船木亨『哲学の扉』へもどる


いま、慶ぶべきことに、意味は決して原理や起源ではなく、生産されるものだというよいニュースが流れている

―――ジル・ドゥルーズ『意味の論理学』(法政大学出版局、1987)


 「人生にはどんな意味があるのだろうか」と考えたことのあるひとも多いに違いない。その答は、見つかっただろうか。

 なかには、「そのような問には答がない」などと、うがったことをいうひとがいるかもしれないが、そんなことを信用してはいけない。「答がない」というためには、問うてみなければならないのだし、それも徹底的に問わなければそのような断定はできないはずである。その答を出すには人生が短すぎる、というだけかもしれないではないか。

 ドゥルーズが述べていることは、そもそも意味は発見されるようなものではないということである。発見されるものではないとすれば、「人生にはどんな意味があるのか」という問は、問い方が間違っているのである。哲学は、与えられた問に答えようとすることではなくて、どのように問えば問題を明らかにできるかを、まず考えることである。

 意味ということばの意味は、通常は、ことばの意味のことであると考えられている。ことばには、意味がある。だが、同じように音でありながら、音楽には意味はない。いや、音楽に意味はないというと、音楽好きのひとが文句をいうだろう。では、音楽にも意味があるのか。こころをなごませたり、あるいは生きていることを実感させるだけの大きな感動を呼び起こしたりもするではないか。

 われわれは、ことばには意味があると思っているが、それはほとんど同時に三つのことをいっているのだ。第一には、文法的に正しく整えられたことばにあると想定されている意味。第二には、しかし、それによって理解はされたとしても、「ナンセンス」といわれるように、現実には適さない場合がある。ナンセンスは、ことばとしての意味がないのではなく、ことばのうえでしか成立たない意味である。だから、ナンセンスでないという意味でのまともな意味。第三は、たとえナンセンスであっても、そのことばが発せられることに意味があるという場合がある。遅く起きてきたひとに「早かったですね」といったら、それはナンセンスであるが、気遣いであったりイヤミであったりするであろう。

 意味を、ことばをうまく並べさえすれば自然発生するものと考えるのは、あまりよい発想ではない。コンピュータでランダムに打出した単語の群のなかにも意味のあるものが生じるが、それを発見するのは、あくまでも人間なのだ。ことばの意味といわれているものは、われわれが理解した意味の最低限の条件として、ことばに見出だされる万人共通のはずの、いわば意味の条件にすぎない。だからこそ、自分の語ったことを相手が正確に理解していないからといって、ことばの意味を争っても水かけ論にしかならないのである。

 したがって、わたしが「意味のあることを語ろう」というとしたら、わたしのいいたい意味は、もうお分かりであろう。文法的に正しく喋ろうといっているのではない。メルロ=ポンティは、「語ることば」と「語られたことば」を区別した。われわれがことばのなかで問題にしている意味は、感じたことや考えたことについての意味である。「このバラは赤い」とか、「行政改革は難しい」というときの意味、すなわち感覚の意味、出来事の意味である。われわれは、それをこそ語ろうとするのである。ところが、同じことばでありながら、何のインパクトもなく語り続けられるおしゃべりもある。それが「語られたことば」、ことばの残骸のようなもの、擦り減った硬貨のようなことばである。

 では、まさに語ろうとしていることばの意味は、一体どこにあるのか。

 それはわたしこそが語るのだから、わたしの胸のうちにあるのか。わたしの胸のうちにあるならば、それはわたしの感情や空想のことになる。ひとがそれを聞いて見出だすことができるのだから、どこか社会のなかの約束事にあるのか。社会のなかにあるならば、それは事物や事実のことになる。それとも、原理や起源が見出だされる普遍的な世界のうちにあるのか。

 だが、わたしは、わたしのことばや相手のことばのうえに、「意味」を発見するのである。そして、「ああ、そうか(ヘウレカ)」と思うのである。そのとき、ドゥルーズは、意味が発見されたのではない、複製されたのでもない、生産されたのだというのである。

 ドゥルーズは、世界とは普遍的なもの、完結した確固としたものから成立っているのではなく、たえず衝動的無意識的に生産され続けているものだと考えた。生産といえば、予測し、企画をたて、目的とされた製品が規則的に生じるようにすることであろう。だから、生産するためには、意味がもともとなければならない。ところが、「生産の生産」という語で、ドゥルーズはまったく反対のことを考えた。意味がまず生産されなければ、そんな生産活動も不可能なのだからである。

 もともと、ピュシス(自然)とは、死んだ物質相互の作用ではなく、生きているものを産みだす力のことだった。何が産みだされるのかは、予め分からない。だれが産みだすのかといえば、わたし以外の何者かとしかいいようがない。だが、わたしと無関係にわたしのそとで産みだされるのではない。わたしは、そうした意味の生産に立会うことができるのだし、だれかとともに立会うこともあるのだ。

 立会うとは、それを通じてさらに何ごとかの出来事が展開していくような歴史の場面に存在するということである。あなた自身の歴史、あなたがたの歴史、そしてわれわれの歴史。なぜなら、意味とは、それをあなたが行動によって追っかけていくように、出来事の展開の中核をなすものを指しているのだからである。人生が工場で生産される製品ではないとしたら、あなたの人生だって、そのようなものなのである。(船木 亨)


ジル・ドゥルーズ(19251995)

 現代フランスの代表的哲学者。ポスト構造主義者と呼ばれることがあるが、その呼び方にあまり意味はない。ベルクソンやニーチェの研究を通じ、主著『差異と反復』(河出書房新社)によって「差異の哲学」を確立した。そこにおいて、同一性によってすべてを説明し尽そうとする西欧哲学の伝統を批判している。ドゥルーズが有名になったのは、フェリックス・ガタリとの共著『アンチ・オイディプス』(河出書房新社)によってである。そのなかで、現代の資本主義文明を、物質とも生命ともいえぬ「欲望する諸機械」とその総体における独自の論理によって捉えた。もっと詳しく知りたいひとは、拙著『ドゥルーズ』(清水書院)を読んで欲しい。


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