演劇する都市ウィーンあるいはブルク劇場 春の巻
           トーマス・ベルンハルト『リッター デーネ フォス』
           ペーター・ハントケ『満ち足りた不幸』
 
                                 寺尾 格
 幕前の長すぎる口上
 1997年3月末から一年間、在外研究をウィーンで過ごした。昼は机に向かうか、あるいはウィーン大学の演劇研究所の図書室に行く。夜はブルク劇場をはじめとして、幾つもの劇場に通いつめたが、世界的な観光都市としても名高いウィーンである。もちろん大学や劇場のみならず、オペラ座や楽友協会ホールや、あるいは彫刻・絵画のあふれる幾多の美術館にも足を向けた。石畳の街には、ハプスブルク家以来の伝統に彩られたルネッサンス・バロック・世紀末の建築物が至る所にあふれている。公園も随所に見られる。カフェやレストラン、ホイリゲと称する大衆的なワイン酒場も同様である。それらすべての醸し出す独特な「心地よさ(ドイツ語でゲミュートリッヒカイトと言う。)」こそが、ウィーンの独特な香りと雰囲気を醸し出していると言えよう。
 石造りの建物にびっしりと覆われた街を一歩出れば、そこには都市を包み込む広大なウィーンの森がある。森の中には細々と道がどこまでも続いている。道端に立つ道標の文字は、ヨーロッパ・アルプスの更に先の、遥かなスペインの地名までが読みとれる。森と共にウィーンの代名詞ともなっているドナウ川は、東方のハンガリー大平原を越えて、黒海の彼方へと消えて行く。ドナウ川は、現在でもヨーロッパを東西に結びつける海運の大動脈なのである。
 中欧の古都ウィーンを訪れる者は、歴史の築いた都市文化と、森と大河の自然とが呼応することで、時間と空間の広がりの中で、自ずからヨーロッパ全体へと意識が広がって行く。そんな多くの魅力にとりつかれた人々によって、ウィーンはすでに様々に語られ、描かれ、映されて来た。遠い東アジアの日本においても、手近の本屋を覗けば、ウィーンに関する書物の何冊かは容易に見つけられるほどである。
 ところで日本において目に付くウィーンとは、まず圧倒的にオペラやウィーン・フィル等の音楽関連の情報であり、次にクリムトやシーレ、ユーゲント・シュティールといった世紀末関連の美術、あるいはウィーン会議や皇后エリザベート等のハプスブルク家の歴史、そしてホーフマンスタールやシュニッツラー等の文学的興味、おおむねそのあたりが日本での関心の中心であろうか。管見の限りではあるものの、何故か、演劇関連の話題は、それらのウィーン好きの人々の興味をあまり引かないようである。
 宮殿や美術館やオペラ座のどこに足を運んでも、常に日本人はしばしば見かけられるにもかかわらず、劇場となると様子が一変する。私自身、一年間、延べで百数十回の舞台に通いながら、観客席に日本人を見かけることはほとんど皆無であった。とはいえウィーン演劇の内容が、ひどくマニアックで取るに足らないほどの低調なレベルであるならば致し方がないのだが、しかし事実は全く逆で、ドイツ語圏に於けるウィーンの演劇は、実はベルリンと並んで非常に重要な位置を占めている。
 とりわけ東西統一以降、財政難にあえぐベルリン市当局が補助金を大幅に削減して以来、例えばかつて圧倒的な人気を誇ったベルリン・シャウビューネ劇場も、あるいはブレヒトで有名なベルリーナー・アンサンブルも、いささか往年の元気に欠けると言わざるをえない。それに比べると90年代のウィーン演劇は、しばしばベルリンを凌駕するような活発で質の高い演劇を提供し続けているのである。
 従って、語るべきウィーンの魅力の数々の中にあって、演劇だけが日本では全く等閑視されているような印象には、いささか奇異の念を覚えずにはいられない。歴史的に見ても、ウィーンはハプスブルク帝国以来、常に演劇都市として有名だったからである。
 ウィーン音楽を代表する場として有名なのが、国立オペラ座と楽友協会ホールの二つの名前であるとすれば、ウィーン演劇を代表するのがブルク劇場とアカデミー劇場である。アカデミー劇場はブルク劇場のアンサンブルによる小劇場であるから、ウィーン演劇の中心は、要するにブルク劇場が支えていると言っても良い。但しウィーンの音楽活動が上に挙げた著名な二カ所以外にも、民衆オペラ座、カンマーシュピーレ(室内歌劇場)、コンツェルト・ハウス、アン・デア・ウィーン劇場、およびその他無数にあるホールや教会等でも常に多彩に行われているように、演劇活動もブルク劇場のみならず、フォルクス・テアター(民衆劇場)、ヨーゼフシュタット劇場、シャウスピールハウス等々、やはり多くの小劇場が、いずれも毎晩、古典から現代作品までの豊富なレパートリーを競いあっている。繰り返すが、ウィーンは演劇都市なのである。
 ウィーンの演劇都市としての側面が、日本で影の薄い理由として考えられるのは、日本とドイツとでは、演劇そのものの社会的位置づけが違うという事情が、まず基本にあるだろう。しかしそのような歴史的・原理的な問題を別にしても、われわれ日本人が現在のウィーン演劇に目を向けるためには、更に二つほどの困難を挙げることができる。まず第一に、言わずとしれた外国語の困難であり、第二にドイツ現代演劇自身の困難である。
 一晩で二千万円以上もの赤字を出す国立オペラ劇場では*1華麗なオペラを楽しむ大勢の観客が毎晩あふれかえっている。オペラ好きの日本人にとっては、最上席の二千シリング(約2万円)も割安に思えるのであろう。日本人観光客は、常に<良いお客様>である。横一列がほとんど日本人ということも珍しくはない。また、響きの良さで知られる楽友協会ホールも、客演のオーケストラはいずれも完璧に仕上げた演奏を披露する。ここでも日本人の姿を見ないことはない。音楽は世界共通の「言葉」であるから、音楽に対する耳さえあれば、楽しむためには何の障害もない。
 それに比べると、演劇を楽しむためには、何よりもドイツ語の知識が必要となる。何を言っているのかチンプンカンプンの舞台ともなれば、足の遠のくのも無理はない。オペラやコンサートには、あれだけ列をなして押し掛ける日本人観光客も、ブルク劇場の方は、通りすがりに外からチラッと眺めるだけで、決して中に入ろうとはしない。
 ドイツ語既習者にとっても、言葉は大きな問題である。外国語のヒアリングを特に苦手とする日本人は多い。しかもヒアリングの難しさを倍加するのが、方言なのである。ウィーン演劇の重要なレパートリーの中に、ライムントやネストロイの作品に代表される「ウィーン民衆劇」がある。恋と笑いと音楽に皮肉をミックスさせた実に楽しい劇なのだが、ガチガチのウィーン方言で畳みかけられる軽妙な風刺は、非ドイツ語圏の人間にはほとんど全く理解できないレベルである。*2
 たとえば大人気の俳優オットー・シェンクがボソッとつぶやくと、観客席がドッと涌く。同様に人気俳優の相手方、カール・ハインツ・ハックルが短く応答する。その瞬間、観客は、もう耐えられないとばかりに互いに顔を見合わせながら笑いを爆発させる。全く理解できない私だけが、ひとり顔をこわばらせて汗をタラリと流す。そういう経験は何度もあった。外国語のヒアリングの難しさを倍加させるのがウィーン方言、ヴィーナリッシュである。多民族国家ハプスブルク帝国の首都ウィーンの言葉は、大きくはドイツ語の南部方言に属するものの、チェコやハンガリー、旧ユーゴやイタリア等との影響下で培われた独特の用語とイントネーションが豊富で、日本人が普通に教わる教科書ドイツ語とは大きな相違がある。
