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ものから泡しか残らないまでに引出された諸部分に対して実体の名が付される、これが大地の位置を占める

―――ジェレミィ・ベンタム『論理学 Fragment of Logic


 いまでも、バブルの後遺症に悩んでいるひとびとがいると聞く。高騰したときに土地を買ってしまい、ローンを返せなくなっているのに、その土地を売ることもできないという。

 バブルは、忌わしい現象だった。バブルの時期には、ひとは自分が必要としなくても、それが将来値上がりしそうだというだけで購入し、より高い値段で転売し、さらにまた購入して、どんどん値段をつり上げていった。こうしたことに、ひとびとは、もはやうんざりしている。購入すべきものは、自分が本当に必要なものだけにしておくべきであろう。

 だが、「本当に必要なもの」とは何だろう。社会的な場面で生じてくる欲望でなく、生存のために最低限必要なものがあるのではないか。

 ホッブズは、人間は自己保存と生殖のためには何でもなし得ると述べた。それが、人間が人間であることの基本である。衣食住が人間に備わっていないところでは、飢えや寒さや渇きが襲ってくる可能性がいつもあり、ちょっとしたことでひとは死んでしまう。ひとが簡単には死なない条件というものがあるはずであろう。…………しかしながら、そういうふうに考えていては消費は落込んでしまい、景気はなかなか回復しないのである。

 資本主義的生活とは、奇妙な生活である。お金とは、それによって自分の生活を豊かにするためにあるだろうに、お金をため、さらにお金を増やすためにお金を使うひとびとを作りだす。消費する方のひとびとも、流行しているもの、新奇なもの、ひとがもっていないものを求める。消費しているものは、むしろひとが何をもっているか、どんな生活が快適かという情報なのであり、いまや自分自身についてまでも、情報によって形成しているのではないだろうか。

 ところで、ベンタムは、生存の条件と快苦の経験は区別ができないと述べている。人間は、ホッブズのいうように、生延びるために生きているのではなく、快を求め苦を避けて生きている。生延びていくことは、なるほど快苦を経験する不可欠の条件であるが、苦が多く快が少なくても生きていくべきだとはいえない。ベンタムは、そうした状況になれば、ひとは自殺を選んで差支えないとまで述べている。

 おそらく、われわれは、生きているということがどういうことか分からないままに生きている。生きているということがどういうことか分かれば、どう生きていくべきかが分かるはずである。生きているということは、われわれの生活が病気や貧困や災害によって脅かされるときに姿を現す。そして、多くの宗教やある種の思想が、その本質を教えると称してきた。

 しかし、ベンタムが述べているのは、「泡(バブル)が大地の位置を占める」ということである。泡とは、言語によって作りあげられたフィクションの意味である。われわれは、「ランド・オブ・フィクション(虚構の国)」の住人だというのである。いまはやりのバーチャル・リアリティだとて、ことさら特殊なことではなく、コンピュータ言語によって作りだされた、泡の世界の単なる延長にすぎない。

 ウィトゲンシュタインがこれ以上ない明晰さで述べていたが、哲学者たちは、言語とは世界を映しだす鏡であると考え、ことばのなかに確固とした事実を表現することを求めてきた。だが、世界と言語は、そのように平行して対峙しているのではない。ベンタムによると、世界とは、ことばの無数の合わせ鏡から成立っていて、互いに互いを反射し合っているだけの、捉えどころのないものなのである。

 われわれは、ことばの意味を調べるのに国語辞典を引く。だが、その説明もことばで書いてあり、そのことばの説明を求めてさらに辞典を引くうちに、最初のことばに戻ってしまうということがあるかもしれない。

 ことばの群をなぞっていくあいだに、自分の経験と対照して、ようやく事実の世界へと、突然理解が飛び移っていくことができるのだろうか。それを保証するものはどこにあるだろうか。クイズの答のような知識を多量にもっていても、現実のなかでそれを適用できないひとはいっぱいいる。

 図を描けば分かるではないか、と思うかもしれない。だが、漢字を見ても分かるように、図もことばの一種ではないか。動物の認知活動は、本質的に状況に依存しており、対象は反応を示すべき刺激以上の意味をもたないといわれる。人間のように、自分の行動とは無関係に個々の物体を捉え、それを分析したり総合したり、つまり分解してその組立てを理解したり、もっと一般的なものの全体から捉え直したりはしない。個物の認識は、人間の知性によってはじめて可能なのである。

 だが、ベンタムは、それは知性という能力によってではなく、言語によって可能になっているだけだという。そして、ことばは、本質的に行動の一種であるという。

 ことばは、快を求めて、異性や事物を現前させる道具なのである。人間は、黒雲が雨を降らせるように、だれかに声を呈示してその欲望を実現しようとする。ことばは、真理を語るためにあるのではない。ことばが何かを映しだすことがあるとしたら、それは、ひとびとが権力の意図に正確に反応して行動するように、言語が精密になることによって生じてきた特性である。ことばが事実や個物に対応するようになるのは、法のなかで犯罪と処罰が対応させられるようにしてなのである。

 われわれが「もの」が好きで、「もの」に執着するとすれば、それは、「もの」が科学者たちが説明するような単なる物質なのではなくて、ことばでできた快苦の相関物だからである。ベンタムのいうように、ことばの起源にある権力や性が、泡のような虚構の「もの」に、人生を軽やかにしてくれるものを求めさせるのかもしれない。 (船木 亨)


ジェレミィ・ベンタム(17481832)

 ベンサムとも。現代でも論議されている功利主義の祖。主著は、『道徳と立法の原理序説』。12歳でオックスフォード大学に入学し、弁護士を目指すが、自分には向いていないとして断念、執筆に専念する。イギリスではじめて、「哲学急進派」と呼ばれる学派を形成した。哲学を法制改革運動に振向け、世界的な立法アドバイザとして知られるようになった。かれによると、功利主義とは、人間が快を求め苦を避けるような存在であることを受入れて、幸福計算によって社会の最大幸福を目指す立場である。その根底に、独特の言語哲学がある。翻訳がほとんどないので、もっと知りたいひとは、拙著『ランド・オブ・フィクション』(木鐸社)を読んで欲しい。


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