ファロス無きファルス
        ボート・シュトラウス『カルデヴァイ・ファルス』論
                               寺尾 格
               君、夢解きこそ
               詩人の仕事だ。
                   (ニーチェ『悲劇の誕生』より)
   目次
   1 位置
   2 構成
   3 展開
   4 神話
   5 療法
   6 笑劇
   
1 位置
 
 1989年のベルリンの壁崩壊が、戦後を大きく転換させる契機となったことは、今更言うまでもない。ある朝、突然に大きく変貌するのが歴史的事件というものなのであろうか。我々の日常は日々同じことをルーティンのごとく繰り返しているだけのように見えながら、目につかぬ漸進的な変化の積み重なりが、ある時点でカタストロフィとなって一気に表面化し、我々に強いショックを与える。これは歴史に限らず、我々の存在様態そのものの本質的なあり方であるのかもしれない。自然のうつろいや災害、人間の誕生や死、そして心の変化もまた、眼に見えぬ背後では常にカタストロフィを密かにさりげなく用意しているのである。
 ドイツにおける1970年代と80年代は、今後は壁崩壊に先立つ時期として、質的転換を内包しつつ、変化の予感をますます強く抑圧していた時期として位置づけられるのは間違いない。ドイツ文学史の叙述においては、70年代と80年代は、従来から1960年代末のいわゆる学生反乱の時期との対比で意識され、文学的にはしばしば「新感覚主義 Neue Sensibilität」1)あるいは「新主観主義 Neue Subjektvität」2)への転換Tendenzwendeとして扱われることが多かったようである。60年代の政治の季節が赤軍によるテロリズムへと無惨な経緯を見せた結果、日々の豊かさの蓄積と享受へと内向するあまり、ナチズムの悪夢と壁の向こうの東側世界とを、つまり過去と現在との二重のトラウマを無理矢理に意識の片隅へと追いやっていたのが、この時期の西ドイツ社会であると言えるだろう。文学が時代の自意識であるとするならば、抑圧された無意識が夢となって現れるように、平穏無事な表面に隠されたトラウマは、文学的言辞という非現実の姿を借りて我々の前に姿を現す。従って、この70年代以降をとりわけ強く意識し続ける作家であるボート・シュトラウスを語ることは、そのままでドイツの戦後が内包してきた自意識の現れを、どのように理解するかという問いかけと関わらざるを得ない。事実、ボート・シュトラウスは時代の容貌を探る「地震計」という評価をされることが多いからである。3)
 本稿は、1982年1月、ニールス・ペーター・ルドルフ演出によるハンブルクのDeutsches Schauspielhausで初演されたボート・シュトラウスの『カルデヴァイ・ファルス Kalldewey, Farce』を扱う。4)この作品は彼の五作目の戯曲であり、先行する『再会の三部作 Trilogie des Wiedersehns』(1977)および『老若男女 Groß und klein』(1978)を上回る成功を見せ、1970年代の活躍を受けて、彼が1980年代のドイツ現代演劇の中心的存在としての位置を確実にした作品である。『カルデヴァイ・ファルス』の成功は、例えば『今日の演劇』誌での批評家アンケートによるシーズン・ベスト作品に選ばれたのみならず、5)舞台上演の回数においても示されている。ハンブルクでの初演に引き続いて、6月にルーク・ボンディ演出のベルリンSchaubühne劇場を初めとして、チュービンゲン、ケルン、フランクフルト、マンハイム、ハノーファー、ミュンヘン等々・・・と続き、ドイツ以外のウイーンやバーゼル、更にアムステルダム、ストックホルムなどの非ドイツ語圏の劇場上演リストにまで顔を出し、初演以来の三シーズンのトータル上演回数が600回以上という数字から、6)「ブーム」と言えるほどの彼の人気ぶりが推し量れよう。
  ちなみに『カルデヴァイ・ファルス』に続く六作目の『公園 Der Park』は、1984年フライブルク劇場初演(ディーター・ビッテルリ演出)後、ミュンヘンのKammerspiele(ディーター・ドルン演出)、ベルリンSchaubühne劇場(ペーター・シュタイン演出)、更にダルムシュタット、ボン、ウイーン、フランクフルトおよび ストックホルム、パリ、オスロ、ベオグラード等の劇場で上演され、84/85年のシーズン上演回数は約180回ということである。7)
  さて、そのように現代のドイツ演劇界での「流行」とも言えるボート・シュトラウスは、劇作以外の散文やエッセイにおいても多彩な活躍を見せている。しかし彼のスタンスはなかなか微妙な位置にあり、それはとりわけ彼の散文やエッセイにおいてしばしば賛否が分かれることで顕在化する。例えば1984年の『若い男』に対しては文学的な評価と批判とが別れたし、あるいは昨年2月におけるシュピーゲル誌でのエッセイ『膨れ上がる山羊の歌』8)では、ネオナチや外国人排斥に対する思想的課題をめぐる挑発的な言い回しで、例えばドイツユダヤ人中央協議会議長のイグナツ・ブービスなどはボート・シュトラウスを極右扱いしたほどである。これは後に撤回されたが、9)この事実からも、シュトラウスの「近代」批判が月並みなレッテルではすまされない、かなり微妙な本質論議に触れるものであることが伺えるだろう。
  美的な孤高を意識的に選び取る彼のスタイルには、いわゆる「大衆」社会の統合作用に対する拒否が明瞭であり、そのような視点から、エッセイにおいては「現代」に対する疑問が、いわゆる芸術や知識人のアンビバレンツな機能と共に常に繰り返し提出される。戯曲においては、エッセイに比べて(エッセイも率直とは言いかねるものの)遥かに凝縮した仕掛けがほどこされており、時に極右扱いされかねなかったほどの徹底した美的スタイルから生み出される彼の言葉は、「現代」を描く犀利な切れ味と共に、しばしば「韜晦」とさえ思えるほどの難解さとなって現れる。10)その難解さが、かえって演劇人をして舞台化への意欲を挑発する魅力となっているとも言えるのだろうが、そのような彼の戯曲の中にあっても、『カルデヴァイ・ファルス』は、とりわけイメージの焦点の結びにくい作品である。
  言語喪失を言語を媒介として問題にするのは、演劇に限らず、現代が抱えている原理的な課題であろうが、その課題をシュトラウスの舞台は、とりわけ男と女との間の噛み合わぬ葛藤に最も典型的に現れるような形で、さまざまな擬似対話に託して具体化していると言える。具体化のためにドラマトゥルギーがあるとするならば、シュトラウスほど、その種の仕掛けを意識的に操作する作家も少ない。例えば、対話が錯綜して作り出すモノローグ状況を並べる『再会の三部作』においては、パーティー会場という場所の一致と、主催者(?)である一人の男の出現を待つといった内的行動の一致が隠されていたし、『老若男女』においても、個々の場面の断片性は、主人公のロッテを中心に介することで、各場面Stationenの統一が効果的に組み立てられていた。11)しかるに『カルデヴァイ・ファルス』においては、一組の男と女に絡む二人組の女という人物の統一は一応見られるものの、個々の場面相互の連関が必ずしも明確ではない。しかし単なる並立ではない一定の方向性を感じさせてもいる。全体の統一は存在しないにもかかわらず、あたかも統一しているかのようでもあるというように、ひどく分裂した印象を与え、一種奇妙な酩酊感に襲われる。そしてそのような分裂した印象が、作者の意図的な操作であることも明瞭である。なにしろ『カルデヴァイ・ファルス』の動因として選ばれているのは精神分析なのであるから。
  彼の戯曲は、第一作『ヒポコンデリーの人々』の題名が示すように、そもそも現代の心理状況を常に狂気との親縁性から見つめており、『再会の三部作』以来、「精神分裂病 Schizophrenie」という言葉が、彼の舞台への批評としてしばしば用いられている。そのボート・シュトラウスが、現代の男女の心理を病理として、「精神分析治療」として、「ファルス」として描こうとしたのが、『カルデヴァイ・ファルス』であると、ひとまずそのように言うことができる。
 