 ただしブルク劇場は、豊富なレパートリー・システムで有名な劇場である。ウィーン民衆劇以外の古典劇、例えばシェイクスピア、チェーホフ、モリエール、イプセン等の舞台は、完璧な正統ドイツ語で語られる。何しろブルク劇場は、それを誇りとしているぐらいであるから、一定の前準備すら惜しまなければ、ヨーロッパの著名な劇作品の舞台を、一流のアンサンブルで幾つも楽しむことができる。
 ところがここで第二の問題が生じる。1986年の9月に、当時の西ドイツで大人気の演出家クラウス・パイマンがブルク劇場の総監督になったが、以後、ウィーン演劇の中心となるブルク劇場のレパートリーは、古典劇から現代劇へと大きく方向転換を行なったのである。その結果、舞台演出の方針も現代化を推し進めることとなった。長年にわたって古典中心にみっちりと鍛えられたアンサンブルが、その能力を次々と新作に投入するのである。この十年ほどのブルク劇場の舞台は、90年代のドイツ現代演劇を牽引し代表する場として、非常に高い評価を受けている。*3
 そもそも現代演劇は、とりわけドイツのそれは、著しく社会意識が高く、現状批判的であると共に実験的な試みにも満ちている。ある程度はドイツ事情に詳しくなければ、なかなか享受しにくい舞台も多い。もちろんほとんど翻訳はない。そもそも「娯楽」とは、ほど遠いのが現代戯曲というものだろう。従って伝統演劇の「伝統」たるところを楽しもうとする常連や観光客には、問題提起的な現代作品は敬遠されがちである。もちろんレパートリーの中には相変わらず古典物が数多く提供されているのだが、時として行われる現代風の刺激的な演出は、古くからの常連には著しく評判が悪い。真正面の最も良い、最も高い席から、劇途中に腹立たしげに中座するお年寄り夫婦の姿を見かけることも珍しくはなかった。もちろん天井桟敷の若い観客からは熱狂的な拍手が起こるのであるけれども。*4
 1970年代、ベルリン・シャウビューネ劇場におけるペーター・シュタインを筆頭に、ペーター・ツァデックやクラウス・パイマンなど、若い演出家による新しい演劇の動きは、ペーター・ハントケ、ファスビンダー、トーマス・ベルンハルト、ボート・シュトラウスなど、次々と登場する新しい劇作家達の活発な劇作活動の基盤となっていた。それらの演出家や作家達に共通するのが、いわゆる「68年世代」的な社会批判意識である。
 もともとドイツ演劇は、イギリスやフランス、あるいはイタリアと比べても、社会的意識が著しく高いという伝統を持っている。従って演劇は「知的な娯楽」なのである。これには近代化の遅れというドイツ固有の歴史的経緯が背景にあるのだが、現代演劇に限っても、例えば1920年代のエルヴィーン・ピスカートアによる「アジプロ演劇」から、戦中・戦後のブレヒト、及び60年代のブレヒト再評価、そして70年代の学生反乱世代による古典の読み直しというぐあいに、ドイツ演劇には一貫して政治批判の流れが見える。それがベルリンを中心としたアヴァンギャルドによる近代批判の伝統である。
 他方、狭義の政治批判とは異なった方向が、ドイツ演劇のもうひとつの社会意識を育てている。すなわち「宮廷劇場」から「国民劇場」への流れである。17世紀に現れた宮廷劇場は、イタリア・ルネッサンス演劇の祝祭的性格を引き継いだバロック風の華麗さに、その基本的な特徴を持っている。宮廷劇場を中心としたバロック的祝祭空間は、当初は王族と貴族の私的な場であったが、やがて上層市民層と貴族層とが宥和する社交の場となった。*5そのような社交の機会は、互いが互いを取り込みあうための場である。ここでの宥和とは、実質的には政治的な妥協に他ならない。妥協は王族と市民層との双方からなされる。王族は市民層の経済的実力に配慮し、市民層は王族を頂点とする貴族層の文化価値判断に追随する。18世紀以降、貴族層と市民層との相互の妥協の結果、「宮廷劇場」は市民的な「国民劇場」の課題と統合され、「宮廷及び国民劇場」となる。それがブルク劇場なのである。
 本来矛盾するべき「宮廷」と「市民」を、「国民」という表現によって連結・宥和しようとする場として劇場を規定することは、一方では欺瞞であるのだが、しかし他方、政治的に分裂・錯綜するドイツの現実に対しては、少なくとも文化的な統合の可能性を見つめようとの意志表示ともなっている。従って「宮廷及び国民劇場」としてのブルク劇場には、社会的文化水準の統合・維持・高度化を求める社会教育的意志が結びついていた。そのような中から、例えば戦前のマックス・ラインハルトによる集団アンサンブルや、ザルツブルク演劇祭などの多くの「演劇祭」の企画などが出現したのである。そこでは、単なる個人的な娯楽としての狭義の演劇を越えて、都市全体を包む祝祭性を重視するオーストリア・ハプスブルク的バロックの伝統が姿を見せている。ベルリンを中心とする演劇の社会批判的伝統とは全く異なった祝祭的演劇伝統、それが都市全体に浸透しているところに、ウィーン演劇の特徴が見られる。それは一方ではウィーンの保守的政治風土の文化的背景になっているのだが、他方、宮廷を中心とした社会秩序の中にあって、演劇が常に高い地位を占める結果をも生みだしたのである。
 さて、ウィーン的祝祭空間の中心の一つであるブルク劇場に、いかにもベルリン的な社会批判を真骨頂とするクラウス・パイマンが、総監督として登場した。1986年のことである。ドイツ嫌いのウィーン人にしてみれば、これ自体が既にひとつのスキャンダルであった。*6パイマンは「ウィーン文化」の名の下で行われていた、これまでの祝祭的妥協に冷水を浴びせかける。例えば、悪しき妥協の最たるものが1938年のドイツ併合への態度である。パイマンが問題とするのは、ドイツ併合がナチス・ドイツによる一方的なものであり、オーストリアは被害者にすぎないと理解して、自身のファシズム的契機に全く目を向けようとしない内面的欺瞞と妥協のオーストリア的精神風土である。なにしろ、パイマンも含まれるドイツ現代演劇が、一貫して精力的に対決しているものこそ、ドイツ自身の内部に強固に潜み続けるナチズム的本性なのである。
 娯楽の内側に潜むファシズムを挑発的暴露的に批判する、そのような態度を基本発想とするパイマンのブルク劇場現代化は、ウィーンの伝統主義者にとっても、あるいは祝祭的ウィーンを楽しもうとする観光客にとっても、すこぶる評判が悪い。ヨーロッパの古都のノスタルジーを楽しもうと世界中から押し掛ける観光客の筆頭に位置するのが日本人であろう。「マーラーが・・・」「ドミンゴが・・・」「ウィーン・フィルの弦の響きが・・・」と、ワインを傾けながら楽しそうに語り合い、ウィーンの夜を「楽しむ」者は、ドイツ現代演劇の発想に対して、何の興味も理解も示そうとはしない。オーストリア以上に戦争責任を曖昧にし続けてきた日本では、情緒的な台詞を無内容に羅列するか、あるいは東洋的沈黙にセンチメンタルに閉塞するか、そのような演劇ばかりが目立つ。ブルク劇場に対する日本人の足がとりわけ重くなるのも、当然と言えば当然すぎることなのかもしれない。
 
