コンピュータの歴史

専修大学経営学部

綿貫理明(現在ネットワーク情報学部)

Copyright 1996 by Osaaki Watanuki, Senshu University

1.はじめに

アメリカの未来学者アルビン・トフラーによると、人類は生活や文化に大きな影響を与える三つの波を経験していると言う。第一の波は数千年にわたる緩やかな農業革命であり、第二の波は1712年にニューコメンの実用的蒸気機関の発明に始まる産業革命であり、第三の波は1960年頃に始まった電子情報革命である。現在我々が直面している第三の波では、コンピュータが大きな役割を演じており、本稿ではコンピュータがどのように進化していったかを考えてみる。

人間は過去に機械式計算機を作り、改良が重ねられ今世紀の中頃に電子式計算機が誕生した。新しい型の計算機を製作する場合には、何らかの動機あるいは時代の要請があった。機械によってより速くより便利に、計算やデータの処理を行おうとする人間の意志が計算機械を進化させ、今日のコンピュータとその利用技術が形成されていった。

2.機械式および電気機械式計算機

 17世紀から20世紀の初頭は、機械式計算機の時代である。1614年ジョン・ネーピアが対数計算法を発見し、1630年ウィリアム・オートレッドにより対数計算の原理を利用した計算尺が発明された。1642年にパスカルが、加算器を発明し、1673年にはライプニッツが加減乗除の四則演算を行えるように改良した。当時は天文学や税金の計算が計算機の主な用途であった。19世紀に入ると、バベッジが数表の計算のために階差計算機を設計した。1932年にはMITのブッシュが微分解析機を製作している。これらは原理的には、歯車を使用して機械的に計算を行うものであった。

 1930年代後半にリレー(継電器)による電気機械式計算機が出現した。ドイツのコンラッド・ツーゼは、1938年頃から、1945年までリレーによる2進演算ができる電気機械式計算機を製作し改良を続けた。この計算機は、紙テープによるプログラミング可能なものであったが、命令セットに条件分岐がないものであった。リレー式計算機はベル研究所でも研究され、1939年に G. スティビッツ(Stibitz)等により試作機が完成しその後改良がなされた。ハーバード大学の H. エイケン(Aiken) は、IBMと協同で1943年に機械式の MarkIを、1947年にはリレー式のMark II を開発した。

3.初期の電子式計算機

1920年代の終わりに、ウィスコンシン大学でヘリウムの電子軌道構造に関する博士論文を作成していたジョン・ヴィンセント・アタナソフは、手回し式卓上計算機で数週間もかかるような計算を行っていた。これがアタナソフを電子式高速計算機械への開発へと駆り立てた。1930年に理論物理学の博士号を取得したアタナソフは、アイオワ州立大学へ移り研究を続け、後に大学院生のクリフォード・ベリーを助手としてABC(アタナソフ=ベリー・コンピュータ)を製作した。

1939年に試作機を作り、1941年に第2号機が完成した。ABCマシンは、真空管約300本を使用して最高29変数の1次連立方程式を解くように設計されていた。電子的な計算部分は動作したが、係数データを一時的にカードとして出力し、再度計算で使用するため入力する機械的なカード入出力部分の信頼性が十分ではなく実用にはならないようであった。しかしABCは真空管による電子式計算機械の最初の試みであり、連立方程式を解くための専用機であった。1942年アタナソフは第二次世界大戦の勃発のため、ABCマシンを改良することなく大学を去って行った。

ABCマシンは、2進法の採用、コンデンサーによるメモリ等、原理的に現代のコンピュータにも通じる当時としては革新的なアイデアが採用されていた。回転式ドラムの表面に装着された多数のコンデンサーの電荷が消える前に再充電する機構を考案し、彼はこれをジョッギングと呼んだ。この動作原理は現代のDRAM(Dynamic Random Access)のリフレッシュ機構と酷似しており、彼の先見的なアイデアの一つである。1970年代までは知る人はほとんどなくABCマシンは忘れ去られており、次のENIACが世界最初の電子計算機であるとされていた。後で書くように、アタナソフのABCが計算機の歴史に再び登場するのは、スペリー・ランド社とハネウェル社の間の特許係争によってである。

