比喩形象としての薔薇の具体例をあげてその特性について考察する

                       LJ 久米夏絵

 

 

「この者どもの首をちょん切れ!」

 

 多くの薔薇が咲き乱れる庭園で、ハートの女王はヒステリックに金切り声を上げる。目を見開くアリスと頭を垂れる三人の庭師、ハートの王様にトランプの兵隊、そして『白い』薔薇から血のように滴り落ちる、真っ赤なペンキ……。

 名作・「不思議の国のアリス」のワンシーンであるが、この場において死刑を下されたのは、アリスではなく庭師達だった。ハートの女王陛下の命令で『赤い』薔薇を植える筈が、間違って『白い』薔薇を植えてしまった庭師達は、慌ててペンキを使って『白い』薔薇を赤く塗り替えようとするのだが、そこを女王に見つかって死刑宣告を受けてしまう、という話の流れである。私はこのシーンでの重要なキーワードである、庭師達が死刑を下される原因ともなった『薔薇』について考察したいと思う。

 まずはアリスが薔薇の庭園に辿り着いた時、庭師達が歌っていた曲を挙げてみたい。『白い』薔薇に赤いペンキを塗りたくりながら歌っていた曲である。

 

  「薔薇の花を 赤く塗ろう 急がにゃしぼむよ 花の命」

 

軽快なリズムで明るく歌っていながらも、歌詞の内容は庭師達の悲しい運命を暗示するように暗い。ここで言う『花』とは一見『薔薇』を表わしているように思われる。けれど、急いで色を塗り替えなければ、薔薇の命がしぼんだりする事があるだろうか。別段、色が白いままであったとしても、薔薇の命がしぼむような事はない。むしろここでしぼんでしまうのは、女王の命令に従えなかった自分達の命の筈だ。女王に見つかる前に全ての薔薇を『赤く』塗り替えられなければ、その場で死刑を宣告されてしまう。そう、ここで歌われている花とは、庭に咲いている薔薇そのもののことではなく、庭師達の命の例えとして歌われているのである。

そしてその歌が予告しているように、結局三人の庭師は女王の命令によって処刑されてしまう。それも、首を刎ねられて、である。さすがに実際にそのシーンが描写されているような事は無いが、それでも首を刎ねるのであれば、さぞかし辺りにはどす黒く赤い血が飛び散ったことであろう。胴と首をばらされた庭師の血で、残っていた『白い』薔薇が『赤く』染まっていく……。「不思議の国のアリス」は奇妙で奇天烈な世界を描いている物語であるが、語られてはいないものの、この瞬間の庭園ほど狂気と恐怖が入り混じったシーンは無いであろう。

 それでも薔薇は枯れる事もなく咲き続けている。赤いペンキ、赤い血を滴らせながらも、ようやく本来自分があるべき姿だった『赤い薔薇』になれた薔薇は、しぼんでしまった庭師達の命を、代わりに自分が吸い取って咲いているのである。他人の命(血)を犠牲に、自分のあるべき姿に戻る『薔薇』。それは美しくも、これ以上無い『自分勝手な冷酷さ・残酷性』を秘めているのではないだろうか。

 そしてもう一つここで注目したいのが、その『残酷性』とは一体どのような残酷性であるのか、という点である。それを考察するにあたってヒントとしたのが、庭師に同情したアリスが『白い』薔薇を赤く塗り替えるのを手伝うシーンである。

アリスが自らの手で、『白い』薔薇を赤く塗り替えている。『白い』薔薇から、『赤い』薔薇への変化。少女の手で、未完成だった薔薇の花を完成させること。それはまるで、女として未完成だった『少女』から、成熟した『女性』への変化を例えているように思わせる。

それを先程考察した『冷酷さ・残酷性』と合わせて考えてみると、『赤い』薔薇は、まるで『女性の持つ残酷性』を表わしているかのように思われる。

けれど実は、ここで物語における矛盾が発生しているのだ。

「不思議の国のアリス」において『少女』の役割を果たしているのは、アリスそのものだった筈である。しかし奇妙な世界に迷い込んでしまったアリスは、その奇妙な世界に生きている奇天烈な生き物達と出会っては、道徳を説き、世の中の正しさを主張する。一方で、ハートの女王はそんなアリスの言葉には耳も貸さず、ただ自分の横暴な意見だけを主張し、わめき散らす。彼女にとって正しいのは、世の中ではなく自分なのだ。

それを見た時、人々は一体どちらを『少女』……つまりは『子供』の姿だと判断するだろうか。

 当然、女王のやっている事、言っている事の方が子供の言い分だと判断する。世の中の指針よりも自分の考えを正しいとするのは、子供の勝手な言い分だと世間の人々は判断するからである。

つまりアリスが『白い』薔薇を赤く塗り替えていく行為は、『少女』から『女性』への変化ではない。理知的な考えを持つ『白い薔薇』(大人)から、自分勝手でわがままな『赤い薔薇』(子供)へと戻っていくこと。『女性』から『子供』への逆転なのだ。それを証明するかのように、女王は赤く塗りかけの『白い』薔薇を見つけた時、顔を真っ赤にしてこう叫ぶ。

 

 「どうして赤く塗ったりしたんだい!よくも私の花を汚したね!!」

 

自分で『赤い』薔薇を所望しておきながらも、実際にそれに近付けようとすると、怒りを覚える。それはまるで、ひどく自分勝手な癇癪を起こす子供そのままの様だ。そうしてその口から次に出てくる言葉が、「首をちょん切れ!」である。自分の気に入らない事があると、すぐにそれを理不尽な言葉で解決しようとするのは、子供の典型的なパターンであろう。

そして女王の「首をちょん切れ!」という、あまりにも残酷なセリフの割には、それに伴う嫌悪感や悲壮感が少ないのは何故なのか、という疑問もこの点で解決される。

いたって簡単な理由である。それは、女王の言っている事もやっている事もみな、『子供のワガママ』だからだ。それは全て、「ゲームに勝てないからもう抜ける」、「今日は気分じゃないから学校へ行かない」、その程度の事なのである。子供のわがままを見て、多少の不快感を覚える事はあっても、そこまで目くじらをたてて怒る人間はあまりいない。

しかも女王の言っていること、やっている事を、実は自分達が子供だった時に経験した事がある、という人も決して少なくはない筈なのだ。子供の頃、蟻の巣に水を流し込んでみた事はないだろうか?蛙を捕まえて、遊んだ事は?カブトムシやクワガタ、蝶々を捕まえて飼ってみた事は?それらは全て、女王の恐ろしい言葉を、現実の世界に転換させた行為に過ぎない。

大人になってから考えてみると、思わず背筋がゾッとするような事でも、子供は愛らしい顔をしてケロリとやってのけてしまう。天使の顔をした、悪魔の残酷さである。女王の行い、『赤い薔薇』の持つ残酷性とは、そういうモノを持っている残酷性なのだ。

以上の点から、『赤い薔薇』が意味している残酷性とは、決してただの残酷性ではない事を主張したい。それは、みずみずしい果実の中に毒を含んでいるような、『子供特有のわがままさを持つ残酷性』なのである。