作『観客罵倒』で、作品そのものの大変スキャンダラスな登場の陰に隠れてしまったものの、これが同様にスキャンダラスな演出家パイマンのデビューとなると、後に同じ人物がブルク劇場でウィーンの悪口を言うわけで、なかなか歴史の皮肉を感じさせる。
  しかしパイマンという人は単に演劇上の狭い分野でのみ問題にされるのではない。演劇という世界を通してではあるが、スキャンダルとも言えるほど新聞の社会面をにぎわすような話題が、彼には常について回る。『観客罵倒』もそうであったが、もともとパイマンは自分の演劇活動を大変アクティヴに考えている人であって、社会的な騒動が逆にパイマンの舞台作りの栄養になっているところもある。そのようなスキャンダルの最もはなはだしいのが、シュツッツガルト時代の1977年6月の事件であった。  
  この時、パイマンはあるカンパの要請文を劇場に掲示して、これが後に問題になる。カンパの内容はテロリストとして獄中にいるグードルン・エンスリンが歯医者にかかるためのもので、エンスリンの母親の呼びかけに応じて「純粋に人道的な立場から」、結局611マルクを集めたというものである。
  この1977年という年は、左翼テロリズムがドイツで最も活動した年であり、4月に検事総長ブバックが殺され、9月に西独工業連盟会長のシュライヤーが誘拐・殺害され、更に10月には民間飛行機がハイ・ジャックされ、国防軍の特殊部隊がソマリヤのモガジシオを奇襲、ハイジャック犯人を全員殺害の上で乗客を救出する離れ技を行ったりしている。ともあれドイツ中がテロリズムにヒステリックになっていた時期であり、パイマンのささやかなカンパ活動に対しても、かの悪名高い新聞ビルト紙がまず噛み付き、続いて「テロリズム・シンパ」「殺人共犯者」「共産主義の豚」等の非難が劇場や市当局に次々と寄せられて、バーデン・ヴュルテンベルク州CDU党首がパイマンの即時罷免を要求、更に劇場を爆破するとの脅迫状が来るに及んで、「危険なのでパイマンの劇場には行かない方が良い」との警察署長の発言が出てくるほど、異常とも言える騒ぎがシュツッツガルトに起こってしまう21)
  他方、演出家としてのパイマンの評価は、この時点では既に定まりつつあり、91.6%の客席利用率はドイツにおける公立劇場としてはトップ・クラスを示していた22)。しかしこの騒ぎでパイマンは2年後の契約延長の拒否を宣言、かなり強気の発言を繰り返していたものの、ドイツでもう芝居ができなくなるのではないか、内心では強い不安に襲われていたと、後年になってから本音を告白している23)。  そして「頭のからっぽなTorfköpfe」CDUの政治家たちが口をはさむシュツッツガルトを去って、ボッフムに移る。このボッフムでのパイマンの活躍は実に目ざましいものがある。斬新な舞台を次々と作り出しては評判となり、ボッフムの劇場を一流にしたのはパイマンの業績と言える。
  ではパイマンの舞台とは具体的にどのようなものであったのだろうか。
 
        5 パイマンの舞台
  パイマン演出といっても、例えばペーター・ハントケの場合とシェイクスピアの場合とを同じ座標でどこまで比較しうるのか。演出という実体の無い、素材によって柔軟に変化していくパフォーマンスを統一的に示すのはかなり困難であろう。ここでは彼の多様な舞台作りの中で比較的典型的と思われる一つを取り上げて、パイマン演出に特徴的な考え方を明らかにしてみたい。
  1979年にボッフムに来た年、パイマンはゲーテの『タッソー』を舞台に揚げている。周知の通り、この作品はゲーテの数ある戯曲の中でも「登場人物に対する作者の関わり方は、必ずしも一様かつ直接的ではない」24)。一応の図式としては、詩人タッソーに体現された美と芸術の世界が、宮廷に示される政治的な現実社会と対立して破滅するということになる。この図式そのものはグリルパルツァーからトーマス・マン等、ドイツ文学の中でも「芸術と実生活」というパターンで繰り返し取り上げられるテーマであるが、ゲーテの場合、必ずしも「美と芸術」に単純には組みしておらず、メッセージの微妙さが作品の「深み」ともなり、解釈に議論の分かれる作品である。