1940年代初頭は第二次世界大戦の最中であり、軍事関係の研究に対する需要が強かった。その一つに弾道計算がある。戦場では、風向き風速等種々の条件のもとで大砲の弾道約3000本を正確に計算して射撃表として持っている必要があった。ペンシルバニア大学ムーアスクールのモークリーとエッカートは、陸軍弾道研究所の研究資金を得て1943年にENIAC(Electronic Numerical Integrator and Computer )の開発に着手し、1946年に完成した。

ENIACは、真空管18000本を使用し、消費電力140KW、重さ30トンの巨大な計算機械であった。この計算機は10進演算を行い、20個の加算器、乗算器、除算器を並列に動作させることができた。弾道計算だけでなく物理、数学、熱力学、気象等の広い範囲の問題に利用された。ENIACは1949年にπの計算にも使われ、2037桁を70時間で計算している。1桁に約2分かかったことになる。

しかしこの計算機には、配線論理によるプログラムのため問題を変える場合には配線やスイッチの設定を変更する手間がかかる、多数の真空管を使用することによる発熱の問題や、真空管のフィラメントが切れると故障個所を発見し修理するのに時間がかかる、といった種々の問題点が浮上してきた。

モークリーとエッカート、そして後にプロジェクトに加わったフォン・ノイマン等は、結線やスイッチによるハードウェア的なプログラムから処理の手順をソフトウェアのコードとしてメモリに蓄積しておくプログラム内蔵方式(ストアド・プログラム方式)を提案した。またENIACでは並列演算を行っていたが演算を一つずつ逐次的に行うことにより構成を簡単にすること、10進演算を2進演算に変えたり、メモリをフリップフロップから水銀遅延線に変えて、真空管を減らすこと考えた。これらによりENIACの問題点を改善して、EDVAC (Electronic Discrete Variable Calculator)という新しい機械を開発することが計画された。しかしペンシルバニア大学では、プロジェクト内での知的な功績争いや、特許をめぐっての不協和音、人材の不足等の原因でプログラム内蔵方式の計算機EDVACの完成は1952年まで遅れ、世界最初の“プログラム内蔵方式の計算機”の栄誉はイギリスのケンブリッジ大学に奪われることになる。EDVACでは真空管の数はENIACの約5分の1の3560本程度に減らされた。

今日、逐次処理のプログラム内蔵方式の計算機をノイマン型と呼ぶのは、高名な数学者でありENIAC及びEDVACプロジェクトの中心的な人物であったフォン・ノイマンの名を冠しているためである。

非常に多量の計算を必要とする地球大気の大規模変動の研究に関心を持っていた、ケンブリッジ大学のウィルクスは、1946年ペンシルバニア大学ムーアスクールでの電子計算機の講習会に参加した。帰国後、ウィルクスは電子計算機の開発をすすめて、1949年世界最初のプログラム内蔵方式の計算機EDSAC(Electronic Delay Storage Automatic Calculator)を完成させた。このチームでは、プログラミング上の重要な概念であるサブルーチンを提案し、EDSACで実際に使用した。

1945年フォン・ノイマンはプリンストン高等研究所へ移り、1946年モークリーとエッカートは、商用のコンピュータを開発するためペンシルバニア大学を去った。彼らはエッカート・モークリー・コンピューティング・コーポレーション(EMCC)を設立し、EDVAC計画をもとにした新しいコンピュータの開発を初め、1950年にBINAC(Binary Automatic Computer)を開発した。しかし経営状態が悪く、1950年事務機器の大手メーカーであるレミントン・ランド社の子会社となった。1951年、最初の商用のプログラム内蔵方式のコンピュータ、UNIVAC(Universal Automatic Computer)が完成し、レミントン・ランド社から発売された。

レミントン・ランドは1955年にスペリー社と合併し、スペリー・ランド社となった。同社は後に、バローズ社と合併し、ユニシスと社名変更された(1986年)。この間スペリー・ランド社から転出した技術者達によって、1957年にCDC(Control Data Corporation)が設立された。

ENIACの特許権(1964年発効)はスペリー・ランド社が買収して、UNIVACに使用すると同時に他社の計算機製造会社に特許使用料を課していた。しかしハネウェル社だけはこれを拒否したので、スペリー・ランド社は連邦裁判所に提訴した(1967年)。反対にハネウェルは、スペリー・ランドの基本特許無効と独占禁止法違反の容疑で提訴した。ハネウェルは、この裁判の証拠書類を準備する間にアタナソフの業績の存在を知り、アタナソフの計算機械に関する詳細な調査を行った。裁判の過程で、電子的なディジタル計算の重要な部分がABCの中にあったこと、それをJ.モークリーが1940年代の初めにアイオワ州立大学のアタナソフの実験室を訪れて詳細な説明を受けていたことが明らかになってきた。1973年10月19日ミネアポリス連邦地方裁判所の判事E.R.ラーソンはENIACの基本特許を無効とする判決を言い渡した。