2 構成
 
  全体は大きくは三つに分かれている。それぞれを幕とすれば、一幕の冒頭に短いプロローグと、二幕目の終わりに同様に短い幕間(Zwischenakt)とがある。このプロローグと幕間のふたつは共に同じ男女のかけあいであって、それ以外の主筋に対して完全に別個の時空と考えられる。人物の統一は全体に保たれている。しかし行動の点では、一幕が別次元で、二幕と三幕とは時間的にずれながら一応の統一があるらしい。
  プロローグは三幕の最後にもう一度繰り返される。そして幕間も、かなりの年月の後に以前の自分たちの行動を幕の隙間からのぞくというメタ構造の趣向であるので、この両場面はドラマの全体を大きく包み込み、主筋の進行を相対化する枠構造の役割を果たしている。この相対化の表現にシュトラウスの特徴が良く出ているので、まず全体構成と絡ませながら具体的に検討したい。まず冒頭のプロローグである。
 
   舞台装置を排除した暗い舞台にスポット・ライトの輪。そこに男と女が、 横顔で互いに向き合っている。男はオーケストラ演奏時のタキシードで手にフ ルート。女はロングドレスで手にバイオリンを持っている。
 
 男:君にまだ言いたかったことがとても沢山。 So vieles,was ich dir noch
                       sagen wollte
 女:自分が正しいっていつも文句言う人は   Man fürchtet sich vor dem,
  こわがられるのよ。             der das letzte Wort behält
 男:そうはなりたくない。          Ich will es nicht sein
 女:わたしだっていや。           Ich auch nicht
     (間)
 女:愛しているわ。私を見て。       Ich liebe dich. Schau mich an
 男:ありがたいことだ。          Ich danke dir
 女:いつまでも優しくしてね。         Bleib mir gut
 男:まだ君はぼくの前にいる        Noch stehst du vor mir
   やがて君は去ってそして        Du wirst gehen und es wird
   突然にすべてが過去になってしまう   plötzlich alles was war/sein    だろう (7)
 
  間をはさんで続けられる冒頭の二つの対話は、固有名詞を欠いた一般的な男と女との圧縮された言葉遣いで始まるが、見通しがたい全体に対する基本テーマの明示であり、以後それが様々に変奏されることになる。
  最初の対話は男の呼びかけで始まる。しかしこの呼びかけは唐突なSo vielesという抽象的な思いの提示であり、その内容説明は過去に根ざした主張(sagen wollte)にすぎず、具体性を欠いた抑圧的な要求である。従って女の拒絶もまた、同様に具体性を欠いた一般的な恐れ(Man fürchtet)として対置される。「いつも文句を・・・人」の部分は、文字どおりには「最後の言葉を保っている人」であり、相手の言葉に必ず反論して、常に自分が最終結論を保持する者という意味合いで、相手の支配的な姿勢に対する非難である。男のSo vielesの抑圧的姿勢に対する女のletzteの切り返しは、拒絶を相手への非難へと転換する点である。おのずと生み出される両者の間の緊張は共に抑圧となって二人の言葉を圧迫する。女の拒絶に対する男の短い譲歩文( Ich will es nicht sein)は、驚きを込めて思わず漏れたうめき声であり、女の更に短い対応文(Ich auch nicht)は相手の言葉をそのまま、しかし更に短く繰り返すだけで、対話は広がらずにnichtの一語で終わる。
  男の側の抑圧的な呼びかけと女の側の拒絶の返答というパターンは、続く二番目の対話では逆転する。今度は女の側が呼びかける。Ich liebe dich.という女の直截な告白は、告白という形での要求であり、その率直さがかえって相手には抑圧的に響く。事実、すぐ続く「自分を見ろ」との言葉は相手への支配要求でしかない。女の抑圧的な告白と要求に対して、男は「これはどうもIch danke dir.」と軽く受け流す。女の最初の言葉がすでに究極の愛の言葉(Ich liebe dich.)である上、それへの対応は最初の対話のような緊張関係ではなく、意味の重さをわきへずらす軽さとしてあらわれる。女の二度目の告白(Bleib mir gut.)は、最初の告白の繰り返し/変奏であり、女の要求を男は更に時間の経過の中へ解消しようとする。これもズラシであろう。
  短いプロローグの終わりは二人の別れの対話である。
 
     (二人はゆっくりと離れる)
 女:私を留めて!しっかりと引き留めて!  Halt mich! Halt mich fest!
 男:いずれまた、いつまでもずっと!    Bis bald, ewig bis bald!
                  (8)
 
  最初の二つの対話で示された拒絶とズラシのパターンは、以後も言葉と状況を変えつつも基本的には維持される。女の要求に対して、男の答えは噛み合っていない。bis bald は、bis zum baldigen Wiedersehen の意味であるが、それに ewigが付加されるのは、女のhaltenと対応して、この中途半端な状況の永続性を宣言しているということであろう。いずれにせよ 言葉が受取り手を失い、従って行動へと連絡せず、方向が定まらないまま、意味が意味として確定せずに漂っているだけなのが、シュトラウスの芝居である。そこでは「別れ」すらもが確定されず、従って如何なるカタストロフィも初めから存在しない。
  すでに指摘したように、この部分はそのまま最後にエピローグとして繰り返される。従ってプロローグとエピローグの繰り返しという枠構造によって規定されるドラマは、いずれも最初に提示された対話による「別れ」の繰り返し、つまり拒絶とズラシのパターンの変奏であることが、了解されよう。
 次に、「プロローグ」が枠構造としての形式的な繰り返しのパターン提示であったのに対して、二幕と三幕の間の短い「幕間」では、内容に関するメタ・ドラマが展開される。舞台は白い雪の積もった山道、そこで男と女が何年か後に偶然に再会する。思い出話の後に、二人は「自然の事物のすきま」である背景のたれ幕の間から、「閉じこめられた永遠の喜劇」である昔の自分たちの馬鹿騒ぎを見つめ、驚きと共に次のように批評する。
 
  男:連中の演じようはどうだ!
    みんな同じことを繰り返してばかりいる。
    あきもせず昔をやっている。また初めからもう一度全部を。ごらんよ。    残されているのが劇場だ。それが不安を追い払うために我々に最後に残    された魔法の試みなのさ。    (73)
 
 幕間で展開される、自分たちのドラマに関するドラマというメタ構造が明らかにしているのは、「不安」を追い払うための「劇場」で「繰り返される」「喜劇」の内容、つまり「とても沢山の過去」である。しかし繰り返しの中で提示される過去は、単なる過去ではない。
 
  男:は!全てがまだあるどころじゃあないんだ。この今という時は、多くの    時を拾い集めている。ここにあるのは巨大な寄せ集めだ。この保管所は    無限に広く、あらゆる物があるし、手に入るんだ。 (74)
 
 いわば抑圧された過去は、今の中に入り込んでいる。人間が本当に扱えるのは、「沢山の、すごく沢山の過去だ。こいつだけはたっぷりある。いつだってつきることが無い。(75)」シュトラウスが問題としている過去は、政治的歴史的に具体的なナチズムような「清算されざる過去」というよりは、むしろ我々の存在そのものが最初から抱えている原理的な過去であり、今の我々を支えているにもかかわらず無意識へと抑圧された過去の失われた記憶であろう。男と女の「今」の拒絶的関係の背後には、記憶の彼方に追いやられた過去が現前しているのである。
  以上の枠構造の理解を前提として、ドラマの具体的展開に入ることとする。
 
