こういうテーマで話をします。私は,大学では2年生以上の学生が受講する「金融論」と新入生向けの「経済原論入門」
という科目を担当しています。今日は,そのうち「経済原論入門」の方と関係ある話になります。
経済学がどういうものかを示すには,実証的な数字を挙げて経済について説明する方法もありますが,今日の話はそういう
ものではありません。ここ3~4年の間,大学の経済学の入門的な教科書を作るという仕事をしてきて,いろいろと思うこ
とがあるので,それを話そうと思います。3枚目の半ピラの紙を見て下さい。参考文献の下から2番目に,『入門社会経済
学』という本があります。共著者の1人として言うのも何ですが,そこでの経済学のとらえ方というのは考え直す余地があ
るのではないか,ということで,その2つ上に挙がっている『貨幣経済学(仮題)』という本をずっと書いてきて,今月の
初めにようやく原稿ができて出版社に送りました。ということで,頭の中は経済学の理論でいっぱいで,数字を挙げてとい
うようになかなか切り替わらないということがあります。
(1)大学の経済学の現状
経済活動とは?
1枚目に戻って,これまでの大学の経済学というのがどういうものかを――といってもここでは考え方だけですが――話し
ておきます。その前にまず「経済学とは?」ということで,そこに「経済活動」という言葉があります。経済活動とは何か
ということですが,これは私たちもやっています。物を買って消費する,消費して何か満足を得る,満ち足りた状態になる
。物を買うこと,消費することは経済活動です。私たち個人,経済学では「家計」という言葉を使うことが多いですが,家
計は消費するだけでなく,消費にはお金がかかります。そのお金を稼ぐ,仕事をするということも経済活動です。企業だと
,財やサービスを作り出すということが経済活動になります。財やサービスというのは,よく用いますが,財は形のあるも
の,サービスは形のないものです。財やサービスを生み出す生産活動が,企業の経済活動です。国――「政府」と呼びます
が――も経済活動をしています。公共サービスを提供するということです。
「経済活動を扱う学問」=経済学か?
では,そこに書いてあるように,「経済活動を扱う」ものがイコール経済学かというとそうではなくて,例えば商学や
経営学という分野も経済活動,特に企業の経済活動を扱うわけで,これらと経済学はどう違うかということになります。
商学とは何か,経営学とは何かといったことは,大学の「進学相談会」で聞いてもらえばいいので,ここでは時間の都合
上,省略します。言っておきたいのは,経済学というのは,日本の経済とか,地域の経済とか,そういう全体がどうすれ
ばうまくいくか,どうなっていくのかを考えるということです。商学とか経営学は,企業が中心になります。これに対し
て,そこに「市場システム」と書いてありますように,経済学はもっと広いシステムを扱います。
市場システムが研究対象
市場システムとありますが,経済主体――先ほど言った家計・企業・政府――が相互に出会い,取引する場所は市場で
す。場所と言いましても,外国為替市場のように電話回線の中に市場がある場合もあります。でも一応場所と言っておき
ます。左下に財市場があります。財市場は,私たちがいろいろな物を買う市場です。企業もここで物を買います。上の金
融・資本市場では,お金を借ります。借りるということは貸す人もいます。金銭の貸借です。右下の労働市場は,皆さん
が就職するときに関係します。皆さんは企業に対して,賃金――給料――と引き換えに「働く能力」を売ります。雇用契
約あるいは賃金契約が結ばれるとも言います。財市場では売買が,金融・資本市場では貸借が,労働市場では雇用がなさ
れます。これらの市場においては,政府も取引しますが,基本的には経済主体同士がお互いに自分の意思で関係をもちま
す。民間の人たちが互いに関係し合うということです。これがうまくいくかどうか,ということが経済学では研究されま
す。
今日の話は,経済学と言いましても,主に理論的な話です。そこにありますように,経済学部では,理論のほかにも歴
史,経済の歴史や,政策,経済に関する国の政策も勉強します。ただ,いずれにしても,理論がベースになります。
「経済原論」
まず,想像力,イマジネーションを働かせてもらって,経済学部では,1年生のときに基礎的な理論を勉強します。今