さてここで、日本ではどのような状況であったのか見てみよう。1950年代には写真機のレンズ設計の計算は、2人一組の女子社員が対数表を使用して紙と鉛筆で計算を行っており、一日に10本程度の光線の計算が限界であった。レンズを新しく設計するには1000本から2000本の光線の計算が必要とされた。富士写真フィルムの岡崎文次(後に日本電気株式会社を経て専修大学教授)は、レンズの設計計算を真空管による電子式計算機で速く効率よく行おうと考え、1952年に開発に着手し1956年3月にFUJICを完成した。これが日本で最初の全電子式計算機である。FUJICは真空管約1600本と水銀遅延線メモリを使用し、17個の命令が使えた。光学関係の計算、微分方程式の解法等に実際利用された。現在FUJICは、国立科学博物館に保管されている。

4.大型計算機の時代

ホレリスの穿孔機の製造販売をおこなっていたCTR(Computing Tabulating and Recording)社がその前身であり、1924年に社名をIBM(International Business Machines)と変更した事務機器メーカーは、第二次大戦中ハーバード大学のエイケンと共同でマークIと呼ばれるリレーを使用した計算機を開発していた。IBMは1951年、701という汎用大型の電子計算機を、続いて1953年に702という事務計算用の計算機を発売した。702には記録媒体として磁気テープ装置が使われた。IBMの真空管式コンピュータは709を最後に、709のトランジスタ版の7090に変わった。1956年IBMは磁気ディスクの始まりであるRAMAC(Random Access Method of Accounting Control)を発表した。これは直径24インチのアルミのディスク基板50枚に500万キャラクター(文字)を記憶するものであった。それから40年後の現代のパソコン用の磁気ディスクでは、RAMACと比較して面記憶密度で約50万倍、シーク時間で約50分1、転送速度では約2000倍に達している。

 1964年IBM360が発売された。この計算機は第三世代のTTL(Transistor−Transistor Logic)と呼ばれる集積回路の技術で製造され、同一アーキテクチャーで計算機の規模を変えることができ、ソフトウェアの互換性を持たせたもので、汎用大型機(Main Frame)の代名詞となった。世間では汎用大型機が主流であったが、1965年にはDEC(Digital Equipment Corporation)が、PDP−8という汎用大型機より規模が小さく低価格でラボラトリー・オートメーションや制御を目的としたミニコンピュータを発表した。1970年代を通じてミニコンピュータは、広く利用されたが、1980年代の後半からは、パーソナル・コンピュータによりその地位は取って代わられた。1971年動的アドレス変換機構(Dynamic Address Translation)による仮想記憶(Virtual Storage)システムを実装したIBM370が出荷された。これによりプログラマーは、容量の大きなディスクと同じ大きさの仮想的なメモリを使用することができるようになり、計算機のメモリの制限から開放された。

科学計算の分野では膨大な計算量を必要とする問題が多い。イリノイ大学と米国防総省の依頼により、1972年バローズ社で開発されたイリアックIV(Illiac IV)は、偏微分方程式を解くために作られた並列計算機である。8x8個のメッシュ状に接続された、演算装置とメモリからなるプロセッシングエレメント(PE)を使用して、並列に処理を行うことができた。現在では集積回路の技術も進歩し、ハードウェアのコストが下がったため、マイクロプロセッサを多数(数1000個以上)接続した超並列計算機が作れるようになった。

コンピュータはもともとは計算をするための道具として生まれたが、現在では、データの入出力、蓄積検索、処理、通信等のために広く利用されている。スーパコンピュータはその時代の汎用機と比較して、浮動小数点演算を含む多量の計算をできるだけ高速に実行するというもとの目的を、極限まで追求したものである。性能はFLOPS(Floating-Point Operations Per Second=1秒間に実行される浮動小数点演算の数)で表示され、現代の最新のスーパコンピュータの最高性能は1テラ(10の12乗)FLOPSを超える。