3 展開
 
  まず一幕では三つの場面展開がある。第一場はすでに述べたプロローグで、二場が酒場(三人の女たち)、三場は男の家(ハンスと三人の女)である。プロローグの一場に続く二場では、酒場にフェミニストの二人の女が酔っぱらって、ひどいスラングで仲間の悪口などを言いあっている。二人ともただイニシャルだけの指示であるが、Kがカトリン、Mがメレーデで、二人の言い争いから、あきらかにカトリンの方がインテリで、メレーデはそこに強いコンプレックスを持っていることがわかる。そこに女(リン)が訪れて、男(ハンス)の家庭内暴力を訴える。
  直前のプロローグでは、日常を越えた夢幻的な雰囲気の中で、一種崇高な言葉の掛け合いにおいて男と女との原理的な食い違いを表現していた。それに対して、ここでは一転して酒場の酔っぱらった雰囲気の中であるが、Jargonによるリヴの女たちの男への罵倒は、男と女との原理的なズレの表現という点では同じことである。またプロローグにおける拒絶とズラしのパターンは、ここでは二人の女の痴話喧嘩で示されている。直前の崇高な静かな語りかけと、ここでのJargonによる罵倒との落差は大きい。言葉による文体上の相違に加えて舞台そのものも対照的である。一筋のスポット・ライトだけしかない暗いプロローグに対する二場の明るい舞台、ほとんど動きのない静かなプロローグに対して椅子をけ倒し、オートバイの真似をし、泣いたりわめいたりする騒々しい二場という具合に、前後する初めの二つの場面の落差は、展開のドラマトゥルギーの重心が因果的なつながりにも、行動の一致にも置かれてなく、むしろ並立的な対比が展開の重点となっていることを示している。並列のドラマトゥルギーは、前作の『老若男女』において典型的であったが、シュトラウスの基本テーマとしての男と女との交差しない関係式の表現形式と言えるだろう。
  ところで人前ではおどおどしているくせに自分の妻には暴力をふるう夫の行状を訴えるリンに対して、身近な女同士でのグループを結成することを勧めるカトリンがこう述べている。
  「女たちってみんな家畜みたいに怠惰になってるって気がしてるわ。だから喜んでお役所の心理相談員なんかを家庭に連れ込んだりするのよ。そんなのが3DKの家ん中に住み着いて、裁判官みたいにあれこれご忠告申し上げるの。歩く度に何か言われて、それからここだけだよって内輪の親しさで、ウンコ全部をきっちり徹底的に分析されるってわけよ。ああ、女って、くそいまいましいほどに制度化されきっているんだわ。」(20)  
  ここでの「心理相談員」は Psychoonkel vom Sozialamt 「社会福祉局の心理のおっさん」で、カトリンの文脈としては制度化された女の状況を具体的に問題視しているのであろうが、前後とのつながりを欠いた精神分析のモティーフは唐突であり、次の場面への導入を暗示する言葉として位置づけられよう。この精神分析治療の暗示は、これ以後場面を追うごとに徐々に強く、明確になって行く。
 一幕におけるこのモティーフは、ただ暗示されるだけで表面には出てこない。リヴの女二人の言葉もそのような暗示のための素材として理解できるが、最も重要な暗示が次の三場での男の八つ裂き場面である。
  一幕三場では、まず男(ハンス)が一人で洗濯機を回している。そこに二場の三人が登場して、女(リン)に対する男の暴力を非難し、男はオドオドと対応する。しかしリンの態度はアンビバレントで、最初は融和と新しい関係を求める言葉を交わしたりしているうちに、二人のリヴたちが決着を求めて男を挑発し、互いに罵倒し合う結果、男は女三人の手によって八つ裂きにされ、バラバラになった身体は洗濯機の中につっこまれてしまう。
 
  (Mがフルートで男を打つ。男は崩れるように倒れる。女たちが男を引きち ぎる。)
  女:ああ、私のあなた!私にキスをして、私の目をなめて、髪を食べ尽くし   て、私の流れる血を飲んで、私の体の中をつかみ取って、汚いもの全部出し  て、全部取り出して、もっと、もっと、もっと!あなたは力あなたは王様あ  なたは帝国あなたは狂気あなたは死あなたは男根あなたは民族・・・私を支  えて、支えて!何か言ってよ!言って!私は天井を突き抜けて行った、天空  へと突き抜けた・・・そう言ってよ!ああナンテコト(カミサマ)・・・私  は愛を持っている、愛を持ってるのよ/誰にもあげないわ、あげないわ、あげ  ないわ。
  (女はバラバラの身体を持って走り、それを洗濯機の中に押し込む。KとM  も女に習って同じことをする。)      (38)
 
  この場面は明らかにオルフェウスやペンテウス神話のグロテスクなパロディーであり、最後に「男は消え、その代わりに顔を向こうに向けた一体のトルソーがソファーの前に横たわっている。(39)」
  
  一幕における神話的装いについては後に触れる。続く二幕では一幕と全く次元と様相が変わる。リンがひとり、自分の誕生パーティーがまもなく始まるのを楽しみに待っている。贈られるはずのプレゼントを楽しく思い描く短いモノローグに続いて、カトリン、メレーデ、ハンス及び「第二の男」が「投げ出されたように」部屋に入ってくる。四人とも黒眼鏡をかけている。
 
 M:あれこそ映画ってものだったわ!
 男:映画だったのか?
 K:知るもんですか。
     (彼らは黒眼鏡を外す。)
 M:映画みたいってこと。
 男:映画より良い。
 K:最高の映画よりずっと良いわ。  (42)
 
  この応答によって、直前の暴力場面が「映画みたい」な悪夢、つまりは一種の心理劇の試みということになるらしい。いわば集団治療のようなもので、この後、誕生日のプレゼントを期待するリンに対して、三人ともがプレゼントのない言い訳を繰り返すために、怒って部屋の隅に引きこもるリンが「第二の男」に向かって「あなたは私の治療にズカズカ入り込んでしまっているのよ。」と言うことからも、全体が一種の心理療法の劇であるらしいことがわかる。
 さて、やがてリンの誕生パーティーに誰も招待した覚えもなく紛れ込んだこの「第二の男」が問題となる。彼は自分を「カルデヴァイ」であると名乗るものの、それ以外には卑わいな言葉しか発せず、あげくにテーブルの下から忽然と消えてしまう。消えた男はやがてリン以外の三人によって、あたかも救世主のごとき扱いを受け、「ただのわいせつ男」にすぎないとするリンと言い争いになり、結局リン以外の三人は消えたカルデヴァイに引き寄せられるように退場する。
  二幕はリンによる誕生日のプレゼントの期待で始ったが、プレゼントは贈られず、しかも楽しい筈のパーティーは見知らぬ「わいせつな」男、カルデヴァイによって乱されるだけではなく、最後にはリンの願いも空しく、招待客がみなカルデヴァイに憑かれたようになって去ってしまう。二幕の最後に「誕生日」へのリンの期待は、次のように寓意的に実現される。
 