春の嵐は卯月                         
 三月の終わりには毎日のように雪が舞っていたウィーンも、四月の半ばを過ぎると木々にも緑が増す。ところが97年は、一月に零下20度の寒波が何度も襲来したとのことで、四月になってブティックのショーウインドウがすっかり春物に変わっているにもかかわらず、羽毛服の手放せない寒さがいつまでも続く。「せっかく店開きしたアイスクリーム屋も閑古鳥」と報じられ、テレビのお天気お姉さんは、「暖かくなるのは、あとほんの少しの辛抱」と毎日のように繰り返す。四月の天気は気まぐれで、晴れていると思えば雨になり、雨が雹に変わったかと思うとまた晴れて、次は一転して雪混じりの強風。短い間に天候がめまぐるしく次々と変わる。お隣の年金暮らしのおじいさん曰く、「これこそが典型的な春の天気だよ。」
 住民としての諸手続や役所巡り、生活用の買い出し等々に???の連続の日々が、ようやく落ち着きだす。ウィーンを訪れたのは初めてではないものの、旅行と生活との相違は思っていた以上で、「日常」がいかに多くの約束事に依拠しているのかを改めて再認識し、それにしても生活ドイツ語の知識の不足を痛感する日々となる。「泡立て器」って何と言うのだ?「唇の荒れ」は?
 下宿は、ウィーン郊外の19区デープリングに位置し、ベートーヴェンゆかりのハイリゲンシュタットも近い。友人が借りていた部屋に交代で入居できたのは幸運だったものの、大家の都合で仮契約から本契約に時間がかかった。賃貸契約書が無いと警察署に住民登録ができず、住民登録ができないと銀行に口座が開設できず、銀行に口座が無いと電気やガスの登録ができず・・・という具合に、諸手続が相互に連関している。更に加えて、それぞれの役所があさっての場所にあり、窓口の時間もばらばらなので、ひとつひとつにひどく時間がかかる。例えば賃貸契約税(年間家賃の1%!)を支払いに税務署に行くと、受付は午前中のみと一回目は門前払い。
 ヴィザ申請も、市役所に行くと「それは区役所」。地図を見ながら翌日、区役所に赴くのだが、「受付は朝の8時のみ!」と門前払い。そこで翌朝、早起きして8時ぴったりに行くと、該当者は5組しかいない。それなのに15分遅れた人はもう受け付けてもらえない。ただし私自身のヴィザは、ウィーン大学客員研究員という資格で簡単であった。東京の大使館に申請後、一週間で入手できたのだが、問題は同行する息子で、これは面倒であった。まずは16歳の子供の無犯罪証明書を入手するために、謄本その他の書類を整え、学校を早退させた息子ともども横浜の警察署まで出向いたのは序の口。(その際に、一本一本の指をぐるりと回転させ、息子の指紋は残らず丁寧に記録・保管された。)東京の大使館への申請書類の提出は、サインが一カ所足りなかったために不受理。再度申請に向かうと、ヴィザ交付には三ヶ月以上はかかるので、現地で申請する方が早いだろうと言われた次第。
 ともあれ息子のヴィザは、ウィーンで無事に申請が受理された。しかしそれは受理だけであって、その後いつまでたっても連絡が来ない。それどころか10月には地区の警察署から、息子宛に「不法滞在の罰金支払い」の命令書が届いた。もちろん、早速「異議申立書」を書いて投函したのだが、あとは知らない。結局、ヴィザは更に一年後、日本に帰ってからようやく交付されたようで、帰国して半年も過ぎた11月、大使館から「申請取り下げ願い」を出すようにとの連絡が郵便ポストに届いた。オーストリア的官僚主義の一端をかいま見ることが出来る。
 さて、慣れない生活に追われながらも、何はともあれ劇場に赴いた。記念すべき?最初の観劇となったのが、偶然ながら、私自身が一年間お世話になった下宿のある19区デープリング地区のお屋敷を舞台とした、パイマン演出の往年の話題作である。
 
 1997年4月5日
 トーマス・ベルンハルト『リッター デーネ フォス Ritter Dene Voss』アカデミー劇場 演出:クラウス・パイマン。(初演1986年)*7 
 
