アルバニアの悲劇 ーねずみ講事件の背景ー

 

熊坂 静香

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概要:ねずみ講事件に象徴される開国後のアルバニアの経済的混乱に注目し、その政治的、経済的背景を

歴史的に考察。鳳賞(専修大学)優秀賞受賞作。

(c)1998  専修大学法学部法律学科石川一雄ゼミナール1998 年度卒業 熊坂静香

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T プロローグ 1997年の事件−

 

 「騒乱のアルバニア」、「南部で治安悪化」、「アルバニア全土に非常事態宣言発令」、こんな見出しが去年のはじめ新聞を騒がせたことをご存知だろうか。以下は、出来事の簡単な記録である。

 

116日、ブロラ南部の港で騒動勃発。以後各地でデモ・暴動が頻繁に起こる。

119日、抗議を起こした約3000人が、ティラナ中心部で警察隊と衝突。

124日、ルシュニャ南部で約5000人が暴徒化。

126日、数千人が警察前で怒りの行進。政府機関の建物に対する放火、都市部から全土に拡大した。

2 6日、ブロラで3万人以上が街頭デモ。

215日、ベリシャ大統領、ねずみ講組織に誤りがあったことを認める。しかし国による投資者への補償については明言しなかった。国民は暴徒と化し反政府暴動へ。

32日、南部の都市サランダで群衆が警察の武器庫を襲撃、武器を奪い、商店や銀行に押し入る。市街戦で4人が死亡、22人以上が負傷した。人民議会は非常事態を宣言した。

35日、南部で反政府武装勢力が3都市(ブロラ・サランダ・デルビネ)を占拠し無政府状態に陥る。

36日、ベリシャ大統領、反乱軍への軍事行動を各党の要請に押されて停止。

39日、大統領、6月総選挙を受け入れる。

313日、事態鎮圧のため、政府は外国の介入を要請する。

327日、全欧安保会議、多国籍軍の派遣を決定。

 

これはアルバニア経済が破綻し、国民が暴動をおこし、それが反政府運動となって、国が一時期大騒乱となったときの報道である。発端はねずみ講式投資会社の倒産による国民の財の破算であった。

私がアルバニアに興味を持ったきっかけは、この「ねずみ講」という文字であった。よく耳にするねずみ講。日本でも被害者は多いことだろう。しかしそれによって国が大混乱に陥るということは日本ではありえない。それが実際に起こってしまった国、アルバニア。なぜ「ねずみ講」で国が傾いてしまったのだろう。まるで信じられないことが、いったいどのようにして、なぜ起こったのだろうか。そう疑問に思ったのが始まりだった。

それまで私は、アルバニアがロシアの方にあるものだと思っていたほど何も知らなかった。おそらく日本人でアルバニアがどこにあるのか答えられる人は、この事件が起こるまでは少なかったのではないだろうか。

実際、調べてみると、途方に暮れるほどに資料がない。鎖国政策を1990年になるまでとっていたせいかも知れない。日本語の文献となるとごくわずかである。調べたくてもなかなか思うようにいかない国、アルバニア。現代の世界にこんなにも遠い国があるとは、、、私の好奇心はいたく刺激され、未知の国アルバニアを既知の国に変えたいという野望がむくむくと湧き起こってきた。

実際に調べていくと、その歴史はまるでドラマを見ているかのようだった。他の諸民族からの度々の侵略、征服の経験、帝国への隷属、被植民地化、独立、共産化、鎖国、そして開国。ねずみ講での経済破綻に至る背景には、バルカンの小民族がたどった長い悲しい歴史があった。

 もちろん、ここではそのすべてを語ることはできない。現代に的を絞って、鎖国とねずみ講との関係や政治・経済体制の問題をかいま見るだけに過ぎないけれど、それでも、この拙いエッセイを通じて、少しでもアルバニアという国を知ってもらえればと思う。

 

U アルバニア小史 鎖国までの道程−開国後[i]

 

1民族の目覚めと従属の日々

 アルバニア人はイリュリア人の子孫とするのが大方の学者の見解である。イリュリア人というのは紀元前1000年ころにバルカン半島の西部に居住していたインド=ヨーロッパ人である。紀元前5世紀から紀元前3世紀には既に国家を形成していたが、ある一時の権力のピークを迎えた後は(紀元前250231期)、ローマ帝国に征服されたのを皮切りとして、様々な帝国の侵略をうけていた。他国への従属・植民地化の歴史は、それ以来20世紀まで続くアルバニア人の歴史そのものである。そして、この従属の歴史こそが、現代のねずみ講の悲劇をもたらした長い長い紡ぎ糸になっていると私は考えている。

 他のバルカン諸国が18世紀から19世紀前半にかけて民族の目覚めに揺り動かされた時代にも、アルバニアだけは依然としてオスマン=トルコ帝国の下で眠り続けていた。ようやく独立運動が始まったのは、19世紀も後半になってからである。それは、国外でヨーロッパの文化・政治に接した知識人の中から、民族文化復興の気運が起こり、特にトルコ語とギリシア語の代わりにアルバニア語を公用語として認めさせようとする動きが高まったことに表れている。

 アルバニア人がはじめて政治上の自治を要求したのは、この時期であった。1877年のロシア=トルコ戦争の際に発表されたロンドン議定書において、南アルバニアの大部分がブルガリア自治州にふくまれることになったため、これに憤慨した南アルバニアの政治的指導者達が、ヤニナで集会を開き、行政上の自治権をトルコ政府に要求している。

  サン=ステファノ条約においても、アルバニアの大部分は、モンテネグロ・セルビア・ブルガリアに分割されることになっていたので、民族としての存続の危機に直面したアルバニア人達は、1878年にプリズテンでアルバニア人の全土的政治組織を結成した。これは「プリズテン同盟」と呼ばれている。これに対してトルコは直ちに独立運動の鎮圧に乗り出し、この同盟は壊滅した。

  こうして、アルバニア人達の独立運動は、国内の弾圧やヨーロッパ諸国の現状維持政策のために、一時文化運動に後退せざるをえなかった。たとえば、フラジャリ兄弟によってイスタンブルでアルバニア語の雑誌が発行されたり、ルーマニア・ブルガリア・エジプト在住のアルバニア人達も文化・啓蒙活動を展開した。その結果、1887年にコルチャではじめてアルバニア語の学校が設立された。こうした文化復興運動はアルバニア人の民族意識に火をつけ、諸外国に散ったアルバニア人達にも浸透していった。