だと大学によっていろいろ名前は違いますが,以前はだいたいそういう科目には「経済原論」という名前がついていまし
た。「冷戦時代の経済学」とありますが,経済理論,大学で教えられる経済理論は,時代の影響を受けます。東西の冷戦
が終わるのが1990年頃なので,その頃までの経済学ということですが,1つはマルクス経済学,「マル経」と呼びます。
もう1つは近代経済学,「近経」と呼びます。
マル経の原論では,古典とされる本というのがありまして,そこに書いてあるように,マルクスの『資本論』(1867
年)です。政治経済の教科書に必ず出てきますが,皆さんはまだ受けていないので,とにかく19世紀の中ごろにこういう
人がいたということです。レジュメにはイラストをコピーしておきました。②のひげがいっぱい生えているひとがマルクス
です。年とってからの顔ですね。顔がわかったからといって意味はないですが,そういう顔だということです。マルクス
というのは,社会主義の元となった思想家として知られています。社会主義というのは,1990年の頃までソ連という国,
今のロシアですが,ソ連のころは社会主義でした。今の中国は一応社会主義ということになっています。北朝鮮は社会主
義です。社会主義だと,経済は全部国が中心になって動きます。国の中に企業がありますが,企業が自分のところで何
を作るかを決めるのではなくて,国が計画を立てて,この工場では何々を作れ,というように指令を出して,生産に必
要な原材料なども全部国から渡します。作ったものは,国がまた全部買い取る形になります。
こういうのは今では想像しにくいですが,マルクスはそういう社会主義の思想家として知られています。そのマルク
スが,市場システムをどう見ていたかということですが,企業が市場システムを利用して利潤追求をしているというこ
とが,注目されます。利潤追求というのは,要するに儲けを求めるということです。企業が儲けを追求するのは当たり
前です。ところが,その儲け=利潤がどこから来るか。物を作って売ると儲けが出る。では物を作るのは誰か。それは
雇われて働く労働者である。ところが,儲けは企業のものになる。労働者が作った物から得られる儲けが,労働者のも
のにならない。だから企業は,儲けを労働者から奪い取っていることになる。これを労働搾取または単に搾取と言いま
す。搾取とは「搾り取る」ということで,労働者から儲けを搾り取るということです。搾取という言葉は,本屋にいく
とよく目にします。日本では「若者が搾取される」と言われたり,南の方の国ではバナナやコーヒーを作る農民がやは
り「搾取される」と言われることがあります。マルクスは,必ずしも搾取そのものが悪いとは言っていなくて,搾取し
て得た儲け=利潤が人々のため,社会のためになるように使われない,企業の中に蓄えられていっそう儲けを増やすた
めだけに用いられてしまうことが問題だといったわけです。だから利潤の部分を,社会的に役立つように使おう,とい
うことで社会主義がいいよという議論をしました。マル経の原論では,どういうふうに労働が搾取されるか,とか,企
業が搾取の結果どんどん拡大していく様子を細かく説明されます。
では,近経の方の原論ですが,こちらも古典とされる本があります。ケインズの『一般理論』(1936年),ケインズ
は⑦の人です。ちょび髭が生えてます。1936年というのが重要でして,1930年代は大不況の時期です。不況になって失業
者がたくさん出て,市場システム,つまり民間に任せておくだけでは,不況は終わらない。ということになり,やはり
国の力を借りなくてはならないということになります。不況になるのは,物が売れないからで,物が売れるには,買う
人がいなければ駄目です。買う人がいなければ,国――経済学ではよく政府という言い方をします――が,財政資金を
出して買えばよい。公共事業というのはわかりますか。国が道路や橋を作るということです。そうすると,国が出した
お金が建設会社にわたり,地元の人を雇うので,地元の人にお金がわたり,それを使うから地域の売れ行きがよくなる
。そういう波及効果を期待して,公共事業をやればよいと言ったのがケインズで,それは近経の原論では,マクロ経済
学というもので説明しています。マクロというのは,「国全体」(メモするときは国全体と書いてください)というこ
とで,どれだけ公共事業をやれば,景気がよくなるかといったことを勉強します。
