松永賢次
のどかな大会でしたね。
1号館に掲示されていたポスターを3年生が見て,自主的に参加を決める。私は「頼まれコーチ」でまったくの付き添い。参加チームは,松永研の3年生からなる2チームで,使用言語でチームを分ける。
10月10日の祝日に大学で国内予選をした。午前中が練習で,午後が本番であった。ルールがちゃんとわかっているのが安部君一人という状態で,練習セッションでもなかなか正解しない。昼休みにルールについてみんなで理解をして本番にのぞむ。ところがA(多角形の面積)のアルゴリズムが誰もまったくわからず,
Java言語で参加したのは,専修大学チームだけで,自称「Javaプログラミング日本一」と名乗ることにした。
1998年大会の経験が活きる。
学生たちに任せていたのでは話にならないことがわかってきたので,「頼まれコーチ」から「アドバイスコーチ」になることにした。
前年大会をやっている最中に採用した2年生に対して,プログラミングコンテストの過去問を使ってのプログラミング勉強会を1998年の10月から始めた。1999年4月に3年生になると,
国内大会当日は,松永は講演のため九州へ出張。かわりに綿貫先生に監督を頼む。この年の予選突破ルールは少々複雑であったが,最大2チームしか通過できない。私の期待としては,3チームのうちの2チームが何とかできればな,というところであった。
さっさとA, Bの2問を解いて通過。正確なコーディング能力を持つ益居君と,効率的なアルゴリズムを考える能力が高い愛川君のコンビが活きた。益居君がAをコーディングしているあいだに,愛川君がBを考え,Aができた後に,愛川君が考えたBのアルゴリズムを益居君がコーディングして正解,と見事なコンビネーションを見せた。
松村君が2問,久保田君が1問解いて見事に14位に入って通過。このチームは,チーム戦術なるものは一切ないが,個々人の能力が高いので,最後に2問解いて追いこみに成功。
これまでの貯金を使いきる。
「アドバイスコーチ」からだんだん「指導コーチ」になってしまう。
監督をする。この年は3チームまで予選突破できるので,2チームは予選突破して,さらにどこかのチームが残ればいいなくらいに思っていたが,まったく甘かった。
エースの浅羽君が,一番やさしい問題であったAをさっさと愛川君に譲ってしまい,Cをやり始めてしまったのが失敗の始まり。Aがあまりにやさしかったために,30分経過後には,すでに予選突破ラインの40チームが1問できてしまっていた。浅羽君がCを正解したが,この段階ですでに50位近い順位であった。次に愛川君がAのプログラムを入力を始めるも,浅羽君と畠山君はほかの問題に向かってしまう。愛川君のコーディング能力では危なっかしい,と思いひやひやしたが,なんとかAも正解。このチームはらくらく20位以内で通過できると思っていたが,なんとかぎりぎりで予選通過。私が,始まる前に,このチームは3問は解かないと,と言ったことが,苦しくしてしまった原因だと反省する。
わかったことは,練習でできないチームは本番でできることはない,ということ。
個人能力をもっと引き上げないと戦えないということがわかったので,Valladrid Online Judgeを使って,