1957年にスペリーランド社を退社したW.ノリスとS.クレイ等は、CDC(Control Data Corporation)を設立した。クレイはCDCで高性能な計算機を制作していたが、1972年に独立してクレイリサーチ社(CRI:Cray Research Institute)を設立してスーパコンピュータの開発を始め、1976年世界最初の商用のスーパコンピュータCRAY−1(160MFLOPS)が出荷された。CRAY−1によって始まるスーパコンピュータは、年間の出荷台数は少ないが大規模数値計算等の分野で需要がある。1996年にCRIはシリコングラフィックス社の傘下に入った。現在、スーパコンピュータを製作している企業は米クレイ社、日立製作所、富士通、日本電気の4社であり、スーパコンピュータは日米貿易摩擦の一因となっている。

πの計算の記録は、1980年代にはいるとスーパコンピュータによって更新されるようになり1989年には、日立のスーパコンピュータ S−820/80によって10億7千万桁以上の精度でπが計算された。74時間30分かかり、1桁の計算が約1/4ミリ秒でできたことになる。これは1949年のENIACでの計算速度と比較して約50万倍の改善がみられるが、計算アルゴリズムの改良、計算機のアーキテクチャー、ハードウェア等の改良によりもたらされたものである。

5.計算機の小型化

1947年ベル研究所においてバーディーン、ブラッテン、ショックレー等によってトランジスタが発明され、これが後に集積回路へと発展してゆく。トランジスタの発明者達は1956年にノーベル物理学賞を受賞することになるが、ショックレーは1954年にベル研究所を去り、カリフォルニアに半導体のビジネスを興すために自分の会社を創設した。この会社にはR.ノイス、G.ムーア等がいた。1957年にこの二人はフェアチャイルド・セミコンダクター社へ転出し、1968年にフェアチャイルドをスピンオフして、カリフォルニアのシリコン・バレーに半導体メーカー、インテル社を創設した。1969年には、日本の電卓メーカー、ビジコン社はインテル社と電卓用LSI(Large Scale Integration = 大規模集積回路)の共同開発を開始した。最初は10進演算方式でLSIを実装することが考えられていたが、様々な問題点を解決してゆく過程で「電卓としても使えるようにプログラムできる汎用コンピュータ」にした方がよいという提案がなされ、1971年世界で最初の2進4ビットのマイクロプロセッサ4004が両社によって共同開発された。システムとして使いやすいように、CPU(4004)だけでなく、RAM、ROM、そして入出力用のLSIをファミリーチップとして提案した。マイクロプロセッサは1972年8ビットの8080、1976年16ビットの8086、とビット数が増えて行った。

B.ゲイツとP.アレンの二人によって始められたマイクロソフト社は、1975年MITS社のアルテアという世界最初のパーソナルコンピュータのために、BASIC言語処理のソフトウェアを開発した。マイクロソフトBASICが動くまでは、アルテアのプログラムは機械語をパネルスイッチを使って入力していた。ゲイツ等はPDP−10という大型計算機でアルテアのシミュレータを作り、これによりBASICの言語プロセッサを開発した。当時のコンピュータのメモリ容量は小さかったので、プログラムをコンパクトに作るために高度な技術を必要とした。また1970年代中頃のシリコンバレーでは、スタンフォード大学やカリフォルニア大学(バークレー校)の学生や出身者達が集まって、趣味としてマイクロプロセッサを使用してコンピュータを作り、ゲームやBASICのプログラムを動作させるホーム・ブリュー・コンピュータ・クラブと呼ばれる活動を行っていた。その中からS.G.ウォズニャックとS.ジョブズ等がアップル社を創設した。

VISICALCという表計算ソフトも商品化され、パーソナルコンピュータの市場が成長を始めた。

世界最大のコンピュータ・メーカーIBM社は、通常内製の部品とソフトウェアを使う会社であった。しかしパーソナルコンピュータの開発を急いだためインテル社の8088(16ビット)をCPUに、マイクロソフト社のMS−DOSをオペレーティングシステム(OS)として採用し、1981年パーソナル・コンピュータをIBM PC/XTとして発表した。そして1985年には改良版のPC/ATを発表した。 アップルとNECを除く現代のパーソナルコンピュータのアーキテクチャーは、IBM PCが基本となっており、そのほとんどにインテルのマイクロプロセッサとマイクロソフトのOS使用されている。 IBM PCはよく売れたが、多数のメーカーが同様にインテルのMPUとマイクロソフトのOSでIBM互換機を製造するようになった。これが結果としてインテルとマイクロソフトに繁栄をもたらし、IBMがパーソナル・コンピュータの分野で主導権を取ることができない原因となった。