近経の原論は,マクロ経済学ともう一つミクロ経済学があります。ミクロというのは,「1人1人の」ということで,
最初に言いました経済主体,家計とか企業が,自分たちの利益を最も大きくするにはどうすればよいか,ということを
説明していきます。家計ですと,消費してできるだけ満足を得たい,では,何と何を買って消費すれば,たとえば食べ
れば一番満足できるのか,といったことを考えていきます。以前ですと――今は多少違うのですが――,マクロ経済学
で出てくる政策をミクロ経済学を使って評価するということをよくやっていました。政策を行ったとき,個々の経済主
体の利益や満足は高まるかどうか,ということをミクロ経済学でチェックしようというのです。
こういうのが以前の経済原論ですが,マル経にしろ近経にしろ,市場システムが不十分である,悪い部分があるとい
うことでは共通でした。ただし,マル経は市場システムの悪いところを克服するために社会主義を持ち出すのに対して
,近経の方は市場システムの悪いところがあってもそれは国が介入して,いろいろな政策をやればうまくやっていける
という違いがあります。
1980年代以降(グローバル化+冷戦崩壊)
でもこういう考え方が,だんだんとおかしいと見られるようになってきます。1980年代になると,経済の国際化というのが進んできます。グローバル化とも言います。外国の企業が日本に入ってきて物を売ったり,日本の企業が東南アジアの国に工場を建設したりするということになります。そうすると,こういうことが起きます。マクロ経済学の考え方に従って,公共事業をします。これで景気がよくなるには,公共事業で支出したお金が日本の企業に回って,日本の企業の売り上げが伸びないといけない。そうすれば,日本で生産が伸び経済成長ということになり,人も雇われて雇用が拡大するわけです。しかし,経済が国際化,グローバル化してくると,外国から物が輸入されてきますから,公共事業で支出されたお金が外国の物を買うのに使われることが増えてきます。そうすると,日本の企業から買うのではなくて,外国の企業から買うことになり,せっかく公共事業をやったのに日本の経済にお金が回らないことになります。そこで,先進国では景気をよくするための公共事業というのは,1980年代以降ほとんど行われなくなります。日本では1990年代にやりましたが,それは例外的なものでした。ともかく,そういうわけで,国が出てきて公共事業をやってもうまくいかないということになって,少なくとも,自分の国一国の景気を良くしようとする政策は駄目だということになります。これで,近経の原論で説明されていたこと,市場システムの欠点を国家の介入で補おうというやり方が,だんだん受け入れられなくなります。
それから,ちょうど1990年の前後にかけてソ連がロシアになったり,東ヨーロッパの国が社会主義を放棄したりして,社会主義体制が崩壊します。何になったかというと,みんな市場経済になっていきました。そうなると,マル経で考えられていた市場システムの放棄ということが,現実的な選択肢ではなくなってきます。計画経済で国家が経済の全体を管理しようということは,おかしいとされます。
要するに,マル経でも近経でも,市場システムの悪いところを正そうという点では一致していました。しかし,それを国の力を借りて行うというのは,全く受け入れられなくなるわけです。それで,経済学部で原論を教えていた先生方は,どういう風にしたらよいかということで,一時は自信喪失になっていました。アメリカではもっとすごくて,アメリカにはマル経というのはないですが,ともかく市場に任せておけば経済は一番良い状態になるという考え方(ミクロ経済学の中にそういう考え方があるのですが)が一般的になって,大学で教えられる経済学の理論もそういう考え方に対応したものになっていきました。日本ではそうはならなくて,疑問を感じながらもマル経と近経が教えられていました。また,グローバル化や市場経済化がかなり進むと,今度はそれにともなう弊害,経済格差とか貧困問題が目立ってきて,再び国が出てきていろいろと対策をしなければいけなくなってきまして,そうなるとまた国の役割を考えることが重要になってきます。そこで,「傷ついた状態」で復活,とありますように,経済学部の先生方も少しは自信回復するようになっています。
(2)市場システムに対する3つの見方
重要な問題