 86年の9月、ブルク劇場総監督に就任したパイマンが、最初の演目として選んだのが、パイマン演出の二つのベルンハルト作品である。ブルク劇場が『芝居する男 Theatermacher』であったのに対して、小劇場のアカデミー劇場の方が、この『リッター デーネ フォス』であった。どちらもベルンハルト一流のオーストリア批判が、彼独特のどこまでも続く一人台詞の中で、異様な迫力を持って積み重ねられている。10年以上も以前に初演された舞台であるにもかかわらず、人気の高い舞台は、いつまでも演目のラインナップに残り、見落とした舞台の落ち穂拾いができるのは、レパートリー・システムのありがたさである。
 奇妙なタイトルは、三人の俳優の実名なので、これ以外に訳しようがない。イルゼ・リッター、キルステン・デーネ、ゲルト・フォス、以上三人の実在の俳優のために、*8ベルンハルトが書いた芝居である。三名とも現代ドイツを代表する名優であり、特にデーネとフォスは、ブルク劇場アンサンブルでは、実にしばしば舞台に登場する、アンサンブルの要の俳優と言える。
 舞台上での三人は、もちろん実名とは関わらず、オーストリアの大富豪ヴォリンガー家の莫大な遺産で暮らしているということになっている。デーネとリッターの姉妹は、死んだ伯父が劇場(ヨーゼフシュタット劇場!)の株を購入したおかげで、たまに舞台に出演する権利を持っているが、実はほとんどお呼びのかからない売れない女優にすぎない。他方、姉からは弟、妹からは兄にあたるルートヴィッヒ(フォス)は、ケンブリッジで哲学の博士論文を拒否された哲学者で、今はウィーン郊外にあるシュタインホーフの精神病院に滞在し、遺産を湯水のように使って優雅に暮らしながら、いつ終わるともしれない哲学論文のメモを書きためている。その哲学者の兄/弟を一時(?)帰宅させて、ひさしぶりに三人で、家族水入らずの食事をするという設定の劇である。
 昼食前、昼食、昼食後という三幕劇は、時・場所・行動の三一致に基づく古典的構成を示している。演劇史の流れから見れば、イプセン、ストリンドベリ等と同じく、室内における少人数の会話劇である。*9つまり、一見些細に思える会話を通して、三者三様の狂気が少しずつ明らかになって行く。しかし何らかの秘密や狂気の「暴露」そのものに焦点が合わされているわけではない。その意味では典型的な近代リアリズム心理劇とは異なるし、あるいは、いかにもアメリカ風の、過去のトラウマにこだわった安手の精神分析ドラマとも異なる。三人のやりとりは、ベルンハルト世界としか表現できない独自の舞台を展開する。
 一幕は姉(デーネ)と妹(リッター)の二人だけの対話だが、話の内容は、精神病院から里帰りして、今、シャワーを浴びている筈の兄/弟ルートヴィッヒ(フォス)をめぐる事柄ばかりである。姉妹にとってのルートヴィッヒは、常に賞賛の的となっている。(私達のルートヴィッヒは天才だわ/道化の馬鹿なんかじゃない/いつの日か、彼についての研究が/どこの大学でもされるようになるわ 137)しかし他方では、その天才ぶりが、二人には大きな厄介の種でもある。二人の話からイメージされるルートヴィッヒは、精神病院にいる挫折した哲学者という設定からも予想されるように、相当な変人で、例えばドイツ語ではしばしばQuerdenkerと言われるような人物である。*10quer 「斜めに、はすかいに」 Denker「考える人」とは、社会的な常識や発想にいちいち異議を唱え、自己中心的で、エキセントリックで、自分は知的であるとうぬぼれて、いつも周りに怒ってばかりいる、そのような困った人物である。
 わがままな弟を母親代わりに細かく世話をやくのが姉のデーネで、生活にくたびれてもいる。他方、いつも優雅に煙草をふかしてばかりいるのが妹のリッターで、いささかの現実感覚もなく、姉の世話女房ぶりを冷ややかに批評しながら、自分では何の具体的な手助けも行わずに、ただ兄のご機嫌を取るばかりである。姉妹のどちらも、それぞれ対照的なスタイルながら、兄/弟であるルートヴィッヒに対する愛情と執着には異様な雰囲気が漂っている。二人の対話からは、姉妹の屈折した愛情が醸し出す奇妙な緊張関係が伺え、そのような一種の擬似的な三角関係からは、倒錯した雰囲気と、舞台に現れないルートヴィッヒの圧倒的な支配を感じさせることとなる。
 従って、芝居の本領は、二幕でフォスの演じるルートヴィッヒが登場して以降にある。一幕で予期された通りの「天才的」な哲学者ルートヴィッヒを、フォスは見事に体現する。彼のやや甲高い早口な言い回しが、いかにも身勝手で狂気じみた哲学者の子供っぽい変人ぶりを巧みに表現している。変人ぶりは、特定の人物や物事への偏執狂的なこだわりとして現れる。例えば精神病院の主治医であるフレーゲ博士は、ルートヴィッヒによって蛇蠍のごとく嫌われている。(ナンセンスだ/何の価値もない/フレーゲ博士の所に行くなんて/あの男は馬鹿だ/他のどんな奴よりもはるかにひどい 185)
 嫌いであるが故に、しかし彼は幾度も幾度も、そのフレーゲ博士に執拗にこだわる。わざわざ自分から話題に載せては罵倒を繰り返し、そしてその度にますます激しく怒り狂う。そのようなルートヴィッヒに対して、デーネとリッターの二人はハラハラと対応するしかない。語り、わめき、怒り続ける彼の話題の展開や言葉の一つひとつに、二人の姉妹はピリピリと神経を使う。一幕における姉妹の対話風語りは影を潜め、ただひたすらフォス/ルートヴィッヒのエキセントリックなモノローグ風饒舌のみが舞台を圧倒する。語りによるフォスの暴君ぶりと、二人の姉妹の神経質な対応ぶりとが、劇場全体を覆い包む。
 昼食の最後は、デーネお手製による焼きたてクリーム・パイである。これはルートヴィッヒの大好物であり、喜んだ彼は「他の何よりも愛している」とパイへの賞賛の言葉を大げさに並べ立て、ついには「パイ焼きは最高の芸術」とまで言い切る。しかしその賞賛の頂点において、喜びは突然、嫌悪へと一転する。
 
 私達がこのパイを初めて食べる
 そうすると
 そうするとパイはいつも吐き気ものになる
 これ以上に嫌なものはなくなる
 クリーム・パイほど嫌なものはない
 私達がクリーム・パイを
 他の何よりも愛していると
 例えそのようにいつも言われていたとしても
 (姉に対して)
 私がクリーム・パイを食べるとお前は思っている
 そうだ、もしかしたらクリーム・パイだって私は食べるかもしれない
 もしかしたら食べるかもしれない
 悪魔が叫ぶ
 クリーム・パイを食べろ
 お前の姉が焼いたのだ
 悪魔が叫ぶ
 悪魔が叫ぶ
 そしてルートヴィッヒはそれを食べる
  (中略)
 こんなに吐き気もののクリーム・パイ
 こんなに嫌悪すべきクリーム・パイ 
 私の大好きなデザート
 みていろ              190f.
 
 ルートヴィッヒのクリーム・パイに対する嫌悪の言葉は、以上のような調子で延々と続く。口一杯にほおばったパイに咽せながらも、大声でパイを罵倒し続けて、ついには机の上のパイ皿の上に頭を突っ込む。おろおろする姉妹を部屋から追い出し、テーブルクロスを引っ張ると、食器が倒れて床に落ち、激しい音を立てて壊れる。驚いて出てきた姉妹を横目に、ルートヴィッヒは、大きなランプをつかんでドアにたたきつける。ドタバタ風の大騒ぎの中で二幕が終わり、休憩となる。
 ベルンハルトの芝居に特有のモノローグ風饒舌は、そのほとんどが同じ様な罵倒と嫌悪の繰り返しである。言葉としては「私は嫌いだ ich hasse」「嫌悪 Hass」「嫌いな hasslich」「吐き気のする ekelhaft」が多用される。そして罵倒と嫌悪がある飽和点に達したとき、その情熱的とも思える嫌悪への執着は、ほとんど愛情と区別しがたくなる。ちょうど「大好きなクリーム・パイ」が、「嫌悪すべきパイ」と区別しがたくなるように。これをドイツ語でHassliebeと呼ぶ。「憎悪 Hass」+「愛 Liebe」であり、ベルンハルトの作品に対する批評として、このHassliebeという言葉が実にしばしば用いられる。*11これを素直に日本語で「愛憎」と訳すと、どうもニュアンスが正しく伝わらないように思える。日本語の「愛憎」は「愛と憎しみ」であり、例えば「天国と地獄」「戦争と平和」「男と女」等々と同じく、「愛」と「憎しみ」とがそれぞれ対立しながら、二つが対立したままでひとつになる、いわゆる「二語一想」である。そこでは「愛」と「憎しみ」とが、「かわいさ余って憎さ百倍」のように、たとえ両者の相互性が語られるとしても、それぞれの位相は異なったままである。「二語一想」の場合の意味の重心は、あくまでも相互の対立それ自体に置かれている。その場合はドイツ語では普通 Hass und Liebeと書かれる。
 しかしHassliebeの場合、「愛」と「憎しみ」は、それぞれが相手の領域を犯し合う結果、完全に一体化したひとつの言葉となる。その結果、「愛」はまさに「憎悪」としてしか現れないし、あるいはその逆でもある。「パイ」は、「大好き」であるが故に「嫌悪すべき」なのである。従ってHassliebeは、「愛憎」ではなく、むしろ「憎しみアイ(相/愛)」とでも訳せるかもしれない。
 このような「愛」と「憎しみ」とが完全に一体化したベルンハルト世界に於いては、当然、最も愛すべき存在が最も嫌悪すべきものとなる(あるいはその逆)。すなわち自分自身に近しい存在ほど、アンヴィヴァレンツな「憎しみアイ」の対象となる。パイも、フレーゲ博士も、姉妹も。そして言葉の点では、あらゆる全てを罵倒し尽くすという固有のベルンハルト世界が現れてくる。*12
 激しい動きで終わった二幕に続いた三幕は、「昼食後」との幕タイトルがつけられ、まるで何事もなかったかのように、三人は静かにワイングラスを傾けている。しかしルートヴィッヒのエキセントリックな「憎しみアイ」の語りは、いよいよ佳境に入る。まず周りの壁に掛かっている歴代の親戚達の肖像画を罵倒し始める。(こういった絵はひと財産の価値がある/けれども醜い/なんて醜いんだ 200)壁の絵に対する罵倒は、当然それだけではおさまらず、絵画そのものへの罵倒に及び、更に二人の姉妹の肖像画を屋根裏部屋からわざわざ取り寄せてまで、絵への罵倒が続けられる。
 
  絵を描かせる
  財産のために絵を描かせる
  沢山の金のために絵を描かせる
  (大声で叫ぶ)
  アフリカでは何百万もの子供達が飢えているんだ
  それなのにお前らは自分の絵なんぞを描かせている
  (自分に)
  絵を描かせる
  私の姉妹が自分の絵を描かせる
  ちょうど両親が絵を描かせたのと同じように
  芸術のパトロン、ああ、なんて嫌ったらしい
   (中略)
  醜い絵だ
  芸術的じゃない
  趣味が悪い
  絵を描かせる
  自分の絵を描かせる
  絵の芸術
  最低の芸術
  全くもって下劣な芸術     202f.
 
