船木亨『哲学の扉』へもどる


エクリチュールは、反コミュニケーションである

―――ロラン・バルト『零度のエクリチュール』みすず書房21


 エクリチュールとは〈書きことば〉、「文字を書く作法」といった程度の意味である。文字は、便利な手段である。文字のない社会では、何事も記録として残らないだろうし、遠くのひとにことばを伝えるにも不正確なものになってしまうだろう。その意味で、文字は人類にとっての一大発明だったのだし、世界中に普及したのである。いまや若者たちは、文字をケータイのテンキーで送信するという驚異的な(?)能力を身につけつつあるほどである。

 

 ところがすでに、古代の哲学者プラトンは、文字によってひとは愚かになると警告を発していた。文字に頼ろうとする分だけ、ひとは思考や記憶を捨ててしまう。なるほど、あらゆる便利な道具には、みなそうした傾向がある。車に頼れば、ひとは体力を失ったり、環境を汚染したり、風景の微妙な変化に気づかなくなってしまったりする。だが、それにしても道具はそれ以上の利便性を齎すし、そうした弊害を減らすこともできるはずである。プラトンは、どの時代にもいて進歩に反対するひとびとと同様に、少しいいすぎたのではないだろうか。

 

 とはいえ、もしことばがたんなる道具ではなく、書かれたものがただそれを表示する文字の集まりではないとしたら、話はまた違ってくる。

 

 ことばは、概してつぎのように考えられている。それぞれの国語には、いくつかの要素となる音があって、それを組合せて語を作り、これが主語、これが動詞とならべていけば、ひとつの文ができあがる。話し方が悪いときには、別の語を使ったり、語の順番を変えてみようというように、辞書や文法によって修正できる。

 

 だが、何を基準として修正すればよいのか。教科書にすべての例文が載っているというわけでもなく、自分の考えを表明したいときには、どうしてもあるいいまわしを使いたいといったことがある。ひとは好きなように語ることができるのだが、どんなに自分のことばづかいが正しいと思っても、ほかのひとが理解できなければしかたがない。

 

 というわけで、日本中、この瞬間にも、無数のひとが無数のことばを語っており、それが通じあっているからこそ、ことばが成立っているのである。だれかの少し変わったいい方も、ほかのひとたちが追随してくれさえすれば、それもまともなことばだということになるだろう。

 

 国語審議会のひとたちが悩むのだろうが、ことばはそうして変化していき、どんな辞典、どんな文法書も、絶対に正しいとはいえなくなってしまう。多くの大人たちが、若者に向かって、君たちのことばは変だと眉をひそめるが、かれらとて、若いうちはそうだったし、そのころ使ったことばのうち、淘汰されたものを基準としているだけなのだ。

 

 では、辞典や文法書は、年寄りたちのただの押しつけなのか。―――ことは、それほど単純ではない。われわれが普段語っていることばは、実際文法からはずれていて、語の意味も曖昧である。若者だけではなく、だれしも日常会話では、点や丸もなくだらだらと語り続けるばかりで、ほとんど正確に語ることができないのだ。

 

 ことばは、語とその並べ方の規則でできているとは、一体だれがいうだろう。というのも、そうした規則が正確に現れてくるのは〈書きことば〉のなかだけであり、〈話しことば〉というものは、正しく語るべきときには、かえってそれを真似るといった程度のものである。それゆえ、どこかの国の大臣たちのように、公式の場面では、ひとは書類を用意して、その通りにしか語るまいとするひとが多いのである。

 

 われわれは、〈書きことば〉を〈話しことば〉を写しとるちょっとしたマナーのようなものだと考えているが、本当はそれは逆なのだ。〈話しことば〉は、―――母語ともいうように―――最初は親の口から写しとられ、コミュニケーションを実現するものであったとしても、正しく語るようにと強制され、そのうち、失敗した書きことばのあわれな残骸のようになってしまう。ことばで語り得るすべての範囲のうち、〈書きことば〉によって正しいとされる領域以外は、みなナンセンスの領域とされてしまうだろう。ひとは、ことばを規制するのは「常識」だと考えるかもしれないが、〈書きことば〉は、それはそれで、常識的思考とはまったく異なった秩序のもとにある。

 

 ことばは―――かつてデカルトが述べたように―――思考の表現ではなく、語りたいことを語や文法の規則に従わせれば、だれにでもそれが通じるというわけでもない。それらの規則もひとつの〈書きことば〉であり、むしろ、〈書きことば〉のなかである種の規則が生まれてきて、それが話しことばを制御する。論理とは、それもひとつの〈書きことば〉であり、科学も倫理も法律も、みなある種の〈書きことば〉なのである。無数の書物が書かれてきたが、それらはみな、その〈書きことば〉によって、ひとびとの思考とことばと行動の全体を制御しようとする試みであったといえるかもしれない。

 

 一旦文字が生まれると、それが記録として残るようになり、読みなおされて使われるという体制のもとに、〈話しことば〉のコミュニケーションが否定された〈書きことば〉の支配がはじまる。かくして、社会は書かれた規則によって制度化され、時代は書かれた歴史によって規定されるようになってくる。ロラン・バルトが重要だと考えたことは、こうした〈書きことば〉の秩序、すなわち「エクリチュール」が、思考とは違うところで働いており、ひとが何を考えようとしても、その秩序のなかで、その範囲内でしかそうできないのだということである。

 

 それゆえに、作家や思想家など、あえて書こうとするひとびとの特別の努力があるとすれば、それは、読み手にいかに分からせようかとか、思考をどうやって首尾一貫して説明しようかというようなコミュニケーションのため以前に、ことばとは何かを見つめつつ、現在のさまざまなエクリチュールにどうしたら抵抗できるかということであって、そこにこそ人類の知的な営みのすべてがあるといってもいいくらいなのである。


 ロラン・バルト(19151980)は、現代フランス思想を代表する構造主義文芸批評家。長い結核療養ののち、1952年に国立科学研究センター研究員になり、そのころ『零度のエクリチュール』を書いて注目を集めた。1962年に高等学術研修学院教授、1977年にコレージュ・ド・フランスの教授に就任した。構造主義言語学を文芸批評、文明批評に適用し、「エクリチュール」概念によって、言語に内在する倫理や、言語の言語に対する作用について考えることを可能にした。著書は、『神話作用』『モードの体系』『テキストの快楽』ほか多数、日本文化を分析した『表徴の帝国』もある。


船木亨『哲学の扉』へもどる


© 2006  Toru Funaki All Rights Reserved