  『タッソー』を例に出した理由は、パイマンの演出の10年前に、ブレーメンでペーター・シュタインが演出しているためである。他にも大勢の演出家が『タッソー』を舞台化しているのであるが、このシュタイン演出は、ほとんど伝説的と言っても良いほどの強い影響を後の演劇界に及ぼして、70年代のいわゆる「演出家演劇 Regietheater」の核の一つともなった重要な演出である。更にパイマン自身も一時ペーター・シュタインと共に仕事をしたこともあり、1979年のパイマンの『タッソー』は、1969年のシュタイン演出を強く意識したものになっている。
  まず、パイマンの舞台の前提であったペーター・シュタインの『タッソー』では、詩人タッソーの基本的な立場を「無害な道化」と理解している。つまり宮廷というパトロンに依存している芸術家は、いわば水槽のなかの美しい金魚のような存在であり、体制側のぜいたくさ、余裕の産物の具体化というわけである。詩人という”自然”は、芝生のように刈り込まれ、馴化された装飾品にすぎない。従って詩人タッソーのわがままも結局は首筋をつかまれており、体制に守られ、容認された範囲での「美的自由」に過ぎない。わがままも度を過ごすと追放され、破滅していく哀れな存在である。
  シュタイン演出では、そのようなタッソーの疑似的な「自由」は声高に告発されはしない。ビロードを惜しみなく使用した舞台は、足元にまで達するひらひらした一枚の布をまとって優雅に動く公女エレオノーレの姿と共に、いかにもぜいたくな宮廷の雰囲気を自ずから強調している。しかしタッソーのしぐさはひどく大仰で周りから浮き上がり、時にストップ・モーションをかけたような不自然な動きの中に、詩人タッソーの自己矛盾が映し出される。タッソーのエキセントリックな態度は、「美と芸術」が己を高みに置くことのイデオロギー的欺瞞を精神分裂として、パロディーとして効果的に描き出している。パロディーという回り道の告発、これがシュタインの舞台の基本線であり、このようなタッソー理解には、60年代末のいわゆる学生反乱に示される高揚した政治の季節が透けて見えるであろう25)
  さてそれでは10年後のパイマンの『タッソー』はどうか。無機的な舞台はがらんとした空間で、上手に冷蔵庫、舞台正面には四方をガラスで囲まれた箱のような小部屋がしつらえてある。その中には無数の原稿らしき紙切れが乱雑に散らばっていて、男が一人、タイプ・ライターに向かっている。これがタッソーで、どうやらあの『解放されたエルサレム』を書いているらしい。しかし、オープンシャツをだらしなく着込み、机に足を投げだしながらタバコをくわえて、時々ワインをラッパ飲みするパイマン・タッソーは、シュタインのタッソーが見せる精神分裂症の繊細さよりも、むしろ徹夜明けの新聞記者のようなけだるいしたたかさを感じさせる。シュタインのタッソー像では、周囲の無理解に傷つき、揺れ動く感情を自分でも処理しえない悲劇的な天才として描き出されるのに対して、パイマン・タッソーでは、宮廷とは異質の無作法さが強調されることによって、宮廷というパトロンに依拠しつつ、しかも周りに同化することを拒否する姿勢が鮮明に打ち出されている26)。タッソーというインテリを、宮廷という体制はもちろん利用している。しかし同時にその無作法さを必要として、苦い顔で我慢してもいるのだ。宮廷内の上品さを抑圧の強さと理解すれば、タッソーの率直な感情表出による克己心の弱さは実は見かけの弱さでしかない。従って弱々しいが危険でもあるインテリ=タッソーを、国家は常に監視しつづけなければならない。それを舞台上のガラスの部屋が示している。