アルバニア本土の民族運動は、プリズテン同盟が禁止された後も北部で続けられてきたが、20世紀に入りバルカン情勢が緊迫するにつれて、周辺諸国の野心が強まり、事態は複雑化した。オーストリア=ハンガリーとイタリアはそれぞれこのアドリア海の戦略要地に影響力を及ぼそうと対立し、セルビア・モンテネグロは北部に、ギリシアは南部に領土権を主張したが、それにはオーストリア=ハンガリーとイタリアが反対した。

こうした外部からの圧力を前にして、アルバニア人達は武装反乱をおこした。これに対してトルコは、アルバニア語学校の再開・武器携帯許可などの部分的譲歩をおこなったが、戦争でトルコが敗戦したのち、1912年に入りバルカン諸国が同盟の動きを示しはじめたため、分割の恐怖を感じたアルバニア人は自治権を確立する必要にせまられた。そして全国的に反乱をおこし、同年7月には自治要求をトルコにつきつけた。その大部分を認められ、交渉が継続しているさなかに、バルカン諸国とトルコとの間で第1次バルカン戦争が始まり、トルコが敗戦する。それをみたアルバニア人は自治戦術から完全独立要求に方針を転換し、1912年11月28日に独立宣言をおこない、イスマイル=ケマル=ベイを首席とする臨時政府を樹立した。

この独立はバルカン戦争の講和会議であるロンドン講和会議で認められたが、第2次バルカン戦争をへて、バルカンをめぐる諸列強の対立が高まっていたため、アルバニアの南北国境の画定ははかどらず、そのうちに第1次世界大戦がはじまり、決定はそれ以降にもちこされた。

  この時期には、同時に列強によるアルバニアへの干渉も先鋭化した。第1時世界大戦では戦場となり、戦火の拡大につれてアルバニアは周辺諸国に占領され、ほとんど解体状態に陥ってしまった。せっかく独立までたどりつきながら、1914年末にはイタリア・オーストリア・フランス・ギリシア・セルビア・モンテネグロ・ブルガリアの7カ国の軍隊によって占領されてしまう。

  そして戦後は、近隣諸国による分割に直面するが、アルバニア人は1920年に臨時政府を確立すると、ただちに代表団をパリ講和会議に派遣し、諸列強によるアルバニアの分割を阻止することに努め、更なる分割から祖国を救うことに成功する。しかし、それはイタリアの対アルバニア干渉を認めるという苦痛に満ちた選択の結果であった。これに対して、国内では不満がわき起こる。イタリアの占領下にもかかわらず、諸列強の進攻を一切拒否する決議を採択し、暫定的な憲法までも制定し、首都をティラナに移して、新しい政権を樹立した。これに対して、アルバニアからの撤退をしぶっていたイタリアもこの強い抵抗に遂に折れて、同年9月に全面撤退をした。こうしてアルバニアは、その年の12月に独立国家として国際連盟に加盟した。

 

ゾ−クとノーリ

 こうして諸外国からの圧力と戦いながら民族国家独立を果たしたアルバニアだったが、国内的には独立国家にふさわしい一体性を持っているとはいえなかった。貧困と後進性はバルカン諸国の中でも群を抜いていた。

  1920年に設立された議会には2つの政党が存在した。進歩党と民衆党である。前者は中部アルバニア最大の地主ヴェルラ−ジによってひきいられる政党で、土地改革に反対し、古いアルバニアの維持をその目標としていた。他方の民衆党の性格はより複雑で、この党にはゾ−クとノーリという全く異なった指導者がいた。ゾ−クは大地主階級の出身であり軍事的な影響力を作り上げて、権力のみを目指す現実主義者であったのに対し、ノーリは民主的改革を実現しようとする理想主義者であった。

1921年の民衆党政権の際にはゾ−クが内相に、ノーリが外相に就任した。ゾ−クは作り上げてきていた軍隊での影響力を背景に批判勢力を排除しはじめた。これに対し、反ゾ−ク派は武装蜂起を行った。その時ノーリも辞任したが、反乱は準備不足のため失敗に終わった。これを機にゾ−クは反対派を弾圧し、自ら首相も兼任した。しかし24年に行われた制憲議会選挙でゾ−クは絶対多数を押さえることができず首相を辞任。それでも権力に固執しようとしたが、5月に青年アルバニア人同盟の指導者暗殺事件が発生し、背後にゾ−クがいると指摘され、ノーリを中心とする反ゾ−ク勢力が武装蜂起し、ゾ−クはユーゴスラビアへ亡命した。

新しく成立したノーリ政権は、内部対立が激しく弱体であった。ゾ−クは亡命先のユーゴに援助をうけて軍隊をつくり、アルバニアへ進撃した。その結果、ノーリ政権は簡単に倒され、再びゾ−ク政権が樹立され、ノーリはイタリアへ亡命した。ゾ−クは共和国宣言をして初代大統領に就任した。

  ゾークは、政権を強固にするため、外国からの援助を必要とした。ところが、そのために接近したのは、恩のあるユーゴではなく、彼が絶大な信頼をおくイギリスが仲介したイタリアであった。1925年に両国間で通商条約が結ばれたのを皮ぎりに、経済関係が深まり、アルバニア国立銀行も設置され、この時期にイタリア資本がアルバニアにどんどん流れるようになった。また友好安全保障条約・防衛同盟条約も締結され、イタリアの影響力はますます大きくなっていった。1928年にゾ−クは議会を召集し、憲法改正を行い、アルバニアに王制をとりいれ、自らゾ−ク国王となった。

  一方、ゾ−クの独裁にたいする不満勢力も日に日に増していき、国内初の共産勢力が誕生する。この勢力が後のホッジャを生むことになる。

  1930年代に入り、小国のために世界恐慌の影響まともにをうけたアルバニアは、イタリアに財政援助をさらに求めるようになる。これに乗じたイタリアは関税同盟の調印を迫る。国内の支持力を考えてはじめは拒否のポーズをとっていたゾ−クだったが、イタリア艦隊に威嚇されて屈服し、以後イタリアの支配下に置かれることとなった。これは第2次世界大戦でのイタリアの降伏(1943年)まで続き、その後は、194411月までドイツに支配され続けた。

 

共産勢力の誕生

 この間に、国内では社会主義革命を目指すいくつかの共産主義勢力が台頭する。やがて、それらのグループの間で統一の気運が高まり、ユーゴスラビア共産党の指導を受けアルバニア共産党が結成され、反ファシスト国民解放の前線となった。さらに、ここから分離した民族解放戦線や、それとは別の抵抗組織も結成(民族戦線)された。

  イタリアが降伏し、戦争への展望が見え始めたころから内戦が全面化した。この頃には新しい組織レガリティ(合法運動)も設立され、戦いは3つの解放戦線による三つ巴の形で展開された。しかし、1944年春頃にはアルバニア共産党が主導権を握った。その後、1944年10月の反ファシスト国民解放評議会第2回会議で、エンヴェル・ホッジャが国家大統領と国民解放軍司令官に選出された。そして1944年11月29日をアルバニア独立記念日としている。