大学の経済学の現状というのを,経済原論を中心に話しましたが,でもこれでいいのか,というのが私の考えていることです。「冷戦時代の経済学」とまとめましたが,そこでは市場システムが欠陥をもつことは共通の前提でした。その上で,「市場システムを肯定するか否定するか」ということで,肯定するのが近経,否定するのがマル経ということになっていました。いずれにしても国の力を借りることが前提となっていまして,経済政策でいくか,社会主義までいくかということで分かれていました。でも,国に頼るというのがともかくうまくいかないということになってきまして,重要問題というものが変わってきました。つまり,「どのようにすれば市場システムが人間社会の役に立つのか」という問題が重要になってきているわけです。経済原論というのも,そういう問題を中心に理論的な説明をしなければいけないのではないかと,そういう風に考えるわけですね。
ドイツの経済学の状況に学ぶ
そこで,外国ではどうなっているのかなと思い,ドイツの経済学の教科書を見てみました。ここに持ってきましたが,かなり厚いです。レジュメに『国民経済学説』とタイトルを訳しておきました。第3版で,厚い本なのに結構売れているようです。この本の最初の方を見ると,ドイツでは,まさに市場システムがどう役立つのかという点が重要になっていて,この問題をどう考えるかによって,経済学が3つのパラダイムに分かれていると書いてあります。パラダイムというのは,「研究者がとる観点・手法・スタイル」と書いてありますが,これを説明するとかなり時間を使うので,とりあえず考え方・発想の枠組みと考えてください。ですから3つの枠組みがドイツにはあるというのです。最初に紹介しました私も執筆者になっている『入門社会経済学』は,市場システムの欠陥を考慮に入れる経済学ということで「社会経済学」という名前を付けて,冷戦以後の経済原論のあり方を示そうとしています。これが2004年に出まして,こちらのドイツの教科書は第3版で2003年ですが,私としてはドイツに先を越されたなという気がしています。以下では,このドイツの教科書に沿って3つのパラダイムについて分かりやすく説明しますが,もしも日本でもこういう見方が今後浸透していけば,皆さんはいち早くそれに触れていたことになります。ま,それは大風呂敷というか,希望的観測というか。
<1>新古典派パラダイム――経済と言えば「交換」
最初は新古典派パラダイムですが,「新古典派」というのが何なのかは本当は説明がありますが,それは省略しまして,そういう名前だというだけでいいです。ともかく経済を「交換」として見る見方,交換経済などと言われますがそういう見方をするというものです。わかり易い喩えがありまして,「捕虜収容所の論理」と言います。捕虜収容所と言いますのは,戦争で敵の捕虜になった人が入れられるところです。そこで生活を送りますので,日常生活に必要なものが配給され1つのパックにまとめられているとします。そこに手書きで書いてありますが,「石」は石けん,「煙」はタバコです。捕虜Aはタバコを吸わない人で,捕虜Bは配給される以上にタバコを吸いたい人であるとします。でも捕虜Aは石けんならばもっとあってもいいと思っていて,捕虜Bは多少不潔でも気にしない人で前にもらった石けんがまた残っていると,そういうように考えまして,こういう場合,捕虜Aは要らないタバコをBに渡して,換わりにBは石けんをAに渡すと,お互いに利益があります。交換すると互いに利益になるということです。利益と言うのは満足が大きくなるということ,それぞれの満足が大きくなります。片方は,タバコを吸えて満足できますし,もう片方は清潔の面で満足できます。経済学では,こういう風にして満足度が高まることを,効用が高まるという言い方をします。この場合にはAもBも満足度が高まり,したがって社会全体としても満足度が高まります。
新古典派パラダイムでは,市場システムがやっているのは,結局,このような交換なのだと考えます。市場が出てくるとどうなるか,と言いますと,車の製造企業が車を作ります。それを市場で売って,そのお金で換わりに鉄材を買います。そうすれば,その鉄材で車を生産できます。鉄材というのは単純化しすぎですが,ここで言いたいことは車と鉄材とがやはり交換されているということです。ただし,車の企業と鉄材の企業が直接に交換しているのではなく,市場を通じて結果として交換しているという形になっています。車の製造企業は,作った車を全部持っていても意味がなく,製鉄企業が作った企業は鉄材を全部抱えていても意味がないです。車は製鉄企業のところにいって鉄材の生産に使われ,鉄材は車の製造企業のところにいって車の生産に使われます。こういうのを「資源の最適配分」と言いまして,車という資源が製鉄企業のところへいき,鉄材という資源が車を作る企業のところへいっています。