  ペーター・シュタインが舞台化した1969年の時点では、インテリの自己欺瞞を告発して否定することが時代に対して有効性を持ち得ていた。しかしその後の経験からーー例えばテロリズムを想起してもよかろうーー、欺瞞を本当に否定できるほどに我々が自由ではなく、否定の結果が実は互いの否定をただ重ね合うことしか産み得なかったのではないのかという思いの中で、1979年のパイマンは、インテリの欺瞞をむしろ積極的な抵抗として読み代えようとする。シュタインとパイマンとの相違は明瞭である。隠されたイデオロギーを明示化しようとするシュタインに対して、パイマンでは初めからイデオロギーの欺瞞さは意識され、意識的に選び取られている。あるいはより正確に言えば、選び取る以外の道は残されていない。
  
  「10年前ならば、我々は(タッソーを)もっと気楽に笑いとばすことがで  きた。そこではインテリや芸術家の道化的な自由がテーマになりえた。・・  ・しかし今や、ハインリッヒ・ベルのような作家がテロリストと呼ばれる時  代なのだ。」27)
 
  否定を笑いとばすことのできない状況は、10年前よりもはるかに厳しく、はるかに危うい。シュツッツガルトを追われたパイマンの経験は、明らかに彼のタッソー理解の中に反映している。パイマンにとって演劇とは何よりも抵抗の場なのだ。しかしそれはイデオロギーではなくて、演劇というものの社会的なあり方がそうさせざるをえないからである。
 
  「芸術とは抵抗 Widerstand, Widerspruch, das Gegenhalten である。そ  の限り、ファシズムとか DDR とかの芸術などは誤りである。そんなものは  単なるプロパガンダであって、芸術ではない。CDUか SPDか、どちらにしても  似たものどうしを選ぶしかない状況にあっては、抵抗の場所は大学か、ある  いは劇場にしか存在しない。」28)
 
  一方では抵抗の場としての劇場を強く主張するかと思えば、他方では政治的なスローガンの無内容さを美的に拒否するわけで、パイマンにとって、演劇は抵抗という意味では常に「政治的」であらざるをえないが、しかし本来の政治とはあくまでも本質を異にする。「政治のベースは妥協である、たとえそれが腐敗であろうとも。しかし芸術のベースは過激さにある、たとえそれが苦痛であろうとも。」29)パイマンの問題意識とはこのようなものであり、ここにペーター・ハントケを精力的に演出し続けるパイマンの「政治的な」美意識が見られるであろう。事実、あくまでも演劇という立場を守ることにより、シュツッツガルトではCDUと対立し、ボッフムでは入場料の値上げを求めるSPDと戦い、そしてウィーンではブルクの伝統にゆさぶりをかけているわけである。
 
      6 パイマンとブルク劇場
 
  さて、シュピーゲルの言葉を借りれば、「挑発的向こう見ずな”プロイセン”の騒動屋」30)であるパイマンが、ハプスブルク神話の体現のようなブルク劇場のトップとなったことは、ウィーンはもとより、ドイツにあっても関係者を驚かせたわけだが、その限りパイマンを引っ張り込んだヘルムート・ティルク(1984年の文部大臣で、現在のウィーン市長)のショック療法は図に当たったと言える。ただ、ここで重要なのはパイマン個人ではなくて、もっと大きくドイツとオーストリアとの演劇状況の相違であろう。
  ウィーンの演劇に関しては、例えばエルフリーデ・イェリネックが「子供の頃の50年代も今も、まるで何にも変わっていない。ウィーンは演劇の国際的な発展から取り残されている。私には20才以下の若者が劇場に行くとは全く思えない31)。」と述べているように、ウィーンにおける劇場とは、功成り名を遂げた紳士・淑女が、自らの社会的地位と教養を確認するために赴く場であり、とりわけブルク劇場にあっては、既に述べたように劇場が宮廷劇場であった頃の「社交」の伝統が色濃く残っている。「社交」の場である限り、演劇は自己の絢爛たる文化と繊細な教養の確認行為以上のことはできないわけで、ペーター・シュタインのタッソーがそうであったように、ぜいたくさという余裕の自己満足的な表現でしかない32)