 ホッジャ氏に政権が移って以後をまず外交関係から見ていこうと思う。アルバニアは戦勝国であったにもかかわらず、アメリカが蔑視したために対アルバニア援助を準備しなかった。これはある意味でアメリカの政策の失敗といえるだろう。この時点でアメリカをはじめとする西側諸国との関係は途絶えている。

 戦後の国家再建には共産党が指導を受けた時と同じように、ユーゴスラビアからの援助をうけて行われた。国家予算の半分もが同国からの贈与によってまかなわれていた。初期コミンフォルムにおいてもアルバニアは同国によって代表されていた。スターリンもユーゴスラビア指導者を通してアルバニア情勢を聞いていたし、また後者にアルバニアを「併呑」することを勧めさえした。しかしユーゴがソ連と対立し(ティトーを首班として独自の社会主義の道を歩きはじめる)ソ連圏を脱退すると、アルバニアは同国との関係を断絶した。

 このころから東欧圏では、「スターリン主義」という画一的な政治・経済体制が固まりつつあった。この体制の特徴としては、社会民主党吸収による共産党の支配権の確立、「小スターリン」への権力の集中、秘密警察による恐怖政治の実施、重工業化へむけての国民生活の総動員、そしてそれら全てへのソ連の介入ということが言える。こういった政策は多数の有能な当指導者の処刑、追放をうみ、5ヶ年計画の中で重工業が最優先され、農業・軽工業・国民の生活水準は無視された。一方でこうしたソ連方式の模倣は、アルバニアにとって(バルカンの後進諸国にとっても)長年の夢であった工業国化への道を、暴力的な形であるとはいえ、用意したことも否定できない。

 194951年にかけては、コメコンとの関係を強化し、農業よりも工業に比重をおいた経済発展に力を注いだ。スターリンモデルの適用である。

 5155年、5660年の各5カ年計画期には、ソ連・東欧諸国からの貸し付けによってかなりの経済発展があり、GNPは6倍にも増えた。

 順調にスターリン主義の道を歩んできたアルバニアであったが、スターリンの死後、思わぬ衝撃をうけた。1956年に当時のソ連第1書記フルシチョフが第2回ソ連党大会で大胆なスターリン批判を行ったのである。東欧各国においてもそれぞれ動揺が走った。アルバニアにおいても、派手な動揺はないものの、然りであった。また、ソ連=ユーゴ間の関係が修復されてきたことも、アルバニアには衝撃を与えた。これに対し中国は、ソ連のとる路線を「修正主義」として厳しく批判し、ソ連と対立し始めた。これが中ソ論争である。そしてアルバニアは、この批判に東欧の中でもひときわ大きく賛同した。

 1959年にはフルシチョフがアルバニアを訪問。その際社会主義国際分業論を背景にした貿易政策の強要=アルバニアが熱帯性果物と工業用作物の生産に特化するように要望したことから対立した。1955年頃からソ連が対アルバニア援助にあまり関心を示さなくなっていたこともあって、中国=アルバニア関係は5859年にかけて、親密度を深めていった。

そして1961年には、ソ連がアルバニアへの経済援助を撤回し、専門家も引き上げた。ユーゴと国交を断絶してから経済再建への援助をソ連に頼っていたため打撃は大きかったが、その代わりに中国が援助を引き受けた。1967年に入ると中国の影響を強く受け、中国よりも少し遅れて「文化大革命」が波及した。その内容は、幹部=知識人の肉体労働の強化、幹部の交代制実現、賃金格差の縮小、英雄をたたえる文化活動、軍隊内での政治学習の強化、軍の階級制の廃止と政治委員の復活、その生産労働への参加などである。中国のような「造反有理」の気風は見られず、一般に政治面・思想面での規律の強化という性格が強かったようだ。

1968年にソ連がチェコスロバキアに軍事介入するのを見て自国への軍事介入をおそれたアルバニアは、ワルシャワ条約機構から脱退し、中国との軍事面での関係も強化した。また、この事件をきっかけに同じような軍事的脅威にさらされていることを発見したユーゴスラビアとは、翌年から長く閉ざされていた関係を改善し、貿易の増加・観光団の訪問などそれまでとは打って変わった関係を展開した。

 1971年にニクソン米大統領が中国訪問発表後、ホッジャ氏はこれに対して異論を唱える一方で対外関係を多角化することも示唆した。しかし翌年中国が対アメリカ政策の転換を発表すると、これまた修正主義と批判し、両国の間に亀裂が走った。そして、78年に中国は対アルバニア援助を中止し、国交は断絶した。ここにおいてアルバニアは鎖国政策をとる国となった。

この間、ホッジャ路線に対して1つも批判がなかったわけではない。修正主義として批判し関係を絶ったユーゴがスターリン死後のソ連と再び接近した時や、スターリン批判が行われた際には、国内ではホッジャ批判が堂々と行われていた。こういった中でホッジャが政権を維持できたのは、自由主義的知識人の少なさ、反ユーゴスラビア的民族主義、それにハンガリー動乱後のソ連圏内の引き締め気運であった。ホッジャ氏は「修正主義批判」を強力に展開していった。

自由主義的知識人の少なさというのは鎖国を可能にした要因の1つであるといえるだろう。もし、彼らが多く国内に存在していたならば、国民が社会主義以外の風を知っていたならば、鎖国という事態にはならなかったのではないだろうか。また、地理的に最も困難な場所にあり、かつバルカン諸国の中で1番民族意識の目覚めが遅かったアルバニアでは自国の領土を守るということに対して大変強い意識を持っていると考えられる。もちろん要因の1つにすぎないが、日本が他国からの侵略をおそれて鎖国政策をとったのとは反対に、長い侵略の歴史の末に鎖国を選んだとはいえないだろうか。

最後に何故鎖国体制を維持できたのかを考えてみたい。中津孝司氏は、その原因として、まず経済的貧困とナショナリズムの二つを挙げる。[ii] それは、極度の経済的後進性ゆえに、指導者は対外依存度を減らして、国民に対して劣悪な生活を強いることができたということであり、外敵の脅威ゆえに民族的一体感をあおらざるを得なかったということである。

後者のナショナリズムは、アルバニアのみならずバルカン半島諸民族における共通項といえる。バルカン半島では、少数民族が互いに協力して大国の介入を回避しようと努力したことは少なかった。歴史的にも大国の支配下に陥った時代でさえも、ナショナリズムが消滅することはなかった。アルバニア人も民族的意識が強い。したがって、各国が民族的統一に精力を投入したために、かえって個人の自由という近代国家の理念を実現する精神的余裕に乏しかった。そして、バルカン半島は世界の火薬庫とまで呼ばれるに至った。ナショナリズム高揚の極端な民族がアルバニア人なのだ。