ゼロックス社のパロアルト研究所(PARC)では、アイコンをマウスでクリックしてソフトウェアを起動するGUI(グラフィカル・ユーザー・インターフェイス)を1970年代の終わりには開発していた。この技術によればコンピュータの操作マニュアル等を暗記する必要はなくなり、素人にもコンピュータが使えるようになる訳である。しかし当時のゼロックス社の経営陣は、GUIを市場に出すだけの先見性を持ち合わせていなかった。1984年アップル社は、マッキントッシュというGUI環境を取り入れてた使いやすいコンピュータを市場に出した。マイクロソフト社も1985年にGUI技術を取り入れてウィンドウズというOSを開発した。現在パーソナルコンピュータのOSはバージョンアップが繰り返されているが、GUIによるウィンドウズタイプのものが主流となっている。

IBM では、1975年頃ジョン・コック等によって、コンパイラーを活用し高速で処理できる簡単な比較的少数の命令セットを使用した計算機の開発に着手した。その後カリフォルニア大学バークレー校、スタンフォード大学でも同様のコンピュータに関する研究が始まった。IBMではIBM801を開発し、スタンフォードではMIPS(Microprocessor without Interlocked Pipeline Stages)、カリフォルニア大学ではRISC(Reduced Instruction Set Computer)と呼ばれた。この種のコンピュータは中央処理装置がパイプラインにより高速処理を行い、シングル・チップ上に実装されている。

その後各社でこのタイプのチップを製造したが、1987年にサンマイクロシステムズがRISCをSPARCと呼ばれるワークステーションに使用した。ワークステーションはパーソナルコンピュータより高性能なコンピュータで、通常OSとしてはUNIXを使用し、マルチユーザー・マルチタスクの環境で動作する。RISC型のコンピュータは、命令セットを比較的よく使われる単純な少数の命令だけに絞り、命令の実行サイクルが等しくなるような設計をしてパイプライン処理が可能となるようにし、データの演算はレジスター間で行うようにして、高速化を計っている。これに対し、過去のソフトウェアと互換性を持たせ従来型の命令の長さや処理のサイクルが異なる複雑な命令を多数持った型の計算機を、CISC(Complex Instruction Set Computer)と呼ぶ。現在は、CISC型コンピュータも高速化技術を取り入れ、両者の性能上の差はなくなりつつある。


6.ネットワークの時代

インターネットの起源は、1960年代の末に米国国防総省(DOD)が核の脅威から安全性の高い広域の情報通信システムを目的として作られたネットワークに始まる。多数の計算機を通信回線で相互接続し、メッセージの交換ができるようにしておけば、一個所の計算機が破壊されるようなことがあっても、他の径路を通って情報を伝送することができる。1960年にランド社のポール・バランによってパケット交換による通信が提案され、1969年にはカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)、カリフォルニア大学サンタバーバラ校(UCSB)、スタンフォード研究所(SRI)、そしてユタ大学を結ぶARPANET(Advanced Research Project Agency NETwork)と呼ばれるパケット交換網が構築された。ARPANETが核となって、異種のネットワークも含めて世界中の大型・小型機を、1974年に提案されたTCP/IP(Transfer Control Protocol/Internet Protocol)プロトコルによっって接続することが進められた。

UNIXはベル研究所のK.トンプソン等によって開発されたマルチユーザー・マルチタスクのオペレーティング・システム(OS)である。1970年代にはミニコンピュータのような小型のシステムのOSとして、80年代からはワークステーションやスーパコンピュータのOSとして使用されるようになった。UNIXはTCP/IPを標準装備しており、ネットワーク環境でのコンピュータの使用が浸透していった。また全米6カ所のスーパコンピュータセンターを結ぶNSFNETとの接続、大学間を結ぶBITNETとの接続、CompuServe等の商用ネットワークとの接続を経て、インターネットは拡大していった。これにより電子メール、ファイルの転送、遠隔地の計算機のログオン等が可能になった。今日研究者間の連絡やビジネスのため電子メールは不可欠な道具となっている。