  そういう教養主義的なブルク劇場は、例えば先述の「伯爵令嬢の劇場」という言い回しにも現れていたが、より積極的な意味では、「レパートリー劇場Repertoire-Theater」という表現で呼ばれることもある。レパートリー、上演目録とはつまり、特定の主義主張にとらわれずに、様々な名作を何でもこなすことができると自負した表現で、確かにブルク劇場のレパートリーは豊富である。ゲーテやシラーはもちろん、ソフォクレス、シェイクスピア、カルデロン、モリエール、ライムントにネストロイ、チェーホフ、ゴーリキー、ビュヒナーにヴェーデキントと、実に文学史の復習には最適の名作が目白押しで、ハインリッヒ・ラウベ以来、これがブルク劇場の基本方針であった。これら豊富な演目は、しかしながら次々と目先を変えるその豊富さの故に、既成の型をただ繰り返すだけの安易なルーティン・ワークに堕する危険が常に漂っている。「名優」の「名演技」による「名作」を「味わう」という、与え手と受け手との個別的・一回的な特性にのみ視野を限定した「教養」の自己確認に閉塞する。実際、「教養」は自己啓発としては「発展」の契機を内に含んでいるものの、それが純粋に個人的な特性に限定される限り、全体としては常に既成の文化秩序に盲従するしかない。そこでは個別的な発展が全体の疎外と結びつく。
  ブルク劇場が抱えた矛盾とは、従って単なる伝統と革新という二項対立ではなく、本質的にはまさしく「教養」が内に孕む問題性に他ならない。パイマンが演劇という場で常に問題にしているのは、固定化した文化秩序としての「教養」的な月並みの欺瞞であるが、今少し大きく見ると、彼の「挑発的な」活動の背景には70年代以降のドイツの演劇状況がある。  
  1980年の数字であるが、オーストリアの劇場数は20、スイスが12に対して、東ドイツが70、西ドイツが200である33)。人口比で見ても西ドイツの劇場は数が多い。ウィーンに限ると比率的には西ドイツと同水準であるが、しかし絶対数の相違は当然その社会的な意味の相違となる。西ドイツにおける200という劇場数は、演劇が内側に自足するにはいささか大きすぎる数であり、ドイツでは、例えばパイマンがフランクフルトからシュツッツガルト、ボッフム、ウィーンと移ったように、俳優や演出家の誰がどこに行くという情報が常に飛び交っており、これがドイツの演劇活動の流動と活性化に非常に大きな役割を果たしている。
  更にまた、ドイツの劇場はもともと同時代作品に強い好みを示している。30年近く前のいささか古い数字であるが、1963年のテアター・ホイテ誌によれば、全上演の41%が古典、15%が世紀転換期、44%が同時代作品である34)。よりアピールの強い同時代作品を舞台に乗せる必要性からも、俳優や演出家の引き抜き合戦が劇場関係者に要請されるわけである。
  以上の認識に立って、例えばパイマンがウィーンに来る2シーズン前の1984年/1985年におけるボッフムとブルク劇場とをより具体的に比較してみる。
ボッフムのこのシーズンの演目を作者名だけ挙げれば、アハテルンブッシュ、ベケット、ブレヒト、ハイナー・ミュラー(2回)、クライスト、ビュヒナー 及びイタリアとスエーデンの同時代作家 ダリオ・フォと ラルス・ノレーンということになる。他方、同じ時期のブルク劇場の演目を同様に作者名だけ挙げると、ネストロイが2回、イプセン、シェイクスピア、ゴーゴリ、ブレヒト、ツルゲーネフ、モリエールと並ぶ。
