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最大多数の最大幸福

―――ベンタム『道徳および立法の諸原理序説』中央公論社『世界の名著3886


 ダムの建設計画などでよく起こることだが、議論が生じるところでは、どこでもひとびとの意見が食い違い、結論が出なくて困る。自分勝手なひとが自分の利益だけを要求するのは論外だが、冷静に全体のことを考えているひとも多数いて、ところが、それらのひとたちがそれぞれ違う結論を要求するのである。

 

 かつて若かったころわたしは考えていた―――だれもが認めるような望ましいことがあって、結論がそれに結びつけられて説明されるなら、最後には、その意見に全員が従うのではないか。そして、そうした「望ましいこと」とは、幸福のことではないか。だれもが幸福になるということが示されれば、みんなが納得するに違いない、と。

 

 そこでわたしは、「幸福とは何であるか」と考えた。健康のことか、お金のことか、否、愛情のことなのか・・・。ただひたすら健康になるために運動し、検査し、あまりおいしくないものを制限しながら食べる生活ははたして幸福なのか。お金であれ愛情であれ、それがあればいいけれども、それさえあればいいというものでもない。人間にはそれらを捨ててでも追求するものがあり、健康やお金や愛情は、せいぜいそれをスムースに行うための条件にすぎないのではないか・・・。

 

 結局、当時のわたしの結論はこうだった。幸福とは何かと聞かれれば、それは何かは分からない。だが、不幸とは何かと聞かれれば、だれにとってもあきらかだ。深刻な事故にあったり、重い病気に罹ったりしたとき、親や大切なひとを亡くしてしまったとき、お金が足りなくて自分の道を進めないとき、孤独でだれにもこころを打ち明けられないとき、そんなときにひとは不幸である。――そうか、とわたしは思った。だれもが不幸とは何かを知っており、自分がそうなることを怖れるし、そうなっているひとに同情する。そうでなければいいのにと思うこころは共通である。とすれば、幸福とは、どこにも存在しない概念なのだ。それはただ不幸の反対というだけのことなのだ・・・。

 

 それ以来、すっかりそのことは忘れていたのだが、あるときジェレミィ・ベンタムという哲学者について授業をしなければならない機会が訪れた。そしてわたしはベンタムの本を読んでみて、あっと思った。そこにはあっさりと「幸福とは、快が苦を上回ること」と書いてあった。わたしはあっけにとられて、ほとんど笑いだしたくなるほどだった。わたしが若いころに考えていたことは何だったんだろう。

 

 間違えてはならないのだが、幸福とは、食べたり飲んだりセックスしたりと、そうした快楽のことではない。イギリス人は、「ありがとう」というと、「マイ・プレジャー(わたしの快楽)」と返事する。快楽とは、喜びのこと、気持よいこと、幸福とは、そうした喜びがそれに伴う痛みを少しでも超えているという意味である。だから、それはすべての経験に伴うものであって、行動の目的には快楽以外のものがあるとか、快楽にも質の差があるなどという批判はあたらない。どんな行動や経験も、うまくいくときには快が伴うし、あるいは伴う苦が少ない。というわけで、そこからベンタムは、社会全体にとっては「最大多数の最大幸福」が唯一の目的であると述べる。なるべく多くのひとにとってなるべく多くの量の幸福(苦が少なく快が多い状態)が生まれ、それを妨げないかぎり、自分が何をするかは個人の自由だというわけだ。

 

 わたしはこんなに明快な原理はないと思ったのだが、ところがまもなく、その評判が今ひとつであることを知らされた。第一に、どうやって幸福の量が分かるのか。ベンタムは、「幸福計算(快苦の計算)」を勧めるのだが、それはどうやってするのか?―――計算というと、紙に書いたり電卓を叩いたりする、数字を使うあの計算のことを指しているとひとびとは思うのだが、ベンタムのいう計算は少し違う。ちょうどコンピュータが計算して、画面に「あ」という文字を表示してみせたりするような、そんな計算のことである。たとえばのどが渇いて自動販売機の前に立ったとして、コーヒーを飲むかジュースにするかは、飲んだときの味やのどごしを想像しながら選ぶであろう。すなわち、どちらを飲んだ方がより快が多く苦が少ないかを「計算」しているのである。ベンタムは、精神に障害があっても拘束衣からは逃れようとするものなのだから、計算に理性は必要ない、感受性をもつどんな動物もなにがしかは計算すると述べている。