ここでは2つの財しか挙げてありませんが,市場システムではありとあらゆる財が市場を通じて,必要なところへ必要な量だけうまく配分されていきます。このとき,価格――物の値段ですね――が重要になります。価格が高いということは,その物が不足しているか,欲しい人が多いかを表しています。人々が望む量に対して,物が実際にある量がどれだけか,これを希少性と言いまして,つまり望む量これが「需要」ですね,実際にある量は「供給」ですね,需要に対して供給がどれだけの割合であるかということが希少性です。需要が増えて供給が減れば,希少性が高まり,価格は上がります。そうすると,どんどんその物を作ろう,提供しようという企業が増えてきます。つまり,価格を見て経済主体は,もっと買おうとしたり,もっと売ろうとしたりします。こういうのをシグナルと言います。価格がうまく動いて,これに経済主体がスムーズに対応していくとき,市場システムはうまくいっていることになり,資源の最適配分がもたらされます。
資源の最適配分という言葉は難しいですが,国の政策などで経済学者が報告書を出したりするときには,よく出てくる言葉です。例えば,小泉政権のときに規制緩和を推進しようというときには,従来からの規制があるために,あまり必要でないところに多くの資源が配分されている,資源配分の最適化が妨げられている,といった言い方がされます。
<2>古典派パラダイム――経済と言えば「労使関係」
2番目は,経済と言うときに「労使関係」をまず見ようという考え方があります。これは,経済を資本主義として見るものです。資本主義とは何かというと,自営業ではないものです。農家だとか,うちが個人商店だとかいうのは自営業ですが,自営業だと人に雇われるということがありません。自分が持っている土地で農業をやり,自分の店で商売をやります。経済の中で「資本主義」というと,雇用関係,人に雇われるという関係があるということを意味します。労働者,働き手ですね,労働者は労働というサービス――目に見えないものがサービスですが――つまり労働サービスを提供する代わりに,企業から賃金を受け取るというのが,雇用契約あるいは賃金契約です。この取引は労働市場でなされます。市場システムの中で労働市場が独特なものであることを考えて,そこから市場システム全体がどうすればうまくいくかを考えていくのが,古典派パラダイムの考え方です。
注目されるのは,というか重要なのは,賃金です。普通は給料と言います。賃金は高い方がいいのか,低い方がいいのか,というとどうでしょうか。まず,個々の企業にとってはそこで働く人の賃金は安い方がいいという面があります。どうしてかと言いますと,賃金は費用――人件費ですね――,費用ですからこれは抑えれば,企業の儲けがそれだけ増えます。でもあまり抑えすぎるとどうでしょうか。全部の企業が賃金を減らしてしまうと,今度は買う人がいなくなってしまいます。企業部門の全体から見ると,賃金というのは需要になるので,企業にとって見れば高ければ高いほどいいということになります。つまり,費用としては安い方が,需要としては高い方がいい。じゃ,どのくらいが一番いいかというと,なかなか難しいわけです。
賃金をめぐっては,もう1つ話があります。こちらの方が労使関係らしい話です。企業は,生産性を上昇させようとします。生産性は,「生産量/労働支出」(板書)と定義されます。生産量というのは,例えば1日に100個。労働支出は,これを何時間働いて作ったか,例えば5時間としますと,生産性は100÷5で20となります。1人の人が1時間働けば20個というのが,生産性――この場合は労働生産性――です。同じ5時間で,例えば200個作れれば,生産性は2倍です。また同じ100個を1時間で作れるようになっても,生産性は上がります。企業としては,生産性を上げれば,同じだけの人を雇って賃金を払ったとしても,たくさん物が作れますから,儲けが増えます。