WWW(World Wide Web)も画像や音声といったマルチメディアデータを含む情報の授受を行うインターネットの利用形態の一つである。1990年代に入り、 HTML(Hyper Text Markup Language)によって記述され、画像、音声の情報も閲覧できるWWWが利用できるようになり、MosaicやNetscape Navigatorといった閲覧ソフトが登場すると、接続するコンピュータの数はねずみ算式に増加し地球規模のネットワークに増殖していった。

従来は個々のコンピュータが独立に動作していたが、ネットワークで結合された多数のコンピュータが情報の授受により協力しながら有機的に動作することが可能になった。ワークステーションの主要なメーカーであるサンマイクロシステムズ社では、“The network is the computer.”、すなわち「ネットワークがコンピュータである。」という概念を打ち出した。ハードディスク装置等を除き価格を5−7万円程度に下げたWWW閲覧専用の端末、ネットワーク・コンピュータ(NC)が各社から発表されている。現在WWWの利用は職場が主であるが、将来NCの普及により家電として一般家庭にも入る兆候が見えてきた。


  図1 コンピュータの進化系統樹(近日中に入力予定) 

7.まとめ

以上の議論をまとめたものが図1(近日中に入力予定)である。1940年頃にアタナソフ等が初めて電子的な方法で計算を行うことを試み、これがノイマン型コンピュータ、そして汎用大型機へと進化した。1970年前後にコンピュータの進歩の上でいくつかの枝分かれが生じているのが判る。一つは高速の科学技術計算を目的とした並列計算機やスーパコンピュータの発生であり、もう一つはマイクロプロセッサの発明に始まるパーソナルコンピュータやワークステーションへの進化である。同じ頃に最初のネットワークであるARPANETが動きだし、現在のインターネットへと発展した。WWWの普及により現在ネットワークコンピュータ(NC)が誕生しようとしている。

8.参考書及び文献

[1]A.R.マッキントッシュ「コンピュータの真の発明者アタナソフ」サイエンス

30−40頁、1988年10月

[2]クラーク・R・モレンホフ(最相力、松本泰男共訳)「ENIAC神話の崩れた日」

工業調査会、1994年

[3]横山保「コンピュータの歴史」中央経済社、1995年

[4]M.V.ウィルクス(中村信江、中村明共訳)「ウィルクス自伝」丸善、1992年

[5]魚田勝臣、田村幸子「情報とコンピュータ」2章コンピュータ小史、嵯峨野書院、

1993年

[6]岡崎文次「わが国始めての電子計算機FUJIC」情報処理、Vol.15, No.8、624-632頁

1974

[7]岡崎文次「電子計算機のあれこれ」戦後日本の企業経営と経営学第6章

専修大学経営学部編、1994年

[8]嶋正利「マイクロプロセッサの発展と将来」情報処理、Vol.34、No.2、135−141頁、

1993年

[9]金田康正「πのはなし」東京図書、1991年

[10]H.ゴールドスタイン(末包良太、米口肇、犬伏茂之訳)「計算機の歴史」共立

1979

[11]J.シャーキン(名谷一郎訳)「コンピュータを創った天才たち」草思社、1989

[12]星野 力「誰がどうやってコンピュータを創ったのか?」共立、1995

[13]日本アイ・ビー・エム株式会社「コンピュータ発達史」1988年10月

[14]日本アイ・ビー・エム株式会社「情報処理産業年表」1988年10月

[15]日本ユニシス株式会社「コンピュータ関連資料」1995年10月

[16]"50 Years of Computing",IEEE Computer,Vol. 29, No. 10, Oct. 1996

[17]相田洋「新・電子立国1 ソフトウェア帝国の誕生」NHK出版、1996

[18] 高津信三「パーソナル・コンピュータ戦争」専修大学情報科学研究所所報、

                       No.36, No.37、1995

[19]脇英世「ビル・ゲイツのインターネット戦略」講談社、1996

[20] 石原秀雄、 魚田勝臣、 大曽根匡、 斎藤雄志、出口博章、 綿貫理明、

「コンピュータ概論−情報システム入門」共立出版、1998

 

謝辞

本稿を書くにあたり、有益な助言をいただいた本学経営学部魚田勝臣教授、大曽根匡助教授に感謝いたします。また資料を提供いただいた企業の方々、特に丁寧なご協力を賜った日本アイ・ビー・エム(株)の井野英哉様、寺島弘様に感謝いたします。

Copyright 1996 by Osaaki Watanuki, Senshu University