   現代作家に重点を置くボッフムと古典的な名作中心のブルク劇場との相違は歴然たるものがある。しかもボッフムの12の演目のうちでドイツ初演が実に5つであり35)、他方、ブルク劇場の演目を80年から86年のパイマン登場以前の7年間にまで広げて見ても、いわゆる同時代ものは微々たるもので、タンクレード・ドルストが一つ、何かの間違いのようにボート・シュトラウスが一つと、わずかにこれだけである。
  もちろん人口40万人たらずでSPDの根拠地のような労働者の町であるボッフムと、はるかに長い歴史と文化伝統に包まれた150万人の都会ウィーンという相違がある。また実験的な芝居はアカデミー劇場を使うといったブルク劇場内部でのテリトリー上の戦略もある。しかしウィーンの演劇を代表すると自他共に認める劇場での演目が、このように「教養」主義的である限り、イエリネックの言う「ウィーンは取り残されている」全体状況を大きく変えることにはならない。
  他方、70年代以降の西ドイツは、『タッソー』をペーター・シュタインが演出し、更にパイマンが取り上げるという具合に、古典の新しい解釈を中心とした舞台作りを互いに競い合う、演出家の自己表現としての舞台、いわゆる「演出家演劇Regietheater」が全体の演劇状況を引っ張っている。演ずる者やそれを見る者の現実を強く意識した演出は、古典の解釈にとどまらずに、当然のごとく同時代の作品を精力的にとりあげている。この点を無視しては70年代以降の新しい劇作家達の多彩な活躍を語ることはできない。
  ブルク劇場の歴史を振り返ってみれば、実は各時代の作家達を精力的に取り入れることによって現在見られるような豊富なレパートリーが出来上がったという事実がある。先に挙げたシュライフォーゲルはグリルパルツァーを初演しており、ハインリヒ・ラウベは演出の自立を導入し、マックス・ブルクハルトはイプセンやハウプトマン、シュニッツラーといった当時の「現代」作家を次々に舞台に揚げている。
  我々はオーストリア文学が現代ドイツ文学に非常に強いインパクトを与えている事実を知っている。あるいは70年代以降のドイツ演劇を語ろうとする際に、たとえばペーター・ハントケ やトーマス・ベルンハルトを無視することはまず不可能であろう。にもかかわらず、オーストリアの中心であるウィーン、そのウィーンの演劇の核とも言えるブルク劇場では、そのどちらも見ることができないといった奇妙な状況に対して、ハントケとベルンハルトにとりわけ強い関心を抱いているパイマンは、まさに最適の「野蛮人」であろう。実際、パイマンはブルク劇場での記念すべき最初の演目にベルンハルトの”演劇をする男 Theatermacher”を選んでいる。ある有名な俳優の田舎町(!)での公演を題材にしたこの芝居は、文字通りには「演劇を作る人」と訳せるが、同時に「大騒ぎ・バカ騒ぎをする連中」とも読めないこともない。ブルク劇場の舞台に、ベルンハルト一流のオーストリア非難の台詞が響く。若者は喜び、古くからの常連は顔をしかめる。
  若者をブルク劇場に呼び込み、「教養」に風穴を開けることで沈滞したウィーンの演劇を活性化しようとするパイマンの試みは、当然、多方面からの反発と非難を呼び起こさざるをえない。若い層の獲得という点では一定の成果をあげつつも、他方での古い層の離反はたちまち財政上の問題を産む36)。あるいはボッフムから連れてきたアンサンブルとブルク劇場に従来からいたアンサンブルとの融和という問題は表面には出にくいが、それだけに一層やっかいである37)。これらの問題をおもしろおかしく、しかし執拗に批判し続けているのがウィーンの新聞であり、総じてそれを読みつつ支持している保守的なウィーンという都市である。これが冒頭に挙げた88年のツァイトのインタビューの背景である。
  しかしパイマンはこうも言っている。
 
 「首都にあって、これだけ大きくて力のある劇場が危機的なのは実に惜しい。 ここでこそドイツの演劇(Nationaltheaterという言葉を使っているー寺尾)  が促進されるべきなのだ。」38)
 
