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〈見るということ〉は、まるで十字路でのように、存在のすべての象面が出会うことなのである

―――モーリス・メルロ=ポンティ『眼と精神』(みすず書房1966)


「百聞は一見にしかず」ということわざがある。だれがいったか知らないが、それを信じているひとも多い。

 しかし、本書の企画は、「百見は一聞(一文)にしかず」ということを証明しようとする企画なのである。哲学者のひとことが、われわれが見てきたことを覆してしまうこともある。われわれは、聞くこと、読むことのなかに、見たものよりも多くの真実を探しているから、哲学書を読んでいる。

 精神盲という症例もあるし、フロイトが教えている、ひきだしの一番上にのっていた妻の写真がどうしても見つからなかった男の例もあるが、ひとを対象のまえに連れてきさえすれば、見た通りのことが分かるはずだというのは、思い込みにすぎない。「百聞は一見にしかず」ということわざは、さして体験もないくせに情報ばかり仕入れて、わけ知り顔に説明するだけの「耳年増」や、ひとごとのように予測するだけの「事情通」にいってやればいいことである。

 だが、プラトンのイデア(観念)ということばにも現われているように、哲学においてもまた、見ることは特権的なものと認められてきた。哲学は、プラトンによると、単なる見かけを超えて、本当のものを見ることなのである。

 見ることは、われわれが「分かる」と感じることの原型といっていいかもしれない。だまし絵や幾何学の問題を見ているときのように、最初は何かよく分からない漠然とした図のなかから、突然意味のある線が出現し、われわれは「分かった」と思う。それ以降は、その新たな意味をもった線を、見ないわけにはいかないほどであるのに、それ以前は、それがまったく見えなかったのだ。

 アリストテレスは、見えるということに三つの条件を挙げている。すなわち、「見られるもの」としての対象、「見るもの」としての視力、「それによって見させるもの」としての光である。だから、「百聞は一見にしかずだよ」といいながら何かを見せたときに、「わたしには見えない」というひとがいても、驚くにはあたらない。対象が見つからないのか、視力が悪いのか、暗いのか、見ることは、いかにも単純ではない。見るということは、魔法の杖の一振りのようなものではないわけだ。

 だが、それだけではない。

 見ることについての科学は、もっと驚くべきことを発見した。デカルトは、ものが見えるのは、いわばてこのようにして、光が眼のなかに入ってきて網膜を刺激するからだと教えているが、よく考えてみると、網膜に映しだされている像は倒立しているのだ。われわれが見る風景は、眼のなかでは逆立ちしている。しかも、ご親切にプリズムを使って眼のまえで風景を倒立させてやっても、一週間もすると正常に見えるようになってしまうという。このことからいえるのは、一体、見たものは、どこにあるのかということである。

 脳のなかの電気信号にすぎないといわれると、その説明は、もっとよけいに謎を膨らませる。見ることを、刺激と反応といった力の作用によって理解するよりも、古代のひとたちのように、対象から小さな模像が飛んでくるといわれた方が、よほど分かりやすい。われわれは、まず見えるということを知っていて、それをあれこれ説明しているにすぎないのだ。

 むしろ、脳のなかに見たもののイメージができるのではない、われわれの方が見たもののうえにいるのだと、ベルクソンは述べた。実際、読者も、自分が見ているものが、頭のなかにではなく、それがある場所に存在すると信じているであろう。さもないと、見るということは、得体のしれない触覚的対象のなかを手探りで進みながら、脳に直接接続されたビデオ映像を見させられているのと別のことではなくなってしまう。

 ところが、である。世界はわれわれが見ている通りのものだということになると、もっと奇妙なことが生じてしまうのである。

 なぜなら、第一に、わたしは対象をいつも一定の角度からしか捉えられないから特定の面しか見えていないのに、その対象が壁に掛けられた平面図のようなものではなく、立体的で奥行のあるものだと信じているのである。

 第二には、わたしが視線を右から左に移しても、世界が左から右へと移動していくとは見えず、わたしがまばたきをしても、世界が一瞬暗黒になったとは見えないように、わたしは、世界がわたしが見ることと無関係に存続していると信じているのである。

 第三に、わたしは、見ているわたしの眼球の内部や、太陽のように(明るすぎて)直接見たことがないものも含めて、一度は見たことのあるものであるかのようにして、世界は隙間なく見えるものだと信じているのである。

 最後に、わたしは、ほかのひとの眼から見るという経験ができるわけもないのに、世界のどんな対象についても、ほかのひとが見るものと同じものが見えるのだと信じているのである。

要するに、ひとことでいうと、見るという、ほんのちょっとした挙動を通じて、わたしは、世界がひとつのものであって、同じひとつの世界のなかに、他者とともに存在しているのだという信念を獲得しているのである。

 見るということをよく考えてみると、存在は、見られたものを集めたものではなく、見えないものとの出会いのなかに現れる。どうしてこんなことになっているのかというのが、『見えるものと見えないもの』という未完の大著の執筆中に、心臓麻痺で急逝してしまった、われわれの哲学者の問であった。(船木 亨)


モーリス・メルロ=ポンティ(19081961)

 現代フランスの代表的哲学者。1945年にリヨン大学講師、1949年にパリ大学教授、1952年にコレージュ・ド・フランスの教授に就任した。現象学の立場から自然と世界とを捉えなおそうとしたが、そのなかで、すべてが完全に与えられるわけではなく、人間はどうしても受動的な側面から逃れられないことを強調した。しかしながら、そうした受動性こそが、真理が与えられる積極的な条件であることを示そうとしていたのである。主著は、『知覚の現象学』。ほとんどの著書が、みすず書房から翻訳されている。


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