 三つ目は3大国による干渉である。バルカン半島はヨーロッパ、アジア、アフリカの各大陸が交差する戦略的要塞である。時代の大国が勢力拡張を意図する時には、バルカン半島を巻き込まざるを得なかった。ローマ帝国、ビザンティン帝国、オスマン=トルコ帝国、ハプスブルク帝国は無論のこと、ファシストにとっても同様であった。つまり、バルカン史とは大国による侵略の歴史といっても過言ではなく、その大国に対するアレルギーがアルバニアでは鎖国政策となったということである。

 こうしてみると、第一の鎖国理由は、まさに単なる「ホッジャ氏のエゴ」から生まれたものであり、アルバニアの悲劇としか言いようがない。鎖国政策がホッジャ氏ひとりの政権維持のための延命措置であったとは考えたくもないけれど、しかしそう考えることによって、事態の展開がスムーズに読めてくる部分があると中津氏は言っている。そして第二、第三に関しては、私自身も考えついた鎖国への結論であり、この2点は開国後も糸を引く要因を作り出しているのだと思う。

 

4 東欧へ押し寄せる波とアルバニアの混乱

民主化の波は東欧にもやってきた。1989年にポーランド・ハンガリーが政治改革を行い(いわゆる東欧革命)、アルバニアはここでもまた後れをとる。しかし、そのために民主化への要求はどこよりも強くなった。アルバニアに採っての課題は、こうした要求に応えて、改革をスムーズに実現することだった。政府労働党にとってチャウシェスクの二の舞だけはどうしても避けなければならなかった。

1990年7月2日、アルバニアでは民主化要求に端を発した外国への大量亡命事件が起こった。これは政府が海外渡航自由化を布告した直後の出来事である。ティラナにある各国大使館に多くの国民が駆け込んだ。国民は一党独裁を続ける労働党にもはや我慢できなくなっていたのだ。この事件で政府は大使館に駆け込んだ国民を非難しながらも、亡命希望者を出国させることによって穏便に解決した。しかし6日になって、反政府デモが再発し、大規模な民主化要求デモへと発展した。

これに対しては、政府は迅速な対応を示した。ただちに最低賃金の10−20%引き上げ、一律給与体系の廃止、そして能率給制度導入等を発表、更に外資導入にも踏み切った。憲法も改正された。内容は、「人民社会主義共和国」から「人民共和国」への名称の変更、宗教の解禁、法の下の平等、大統領制、複数政党制の導入等である。

しかし、よく見れば、大統領は人民議会で選出され、直接選挙ではない。しかもスターリン主義との決別は宣言しているが、社会主義までは否定していない。あくまでもこの枠内で=労働党の指導力の範疇でというものであった。これでは、国民は満足しなかった。

1990年末から翌年2月にかけて暴動が再発した。彼らの要求は労働党の退陣である。事態の深刻さをうけて、アリア氏は自らが国事の責任を負うと言明し、自らが大統領になることを示唆した。そして首相に改革派のナノ氏を指名するなどして譲歩の姿勢をみせ、収拾を試みた。加えて91年3月3日には経済事情悪化を考慮して食料輸出を中止するとともに、外交・貿易関係のスタッフを半減するとの政府声明が公表された。ところが、軍事クーデターをねらう軍保守派の動きや改革派と保守共産主義者との間の衝突も加わって、アルバニアが戦後最大の危機に直面することとなってしまった。3月上旬には事実上の非常事態宣言が発令されるまでに事態は泥沼化してしまったのだ。

 アルバニア国民は労働党による都合の良い限定的な民主化ではなく、民主主義にのっとった新しい政治体制の構築を望み暴動を起こしたのだった。ホッジャ氏の死後、徐々にその路線から離れ、開国へと導いた点においてはアリア氏は評価されるべきだと考える。しかし、労働党が政権の座にある限りは、国民の不満は解消されないのであった。

 このような事態のなか、31日におこなわれた戦後初の複数政党制人民議会選挙で、社会党(旧労働党)が勝利する。しかし、首都ティラナではアリア氏をはじめとする社会党幹部が続々と落選し、都市部では民主党が圧勝するなど波乱の様子も示された。それでも社会党が3分の2以上の議席を占めたために、人民議会においてアリア氏が初代大統領に任命され、アリア氏はナノ首相を再任命した。しかしこれは全く新鮮味のない社会党単独政権であった。このような政治の動きに国民は再び爆発した。5月に労働者35万人がゼネストをおこなったのだ。はじめは単なる労働者のデモと静観していたのだが、やがて反政府デモへと発展し、国内はまたもや大混乱へと陥った。これをみてナノ首相は総辞職し、翌春に総選挙を行うことを断言した。これにより、ようやくゼネストは終結した。これは国民がゼネストという形式をつかって不信任決議をだしたともいえるだろう。

 翌92年3月に約束通り総選挙が行われ、今度は民主党が3分の2近くの議席をとり、圧勝した。大統領はアリア氏からベリシャ氏に変わった。しかし地方統一選挙では、都市部では民主党が勝ったものの、農村部では社会党が優勢であった。ともあれ、これにより、ようやくきちんとした民主化への道が開かれていくものといえるだろう。ここに至るまで民衆の力はとても大きかった。国民の期待を裏切らないためにもベリシャ氏率いる民主党はそうしていかなければならない義務がある。

 

V 鎖国期の政治と経済

さて、鎖国政策をとり、完全に孤立してしまった時期、アルバニアの政治・経済機構はどのような仕組みになっていたのだろうか。

 

政府と党の役割・経済

 鎖国へと向かう中で、アルバニアは労働党の一党独裁を憲法に明文化し、マルクス=レーニン主義からの逸脱を一切許さないとした。197612月にアルバニア新憲法が可決され、国名を「人民共和国」から「人民社会主義共和国」に変更している。また、労働党第1書記に軍隊および国防会議の最高司令官のポストを兼任させ、労働党と軍とを直結し、党の管理下に置いた。外国軍の国内駐留は一切禁じられ、さらに完全な社会主義社会建設を宣言して、私有財産の廃止、外国企業との合弁事業をはじめとする外資導入の禁止、宗教の禁止も唱われている。国民には憲法53条で言論・出版・組織・団結・集会・デモの自由が認められ、56条から58条では人間と住居の不可侵並びに通信のプライバシーを保護しているが、実際には「社会主義的秩序に反する権利の行使を認めない」とされ、自由はかなり制限されていた。