 総じて70年代のいわゆる演出家演劇が、あれだけ根本的な批判を提示できたのも、いわば学生演劇の延長のような小編成のアンサンブルを土台にしていたということがある。そのような小編成は、一方では批判的な問題提起の前提となる互いの意志一致が容易であるものの、他方では、演目は変わるものの毎回同じようなメンバーが現れ、上演が似たような傾向に固定化することが避けられない。それ故にこそ、新しい作家の作品を精力的に取り上げざるをえないのであるが、例えば大編成の長時間ドラマを並べることは技術的に不可能となる。
 
 「ぼくはシェイクスピアの歴史劇をやりたい。そのためにはアンサンブルが必 要であり、その点ブルク劇場はすばらしい。」39)
 
  このように、パイマンはブルク劇場の伝統をおしなべて否定しているわけではない。ブルク劇場が文化の中心になりうるようなウィーンの演劇状況は、確かに保守的かもしれないが、しかしそれだけ可能性にあふれているとも言える。ぶち破るべき「教養」が劇場との間に生きた関係として存在している事実を、パイマンは高く評価してもいるのだ。
  88年のツァイト紙での騒ぎに対して、パイマンは同年10月に予定されていた「ブルク劇場リング移転100年祭」の中止という荒療治をしている。そしてその代わりにシェイクスピアの『嵐』を演目としてぶつけた。こういう皮肉な対応が、スキャンダルを逆手にとって自らの演劇活動に生かそうとするパイマンのなかなか一筋縄では行かないしたたかさであろう。ともあれパイマンがブルク劇場の総監督に就任して以来、現代演劇に興味ある者にとって、ウィーンもまた目の離せない場所になったことだけは確実なのである40)
  
 ( 附記:本稿は、1990年10月26日、鳥取大学における「オーストリ     ア文学研究会」での口頭発表を元にしている。)
 
1) zitiert aus: "Deutschsprachiges Nationaltheater!" Sigrid Löffler
spricht mit Burgtheaterdirektor Claus Peymann,in : THEATER 1990,
Jahrbuch der Zeitschrift Theater heute. S.72.
2) スキャンダルという言葉には、どうも日本語とドイツ語との間にかなりのズレ
があるように思われる。小学館の日本国語大辞典を引くと、「社会的名声を汚すような不祥事」と説明している。用例を見ると不祥事の重心が収賄と、なかんずく男と女のいわゆる「情事」にかたよっているように思える。古来「金」と「女」はスキャンダルの常套であり、もちろんドイツ語においてもその意味で用いられるが、しかし例えばグリムの辞書を広げると、次のようなカントの引用がある。「物自体を我々の外に・・・ただ信仰の上にのみ仮定しなければならないという事実は、哲学にとっても普遍的人間理性にとっても、常にスキャンダルでありつづけてきた。」この用例から予想できるように、ドイツにおいてスキャンダルという言葉は比較的新しく、18世紀にフランス語経由で入ってきた、いわばモダンな言葉であり、後期ラテン語scandalumの基本的な意味である「怒り」の教養語表現と言える。Es ist ein Skandal, wie man uns
behandelt.(こんなひどい仕打ちはとんでもないことだ。)との常套表現からもわかるように、要するに非難や批判をいささかきどって強調した言い回しにすぎず、日本語のように常になにがしか下世話な雰囲気を伴っているというわけでは必ずしもないようである。      
3) "Ich bin ein Sonntagskind" André Müller spricht mit Burgtheater-
direktor Claus Peymann, in :Die Zeit- Nr.22 - 27. Mai 1988, S.47f.