 「絵を描かせる malen lassen」という二語が、繰り返し繰り返し語られる。上述の短い引用の中ですら9回も繰り返される。同じ言葉の表現が、つぶやくように、あるいはどなるように、あるいは吐き捨てられるように様々に反復される。同一表現の繰り返しは滑稽な効果を産むための常套手段であるけれども、それらの執拗な反復は、単なる滑稽さというよりも、むしろ語られる内容と語る人物とのそれぞれの欺瞞を、異常さ、狂気さの中で浮き出させる効果を持つだろう。嫌悪と共に示される欺瞞は、まずはパトロンという芸術後援者気取りの優越感のおぞましさと、その裏に隠れた欲望(財産のための絵)に向けられるが、それは当然、そのような欺瞞的芸術を称揚するウィーンという都会の文化全体の欺瞞の告発でもある。(こんな国なんぞは/そのうちに消え失せちまえば良いんだ/それとももっと良いのは/夜中に突然/地震が起こって/こんなウンザリする祖国なんぞは消えちまえば良いんだ 216)
 ベルンハルトの舞台の台詞は、一見すると殆ど無意味な罵倒の反復に聞こえるが、実は周到に準備された設定の中で、反復という形式に凝縮された諸問題の核を、次々とたたみかけるように展開するおもしろさで満ちあふれている。そこでは個人心理のあやが、例えば姉妹との近親相姦的な狂気の相として、少しずつ暴き出されると共に、更に幾層もの歴史的・社会的情況との連関が重ね合わされている。問題点の暴露が単なる個人心理に閉塞していないのだ。
 例えばフォスの演じるエキセントリックな哲学者ルートヴィッヒは、ウィーンの人間ならば誰でもすぐに「ルートヴィッヒ」・ヴィトゲンシュタインを思い起こさせる。『論理哲学論考』を書いたヴィトゲンシュタインは、ケンブリッジを中心に活動して、20世紀分析哲学や論理実証主義を確立したとされる哲学者であるが、ウィーンの大富豪の家に産まれ、その天才ぶり、変人ぶりには多くの証言がある。13もちろん舞台上のルートヴィッヒの変人ぶりは、現実のルートヴィッヒ・ヴィトゲンシュタインの実際とは関わらず、むしろその甥にあたる音楽家「パウル」・ヴィトゲンシュタインの狂気にモデルがある。14 しかし虚構の舞台でのルートヴイッヒによる様々な罵倒の台詞の連鎖は、既製の「哲学」の無効を宣言した現実のルートヴィッヒの徹底ぶりを連想させざるを得ない。
 そして重要なのは、莫大な遺産を湯水のように浪費しながら、そのような自己のあり方を罵倒し続けるという設定が、そのままで戦後のオーストリアやウィーンの欺瞞と狂気の告発と重なり合うという点である。しかもそれは単純な告発ではない。周囲の欺瞞に対するルートヴィッヒのエキセントリックな反発と嫌悪は、結局は全ての源である自分自身にも向けられているからである。
 彼は精神病院での自分を、「百万長者のヴォリンガーが来るぞ」と自虐的に形容し、自分で自分の手をろうそくの火で焼いたり、あるいは何度も自殺未遂を起こしている。周囲との調和を拒否するような彼が、偏執狂的に語り続ける罵倒の自虐的な様は、失われたハプスブルクの栄光に執着するウィーンの欺瞞と滑稽さへの自己告発のようにも聞こえる。ルートヴィッヒの語る過剰な嫌悪は、その異様さと滑稽さが強調されることによって、単なるドタバタに終わることなく、観客の深いところでの得心と反発とを呼び起こす。
 ベルンハルトの作品においては、どの舞台からも、常に皮肉な失笑、苦笑い、困惑が喚起される。しかしそれらによって生じる、舞台と観客席との間の強い緊張関係こそが、まさにベルンハルトの魅力と説得力を構成する核心であろう。
 