しかし,その場合,たくさん作ったとしても,それを買う人がいるかどうかという問題が出てきます。そこで,さっきと同じで,生産性を上げたら,賃金も上げていかないと,結局は儲からないということになります。需要供給ということで言うと,生産性を上げて供給が増えたら,賃金を上げて需要も増やしていかないとうまくいかないことになります。この関係は,労使つまり労働者と経営側との間の取引になります。と言いますのは,生産性を上げるということは,働く側にとってはあまりいいことではない場合が多いんです。つまり,今までよりも仕事のペースに余裕がなくなったり,今までの慣れた機械の代わりに新しい機械の操作を覚えなければならない,といったことがあります。そこで,この点が取引に考慮されます。企業からすると,賃金を引き上げる代わりに,生産性の上昇に協力してもらう。労働者は,協力する代わりに,賃金を上げてもらうという形です。
この取引がうまくいけば,労使はともに利益を得られます。こういうことは,実際にやられていまして,日本ではかつて春になると賃金交渉がいっせいに行われ,春闘というのをやっていました。春闘方式というのがあって,労働組合と経営者側とでは,その前の年の生産性上昇に合わせて賃金上昇を決めるという形で賃金交渉をやっていました。
<3>ケインズ派パラダイム――経済と言えば「貨幣の貸し借り」
3番目は,「経済」といったとき,まず貨幣の貸し借りだとする考え方です。貨幣とありますが,要するにお金です。お金と言ってもいいのですが,経済学ではお金というと困ることがあって,貨幣という言葉をあえて使います。それは,かつて,金(きん)がお金だったことがあり,金本位制においては「金こそがお金である」というふうになって,お金は単に「金(かね)」とも言うので,金(きん)だか金(かね)だかわからなくなります。これは日本だけではなくて,この学校では第2外国語をやっているそうなので,わかるかもしれませんが,例えばフランスだと,お金のことをd’argent(ダルジャン)と呼ぶ言い方があって,d’argentというのは金属の銀のことですから,銀がお金であるというのはやはりややこしいので,フランスでも経済学でお金というときには,monnaie――英語のmoneyですね――という表現を使います。
ここでは貨幣という言い方を使いますが,貨幣の貸し借りが重要だということですけど,実は,既にある貨幣が貸し借りされるというだけでなく,貨幣が生み出されて経済主体がそれを使うまでの間にも貨幣の貸し借りが絡んできます。つまり,現在の市場システムにおいては,銀行とその上に中央銀行というのがあって,その両者――銀行システムと呼びますが――が貨幣を民間の経済に供給しています。企業が生産をして,それに必要な貨幣を銀行から借ります。銀行は,企業に貸出しをするとき,企業の預金口座に振り込むという形をとり,その段階では預金口座に数字を記入すればいいので,現金はいりません。しかし,預金のうち引き出される部分がありますから,銀行はその部分を現金でもっていないといけないことになります。この現金――日本で言えば日本銀行券,お札です――を銀行は中央銀行から借りてきます。中央銀行が銀行に現金を貸さないと,銀行は企業に貸出しできないということになります。こういう関係がうまくいっていれば,市場システムはいろいろと利益を生み出してくれるというのがケインズ派パラダイムです。
その中で重要になってくるのが,企業の投資です。投資というのは,お金を増やそうとして何かを買うことです。増えていくものは,資本と言います。投資にもいろいろあって,在庫投資などというのもありますが,ここでは設備投資ということで考えてください。設備投資というのは,企業が工場を建てたり,機械やそれこそ設備を買ったりすることです。投資が行われますと,生産が増えます。また生産を増やすためには人を雇ったり,いろいろな物を買い揃えて他の企業にお金がわたっていきます。そうすると,経済全体にお金が回っていって景気がよくなります。ですから,投資が行われると,みんなが利益を受けます。そこにいくつか,文章で書きました。「貨幣がなければ,経済成長も雇用もない」とありますが,経済成長というのは生産が伸びるということですから,生産が伸びて雇用が増えるということです。その貨幣は銀行から供給されます。ですから,「銀行システムによる貨幣の貸出しがなければ,民間に貨幣は出回らない」ということになります。