4) "Ich habe mir den Arsch nicht vergolden lassen", Theater heute, Heft 7, 1988. S.2.ff.
5) "Die Burgschauspieler proben den Aufstand" in : THEATER 1970, S.140.
二人の前任者であるPaul Hoffmann( 1968-1971 )は、1959年からブルク劇場の俳 優であったし、更にその前のErnst Haeussermann(1959-1968)は、父親がブルク 劇場のスター俳優で、文字どおりブルク劇場の中で育った総監督である。
6)70年代以降、例えば圧倒的な人気であるベルリンのシャウビューネの客席利 用率は常に90%の後半を維持し、ボッフムのパイマンは80%台の後半を示 している。他方、ブルク劇場は70年代前半は60%台、後半になって70% 台となり、80年代はおおむね80%前後を獲得できている。
7)「オーストリアでは死んだ人間は誰でも栄光の輝きの権利を持っている。」
  Gerhard Roth, Eine Reise in das Innere von Wien, Fischer, 1991, S.21.
8) zitiert aus :"Ich habe vor Wien keine Angst", Theater heute Heft 6, 1984. S.3.
9) THEATER 1990, S.72.
10) ムージル 『特性のない男』 加藤二郎・柳川成男・北野富志雄訳 河出書房
 世界文学全集 1975年 106頁。ところでウイリー・ホルスト監督によ る1937年の映画「ブルク劇場」は、たわいない恋物語であるが、戦前のウ ィーンとブルク劇場の雰囲気がよく出ている。
11) G.E.Lessing, Hamburgische Dramaturgie, Kröners Taschenausgabe Band
267, 1978, S.313.
12) 岩淵達治 「国立ブルク劇場改築の新工夫」(『ドイツ・オーストリアの国 立劇場』文化財保護委員会刊 昭和32年所収)
13) Hans Knudsen, Deutsche Theatergeschichte, Kröner, 1970, S.310.
14) 清水裕之『劇場の構図』 鹿島出版会 昭和63年 186頁以下参照。な お、近代的な個人を疎外の観点からとらえかえして、演劇の祝祭的なダイナミ ックスを重視した、いわゆるアリーナ・ステージの方向性は本稿とは別のアプ ローチが必要であろう。
15) Vgl:Österreich Lexikon.Österreichischer Bundesverlag für Unterricht, Wissenschaft und Kunst. 1966. S.176f. この伝統は共和制になってからも生 きており、歴代大統領は実に頻繁に劇場を訪れている。Ernst Haeussermann, Das Wiener Burgtheater, Verlag Fritz Molden, 1975,S.16 参照。
16) Ernst Haeussermann, a,a,O. S.63f.
17) Vgl."Wien, Wien, nur du allein?", THEATER 1986, S.110.ff.
18) "Das Wiener Theater geht einen Schritt vor und einen Schritt zurück",
THEATER 1969, S.146.
19) Hans Knudsen, a,a,O. S.256.
  権力がむきだしの「検閲」という形をとらずに、「やんごとなき」筋の個人 的な「不快感」が無言の圧力となって、ごくごく内々に処理されるといった宮 廷の介入については、例えば以下を参照。W.M.ジョンストン 『ウィーン精神』 1. 井上修一・岩切正介・林部圭一訳 みすず書房 1987年 63頁。
20) THEATER 1990, S.73.
21) "Schutt und Asche", Der Spiegel, Nr.39, 1977. S.226.ff.
22) a,a,O., S.228.
23) "Das Theater der Torköpfe", Der Spiegel, Nr.20, 1984, S.198.
24) E・シュタイガー 『ゲーテ』 (上) 木庭宏・桜沢正勝・三木正之訳
人文書院 1981年 341頁。
25)Vgl:Goethe u.a.Torquato Tasso, Regiebuch der Bremer Inszenierung.