マロニエの花は皐月
 四月の半ばまで羽毛服を離せずに震えていたのが嘘のように、五月の声を聞くや否や、突然、あっと言う間に春を飛び越えて、毎日が28度から30度の真夏の暑さとなった。日本では寒さと暑さとの交代が少しずつ進行するので、「春」や「秋」という季節の移ろいにしみじみとした情感を感じることができるのだが、ここではいきなり、まさにドーンという具合に夏になってしまった。ナンテ即物的ナノダロウカ・・・ とはいえ湿気が少ないためか、直射日光はじりじりと暑いものの、日陰では実にさわやかな風が吹く。街のあちこちで目立つマロニエの並木も、四月の終わりに白い花をいっぱいにしていたかと思うと、やがて見違えるほどの青葉を茂らせて、街中に豊富な木陰を提供してくれる。
 こんなに気持ちの良い風の吹く季節に、誰が家の中などにくすぶっていられるものかとばかりに、ちょっとした木陰にもカフェがテーブルを出し、あるいは大きな日傘を用意して、ウィーンの街の通りには、至る所にカフェーのテーブルと椅子とが目立つ。そのような椅子のひとつに腰を落ち着けて、ウィーン名物の泡立てミルク入りコーヒー(メランジェと言う。)あるいはビールを飲みながら、街行く人々を観察したり、マロニエの梢を見上げたり、本を読んだり、手紙を書いたりする。
 「カフェ」は、単なる「喫茶店」や「コーヒーショップ」とは異なって、独特な雰囲気を醸し出している。どうやらそれこそが、ウィーンという街の基本的なあり方を決定しているらしいと、ようやく遅ればせながらも気づく。カフェでは時間を忘れてくつろぐというのが、正しく「ウィーンする」仕方であって、ここでは「急ぐ」という言葉は禁句である。「急ぐ」ためには、立ち食いスタンドという便利なものがある。カフェには新聞や雑誌が何種類も置いてあり、どれも独特なスタイルの木の枠に挟まれて、片手で持って読めるようになっている。「追加注文は?」などという野暮なウェイターは絶対にいない。どっかりと腰を落ち着けて、おしゃべりを楽しんだり、新聞や雑誌を読んだり、マン・ウォッチングに「のんびり」いそしむのが、正しい「カフェ道(?)」なのである。
 従って、カフェの雰囲気に重要なのが、ひとつは伝統スタイルのカフェーに多いトーネット風の籐椅子で、15もうひとつはウェイターである。籐椅子は座りごごちが良いだけでなく、背中がすっと延びて、読んだり書き物をするのに実に適した形状をしている。日本の駅前喫茶店あたりにしばしば見かけるソファー風の椅子は、腰が沈みこみすぎて、長時間は座っていられない。居座るのが当然のウィーンのカフェでは、「客の回転を良くする」という発想は存在していないようで、如何に「心地よい」空間を作り出すか(繰り返しになるが、ドイツ語ではゲミュートリッヒカイトと言う。)、そこにカフェーの存在意義がある。
 もうひとつの重要な役割を担うのがウェイターである。白いシャツに黒いチョッキと黒い蝶ネクタイのウェイターは、独自の職業というプロ意識に溢れている。「私はカッコイイ・・・」という感じを全身で表現しながら、「カフェー」こそがウィーンそのものであると固く信じているかのようにも見える。喫茶を業とする場所自体は、おそらく普遍的に世界中どこにでもあるだろう。けれども、例えばコーヒーを注文すると、ベルリンではウェイターは短く「ヤッ!(Ja = Yes)」と答えてサッといなくなり、キビキビとした態度でコーヒーを持ってくる。「私はとても忙しいのである、つまりそれほど私は有能なのである・・・」というわけだ。大都会というのは、おおむね似たようなものであろう。無機的と言っても良い。
 激動の渦中にある忙しい現代風都会のベルリンに対して、ハプスブルク王朝の長い歴史を伝統としている古都ウィーンとでは、時間の流れ方がひどく違う。ウィーンのウェイターは、返事が「ヤアァーァ・・・」と長く長く間延びする。最初の「ヤァ?」は高い調子で始まり、次に「アァ」と下がって、最後にまたひゅっと音程が上がる。ベルリンの「ヤッ」に対して、ウィーンは「ヤアァーア」といかにも音楽的であり、そもそも後ろに引っ張るような調子こそがウィーン方言の特徴である。客とウェイターとのやりとりはおおむねこの調子で、互いに絡み合う言葉をコロコロと弾ませながら、ウィーン風のカフェーという舞台の幕がするすると上がるのである。
 さて、カフェー談義はともかく、5月はいよいよ観劇にもエンジンがかかり、14回と、おおむね二日に一回のペース。グリンツィングはジルバー・ガッセ(銀小路)にある下宿は、10分も歩くとワイン畑の広がる郊外だが、中心部のどこへ行くのも30分とはかからない。ブルク劇場へ赴くのも、38番の路面電車に15分ほど乗って、終点のショッテントーアで降り、ウィーン大学を横目にリング大通りの並木をぶらぶらと五分も歩く。するとリング大通りをはさんで、右にネオ・ゴシックの市庁舎と、左にネオ・バロックのブルク劇場とが、いかにも堂々と向かい合って建っている。
 現在のブルク劇場の建物は、G・ゼンパーとK・ハーゼナウアーの設計で1888年に建てられ、ご多分に漏れず戦争中に空襲で半壊した後、1955年に再建されたものである。中央ロビーのある半円形の正面には、 K・K HOFBURGTHEATERと金文字が刻まれていて、「ブルク劇場」が、正しくは「ホーフブルク劇場」すなわち「宮廷劇場」であったことが一目瞭然となっている。最初のK・Kとは、kaiserlich und koniglich、つまり「皇帝および国王の」という意味の略称で、ハプスブルク家がオーストリアのみならず、ハンガリーをも共通に支配する二重帝国であった事実を示している。ちなみにK・Kというこの略称は、ムージルの『特性のない男』の中で「カカーニエン」と揶揄的に使われ、「ウィーン学」の必須の基礎知識のひとつである。
 ブルク劇場の正面には、金文字の下に、レッシング、ゲーテ、シラーの三人の胸像が飾られている。更に左側にカルデロン、シェイクスピア、モリエール、右側にはヘッベル、グリルパルツァー、フリードリッヒ・ハルムと、いわゆる世界文学の巨匠の面々が我々を見下ろす。もっとも最後のハルムは、19世紀中頃には人気のあった劇作家で、1971年に死ぬ前年までブルク劇場の総監督も勤めた往年の有名人なのだが、現在ではどうも居心地が悪そうにも見える。
            
1997年5月13日、25日 ペーター・ハントケ 『満ち足りた不幸 Wunschloses Unglück』 ヴェスティビュール 演出 コンラート・クーン16            
 
 ブルク劇場は、小劇場として常設のアカデミー劇場を持つが、更に小さな実験用として、週に一・二回程度だが、仮設の小舞台ヴェスティビュール Vestibühlを用意している。文字通りに訳せば「劇場ホール」というほどの意味だが、ブルク劇場の堂々たる正面の左脇、小さな扉の奥にある物置風空間を指す名称である。数十人ほどの長椅子を段々にして並べただけの客席と、おおむね椅子とテーブル程度の舞台に、出演者も一人から、せいぜい数人程度のミニ・芝居用空間である。しかし舞台と客席とがほとんど一体化するような狭さのおかげで、俳優と観客とのそれぞれの息づかいが互いに間近に感じられる。劇場と言うよりも、小さな教室のような舞台に、二週間と間をおかずに再訪してしまったのが、この朗読劇である。
 ペーター・ハントケについては、すでに日本でも多くの紹介やモノグラフィーが書かれている。手近の文学事典を覗くと、「戦後の最も成功した作家の一人」「攻撃的な反・大勢順応主義」等々の言葉が見受けられる。17ハントケのいわゆる「純粋言語劇」は、1960年代末から70年代にかけて、ドイツ現代演劇に圧倒的な存在感を与えた。ちなみにデビュー作の『観客罵倒』(1966年)は、作者のみならず、クラウス・パイマンの若き日の演出デビューでもあり、パイマンは、以後、ほとんどのハントケ作品を演出している。ブルク劇場の総監督となって以来のパイマンが、古典中心の「ブルク」を現代化した演目を象徴するひとつが前述のベルンハルト作品であるが、もうひとつがハントケの諸作品なのである。 
 しかし『満ち足りた不幸』は、本来の劇作品ではない。1972年に出版された散文の舞台化で、自殺した母親の境遇や思い出について自伝的に語るエッセイである。*18仮設舞台の常道で幕はない。背景代わりのカーテンの前、左手に机と椅子、右手にベッドがある。登場人物は二人、ハントケ役(マルクス・ヘリンク)が椅子に座り、母親役(マレーサ・ヘルビガー)がベッドに腰をかける。ハントケ役が、うつろなまなざしで宙を見つめながら、静かに語り始める。
 
  ケルンテン州の「民衆新聞」日曜版の雑報欄に記事が載った。土曜夜、G村の51才 主婦が睡眠薬で自殺・・・ 7
 
 原作の100頁ほどのエッセイを適度にカットして、1時間半ほどの朗読劇に仕立て直している。テクストの内容は、母親の生い立ちと自殺に至る過程を中心に、それと絡めてハントケの「書くこと」や「語り」に対する省察と追想なのだが、省察の部分は殆どカットされている。最初の10分ほどは完全な暗唱で、私は意地の悪いことに、役者のすぐ目の前でテクストのページを繰っていたのだが、全くミスはなかった。さすがにプロである。途中から机の上の大きなノートを開いて、朗読になる。しかし単なる朗読ではなく、モノローグのように語る。
 例えば母親の育った旧ユーゴのスロヴェニアの村の貧しさは、1848年以前と何も変わらない「19世紀的な貧しさである」と述べる際には、立ち上がって歩きながら思いにふけるように語るのであって、もちろんテクストは見ない。台詞は母親の背景として、貧しい村の女性一般の生涯を簡潔に紹介する。
 