  (Mはシャンパンの瓶をドアに投げつける。ドアがゆっくりと開く。KとM、  それに『魔笛』の主題をフルートで吹いている男(ハンス)は外へ出て行く。  強い風が、手紙や服、花やプレゼントの包みを部屋の中へ吹き寄せる。) 
    女:手紙よ!手紙!誕生祝いの手紙だわ!
      プレゼントよ!花束!毛皮・・・
      プレゼントよ! プレゼントよ! プレゼントよ!
  (白い幕が落ちる。)                  (67)
  招待客たちの登場が、一団となって「投げ出されたよう」であったのと同じく、最後のプレゼントもひとまとまりに「強い風が・・・吹き寄せる。」つまり人物や品物の登場は、舞台に無理矢理送り込まれているわけで、結局舞台は終始、外の世界の強制的介入の形をとり、全体はリンの「期待」が外部的な抵抗の結果実現を阻止されるという状況を寓意的に、一種の「悪夢」のようなリンの内面世界において表現していることになる。
  二幕の最後は既に述べた短い幕間の挿入で、ドラマの全体が一度全く相対化された後に三幕に続く。三幕の舞台は精神療法センターの廊下、登場人物は二幕と同じだが、ただしカルデヴァイだけは欠いて、代わりにカウンセラーとおぼしき人物がドア越しの声と足だけで登場する。一幕と二幕に見られた一定方向への行動の統一は三幕では著しく後退し、夢のようにいらだたしい脈絡のなさが全体を支配している。しかし、いわゆる夢幻劇のようにシュールな脈絡のなさではなく、ちょうど対話のすれ違いに見られるように、それぞれの言葉や場面があまりに自己主張するために、個々の意味内容の肥大が相互のバランスを欠いた結果、全体像が失われてしまった脈絡のなさと言えるだろう。
  カウンセラー自身の分裂病気味のおしゃべりが聞こえる廊下で、四人のそれぞれの思いが語られる。どうやら四人はグループで精神分析の集団治療を受けているらしい。ハンスはカウンセラーの意向を常におどおどと気にしており、リンはハンスへの噛み合わぬ思いにこだわり続け、カトリンはカウンセラーへの不信を隠さず、メレーデは日常的な不安を失語症気味に語っている。カトリンは、彼女に言わせれば「いつも休暇に行きたがっている、ストレートな人間関係エンジニア」のカウンセラーの無能を怒って、彼の部屋のドアに鍵をかけて閉じこめてしまう。そこでハンスとリンは部屋の鍵を手に入れるために、カトリンによるテレビのクイズ・ショウ芝居に合わせる。ここからいわば監視なしの、患者自身による芝居が劇中劇として行われることになる。それは「宿敵との夕べ」と題されて、自分の宿敵と合間見えるトーク・ショウであるらしいが、平凡な一市民らしい男の前に現れた宿敵は、彼の妻であったという趣向である。この劇中劇は、鍵を取り戻したカウンセラーの終了宣告によって中断される。カウンセラーが帰った後、ハンスはどうやら興奮剤を注射されたらしく現代を激しく罵倒し始める。ハンスの長広舌は、芝居を続けようとする女たちの対話と絡み、各自の不安をそのまま言語化したつぶやきのような台詞が交錯して、対話と独白とが切れ目無く、多様に混ぜ合わされる。  
  (A)
  男:レビューだ、リヴァイヴァルだ、やり直しだ ー 全部をもう一度、た
   だもう少し速く、どうか、モルト・プレッソ、プレスティッシモ!
   そして今度はテンポアップ、カタラクタ(イタリア語のcataratta「滝」を   間違えている? 寺尾)のように!もう一度心を引き締めて!名前だ、名   前、名前だ ー ビッグバンからクォークまで、イリアスから枯れ葉剤ま   で、石投げから中性子爆弾まで。自然支配だ ー 人間支配だ、誰もどこ   にもいなくなるまでだ!それまで走っているんだ、走り続けるんだ、人間   ってのは、不自由な足に魔法の7マイル靴を履いた奴らさ!止めろ!あの   泥棒を止めろ、止めるんだ!
     (B)
  女:ねえ、カトリン、そのすてきな食器何かしら?本物のアール・デコじゃ   ない?
  K:もちろんほんもののアール・デコよ。違う?
  M:あらら。
  女:そう思うわよ。本物のアール・デコのセットだわ。
  M:まあ、そうかもね。
  女:あなたたち知らなきゃダメよ。自分のものでしょ。
  K:(食器セットをつくづくと見る。)本物のアール・デコよ。
  M:あらら。
  女:あなた達知らないようね。
  M:そうよ。アール・デコかもしれないわ。
  K:この人知らないのよ。
  M:アール・デコぐらいよく知ってるわよ。あなたよりはね。(105)
 
  Aの独白が終末に向かってそのスピードを上げている人間の歴史への警告であるのに対して、対話Bは日常的な美術談義に聞こえながらも、知識のあいまいさの背後に互いの関係の不安なきまづさが見え隠れしている。このふたつの独白Aと対話Bとは、実は舞台上で全く同時に演じられるのである。その結果、第一に互いの台詞は相互に干渉し合って、どちらの言葉も不十分にしか伝わらない。いわば言葉の断片が飛び交うことで、三幕全体の脈絡の無さを最も典型的に示す場面である。第二に、男の性急な長い独白と、女たちの一見のどかな短いやりとりとは、形式的に対照的であり、かつ内容的にも、未来における終末論と過去を向いた美術論という具合で、ここでは男と女三人とが内容と形式の両方において明確に対照され、男と女との並列状況のドラマ全体を分裂的な舞台で典型的に現しているだろう。
  しかし突然に『魔笛』のモティーフが流れる。全員が解放されたように緊張を解く。芝居は終わった・・・精神療法は終わった。カトリンとメレーデの二人は名残惜しげに退場し、最後に男と女の一組が残る。そしてプロローグ冒頭と同じ対話を繰り返す。しかし最後が異なる。
 
 女:どうもありがとう。    Ich danke dir.
 男:君を愛しているよ。     Ich liebe dich. 
 (暗転)           (112)
 
  プロローグにおいては、女が Ich liebe dich. と呼びかけ、男が Ich danke dir. と答えた。すでに述べたように、女の愛の呼びかけに対して、男の感謝の台詞は直接的な愛の応答にはなっていなかった。しかし今度はまず女が感謝を示して、それに男の愛の呼びかけが続く。単に台詞の順番を代えただけで、ふたりの対話の意味内容は全く逆転している。プロローグにおける噛み合わぬもどかしさが消えて、ここでは究極の愛の台詞でしめくくられることによって、別れを惜しむふたりの思いが強調され、暗転の後にも余韻となって残り続ける。
  この余韻のセンチメンタリズムを嫌ったのかどうか、作者はIch liebe dich.とは別の終わり方のヴァリアントを用意している。それは、男の独白と女たちのアール・デコ対話の同時舞台の直後に『魔笛』のモティーフが流れ、全員が耳をすませるうちに幕が下りるという終わり方である。このヴァリアントの場合は、それまでに提示された分裂状況が最高潮に達したところで終わるわけで、いっさいの余韻を排除した唐突さに眼目がある。余韻のセンチメンタリズムを取るか、唐突なショック療法を取るか、芝居全体の理解が改めて問われるヴァリアントである。
 