この憲法を可決した人民議会は国権の最高機関とされているが、実際には党政治局が決定した内容を承認する場に過ぎなかった。そして人民議会最高会議幹部会議長が国家元首となっていた。このような憲法体制のもとで、ホッジャは秘密警察使って、路線に反対する者、逸脱者を粛清しつつ、純粋社会主義の道を歩いて行った。

 一方、こうしたスターリン主義路線は、経済的には工業化を急速に促進する効果をもった。事実、産業構造の高度化は推進され、第2次世界大戦以前の水準と比べると国民の生活水準も大幅に改善された。とはいえ、本来、この国の主たる産業は農業であった。この農業も、第二次大戦後の大規模なプロジェクトによって新規技術導入や機械化を進めてきたこともあって、1976年には穀物が自給できるまでになっていた。

 しかし、いずれにせよそれは1976年までのことであった。鎖国政策はこうした経済発展の流れを止めてしまい、深刻な経済危機をもたらしてしまった。鎖国によって経済援助が停止してしまい、新規技術の導入が全く実施されなかったためである。

また、45年間に亘る労働党の一党独裁政権の下で、政治だけでなく経済についても党による決定によって動いていた。中央(=労働党)による計画が市場メカニズムの代役であり、4層からなる意思決定のヒエラルキーが制度化されていた。需要と供給といったものは無視され、賃金・価格・投資・輸入といった事項もすべて国家によって決定された。こうした点が、計画経済の破綻を引き起こしたのだった。

第7次5ヶ年計画(198185)の間に生産力の成長率はゆっくりとしかし着実に下がっていった。そして、198188間では。毎年の純的物質生産の増加率は平均してわずか1.7%だった。それは、アルバニアの2%という人口増加率にも追いつかないというほどである。8485年、8788年では、純的物質生産が減り、86年から90年においては、1.4%にまで落ち込んだ。83年と88年間の干ばつは農業と水力発電の生産を妨げた。電力は不足した。

また、ほかにも深刻な問題が発生していた。アルバニアの主要な硬貨収入源である2つ、すなわち、石油とクロム業界の苦境である。生産は落ちこみ、投資は縮小され、生産のさらなる低下を引き起こしていた。返済不能な企業は国家に救済を求めた。経済における品物不足と政府が維持する固定賃金がインフレを引き起こし、国民はもはや耐えられないほどの倹約を余儀なくされていたのである。

 ホッジャ−アリア政権末期において、もはやアルバニア経済は崩壊寸前だった。

 

2 経済の問題点−アルバニアという国の特殊性−

 第T章の中でも触れたが、アルバニアは他のバルカン諸国が改革に目覚めた19世紀にようやく民族意識が芽生えた国である。その後の東欧革命の波もいちばん最後に押し寄せた。全てにおいて後発であるという点が周囲との間との焦りをうみ、改革への圧力は大きくなり、急激になされなければならないという事態へとつながっていった。

 しかし、アルバニアは長い間の従属の日々とその後の鎖国体制ゆえに、自律的な民主主義を育む歴史ををほとんど持つことができず、少なくとも庶民のレベルでの対応能力の欠如は致命的と言えるほどであった。こうした状況を総括して、中津孝司氏は「この変革速度と過去の経験の欠如のために、体制転換に対する準備が不充分なものになった」と記している。[iii]

 まさにその通りと思われる。私はこの一文にねずみ講が起きた要因がぎゅっと詰まっているように思う。どうにかなるだろう、上手くいくだろう、という幻想が甘い蜜を匂わすねずみ講へと国民を引き入れて行ったのだ。それは、開国直後から予想されたことだった。「金のスプーン的幻想が一夜にして幻滅の悲哀となった」[iv] あの時に、この事態はすでに用意されていたのだと思う。

 また、アルバニア人というのは、話し合いによる解決、和解よりも敵か味方をはっきりさせたがるという民族的性質があると言われる。長い帝国支配の下で備わったものであろうが、これもまた、改革を困難にさせている要素の1つである。

 改革を遅らせた要因はこの他にもさまざまに指摘できよう。とりわけ、76年憲法体制下での外国資本の導入禁止は致命的な影響を及ぼした。工・農業の技術・設備のレベルの低さは誰もが指摘するところである。すべて昔ソ連・中国から仕入れたものであり、旧式で、生産性が低く、成長はみこめない。社会資本の不足も大きな障害である。

 こうした歴史・政治・経済・地理的といった様々な要因が重なり合い、アルバニアの経済再生を困難なものにしているのだ。

 しかし、これは私の希望的観測にすぎないのであるが、東欧の中で最悪な条件下にあって、素地になにもない(あるのはマイナス)だけに、かえって適正なアドバイスを受け入れ、それに従いつつ国内にも専門家を養成していけば、あたかも幼児に高度な数学を教えるとすらすらと解いてしまうあの感じで、いい方向に向かうことができるのではないだろうか。もっとも、そこには全く逆の方向に流れてしまう可能性もある。次章においては、アルバニアの再建について見ていきたい。

 

W 開国後の混乱と経済の再生

 

経済安定化への道

 1985年にホッジャ氏が死去し、アリア氏に政権が移って以後、アリア氏は基本的にホッジャ路線(=スターリン主義)していたが、やがて政策に行き詰まりを感じ、徐々にではあるがその路線の変更をはじめた。

 まず外交関係であるが、アルバニアでは、この時期には輸入抑制とともに輸出奨励をするという貿易政策と鎖国政策とが同時進行していた。憲法による対外借款の禁止がこういった方向を強要したのである。しかしこれではいつまでも経済は発展しない。そこでアリア氏は開国へと動き出した。

 まずは1988年に初めて開催されたバルカン諸国外相会議への出席である。実に何十年ぶりという外交であろうか。それからというもの積極的に西側との国交樹立へと動いた。この目的はテクノロジーの輸入にある。西側との協力なくして経済発展はないとアリア氏は考え、イタリア、フランス、イギリス、ドイツなどと国交を回復した。ソビエトとも国交を回復している。また、戦後からスターリン主義に対する最大の敵としていたアメリカとも1991年に国交を結んだ。これは外交関係で最大の目玉だったといえるだろう。

 その後、先にも書いたが、開国と同時に政治的に不安定な時期が到来し、経済は混乱した。

下の表を見て欲しい。この表からみてわかるように1991年から92年にかけてアルバニア経済がひどく低迷していたことが読み取れる。とくに工業の落ち込みは激しい。これに対する政府の説明は、「1990年から91年に既に危機の高進があり、それはすべての部門に見られ、91年から92年前半には工業生産は40%以上低下した」[v] ということである。なぜ工業が低迷したのか。設備の老朽化と計画経済の限界も理由にあたるが、開国とも深い関係がある。開国により、各国との取り引きも回復し、輸入が大幅に増えた。そのために、国内の製品が食いつぶされてしまったのである。GDP成長率もマイナス成長となっており、また失業率も最悪である。それとは反対に農業が早い段階で回復を見せており、これがアルバニア経済破綻を救っているというのは、政府関係者が口をそろえて主張しているところらしい。93年に早くもGDPがプラスに転じているのは農業生産回復の結果である。