Hrg.v.Volker Canaris. Suhrkamp. 1970.
26) パイマンに言わせれば、「芸術とはたとえ国家が財政的な援助をするとして も、結局のところ常に反国家的なのだ。」「金をもらったからと言っても、売り 渡したわけではない。Gut bezahlt, ist nicht gekauft.」(Theater heute,
Heft 6, 1984, S.4.)
27) "Das Häuflein der Aufrechten ist nicht groß", Der Spiegel, Nr.37,  1980, S.197.
28) "Theater muß extrem sein, Widerstand leisten", THEATER 1978, S.160.
29) a,a,O. S.161.
30) "Feste Burg" Der Spiegel, Nr.12, 1986, S.236.
31) Vgl.:"Schauspieler, feste Anmerkungen zum 《Wiener Pluralismus》",  Theater heute, Heft 3, 1985, S.19.
32) ウィーンにおいては、いわゆるAkademikerの69%が年に一度以上、12%
 が年に10回以上劇場に足を向け、他方Hauptschulbildungではわずか1%しか 劇場に赴かないという報告もある。Aus :"Totale Veroperung", THEATER 1976,  S.166.
33) Jürgen Hoffmann, a,a,O. S.65.
34) Vgl:"Was wird bei uns gespielt?" Theater heute, Heft 2, 1963, S.22ff.
35) ボーフムでのパイマンの7年間の演目96のうちで、ドイツの現代作家が
 32、外国の現代作家が13、そして全体の4分の1にあたる24が西ドイツ 初演である。Vgl.: Das Bochumer Ensemble 1979-1986, Hrg.v.Hermann Beil, Uwe Jens Jensen, Claus Peymann Vera Sturm. Athenäum 1986.
36) 1988年1月2日のÖsterreich Unterricht誌によれば、パイマン就任後の 一年で支出は456万シリングから469万シリングに増えたものの、収入は 逆に510万シリング から470万シリングに後退している。
  また80年代の観客数は、パイマン以前はコンスタントに35万人前後で落 ちついていたが、パイマン就任後の86/87年が約32万5000人、87/ 88年が30万人、88/89年が31万6000人 というぐあいにかなりの 減少を示しており、この面からの批判は根強い説得力を持っている。
 (Vgl.Theaterstatistik,Hrg.v.Bundesverband Deutscher Theater)
37)「---たぶん(ウィーンでは)4分の3が拒否するであろう人たちとアンサン ブルを組むのですが・・・
  パイマン そういう数字に意味はない。今のままが良いかと尋ねられれば、 常に75%の人間はハイと答えるものだ。」(Theater heute, Heft 6,1984,
 S.4.)  パイマンはこのように一貫して強気であるが、他方アンサンブルの内 部からもパイマンによる「ドイツ化 Piefkanisierung」に対する危惧が示され ている。 (Vgl. "Peymann und die Piefkanisierung der Burg"  in:
 Kölnische Rundschau, 7,6,1988)
38) Theater heute,H.6,1984.S.4. 
39) a,a,O. Vgl.:Der Spiegel, Nr.20, 1984, S.198.
40) 本稿冒頭のインタビュー記事の載っているTheater 1990 の91ページ以下 にシーズン・ベストが載っている。ペーター・ツァデックはブルク劇場公演  『イワーノフ』その他に対して最優秀演出家を与えられ、最優秀舞台美術にはペーター・ハントケの新作『問の劇』(パイマン演出)及びシェイクスピアの『オセロ』のどちらもブルク劇場での舞台美術を担当したカール・エルンスト・ヘルマンが選ばれ、更にブルク劇場の『オセロ』の主役ゲルト・フォスは最優秀男優に選ばれている。その結果ブルク劇場は1989年/90年のシーズンにおける年間最優秀劇場となっている。
 
 専修大学人文科学研究所月報 第142号 1頁〜20頁
1991年3月 専修大学人文科学研究所発行