4 神話              
 
  さて一幕三場、女たちによって男が八つ裂きにされる場面は、神話的な素材への連想を容易に呼び起こす。イネス・リントナーの指摘では、ここに「オルフェウスの神話」が読みとれるとしている。12)つまり女たちによってバラバラにされたフルート奏者のハンスは、ディオニュソスの祭りでトラキア女たちによって八つ裂きにされたオルフェウスと重なると言うのである。オルフェウスは詩人/音楽家の原型としての神話的人物であり、死んだ妻エウリディケを求めて冥界へ降りて行く。妻を取り戻したオルフェウスが、地上へと戻る道の途中で振り返ったために、妻は再び冥界に引き戻されてしまう神話はよく知られている。オルフェウスは光の神アポロンの息子であり、アポロンに属する者として冥界とは対立する存在である。そしてオルフェウスをアポロン的存在と見れば、豊饒のファロス的な神ディオニュソスとも対立する。そのためにディオニュソスの女たちによってオルフェウスは引き裂かれるのである。リントナーは、このオルフェウスの死を更にテーバイ王ペンテウスの死とも重ね、そこに理性と自然との対立を見、最終的にカルデヴァイはディオニュソスであると結論づける。「衝動的自然に押しつけられる理性的秩序と、その秩序の抑制からの解放との間にある対立が、シュトラウスの戯曲に緊張した場面状況を形成している。」13)このニーチェ的な対立の構図からリントナーは悲劇とファルスとの歴史認識における親近性へと論を進め、かのマルクスの「一度目は悲劇で、二度目はファルス」との定式からファルスを「反復強制」と位置づけ、「ボート・シュトラウスの戯曲を貫いているのは両義性である。」14)とする。
  背景にある神話との関係を解きほぐして行くリントナーの論法は手堅い。シュトラウスの設定の基本に理性と自然との対立があることは、続く『旅行ガイド嬢』や『公園』において更に明瞭であり、15)またペーター・フォン・ベッカーも言うように「『カルデヴァイ・ファルス』が計算された両義性とアンヴィヴァレンツの戯曲」であることも確かだろう。16)しかしながらシュトラウスの劇作は、その対立/両義性の提示の更に先をこそ問題にしていると言えないだろうか。両義性もアンヴィヴァレンツも、あるいは理性と自然との対立も、いずれも二項対立を前提としているが、シュトラウスの示す男と女との関係における二項対立は、一貫して互いの「拒絶」の重なりとして、あるいは「ズレ」として描かれて、そこに現れる「対立」は「対立」としての通常の葛藤の形式を備えていない。「両義性」は結論ではなくて、シュトラウスの問題はまさにそこから始まると言えようし、シュトラウスが「精神分析」という場を設定した意味も、この対立と両義性への彼なりの対応の模索のひとつであるように思えるのである。
   事実『カルデヴァイ・ファルス』においてオルフェウス的死を遂げた男は、トルソーとなっているわけだが、トルソーとは、ギリシャ・ローマの遺跡から発掘された、腕や首などを欠いた不完全な、しかし美しい彫刻作品を言う。男/オルフェウスは八つ裂きにされ、そしてトルソーとして横たわっているわけで、この変化を舞台上で提示するのは、演出家がかなり頭を悩ますところであろう。そしてその難しさは、ここが全体のひとつの要であることを示している。
  我々は男が女たちによってバラバラにされるという神話的/原初的事実の提示に意表を突かれるが、しかしシュトラウスの舞台にあっては、殺人の結果が洗濯機であり、更にトルソーとして現れるような展開は、同じ女による男の殺人にしても、例えばクライストの『ペンテジレーア』などに比べればすぐに了解されるように、リアルな、差し迫った感情の激しさがつむぎ出されるというような迫真的な説得力とはいささかも関係しない。むしろ儀式めいた暗示の力強さに驚くのであり、あたかも悪夢を「夢」とわかって恐ろしがっているような、一定の距離感が常にそのまま維持されている。従って男の死が神話的オルフェウス的な死であることと共に、それがトルソーとして、不完全な美的発掘品としてこの現代に残されてしまうことに、今少しこだわってみても良さそうである。
  そもそもシュトラウスにとって「書くこと」とは、「不在」の確認であり、例えばマラルメを引き合いに出して次のように言っている。「バラという言葉は、そう名付けられた対象の完全な不在以外の何物をも意味していない。」17)もちろんマラルメにとっての「バラ」は、現実には存在しない美のイデーとしての不在であろうが、シュトラウスの場合、この不在は「喪失」へのこだわりであり、「忘れ去られたものを再び記憶に取り戻すこと」である。同じことを、「あらゆる時代の記憶喪失に対して戦うこと」と、あたかも記念演説でのような言い回しをすることもあるが、あくまでも美的な要請として理解するべきであろう。
 「書くことが意味しているのは欠落の状態である。文字があるところでは、全 てが欠落している。消え失せてしまった物や消え失せてしまった身体を求める ことこそが、人間の言葉の原初的なエロティシズムなのである。」18)
  その意味では、シュトラウスにとっての芸術作品とは、「新約および旧約聖書の最も本来的な意味におけるアナムネシス(想起)の侍女」である。例えば「正餐におけるパンと葡萄酒が、神の子イエスの血と身体を記号的に象徴するのではなくて、まさにイエスの血であり身体そのものである。」あるいは「聖母マリアのイコンは、単なる絵/像/イメージではなくて、我々がそれを通してマリア自身を見る窓なのである。」19)以上の指摘に美的経験の核心を見る限り、その対極に位置するのが現代のジャーナリズムにおける「二次的な/セコハンの(Sekundäre)、マスメディアの/間接的な」ニュース解説言語世界であることは言うまでもあるまい。ニュースの言葉は常に一回的なショックを求めるのに対して、「想起」とは失われた存在を常に新たに繰り返すことだからである。
  「想起」は、もちろん過去をユートピアに実体化してイデオロギーとすることではない。なにしろ殺されて分断された詩人にして音楽家のオルフェウスは、トルソーとして、「不完全な」美として、喪失の様相においてしか我々の前に現れないからであるし、神話的装いは初めからひどくあやしげな身ぶりでしか提示されていないからである。一場でのプロローグの荘重さと、それと対比的な二場でのパンク語のやりとり、あるいは三場での暗示的暴力としての男の引き裂きの場面に続くトルソーの提示への展開というぐあいに、シュトラウスの舞台にあっては、カタルシスはすぐ続く場面で必ず拒否される。神話的悲劇の形式も、殺害のカタルシスの結果がトルソーを前にしたモノローグでしかないのであれば、結局一幕全体は、明らかに素材としての神話的悲劇をなしくずしに陳腐化している。そもそもシュトラウスの舞台進行は、消化不良のように中途半端な了解のままで、いわば宙づりにされて展開して行くのが通常で、処女作の『ヒポコンデリーの人々』がそうであったし、特に1980年代以降の作品では、単に言葉の応答のみならず、舞台上の人物や小道具等の具体的な形象にもシュールな寓意的示唆が目立ってきている。神話的素材をそのように否定的に提示することは、ドラマの全体が問題としている精神分析的な夢への対応に際しても基本的には同じである。
結局、神話とは、シェリングの言う「自意的Tautegorie」存在として、己自身を常に繰り返し意味する筈のものであり、20)精神分析療法もまた、自分自身を発見する作業という点では神話と同じ論理だからである。
 