ところで、アルバニアの経済の最悪度は対外バランスをみてもよく分かる。貿易収支は1990年に−150、91年に−308、92年に−505、93年に−509となっており[vi]、輸入が輸出を上回っている状態であった。これをカバーしていたのが、移転収支の大幅な黒字である。ただしこの中には公的移転と共に、私的移転も含まれており、さらに93年には私的移転が前者を上回っている。私的移転とは国外労働者すなわち、出稼ぎ労働者による送金を意味する。

 

【表】

 

1989

1990

1991

1992

1993

実質GDP成長率

9.8

-10

-27.7

-9.7

11

工業総生産高

5

-19.6

-36.9

-60

-10

農業総生産高

10.7

-4.4

-20.9

18

14.4

人口増加率

1.9

1.8

-0.9

-1.1

-0.7

雇用増加率

1.9

0.2

-19.2

-17.4

11.2

失業率

6.7

8.5

11.4

23.9

18.6

    〔注[vii]

 

この表にはないが、国外労働者を含めない失業率というのが91年から発生し、年々高くなっている。[viii] ということは、海外出稼ぎ労働者が増している証拠であり、これまたアルバニア経済問題の1つになっている。失業率が高いわりには大きな問題とならずに済んでいるのは、こうした国外労働者によって回避されてきたからである。彼らによる外貨送金[ix] によってアルバニアの外貨事情の好調さが維持されてきたという側面も見逃せないが、彼らが一定の送金や貯金を終えて帰国することを考えると、今の雇用状況では、帰国者たちを受け入れることができない。国内雇用基盤をかため広げることも急務である。

 さて、安定した政策が取られるようになったのは、1992年後半の民主党政権に移ってからである。政治的安定が到来し、経済にようやく目を向けられるようになったのである。9192年の低迷をみて、経済安定化政策を取り始めたという見方もできるだろう。

 この後はIMFによる助言を受け入れて、短期と中期の安定化プログラムを実行していった。

  1992年時の安定化プログラムでは、年間で200%にも達したインフレ率を20%以下に抑制することと、財政赤字の削減を目標に掲げた。

 財政状況は1991年に極端に悪化した。赤字はGDPの約44%にも相当した。これは、開国による産出の急減、賃金と社会保障費の急増、企業のソフトな予算制約がその主たる原因であった。アルバニアでは、開国後も変わらず企業のソフトな予算制約ぶりがみられた。[x] しかし緊縮財政によって、同年末には若干の改善が見られ、93年には対GDP比16%までに赤字が低下した。対企業補助金は徐々に除去され、93年には完全に撤回されている。

 赤字の減少は、税制改革を行ったことにも起因している。関税、個人所得税、小ビジネス税などの新しい財源収入ができた。これにより、歳入は対GDP比で3%の増加を示した。

インフレの方は、1992年末の237%から翌年末には31%までに減少した。これは、緊縮財政政策が手段としてとられ、ハードな予算制約の賦課がなされ、これにより通貨供給量を制御することが試みられた。結果、インフレからの回復が実現した。

次に価格の自由化である。1991年に初の価格の自由化が卸売価格から行われた。当然のように価格は上昇した。消費者物価指数は91年で100%、92年上半期では、200%にも跳ね上がった。そして、92年8月、価格の75%を自由化した。94年では、価格統制は小麦・パン・水・電気・家賃・医療・都市交通・教科書などの基礎生活用品にとどめられている。価格の自由化は急ピッチで進められたため、(緊縮財政と連動している)価格補助金は、対GDP比で92年の3.6%から93年には2.2%に削減できた。[xi]

 これと同時進行して貿易の自由化も実施された。これによって、財・サービスの多様化という長所も生まれたが、反面、長期にわたる国家管理貿易から、急な自由化により、輸入が増大し輸出が激減した。国際競争力をもたないアルバニア製品は輸出に値しなかった。国内企業は大打撃をうけたのだ。国家はこれに対する保護措置を行わなかったのだから、当然の結果なのだろう。これについては、ロナルド・マッキノン氏も指摘している。

 最後に民有化である。民有化は、市場経済への移行における主要な処置である、と一般に認識されている。経済体制転換の基盤とも言えるだろう。[xii]  1991年8月に私有化法が制定されたことからアルバニアの民有化はスタートした。他の東欧諸国と同様に中小規模(従業員数300人以下、または資産50万ドル以下)の民有化から始められ、しかも速いペースで行われた。91年8月から94年3月までで約29200企業が民有化された。

 農業については93年末にまでに、協同組合農場の93%が私有化された。しかし、その財産所有権についてはその約半分しか分配されていなかった。93年に入ると、国営農場の私有化が開始された。そして、現在ではほぼ完了しているとのことである。こうして農業部門の旧システムは急速に崩壊した。この急速な民有化が農業回復を早めたのだが、一方で問題も発生した。協同組合の崩壊がただでさえ不充分なインフラにダメージを与え、また遅れていた機械化問題も浮上した。前者に対しては財源不足の国、地方政府の代わりに世界銀行がバックアップした。後者は、農民間の協力でこれを補い、生産性の改善を目指した。

さらに、住宅の私有化は、1993年5月から始まり、翌年には完了している。

このように、アルバニアの経済体制の変換は2、3年という非常に速いスピードで実施された。短期的には一応小さな成功をしているといえるだろう。ただし、この変換への安定には、さらに時間を要すると思われるし、安定化に向けて、中期、長期の政策をつづけていかなければならないのである。

 

X 1997年の事件−ねずみ講−

 

1 ねずみ講の定義

 まず、ねずみ講とは一体何なのであろうか。[xiii] ねずみ講の「講」とは、中世から日本の村落社会に広く定着してきた共同組織の名称である。信仰を目的として生まれたこの集団組織は、相互扶助・助け合いの為の組織として地域社会に根をはって経済的・社会的な機能も果たしてきた。「講」の種類は多岐に渡るが、ねずみ講は無限連鎖講の一種とされ、広い意味では講集団の1つとされている。

 ねずみ講(=fraudulent investment scheme  or  pyramid investment scheme)とは、首謀者(親・講元)が2人を会員(子)の引き込み、自分に金を貢がせると同時にその2人の会員の対して、新たに2人の会員を組織に勧誘し、金を貢ぐようにと命じる。そしてその新会員が同じように、2人の会員を勧誘し金を貢がせる。−というように会員数がねずみ算的に増えて行くシステムのことを言う。