  何の可能性もなく、すべてがあらかじめ見えてしまう。ほんのわずかのおふざけ、く すくす笑い、短い陶酔、思いもよらない始めての深刻な顔つき、それと一緒に始まる零 落、最初の子供達、台所仕事の後にやっとほっとするわずかな存在感、最初から何も聞 き入れてもらえない、いたたまれないような話すらますます増え、独り言の繰り返し、や がて脚の痛み、静脈瘤、眠るときのうめくようなつぶやき、子宮ガン、そして死と共に 神の摂理は成就される。土地の女の子がよく遊ぶ歌の文句そのまま:疲れた/疲れ切った /ちょっと病気だ/重い病気だ/死んだ。      17
 
 拙い翻訳ではこころもとないが、前近代的で封建的な貧しさにあえぐ女性の苦しみを描くハントケの散文は、説明的な描写のくだくだしさとは異なり、決して突飛な比喩を用いることなく、しかし印象的な短い言葉を畳みかける。言葉の形式的つながりから感じられる一種独特なリズム感は、かすかに彼の純粋言語劇の実験的試みを思わせるものがある。 例えば、引用の中程「最初から何も聞き入れてもらえない、いたたまれないような話すらますます増え」は意訳で、原文は「何も聞き入れてもらえない」 überhörtwerden(聞き流す)と「いたたまれない」Weghoren(聞いて去る)と、二つの動詞を不定形のまま並列する。いわば言葉がポーンと投げ出されたようなぶっきらぼうな表現の故に、言葉そのものの響きが意味内容とみごとに絡み合う。特にWeghorenは知覚動詞horenに、場所の移動の副詞wegを重ねた、いわゆる搬動語法と呼ばれるドイツ語法上のレトリックを使い、直前の動詞の前綴りのüberと呼応しつつ、直前の「いたたまれない話すらますます増える」selber immer mehrが、次のSelbstgesprach(独り言)へと内容の展開を示すことになる。
 また、最後の女の子の遊び歌は未詳だが、ドイツ語ではMüde/Matt/Krank/Schwerkrank/Totとリズミカルで、一種のまり突き歌のようなものだろうが、わずか5語に表現されてしまう女の凝縮された生涯の悲しみが、リズムの中で自ずと浮かび上がって来る。
 故郷の貧しさの説明は、母親の生きる苦闘の物語と交錯する。戦争を挟んだ激動の歴史である。その中で翻弄され続けた母親の境遇は、それだけでも興味深いドラマではあろう。死んだような村を嫌ってスイスの出稼ぎ先で恋をする。子供(ハントケ)を産む。子供の父親とは別の男と結婚してベルリンに住む。占領軍の監視を盗んで故郷に戻る。生活の苦労とわずかな気晴らし、夫との精神的つながりの欠落、後年の頭痛、神経衰弱、孤独感、自殺願望。ただ、それらの内容そのものは、世界中どこにでもある話と言っても良いだろう。しかしハントケは決してセンチメンタルにならずに、むしろ突き放すように、時に冷たくさえあるように、「語り」を坦々と進める。
 散文テクストに忠実な「語り」が「朗読」ではなくて、あくまでも「モノローグ劇」であるのは、第一にテクストそのものが、すでに見たように高度に凝縮した語りのリズムに支配されていること、第二にハントケ役がテクストのほとんどを暗唱しており、時に立ち上がったり、宙をにらんだり、黙りこくったりするパフォーマンスによって、テクストを「台詞」として語っていること、そして何よりも第三に、ほとんど言葉を発しない母親の存在の故である。母親は台詞は全く無いが、ハントケ役の一方的な語りのモノローグに対応して、パントマイムで様々な家事や化粧等を行なったり、歌をくちずさんだり、ぼんやりしたりしながら、随所で様々な反応を示す。
 モノローグ劇としての圧巻は、やはり最後の場面、母親の遺書を「語る」ところであろう。死に至る孤独感の苦しみを告げる母親の手紙の数々を紹介した結びの言葉。
       
  そのほかには葬式のやり方をこまごまと指示した手紙の最後に、母は次のように私に 書いている。とても落ち着いていて、やっと平和に眠れるので、とても幸せな気持ちで すと。でも、ぼくにはわかっている、そんなはずはないんだ。(Aber ich bin sicher,  dass das nicht stimmt.)  93
 
 「でも、ぼくにはわかっている、そんなはずはないんだ。」とハントケ役が暗い顔で静かに述べた瞬間、それまで疲れたように頭を抱えてじっとしていた母親が、「何を言うの?」というぐあいにキッと顔を上げ、ハントケ役の俳優をにらみつける。見つめ合う二人の間に、見えない火花が散る。歌舞伎ならば見得を切る名場面となるのだろうが、二人の間の見つめ合いは、そのような美的な型の提示ではない。母親の自殺に至る物語と、それを言葉にまとめ上げようとしたそれまでの語りと、二種類の時間のすべてが、怒ったような母親の目と、困ったような息子の目との交錯に凝縮される。いささか気取った言い回しをすれば、二重の時間が凝視に空間化される濃密な経験となる。「そんなはずはない」のnicht stimmtは、「ふたつの音が調和しない」というのが原義である。
 
  彼女の死の知らせを受け取った翌晩、私はオーストリア行きの飛行機に乗った。席は あまり埋まっていなかった。いつもと同じ平穏な飛行、霧のない澄んだ空気、遥か下  に次々と街の光。新聞を読んだり、ビールを飲んだり、窓から外を見たりするうちに、 私は少しずつ少しずつ、疲れたような、一種無機的な快さを感じ始めた。そうだとも、 と私は何度も思い、静かに、注意深く、その思いを口にしてみた:コウイウモノナンダ、 コウイウモノナンダ、コウイウモノナンダ、コレデヨカッタノダ、ヨカッタノダ、ヨカ ッタノダ。     93f.
 
 ハントケの簡潔なドイツ語を日本語に移し替えようとすると、いつもほとんど絶望的な思いに駆られるのだが、最後の強調文字部分は、凝縮の極限とも言えよう。コウイウモノナンダは DAS WAR ES. コレデヨカッタノダは SEHR GUT. それぞれ三回ずつ繰り返される。単純に訳せば、前者は「それはそのようだった」、後者は「とても良い」となるのだが、特に前者は指示代名詞das と、一般状況の不定代名詞esを過去のコプラでつないだだけの単純文章だが、dasはesの文頭強調表現ともとれる。意味の方向は、「とにかく、それはそうだったのだから、事実を事実として認めるのが肝要なのだ」ということであろう。
 舞台上のモノローグでは、より耳に理解しやすくするためか、テクストの表現を次のように変えていた。 Es war so...Es war so...Es war so...Das ist schön...Das ist schön...Das ist schön... 
 これが絶唱であった。単純な繰り返しは、テクストとして読むよりも、「語り」として体験される場合の方が、遥かに強い衝撃力を持つ。なぜならば同じ意味の言葉であっても、現実の肉体を通した響きとして繰り返される度に、言葉はその様相を変えるからである。繰り返される度に、表層の意味がはぎ取られるからである。テンポは徐々に遅くなり、間は長くなり、語りはつぶやきへと変わり、つぶやきは沈黙へと消えて行く。消えたつぶやきは、消えることによって、更に激しく沈黙の中に響きわたる。
 この点で、テクストのgut(良い)が、schönへと変えられたのは効果的と思える。schonは日常的には殆どgutと同様に使用されるものの、語感としてはより倫理的なgutよりも「美しい」が原義の美的なschonの方が視覚的な印象が強く、意味と響きとがより強くスパークを起こす。そもそも『満ち足りた不幸』という作品そのものが、母親の自殺という「言語喪失 Sprachlosigkeit 7」を克服しようとのハントケの努力の産物であった。亡き母親について「書く」ことが、母親と自分との相互の孤独を癒し、希望へとつなげる「喪」の行為ということになるのだろうが、しかし息子が、「そんなはずはない・音が合わない nicht stimmt」と言った瞬間に、母親と緊張してみつめあわざるをえなかったように、最後の「コレデヨカッタ」とのつぶやきは「ヨカッタ・美しいschön」と繰り返されるほどに、言葉の意味は、むしろ背後の沈黙とぶつからざるをえない。その結果、言葉が陰画として示すうつろな闇が強調される。ヨカッタと繰り返す度に、それを口にする虚妄と絶望感がより強く、より圧倒的になるのである。このような言葉の意味の表層と、背後の闇との間に生じる齟齬こそが、劇的言語固有の説得力を産み出す源である。「朗読」ではなく、「モノローグ」とする所以である。
 ちなみに蛇足の説明をつければ、「喪」の行為とは、決して安易な共感を言いつのることで達成できるものではない。むしろ互いの間に存在する闇を見つめ続けること、そのような不毛とも思える行為を積み重ねること、別の表現を使えば、沈黙の「叫び」を聞き取ろうとする努力、それらこそが、遥かな「癒し」を成就させるために歩まねばならない道なのであろう。
 