 5 療法
 
  精神分析治療のモティーフは、一幕において神話として唐突に暗示的に現れ、二幕においてカルデヴァイという謎の人物とともに強調され、三幕において全面的に劇中劇として展開されている。
 実は各幕にモットーがタイトルのように付けられている。一幕のは「愛の眠りは怪物を産む。Der Schlaf der Liebe gebiert Ungeheuer」。これは明らかにゴヤの風刺銅版画の代表作のひとつ「カプリチョス(気まぐれ)」シリーズの中の一枚のタイトルのもじりで、ゴヤの「理性が眠れば妖魔が産まれる」を基にしている。21)タイトルだけを読むと、いかにも理性を唱道しているかのようであるが、ゴヤの版画自体は画面の上半分を暗闇が占めており、その中を飛ぶ蝙蝠たちと、羽をひろげた梟たちとが、机にうつ伏せに眠っている男を押さえつけるように見つめる構図であり、更に猫の不気味な顔が下から見上げるという暗いイメージが全体を覆っている。従って画面の力点は「妖魔」の方にある。シュトラウスはゴヤの「理性の眠り」を「愛の眠り Der Schlaf der Liebe」としており、これを素直に読めば主語的2格で、「愛が眠って/終わってしまえば、怪物/不安/絶望が産まれる」という理解だろうが、説明の2格として読めば「愛という眠り/陶酔は怪物を産む」となり、この方がシュトラウス理解に近いように思える。22)
  二幕は「人生は治療 Das Leben eine Therapie」であるが、言うまでもなくこれも17世紀バロックのモットー、カルデロンの代表作『人生は夢 Das Leben ein Traum』の言い替えである。「人生は夢にすぎない」というもとの意味あいに従えば、「人生は精神分析の治療にすぎない」となるであろう。つまりは人間とは、結局幼児期における過去のトラウマへの対処で一生を費やすというところであろうか。ところでカルデロンの戯曲において「全ては夢であった」という、いわゆる「夢落ち」は、現実の脆さ、はかなさをあげつらっているというよりは、むしろその脆さの中に「試練」を読みとるべきだというのが、マックス・コメレルの強調するところである。23)幻想の中に現実と切り結ぶ一点を見逃してはならないということであろう。そうなるとシュトラウスによる「夢」と「治療」との等置/言い替えは、もちろんまず第一には舞台における精神分析治療としての夢という設定の説明と理解するべきであろうが、同時に試練としての「治療」過程という舞台世界の全体が、虚構そのままで現実化する可能性にも触れていることとなる。というのもシュトラウスは、すでに二作目の『知った顔、乱れる心』で、「夢落ち」を扱っているからであり、そこでの「夢落ち」は、あくまでも疑問符のついた一種の比喩的イメージとして提出されているのにすぎないからである。24)「夢であった」という了解そのものが常に相対化されるのが、舞台という存在形式であろう。一見無意味に見える夢の意味を問いかけることを方法的に自覚したのはもちろんフロイトであるが、夢の幻想としての了解はあくまでも仮のものでしかなく、夢に託された現実了解こそが最も重要なのだというのが、心的現実性を発見したフロイトの中心的メッセージではなかっただろうか。25)
  三幕のタイトルは「通路 Korridor」である。三幕の状況設定、精神分析治療の場を説明していることはもちろんであるが、同時に通過点としての舞台/人生/治療を意味しているとも理解できる。ちなみに前年の1981年にシュトラウスはエッセイ集『カップルたち、ゆきずりの者たち Paare, Passanten』を出している。タイトルに現れている男と女のすれ違いのイメージは、いかにもシュトラウス的である。
  以上の三つのタイトルを並べてみれば、これらが単に各幕の説明であるのみならず、相互に関連しつつ全体のイメージを補強するためのメッセージであることは容易に了解できるだろう。舞台上の行動と台詞は、プロローグと幕間によって全体の形式と内容を規定されつつ、これら三つのメッセージからなるエピグラムが、夢解き/解読のための鍵を提示しているわけである。
  ちなみに演劇的実践を精神分析治療として考案したのは1930年代のヤコブ・L・モレノであり、現在では患者自身による集団的治療法の中の芸術療法の一つとして、サイコドラマ、心理劇は広く認められた方法である。26)患者が相互に即興劇を実践して、互いに役割演技を行うことで各人の隠された抑圧や緊張を意識化し、治療の効果を上げることをめざすのがサイコドラマである。もちろん、シュトラウスのドラマは、サイコドラマであった、と「夢解き」をされるわけではなく、一応そのように了解できないわけではないと言うのに過ぎない。しかし三つのモットーと、特に三幕での展開から、ドラマの全体がサイコドラマの方法を基本の枠組みとしていることは前提としても良いだろう。
  従って、あらためてサイコドラマの視点から、全体の人間関係を読み返すと、一見すると四人の登場人物が相互に脈絡無く絡みあっているように見えながら、展開の動因の中心は常に女(リン)の男(ハンス)への想いであることが浮かび上がってくる。女の男への想いの噛み合わぬもどかしさが、一幕ではハンスの殺害となり、二幕のパーティーでは、カルデヴァイをめぐって他の三人と対立し、三幕でも他の三人の演技を促す形でメタ状況的な台詞を繰り返している。
 
   ハンス、来て!私が尋ねるから、あなたは笑うのよ。・・・さあ、演じて、 演じるのよ!何にも聞きたくなんかないわ! (104)
   みんな自分ばかりね、みんな向こうに行っちゃったのね、私はただ一緒に 演じ/遊びたかっただけなのに。  (108)
   言って、カトリン、そのすてきな食器はどういうの?演じるのよ、続けて、 演じるのよ、お願いだから、演技してちょうだいよ!  (109)
 
  以上のようなリンの台詞と行動が全体を「演技」として成立させる根拠となり、女(リン)の男(ハンス)への想いと、その想いの成立の疎外された内面世界としてのサイコドラマの枠設定がそれによって可能となる。
  ところでサイコドラマにおける役割演技において重要なのは、それが治療という一線を常に治療者が意識しているところであり、具体的には補助自我の介入という形を取る。これを効果的に機能させることが治療者としてのセラピストの課題で、病者が補助自我を通して自己の内面を認識して自我の統合を助けるわけである。補助自我の機能には主として「鏡」、「二重自我」、「役割交換」の三つのパターンがあり、27)これがリン以外の三人に一定の対応をしているように思える。まず「鏡」は「補助自我が病者と同様の振る舞いをすることによって病者にそれを観察させる」役割で、インテリで疑り深く行動的なカトリン、「二重自我」は病者が抑圧している思いを「先行的に演じて病者の自発性を促す」役割で、女っぽい魅力を持ちつつカトリンへのコンプレックスを抱いているメレーデ、「役割交換」は、「病者が他者の立場から自分自身を見られるようにする技法」で、リンの不安の対象であるハンスである。リンをめぐる補助自我によるサイコドラマとして全体を整理すれば、一見脈絡の無い相互の関連も、一定の印象の統一を得ることができる。
  もともとサイコドラマもドラマである限り、その課題と方法は、劇場空間における演劇の存在形式と通じ合っている。また、かのアリストテレスのカタルシス理論が、不安や緊張からの解放といった心理的効果をそもそも重要視したことからも、演劇はもともと精神分析と強い親縁性を持っていたと言えるだろう。28)「演技」をするためには「からだ」と「こころ」が開かれねばならないとは、演劇教育に永年たずさわっている竹内敏晴の言葉であるが、29)例え古典的なカタルシスが失われて久しい現代劇の舞台においても、劇場空間での役者と観客との双方の共通体験を重視する姿勢に変わりはない。劇場空間においては、舞台は問題認識を観客と共有する世界として、常にもうひとつの現実を可能性として提示し、それによって新たな自我の統合、あるいは新しい社会の統合を可能性としては常に意識せざるをえない。しかしすでに神話に関して述べたように、「治療」もまた、不安定な了解としてしか提出されていないし、シュトラウスにとって最も疑わしいのが、自我であることは明らかである。しかしまた、喪失した自我の再統合を求めるのが精神分析であるとするならば、たとえ不分明な形ではあれ、設定された精神分析治療の場は、少なくとも否定的な提示としての有効性は持ちうるであろう。そのための仕掛けが、このドラマの枠としての「ファルス」という形式ではないだろうか。
 
 8 笑劇
 
  笑劇と訳されるファルス Farce はフランス語で、後期ラテン語forcier「詰める」の過去分詞farsusを語源としており、例えばfarce au maigre「野菜のファルス」とは、パイやテリーヌなどに野菜入り挽き肉を「詰めた」料理を言う。もともとは中世の宗教劇の幕間の「詰め物」として、特に受難劇と復活劇の合間の幕間狂言として演じられた軽い茶番劇を意味している。受難と復活の間を「詰める」という機能から見ても、ファルスの笑いが本来的には媒介作用であると言えるだろう。内容的にも、ファルスの多くが社会的なミス・マッチ、不適合、不均衡への笑いであることもファルスの媒介的本質を示している。30)もちろん現実には禁欲的な修道生活の息抜きという娯楽の要素が強かったのではあろうけれども、厳粛な宗教行事の合い間に茶番の笑いを混ぜることは、日常の中で緊張からの解放を求める人間の自然な心理の動きであると共に、キリスト教神学の核心にある苦悩と救済の弁証法を「笑い」とむすびつけるような意識変化が対応しているとの見方もある。29)
  ヘンリエッテ・ヘルヴィッヒは、彼女のカルデヴァイ論において、ミハエル・バフチンを援用しつつ、ファルスのカーニヴァル的な両義性を明らかにしたうえで、「カルデヴァイ」をカーニヴァルそのものと解釈している。彼女は最終的に「現代における精神分析治療とは、中世における謝肉祭劇やカーニヴァルと同様の機能、つまり根幹を危うくすることなく社会的な統合を行うためのガス抜き」であるとして、その点からこの作品に「精神分析治療のパロディー」としての位置づけを与えている。32)
  ファルスとカーニヴァルとのつながりから『カルデヴァイ・ファルス』全体を位置づけるヘルヴィッヒの指摘は基本的には指示できる。しかしながら「パロディー」とは大変に便利な言葉であり、ほとんど全ての喜劇的な要因がそこに含まれることになってしまう。問題はその「パロディー」がどのような実質においてシュトラウス世界の基本と通底するか、そしてそれがなぜ「ファルス」とならねばならないのかが問われねばならないであろう。
  タイトル・ロールであるカルデヴァイは、二幕の前半に登場するだけで、しかも都合五回、それぞれ短く発言するだけでしかない。彼の台詞はいずれも前後との脈絡はなく、ただただ唐突なだけである。
 