しかし,これもまたいつもうまくいくとは限らないんで,特に銀行システムから民間に出ていく貨幣が質の高いものでないと,人々が貨幣を受け取らなくなるという問題がでてきます。貨幣の質が高いというのは,物価が安定しているということです。物価が高くなると,同じ金額の貨幣で買えるものが少なくなって,貨幣の質が下がります。物価が高くなって貨幣の質が低下することをインフレ(インフレーション)と言いますが,これは貨幣が出回りすぎることによって起きます。インフレっていうのは,最初のうちは企業にとっていい面があります。作った物が高く売れますから,儲けも増えます。しかし,インフレが続くと,原材料を買ったり,新しい機械を買ったりするときに高い値段になるので,損をしてしまいます。だんだんと企業の資金管理が難しくなって,インフレが激しくなると企業が活動できなくなってしまうことがあります。反対に,何年か前の日本はデフレ(デフレーション)で物価が下がることが問題になっていましたが,デフレは作った物が安くしか売れないですから,これも企業にとってはよくないです。そうすると,「インフレやデフレを避けることが,経済全体の利益になる」と言えます。
(3)それぞれの見方から経済を眺める
経済学には3つの見方=パラダイムがあるということを説明しましたが,3つの違いというのはわかり易いですよね。経済と言うとき,経済学者によってはそれを交換と見たり,やはり労使関係が重要だと考えたり,そうではなく貨幣の貸し借りなのだとしたりするということです。こういうふうに考えて,それぞれの見方から経済問題が議論されていくわけです。ただ,どの見方をとりましても,市場システムから――利益ですね――経済全体,国民全体にとっての利益を引き出すには何が大切かということを考えているわけです。これに対して,普通の人というか,経済学を学んでいない人だと,例えば経済のその時々の状況に対して違った思いをもちます。例えば不景気のときだと,「こう景気が悪いと,先行きの生活が不安だ。だから政府が何か援助をしてくれ」,逆に景気が好いときだと,「好景気なので,いまのうち儲けておこう」といったようになります。こういうのは,どちらも,市場システムがどうなっているのか,ということは考えないわけです。むしろ,ともかく政府に何とかしてほしいというように,自分と政府の関係を考えてはいますが,間に市場システムが入るという形では発想していません。また,「いまのうち儲ける」というのは,他の人を出し抜いてチャンスをつかもうという発想で,市場システムをうまく活用して共通の利益を皆で得ようとは考えていないことになります。
経済学者が問題にすること
それに対しまして,経済学を勉強した人,あるいは触れたことのある人であれば,市場システムというのを間に入れて考えることができます。3つのパラダイムそれぞれから,次のような点が問題にされます。まず新古典派パラダイムからは,「価格メカニズムがうまく働いて,効率的に資源が配分されているだろうか?」という点に目がいきます。古典派パラダイムであれば,「生産性は上昇しているだろうか?それに見合った賃金上昇は実現されているだろうか?」ということになります。またケインズ派だと,「貨幣の供給は安定しているだろうか?また貨幣の価値は安定しているだろうか?」という点を問題にします。テレビのニュース解説や経済新聞などでは,いろいろなことが言われていて,どれが重要なのかよくわからないし,何かとりとめなく意見が言われているように見えますが,この3つの見方のどれかだということになれば,わかりやすいのではないかと思います。
それぞれの立場から言われていることがうまくいっていれば,市場システムはうまく活用されていることになり,ちょっと大げさな言い方ですが,人間社会全体に利益をもたらすといえます。市場システムは人間が作り出したもので,自然界にあるものではないですから,放棄してしまうこともできます。しかし,うまく活用すれば皆の利益になるのにそれを使わずにいるということは,よいことではないという議論が成り立ちます。だから,国を挙げて市場システムをうまく働かせることが行われています。3つの方向で政府と中央銀行――中央銀行は政府に準じる公的な機関です――が政策を行っています。企業集中排除政策とあるのは,1つの市場を少数の企業が動かしてしまうと価格メカニズムが働かなくなり,最適な資源配分が妨げられるということでとられる政策です。独占禁止政策とも言います。また右の方には労働組合と経営者団体という労使の組織が書いてあります。労使の間での交渉がうまくいけば,生産性上昇と賃金上昇を同時に実現できるかもしれません。それを政府がうまく誘導するのが所得政策です。あと,市場システムを貨幣経済と見る立場からすれば,中央銀行が行う金融政策が重要になります。これによって,インフレやデフレを抑えるというものです。
