秋田県は小坂町にやって参りました。小坂は江戸時代以来の鉱山町、江戸時代から明治初期までは銀山として、その後は銅山として国内最大級の鉱山として繁栄してきた土地。
町のシンボル的建築物、旧小坂鉱山事務所。明治38年建設。木造3階建て、ルネッサンス風の外観意匠による近代建築。長らく小坂鉱山の事務所として使用されていたが、平成9年に町に譲渡され、平成13年に現在地に移築・復原されたもの。
この壮麗な建物の設計者は長く不明とされてきた。現在では小坂鉱山で大工請負を勤めた北湯口勇太郎(1868〜1931)ではないかと考えられている。
「ルネッサンス風」というのは、屋根の飾り窓(ドーマーウィンドウ)と、外壁に連続する窓飾り付窓。この窓飾りはペディメントと呼ばれる。
中央玄関ホールには螺旋階段。3階まで突き抜けている。
透かし彫り。藤田組の「藤」と「田」をあしらった意匠であるらしい。藤田組は長州系のいわゆる「政商」であったが、その一族から後の政財界の大物、久原房之助を輩出。久原はその後、小平波平の日立グループ、鮎川義助の日産グループなど、後年日本の大企業となる企業群を生み出した。その意味で藤田組、小坂鉱山は日本経済史、経営史上重要な企業であり、鉱山なのである。
中庭(パティオ)。
小坂鉱山病院記念棟。明治41年建築の小坂鉱山病院の一部で現存するものが移築・保存されている。同病院は秋田県最初の総合病院であった。
旧電練場表壁
このように、長手のレンガと小口レンガを交互に積んでゆく組み方を「イギリス積み」というらしい。
その後、小坂町立総合博物館へ。玄関ホールに陳列されている黒鉱。当初小坂鉱山は銀山として知られていたが、銀を採っていた土鉱が1898年ごろ枯渇したため、工場払下げを受けた藤田組は経営危機に陥った。この黒鉱は大量に埋蔵していたが、当時は精錬が難しかったのである。窮地に陥った藤田組と小坂鉱山を救ったのは藤田伝三朗の甥、久原房之助であった。彼は大森鉱山から迎えた武田恭作らと黒鉱の精錬に取り組み、ついに成功した。これによって小坂銅山は国内屈指の銅山として再生を果たしたのである。
旧小坂鉄道11号蒸気機関車。大正15年、雨宮製作所製。
旧小坂鉄道ディーゼルカー(キハ2101)。昭和37年富士重工業製。
小坂鉄道社章。藤田の「藤」にレールをあしらったデザイン。藤田組は第二次大戦後、同和鉱業と改称した。
貴賓車。いわゆるVIP用の客車である。
止滝第二発電所建物(復元)。小坂鉱山では発電用に近くの大湯川を用いて明治30年に発電所を設置した。日本の鉱山で電気を用いた例としては足尾銅山に次ぐ、日本で二番目のケースであった。電気は鉱山の社宅や小坂鉄道にも供給され、小坂は当時日本でも最も電化の進んだ地域と呼ばれ、「電気まつり」と呼ばれる祭りまで実施されたという。
現在の小坂鉱山。採掘は既におこなわれていないが、小坂精錬所が稼働中。
坑道入口跡。このような坑道入口が地域一帯に点在している。
鉱山遠景。左に山神社の建物が見える。鉱山には山の神を祀った山神社が作られることが多かった。
小坂精錬所は現在も現役。かつての煉瓦造りの工場舎も現役で稼動しているというからすごい。
鋳造仕上場。明治37年に機械器具の仕上げ、組み立て用の工場として建設された。現在も機械工場として現役である。
花園館。当初工場商店として大正2年に建築。現在の建物は昭和13年に全面改装されたものだが、現在も町内唯一の映画館として稼働中。この時は「ハウルの動く城」が公開されていた。
山の中腹にある元山浄水場。現在でも町に上水を供給している。当時の建物も一部健在。
水道共用栓。小坂鉱山では明治38年に上水道を設置し、工業用水を確保すると同時に、市街各所にこのような共同水道栓を設置し、人々の生活用水も提供した。これは英国製の「獅子頭蛇体式水道共用栓」と呼ばれたもの。
このような近代化施設の数々は久原房之助時代に、小坂を日本のモデル都市にしようという日本版「ユートピア」建設の名残であるといえようか。