 1 カルデヴァイは名前でござい Kalldewey mit Namen
   健気に射精を我慢でござい  hält brav zurück den Samen                                   (54)
  2 オーケー、オーケー     Okay, okay
    ヴァギナの・・・     Scheiden-                    (途中で遮られる 寺尾)            (54)
 3 ヴァギナのけいれん止めたいならば Willst du Scheiden ohne Krampf
   湯気でもあててやってみな    versuchs mal unter Wasserdampf                               (55)
 4 チキータ・バナナ      Die Chiquita-Banana,
  誰でも知ってるテレビスター  der bekannte Fernsehstar,
  2ポンド81         zwei Pfund einsachtzig,
  楽しくナニをヤリほうだい   die Sache macht sich  (55)
 
  5 毎朝すてきな朝食セット  Morgens zum glücklichen Frühstück
   甘いビデオを       ich schieb mirn süßen Film
   私はセット        in den Videorecorder -  (58)
  
 わずかこれだけの台詞しかないが、リンが怒り出すのも無理がないほど、いずれも無意味でひどく卑わいな内容ばかりである。しかもカルデヴァイの台詞を改めて口にしてみれば、一定のリズムがすぐに感じとられる。特に1と3は、明らかに脚韻を踏み、二行対韻、強音節は4つだが位置は自由、いわゆるクニッテル詩句である。これが通常ハンス・ザックス詩句と呼ばれていることは言うまでもない。従ってカルデヴァイの台詞からハンス・ザックスの謝肉祭劇を経てカーニヴァル一般へと論を進めることに、さほどの無理は無い。
  カルデヴァイの無意味な卑わいさとの関連で重要なのは、一幕二場、実質的に芝居が始まった際の二人のフェミニスト、カトリンとメレーデの会話における「罵倒語」の羅列との対応である。これについては二人の言葉遣いを「パンク族のJargon」、仮に「パンク語」と名付けた上での日本語への翻訳と紹介がすでにある。33)
  例としてリヴに興味のない一般女性に対する罵倒語を挙げてみる。abgeebbte Kuh(潮の引いた雌牛/月のものが上がってしまって何の役にも立たないような女) magersüchtige Kuh(やせたがり病の雌牛)  Boutiquentorte (ブティック通いのケーキ/流行に踊らされた甘チャン) Modeschnecke (流行蝸牛:ちなみにSchneckeにはVaginaの意味もある) Quatschröhre(おしゃべりパイプ:Röhreは口とVaginaと掛詞) Lady mit nem Glitzerdreieck vorn und n Arsch immer raus(ぎらぎらのバタフライを前に着けて後ろのお尻はいつも丸だしのレディー)
  ついでに男性への罵倒語も挙げる。ウーマン・リヴにふさわしく、当然こちらの方が遥かに豊富である。Guru(ヒンドゥー教の導師) Wichser(マスっかき) Wuschimann(精神欠陥男) Zombie(ゾンビ) Snuffi(snuffy薄汚い) Null(ゼロ) Praxisfreak(仕事熱中虫) atomgeile Halbglatze(原子力級にすけべな半ハゲ。ちなみにAtombusenはとんでもなくグラマーな胸) träger Brüter(胸に一物持ちながら実行しないネチネチ野郎)等々である。
  罵倒の言葉が下ネタになるのは普遍的現象であろう。バフチンはこれを「格下げ」のトポスとして、彼のカーニヴァル論の基本に据えている 34)
  しかしながら、このような卑わいさが声高に叫ばれ続けるのであれば、カーニヴァル的な性の豊饒さへと積極的に位相転換できるのだろうが、女二人による卑わいな罵倒語は次の場面に続いて行かないし、カルデヴァイの卑わいな言葉も単発的で、むしろ誕生パーティー本来の雰囲気が成立しえないリンの焦燥感を強めるばかりである。事実、カルデヴァイの台詞はリンの激しい反発に押さえ込まれて、カルデヴァイの存在そのものがテーブルの下で消滅してしまう。消えたカルデヴァイにこだわり続ける他の三人に対立して、リンはますます己の孤立感を強める。
  従って、シュトラウスの舞台にあっては、「卑わいさ」は抑圧された意識の強調に役立ちこそすれ、たとえパロディーとしても、決して一定の焦点を持つだけの実質を備えているとは必ずしも言えない。ちなみに、卑わいさが実質的な重みを持ちうるとは、例えばバフチンの言う「カーニヴァル」のように、その笑いがそのまま存在論的な問いかけとつながるような場合か、あるいは古代アッティカ喜劇のように、高度に現実的な主張の説得形式としての政治的レトリックであるような場合であろう。そもそもシュトラウスにとって、現代におけるセクシャルな可能性の理解は、「手当たり次第の消費と家庭的なフラストレーションとの間にはさまれて、性の本質をいつも避けてばかりいる私たちの腐敗したセクシュアリティ」35)というものであり、「卑わいさ」をカーニヴァルへと一体化させる側面は、単に否定的な形でしか存立しえないところを見ていると言えるだろう。結局、この卑わいさが、ドラマ全体が問題としている男と女相互の呼びかけと拒絶のすれ違いの別の側面であることを了解せざるをえないのである。
  バフチンによれば、ロマン派以降、カーニヴァルが本来持っていた両義的な笑いの社会的ダイナミズムは失われ、個別化した笑いは皮肉な嘲笑となり、「笑い」は心理的に抑圧された個人の不安の表現でしかなくなっている。36)カルデヴァイの卑わいさが、我々にとってすでに失われて久しいカーニヴァルの笑いとつながるとするならば、そのカルデヴァイを欠いたサイコドラマは、根元的なエロスの可能性である欲望の喪失を確認するための精神分析治療ということになるだろう。すなわちここでのファルスとは、欲望としてのファロスを欠いた喪失の相において描き出されることでしかあり得ない。というのも、そもそも精神分析とは、抑圧の中で失われた欲望を再び無意識から救い出し、それを意識下に呼び戻すことによって「喪失」を「喪失」として受け入れる作業であるように思えるからである。もちろんドラマにあっては、結果として付随することがありうるにせよ、意図的な治療は問題にならない。なぜならば科学とは異なり、美的な存在様態とはそもそも意図を裏切る効果において初めて成立しうるからである。
  結局「カルデヴァイ・ファルス」では、失われた欲望を一方では肯定的に「夢」として顕在化させつつ、他方ではその同じ「夢」を精神分析の対象として相対化し、拒否していることにもなる。この否定的な提示を「笑い」として見れば「ファルス」となり、他方統合作用の試みとして見れば「サイコドラマ」となる。精神分析治療を素材として欲望の喪失を描き出そうとしたのが『カルデヴァイ・ファルス』であるとすれば、おなじことを神話的素材を中心に描き出そうとしたのが、続く『公園』であると言えるだろう。37)
  シュトラウスはそもそもパーティーを舞台として、現代社会に生きる我々の心理的分裂状況を、あたかもトラウマをあぶり出すような対話の錯綜状況から作り出すのが巧みであり、それ故、特に70年代には彼の戯曲をGesellschaftskomödie(社交会話喜劇)と名付ける傾向が強かったようである。38)しかし前作の『老若男女』あたりからは、単なる「社交」喜劇というよりは、むしろ現代の欠落した内面構造そのものの形象化をめざしていることが明らかであり、むしろ「社会」喜劇として「近代」そのものを問題にしていると言った方が良い。ここにおいて「喜劇」を「ファルス」として否定的に提示しようとするシュトラウスの演劇は、現代における心理的病理としての男と女の「喪失」意識を、更に原理的に描き出そうとする試みであると言える。『カルデヴァイ・ファルス』に先立つ3年前に、『再会の三部作』は「ファルスに格下げされたストリンドベリの『死の舞踏』」であるとの指摘もあった。39)いずれにせよシュトラウスにおける神話的寓意的傾向は、「ファルス」の現代的可能性として、改めて問い直す必要があるように思える。
 