 この勧誘活動を繰り返すことで、組織の裾野は広がり、集金能力は飛躍的に伸びて行くという仕組みである。例えば毎日、2人の会員(子)が、それぞれ2人の会員(子)を引き入れるとすると、会員数はねずみ算式に増えていき、28日目には日本の全人口を超えて、13000万人以上が組織の一員になる計算である。親が子を2人作り、それぞれの子に1万円を貢ぐように命じる。同じように子は、2人の孫を作り、「自分に5000円、もう1段上の親に5000円払え」と命じる。子は、2人の孫から5000円ずつ貢がれるから、その時点で初めに自分が親に貢いだ1万円はとり戻せる。孫がひ孫を作った段階では、子は早くもひ孫からの貢ぎによって、利益を得ることができる、というようなしくみである。

 

1997年、実際におきたねずみ講事件

1997年アルバニアで起きた事件を詳しく見てみよう。

10数社のねずみ講投資会社が月利10~35%(一説によると80%~200%とも言われている)というとても高い金利で国民に投資を呼びかけた。始めのうちはきちんと支払いが行われていたため、出資者は次第に増加しピーク時には全国民の約3分の1が何らかの形でこのねずみ講に投資していた。しかし、新しい参加者がいなくなった時点でねずみ講というものは破綻する。そのため主要な投資会社は次々に倒産していった。被害総額はGDP(国内総生産)の30~40%に相当するといわれている。国民1人当たりの年間所得額が5300レク [xiv] といわれているこの国民にこれほど投資するお金があったのだろうか。もちろん答えはNOである。おそらく海外に居住するアルバニア人からの送金がねずみ講につぎこまれたのだろう。

預けたお金が戻ってこないと知った国民は、本来ならば倒産した投資会社にぶつけるべきである怒りを政府・民主党にむけた。これは何故これほど多くの人々が投資したのかということへの答えにもなるが、国民が安心してこれらの投資会社に預金をした1つに、投資会社とベリシャ大統領や民主党との癒着が挙げられている。

ねずみ講の大組織は9つあったがそのなかでも最大のねずみ講組織・VEFAには、政府役人、国際機関現地職員、民主党員など体制中枢のエリート達が出資していた。しかし彼らはねずみ講が危うくなる前に出資金を引き上げていて、損害を受けたのは後から入会した一般庶民であった。19965月の議会選挙時には、VEFAは自社旗を民主党の旗と並んで翻し、同党への資金援助を隠さなかったという。また、会社のCMは国営テレビで流されていた。国民は政府のバックアップのある企業と思い込み、安心して大切なお金を預けたのである。それ故に政府に怒りがぶつけられたのであった。それもいってみれば当然のことなのかもしれない。そしてこの事件は反政府暴動へと発展し、ついには非常事態宣言を出すまでに至ったのである。

 では、そもそもアルバニアにねずみ講が生まれたきっかけはなんだったのだろうか。

一説によると、イタリアのマフィアが麻薬取り引きなどで得た金を流入させたたものとされている。非合法な金をマネーロンダリング(非合法資金をいったん正規の金融機関を通すことで合法化)するのにこのねずみ講が利用されたのではないだろうかといわれる。[xv] また北の隣国、セルビア−モンテネグロは、ボスニア和平協定が実施されるまで、国連から経済制裁を受けていた。その間、同国に石油などの必需品や武器・麻薬がバルカンルートすなわちアルバニア経由で密輸され、巨額の利益が生まれた。正規の金融機関が少ない同国で、大量の金が動けば、当局や国際機関から怪しまれる。だから、資金の出所をカムフラージュすべく、多くの庶民が出資し合った金と欺くために1992年ごろからねずみ講は立ち上げられたという説もある。[xvi] 和平が成立して密輸のうまみがなくなると、当初の目的からすれば不要となったが、そのころ(1996年ごろ)にはすでに庶民に広まっていて、ひくにひけず、あとは破綻の道をたどるのみとなっていったというのが実態だとされている。

アルバニア国民の加入者が増え始めたのは1996年頃からである。開国から6年、経済改革に本格的に着手してから34年、なかなか上手く思うように行かない経済に、働いて賃金を得るということに、この時期国民は疲れ始めたのではないだろうか。

このねずみ講は、アルバニアだけではなく、これまでもロシアや東欧諸国で流行し、多くの人々の貯えを奪ってきた。これら東欧諸国に共通してねずみ講が浸透した理由は、(1) 社会主義体制崩壊により、無法状態にあった、(2) 社会主義時代を通して、国営銀行など元本や金利を保証した金融機関しか知らなかった国民には、投資リスクの概念が全くない、(3) 市場経済に転換したものの、金融機関が未発達で、安全性・利殖性のバランスがとれた金融商品がなく、高金利を約束するねずみ講が人々を魅了した、と指摘されている。さらにアルバニアは1990年まで鎖国状態で、政府の統制が強く、社会主義経済以外の知識や情報は皆無に等しかった。そのため、国民の大半はねずみ講式投資会社もまともな企業と勘違いしたと考えられている。

 

ねずみ講と開国後の政策

1990年の開国から、新経済システムへの移行におよそ3年。この時間は早すぎはしなかっただろうか。もちろん、早いに越したことはないのであるが、資本主義経済というものを全く行ったことのない国が、わずか3年で体制転換をしてしまったのである。インフレを鎮静化させることや、農地の私有化など、部分部分を見ていけば一応の成功はあったのかもしれないが、民衆は全くついていけなかったに違いない。つまり、市民レベルまで資本主義経済は浸透していなかったのだ。

ねずみ講のあまりの広がりを懸念して、世界機関がアルバニアに注意を呼びかけた時、「ねずみ講はすたれるわけがない。アルバニア国内に加入者がいなくなったら、その裾野を世界に広げればよいのだ」という答えが返ってきたそうである。アルバニア人の知識はこの程度なのだ。ねずみ講の恐ろしさなど知らない。教えてくれる人も誰もいない。ただ、国民は、楽して金が手に入る、という甘い金利生活にあこがれただけなのだった。企業を円滑に稼動させ、市場を活性化し創り上げていくといった考えは、一部の資本家や、労働者、政府人しかもっていなかったようである。また、経済転換はなされたものの、市民の生活レベルは急には向上しなかった。それどころか、生活改善といった「豊かさ」の実現は、後回しにされた。