1 国立オペラ座1994/95年の収支は、収入が359,972,613シリングに対して、支出が1,26  2,756,831シリングで、約9億シリングの赤字である。 Aus:Österreichischer Bunde  stheaterverband Bericht 1994/95
2 「ネストロイの作品が他のドイツ語圏の國やそれ以外の外国へと広がっていかない最  も大きな理由に方言の問題がある。」 新井裕 『ネストロイ喜劇集』解題。ウィー  ン民衆劇研究会編訳 1994年 行路社 668頁。
3 例えばTheater heute による批評家シーズン・ベストのアンケートで、ブルク劇場は、  パイマン就任以来、86/87 89/90 94/95 の三回も、シーズン・ベスト劇場に選ばれて  いる。参考までに、4月と5月の観劇記録を挙げる。私自身の好みが反映しているも  のの、古典と共に現代作品を精力的にラインナップに取り込んでいるパイマンのブル  ク劇場がかいま見えるはずである。
 4月5日 ベルンハルト『リッター デーネ フォス』 アカデミー劇場
   6日 シェイクスピア『ロメオとジュリエット』ブルク劇場
  10日 オッフェンバッハ『地獄のオルフェウス』ブルク劇場
  12日 ストリンドベリ『死の舞踏』アカデミー劇場
  16日 ハイナー・ミュラー『ゲルマニアの死 3』アカデミー劇場
  18日 ベルンハルト『ドイツの食卓』アカデミー劇場
  21日 ホルヴァート『カジミールとカロリーヌ』ブルク劇場
  23日 バッハマン『インゲボルク・バッハマン 誰?』ブルク劇場
  26日 ベルンハルト『演劇を作る人』ブルク劇場
  27日 ハントケ『不死のための準備』ブルク劇場
 5月8日 ネストロイ 『おふざけをなさりたい』ブルク劇場
   9日 チェーホフ 『プラトーノフ』  アカデミー劇場
  13日 ハントケ 『満ち足りた不幸』  ヴェスティビュール
  14日 タボーリ 『九月の最後の夜』 アカデミー劇場
  17日 チェーホフ 『桜の園』    アカデミー劇場
  18日 ネストロイ 『分裂した男』  民衆劇場      
  19日 ブレヒト 『三文オペラ』  ブルク劇場
  21日 モリエール『人間嫌い』   ブルク劇場
  23日 ブレヒト 『屠殺場の聖ヨハンナ』アカデミー劇場
  24日 イプセン 『人形の家』  ブルク劇場
  25日 ハントケ 『満ち足りた不幸』  ヴェスティビュール
  27日 ハントケ 『予言&自己告発』 アカデミー劇場
  29日 ホーフマンスタール『塔』   ブルク劇場
  31日 ベルンハルト『英雄広場』   ブルク劇場
4 ちなみに最も高い席は500シリング、最も安い座席が50シリング。立ち見は15  シリング。
5 バロック演劇の特質は、生と死、彼岸と此岸、虚構と現実の極端な両義性にある。こ のような「止揚されぬ二元論」の社会的基盤は、エムリッヒの言うように「上層とし  ての宮廷世界」と「市民および農民層」との現実の二元的対立にある。
 ヴィルヘルム・エムリッヒ『アレゴリーとしての文学』道籏泰三訳 平凡社 1993 年 558頁以下参照。
6 参照:丸山匠:「ブルク劇場における保守と革新の構図」 『思索する耳 ワーグナ ーとドイツ近代』同学社 1994年 400頁以下所収。及び拙稿:「クラウス・パ イマンとブルク劇場」専修大学人文科学研究所月報 142号 1991年。
7 Thomas Bernhard: Ritter Dene Voss. In:Thomas Bernhard Stücke 4. suhrkamp
 taschenbuch 1988. なおテクストからの引用は、本文中に数字で示す。
8 この三人は、いずれもパイマンによる1985年までのボーフム・アンサンブルにお ける中心的な俳優であった。Siehe:Das Bochumer Ensemble 1979-1986. Hrsg. v.
 Hermann Beil, Uwe Jens Jensen, Claus Peymann, Vera Sturm. Athenaum. 1986. 
9 没落する金持ちの子供という点では、チェーホフの『三人姉妹』との共通点が考えら れる。Siehe:Siegfried Kienzle:Schauspielführer der Gegenwart. Kroner. 1990.
 S.79.
10 Siehe:Michael Merschmeier: Theatervögel, Bühnengezwitscher, Parasiten,
 Theatermacherinnen Perverse. in: Theater heute. 1986. H.10. S.30.
11 「家族と国家に対する一生涯続く憎しみアイ」Bernhard Sorg: Thomas Bernhard.  Beck'sche Reihe 627. 1992.S.10.
12 「概して日本語はこういう侮蔑・軽蔑・憎悪の表現は乏しく・・・(略)どうして も罵詈語は少ない。」 大野晋『日本語練習帳』岩波新書 1999年 187頁。
13 N・マルコム『回想のヴィトゲンシュタイン』藤本隆志訳 法政大学出版局
1974年
14 トーマス・ベルンハルト『ヴィトゲンシュタインの甥』岩下眞好訳 音楽の友社  1990年 ちなみに169頁以下に、ブルク劇場に対する「罵倒」の言葉がある。
15 詳しくは『ウィーンの曲線 トーネットの椅子』INA Booklet Vol.3.No.1. 1983年
16 Peter Handke: Wunschloses Unglück. suhrkamp taschenbuch. 1974. 引用ページは
   本文中に数字で示す。
17 Gero von Wilpert: Deutsches Dichterlexikon. Kröner, 1988. S.304.
18 「モノマニアックなナルシシズムの傾向が、母親の人生との関連で省察されること  によって、芸術的な距離化の要因が現れている。」 Manfred Durzak: Gespräche über  den Roman.Frankfurt a.M. 1976. S.362.(Aus:Rainer Nagele/Renate Voris:Peter Han dke. 1978. S.55.)
 
 専修大学 人文科学研究所月報 第190号 1999年 1頁〜22頁