 

 このこと自体は、うなずけた。だが、問題は残る。ひとのこころは見えない。ほかのひとの快苦については、どうやって計算できるのか。そこから、最大幸福は一般にひとびとの快苦を計算することができないから机上の空論であるという第二の批判が生じる。それに対して、ベンタムは最大幸福は北極星のようなもの、すなわち進路を定めるためにあるのであって、現実にどうであるか計算するようなものではないと述べている。具体的にいえば、あるルールを決めるとき、それによって推奨される行為と禁止される行為が生じる。そのルールによって、その行為に関わるあるひとには快が生じ、あるいは苦が生じる。その傾向性さえ判定できればよい。その推奨や禁止が一般に社会全体に快を増大させるか苦を増大させるかということさえ分かれば、そのルールが正しいかどうかが分かるというのである。

 

 ふたたび、わたしはうなずいた。しかしまた、別の批判もあった。最大幸福というが、少数のひとびとが多数の快を得る場合と多数のひとびとが少数の快を得る場合とを区別ができるだろうか。最大幸福原理は平等を考慮しないのではないか。―――それに対して、ベンタムは限界効用逓減説的な立場を取る。たとえば百人のひとがいて全員にコーヒー一杯をふるまうのと、ひとりのひとだけに百杯のコーヒーをふるまうのと、どちらが全体の快の量が多いか。ひとは2杯目、3杯目になると、概してのどの渇きは癒されているし、味にも鈍感になる。とすれば、なるべく多くのひとにコーヒーをふるまった方が全体の快が増えるとはいえないだろうか。ベンタムは、平等は前提でも目的でもないが、最大幸福を実現するための指標にはなると述べている。

 

 以上のように、わたしには、かれの原理はどんな反論にも答えられるように思われた。だが、それにしても根本的な問題は残る。すなわち、だれが最大幸福を推進するかという問題である。それぞれのひとがみな、自分の利益を追求している。理性的な議論をしようというひとにも、その根底に何らかの快を求める動機、少なくとも議論をすること自体に自分の快を増やし苦を減らそうとする動機がある。だれが社会の幸福について真に考えようとするだろうか。


 ところが、ベンタムは、だからこそ随分と楽観的である。それぞれが自分の利益のために主張して議論が紛糾してしまったら、最後には、だれにとっても快が増え苦が減るような一般的利益の方策をだれかが提案して、それが受入れられることになるだろうというのである。こうしたベンタムの発想には、議論が公開され、利害が関わるすべてのひとがなにがしか議論に参加することが前提されている。しかし現実の「親方日の丸」的な閉じた組織では、利害が関わる外部のひとたちを排除して、自分たちの利益さえ保持されれば、まともな仕事をしなくても構わない、外部のひとたちが迷惑を蒙っても構わないといったような、自分たちだけの「一般的利益」を追求した手前味噌な結論を平気で出し、それがよく知られぬまま世間に通用してしまうのではないか。わたしは「議論をするのは理性ではなく、利益を追求するためだ」というベンタムの考えが正しいと思えるだけに、ひとびとが議論して決めることに、最近は、かえって悲観的にならざるを得ないのである。(船木 亨)


 ジェレミィ・ベンタム(ベンサムとも)(17481832)は、現代でもよく論議される「功利主義」哲学の祖。主著は、『道徳および立法の諸原理序説』。12歳でオックスフォード大学に入学し、弁護士を目指すが、自分には向いていないとして断念、執筆に専念する。イギリスではじめて、「哲学急進派」と呼ばれる学派を形成し、哲学を法制改革運動に振向けて、世界的な立法アドバイザとして知られるようになった。かれによると、功利主義とは、人間が快を求め苦を避けるような存在であることを受入れて、幸福計算によって社会の最大幸福を目指す立場である。その根底に、独特の言語哲学がある。翻訳がほとんどないので、もっと知りたいひとは、船木亨『ランド・オブ・フィクション』(木鐸社)を読んでほしい。


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