[この後,予定ではバブル経済・平成不況・格差社会というテーマに即して,3つのパラダイムはどう見るかということを話すことになっていましたが,時間がきたのでそれはできませんでした。]
まとめ
時間がきてしまいましたが,平成不況や格差社会についてそれぞれのパラダイムからどう見るかということですが,一通り書いてありますので,読んでください。今日の話は,要するに,市場システムというものについてどう考えるかというのが経済学だということです。今日の説明でも,経済学がどういう考え方をするかということはかなりわかったのではないかと思います。今日のはあくまで理論の話なので,現実の経済だと,うまくいっているかどうかを判断すること自体がけっこう大変なことですし,だから経済学者がいろいろ研究しているわけです。あと,経済学部に入ると,このような理論の話だけではないし,今日の話で全く出てこなかった国際経済とか,環境経済学とかそういうことも経済学部では学びます。また,それこそ,現在の企業がどんな様子なのかとか,そういう経済事情のようなことを扱う授業もあります。ただ,やはりできれば興味をもって勉強できるというのが一番いいのでして,そう考えますと,今日お話したような理論的な見方――発想ですね――に馴染める人,興味をもてる人は,経済学を勉強するのに向いているとは言えると思います。今日の話が皆さんの進路選択の1つの材料となればいいかなと思います。
<時間の関係上省略した最後の部分の,当日のレジュメ(図表は略)>
■事例1:日本のバブル景気(1980年代後半)
・価格は希少性のシグナルとして役立っていたか?
――土地価格は明らかにNo. しかし当時は,「日本経済の国際的地位上昇」を理由に,これが正常と考えられていた。
・生産性上昇と賃金上昇は?
――生産性上昇は停滞していたが,売り上げの増加がカバー。人手不足で賃金は上昇。よって,労使ともに問題があるとは見ていなかった。
・貨幣の供給は?
――異常な低金利が続き「金余り」。一般の商品の物価は安定していたので問題なしと見なされ,資産インフレ(株・土地など資産価格の持続的上昇)への対処は遅れた。
■事例2:平成不況(1990年代) ……うってかわって,犯人捜し,不況対策の提案がなされた。
新古典派 → バブル景気の中で,危機感なくな
り,日本経済の効率性が低下。
→ 規制緩和をし,価格メカニズムを
十分に働かせよ。
古典派 → 既存の消費分野は飽和状態。
→ 新たな消費分野(IT・福祉など)
を軸に,労使妥協の再構築を。
ケインズ派→ 金融システムの機能不全が問題。
→ 不良債権問題の解決を。
■事例3:格差社会
新古典派……機会の格差は問題。価格メカニズムが働く結果としての所得の格差は問題ではない。セーフティネットを整備することが重要。
古典派………生産性と賃金の好循環が確立されないと,企業にとっても打撃。結果としての所得の格差も問題。
<参考文献>
Heine, M./Herr, H.[2003] Volkswirtschaftslehre. Paradigmenorientierte Einführung in die Micro- und Macroökonomie. 3., völlig überarbeitete und erweiterte Auflage. R.Oldenbourg Verlag 2003.
加藤創太・小林慶一郎[2001]『日本経済の罠』日本経済新聞社。
金指基(文)・川田あきひこ(絵)[2001]『経済学入門』(第2版)現代書館。
坂口明義[2008]『貨幣経済学(仮題)』ナカニシヤ出版。
橘木俊詔[2006]『格差社会』岩波新書。
宇仁宏幸・坂口明義・遠山弘徳・鍋島直樹[2004]『入門社会経済学』ナカニシヤ出版。
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