 こういった状態では、国民の3分の1がねずみ講に投資してしまっても無理はない。貧しさからの脱却にと、ねずみ講にすがりついたのだ。

要は、開国−経済システム転換というプロセスに失敗してしまったということである。先に述べた、短期的成功は長期的継続に結びつかなかったのである。

アルバニアの民衆は、その力で民主化を実現した。しかし、自由主義経済への移行という難しい課題は、失敗してしまった。いま彼らは、長い鎖国と社会主義の時代がもたらした最大の負の遺産のなかであえいでいるのである。それは、単にアルバニアの悲劇としては片づけられない状況である。ロシアもまた、同じような道を歩んでいる現在、改めて私たちは、これらの人びとの叫びに応える道を見つけなければならないのである。

 

Y エピローグ 日本とアルバニア

 

このエッセイの作成に当たっては、時事的な資料を多く活用したが、学問的な知識については大阪商業大学助教授の中津孝司氏の研究から多くを学ばせて頂いた。また、広島大学教授の井浦伊知郎教授には本当にお世話になった。教授は、電子メールでの問い合わせに対しても、丁寧にお返事を下さっただけではなく、たくさんの資料を提供してくださった。ここに心からの感謝を申し上げます。

メールでは、今夏にアルバニアを訪れた体験も教えて頂いた。こうして得た知識によって、私にとっては未知の国アルバニアの姿が次第に鮮明になっていったのは言うまでもない。

改めて考えてみれば、日本とアルバニアは鎖国という共通の歴史をもった両国ではあるが、やはり距離的には自然的にも、社会的にも相当離れた国という他はない。国交は1981年3月に結ばれているが、日本大使館は存在しない。日本人は入国ビザなしでも入れるらしい。日本・アルバニア協会が設立されたが、まだ日は浅くこれからの動きに注目されるといったところだという。貿易関係は非常に希薄で、住友商事がクローム鉱の再開発事業に出資しているほかはあまり聞いたことがない。日本人にとっては非常に認識度の低い国だということである。

「いくらアルバニアが豊富な鉱物資源(銀などの貴金属やクロムなど)を有するといっても、日本からではコストがかかるでしょう。現在、ブルガリアのソフィアとアルバニアのDurres(イタリアに面した港湾都市)を結ぶバルカン半島縦断道路の建設計画が進んでいますが、これに日本企業が参入したらどうか、とアルバニアの政府に近い人達からよく言われました。でも西隣のイタリアや欧州最強の経済大国ドイツ(多くのアルバニア人にとって憧れの国)に先を越されいるのが現状です。」とは井浦伊知郎氏のコメントである。

 アルバニアからの訪日者は私達が想像するよりも多いようであるが(日本の教育制度や、発展した工業にとても興味があるようである)、その反対はあまり多くない。資金援助という形では、1990年初頭にODAを通じて多額の援助をしたという話であるが、どちらにしても、2国間の関係はまだまだこれからといった様子である。

 私は、このねずみ講の事件をきっかけにもっと多くの人にアルバニアという国を知って欲しいと思った。新聞紙上にもあまりで出てこない国であるので、この事件は認知度を上げるという点では役にたったのかも知れない。最近でも、ユーゴスラビアとの民族問題が注目を集め、新たな社会的・政治的混乱の様子が新聞をにぎわせているが、どんな小さな記事であれ、これからもずっとこの国を見守っていきたいと思う。

 

<脚注>



[i]  『世界各国史13東欧史』、『世界現代史24バルカン現代史』より要約。

[ii]  アルバニア現代史、pp.13-14

[iii]  中津孝司『新生アルバニアの混乱と再生』、p.32

[iv]  中津、前掲書、p.33

[v]  田畑理一『アルバニア経済の復興と市場経済化』、p.43

[vi]  90年、91年は International Monetary Fund, ALBANIA, March 7, 1994, p,70

   92年、93年は Monthly Statistical Report, Bank of Albania, 1994, April

[vii]  出所:“Monthly Statistical Report”,Bank of Albania, 1994, Aprilより抜粋

[viii] 国外労働者の数は多く、政府発表では20万人とされているが、実際には40

   万人ほどいるといわれている。

[ix]  1993年には約2億ドルと推計されている。

[x]  例えば、ラッツ・コンビナート(国営企業)では、国家年次計画ノルマを達成できなかったために、従業員への賃金総額9600レク以上を勘案すると赤字経営を放置していることになるという。赤字について詳細すると、この企業は2週間(1990年10月16日−31日)で、486万4600レクもの赤字を計上しているのだ。倒産して当然の企業なのに、いまだに存在しているのは、ソフトな予算制約が存在するが故なのである。

[xi]   田畑、前掲書、p.45

[xii]   中津、前掲書、p.53

[xiii]  『週刊ダイヤモンド』、1997322日より。

[xiv]  アルバニアは欧州最貧国である。5300レク=818ドル=\1145201$\140

   で計算)これはアフリカのボツワナ並みだといわれている。

[xv]  中津孝司「騒乱のアルバニア」、『月刊ふじ』所収、平成951日。

[xvi] 「平成ねずみ講の手口」、『週刊ダイヤモンド』所収、平成9322

 

<参考文献>

(1)     矢田俊隆『世界各国史13 東欧史』(新版)山川出版社、1988 .

(2)     木戸 『世界現代史24 バルカン現代史』山川出版社、1998 .

(3)     「改革を拒む社会主義国−アルバニア」、『世界週報』、1990220 .

(4)     中津孝司「アルバニアもついに改革に着手」、『世界週報』、1990619 .

(5)     中津孝司 「遅れてやってきたアルバニアの民主革命」、『世界週報』ね1991423 .

(6)     中津孝司「過去と決別し再出発するアルバニア」、『世界週報』、1991723 .

(7)     中津孝司『アルバニア現代史』晃洋書房、1991 .

(8)     小林俊哉「 変わりつつある「バルカンの孤児」」、『世界週報』、1994614 .

(9)     田畑理一「アルバニア経済の復興と市場経済化」、『世界経済評論』、199412 .

(10)              「平成ねずみ講の手口」、『 週刊ダイヤモンド』、1997322 .

(11)              田坪睦「「ねずみ講」破綻で非常事態のアルバニア」、『世界週報』、1997429 .

(12)              中津孝司「騒乱のアルバニア」、『月刊ふじ』、199751 .

(13)              中津孝司『新生アルバニアの混乱と再生』 創成社、1997 .

(14)              その他の参照記事:

朝日新聞、 356781013141516.

Albania:From Isolation Toward Reform 1992.2 IMF.

http://lcweb2.loc.gov/frd/cs/altoc.

http://www.cnn.com/WORLD

http://www2.aix.or.jp/shinchosha/focus

http://www.ipc.hiroshima.ac.jp/~iiura

http://www.nishinippon.co.jp/media/news/9703/0314s.html