(注)
1) Vgl. Koebner, Thomas : Einleitung des Herausgebers. In : Tendenzen
der deutschen Gegenwartsliteratur. Hrsg. v. Thomas Koebner. Stuttgart(
Kroener) 1984.
2)Vgl. Beicken, Peter : Neue Subjektivität. Zur Prosa der siebziger Jahre. In : Deutsche Literatur in der Bundesrepublik seit 1965. Hrsg. v. Paul Michael Lützler und Egon Schwarz. Königstein/Ts(Athenäum) 1980.
3) Hage, Volker : Nachwort. In : Botho Strauß, Über Liebe. Stuttgart(Reclam) 1989. S.137.
4) Strauß, Botho : Kalldewey, Farce. München(Hanser) 1981. 以下、引用は本文中に括弧でページ数を示す。
5) Theater 1982. Jahrbuch der Zeitschrift Theater heute.
6) Töteberg, Michael : Kommentierte Aufführungsstatistik. In : Strauss lesen. Hrsg.v.Michael Radix. München(Hanser) 1987. S.292.
7) a.a.O., S.294.
8) Strauß, Botho : Anschwellender Bockgesang. In : Der Spiegel. Nr.6. 1993. S.202ff.
9) Vgl. Der Spiegel. Nr.16. 1994. S.168ff.
10) 「人はこれまでシュトラウスの特性について、二つの言葉で説明してきた。一つは「敏感なsensitiv」という言葉であり、もうひとつは「理解しにくいschwerverständlich」、あるいはもっと気取らずに言えば「さっぱりわからんunverständlich」という言葉である。」 Henrichs, Benjamin : Ich, meiner, mir, mich. In : Strauss lesen. a.a.O., S.99.
11) 寺尾 格:<Ja-a-mmer-tal>の響き ーボート・シュトラウスのドラマ解釈のために(東京都立大学「人文学報」第190号、昭和62年 137ー192頁)参照。
12) Lindner, Ines : Kalldewey. Dionysos. In : Strauss lesen. a.a.O., S. 143ff.
13) a.a.O., S.147.
14) a.a.O., S.157.
15) 寺尾 格:愛という欲望の喪失(ドイツ文学 90号 1993年 88ー97頁)参照。
16) Becker, Peter von : Platos Höhe als Ort der letzten Lust. In : Strauss lesen. a.a.O., S.21.
17) Strauß, Botho : Der Aufstand gegen die sekundäre Welt. In : Die Zeit.
Nr.26. 22.6.1990.
18) a.a.O. シュトラウスの「不在」に関しては以下を参照。Itaru, Terao : Die Liebe ohne Dialektik. In: Sprachproblematik und ästhetische Produktivität in der literalischen Moderne. Hrsg.v.Japanischen Gesellschaft für Germanistik. 1994 München(Iudicium) S.91ff.
 
19) a.a.O.
20) 「神々の現実に存在する本質とは、何か他のものではなく、他のものを意味するのでもなく、ただ己自身がそうであるところのものを意味するということだけである。」 Borchmeyer, Dieter : Mythos. In : Moderne Literatur in Grundbegriffen. Hrsg.v.Dieter Borchmeyer und Viktor Zmegac. Tübingen(Max Niemeyer) 1994. S.296. 
 「自意的」という訳語に関しては カッシーラー:シンボル形式の哲学 第二巻 神話的思考 木田 元訳 岩波文庫 1991年 487頁の訳注を参照。
21) ちなみにゴヤによる注解は「理性に見放された幻想は、始末におえぬ妖怪を生む。理性と結ばれたそれは、あらゆる芸術の母であり、その驚異の源である。」
ゴヤ 銅版画集 西垣雄太郎解説 岩崎美術社 1971年 
22) 「というのも、愛の中での眠りは、眠りつつ去って行く愛、つまり愛の喪失という人間的怪物を産み出すかもしれないからである。」Becker, Peter von : a.a.O., S.22.
23) マックス・コメレル:カルデロンの芸術 岡部仁訳 法政大学出版 1989年 184頁以下参照。
24) 寺尾 格:<Ja-a-mmer-tal>の響き 148頁以下参照。
25) 小此木啓吾:対象関係論の展開(現代のエスプリ 148号 精神分析・フロイト以後 至文堂 昭和54年 11頁以下)参照。
26) 高江州義英:芸術療法(異常心理学講座 第9巻 治療学 土居健郎他編
みすず書房 1989年 248頁以下)参照。
27) 成沢博子・石塚忠晴・高野嘉代子・高江州義英:分裂病者への心理劇の試み
ー補助自我の治療的意義をめぐって(現代のエスプリ 198号 サイコドラマ
至文堂 昭和59年 115頁以下)参照。
28) 「ブロイアーが浄化的kathartischと名付け、筆者が好んで精神分析的psychoanalytischと呼んでいるこの治療法の根本は・・・」 フロイト:W・イェンゼンの小説『グラディーヴァ』にみられる妄想と夢 (フロイト著作集 第3巻 文化・芸術論 高橋義孝他訳 人文書院 1969年 74頁)
29) 竹内敏晴:劇へ ーからだのバイエル 青雲書房 昭和50年
30) Vgl. Kindermann, Heinz : Theaterpublikum des Mittelalters. Salzburg(
Otto Müller) 1980. S.131.
31) 宮田光雄:キリスト教と笑い 岩波新書 1992年 149頁以下参照。32) Herwig, Henriette : Verwünschte Beziehungen, verwebte Bezüge. Tübingen(Staufenburg) 1986. S.69.
33) 岩淵達治:現代戯曲に見られるパンク語 Botho Straußの"Kalldewey"から
(ドイツ語研究 12号 三修社 1985年 35頁以下)参照。
  なお Herwig はここでの言葉遣いを典型的なサブ・カルチャーの「ジーン語 Scene-Sprache」であるとしている。Sceneの定義は難しいが、70年代の終わりごろから学生を中心にした新しい価値観が自覚され、おおむね「オールタナティヴ」と重なるだろう。若者による・新しい生活意識に基づく・従ってトレンディな・しかし商品社会に踊らされることのない・自覚的な・自然志向の反体制的サブ・カルチャーというあたりであろうか。Vgl. Herwig, a.a.O., S.67.
 ところでFascho-Lesbe(ファシストのレズ女)という言葉が出てくる。FaschistをFaschoと短縮。このような-oによる短縮は例えばProletarierをProlo あるいはlogischをlogoなど。同様に-iでの短縮がChauvi=ChauvinistあるいはMüsli=Müsleinなど。ここでLesbeはLesbierinだが、LesboあるいはLesbiとならないのは、-eがおそらく形容詞語尾だからで、例えばSpopntaneitätがSpontanと短縮され、実際に使われる際には形容詞の名詞化でder Spontaneとなるのに準ずるのであろう。
34) ミハイール・バフチン:フランソワ・ラブレーの作品と中世ルネッサンスの民衆文化 川端香男里訳 せりか書房 1985年 23頁以下及び325頁以下参照。
35) Strauß, Botho : Paare, Passanten. Mùnchen(Hanser) 1981. S.17.
36) バフチン 前掲書 38頁以下参照。
37) 寺尾 格:愛という欲望の喪失 前掲書 参照
38) Grack, Günther : Gesellschftskritik als Gesellschaftskomödie. In : Der Tagesspiegel. Berlin, 23.3.1978.
39) Heinrichs, Benjamin : Nachwort. In : Botho Strauß, Trilogie des Wiedersehens. Stuttgart(Reclam) 1978. S.132.  
 
 専修大学 人文科学研究所月報 第162号 1995年 1頁〜25頁