船木亨『哲学の扉』へもどる


人間は人間にとっての鏡である

―――モーリス・メルロ=ポンティ『眼と精神』(みすず書房1966)


 われわれは日頃、身だしなみを整えるために自分の顔を鏡で確認し、すっかりそれに馴染んでいる。ところが、ご存知のように、鏡像の顔は左右逆転している。

 

 顔の左右は微妙に異なっているのが普通なので、写真で自分の顔を見たときに、そちらの方にかえって違和感を抱くほどである。ひとが自分の顔貌を最善の状態にしようとするのは鏡によってなのだから、写真に映る顔を見て、多くのひとが自分は写真映りが悪いとか、少なくとも自分らしくないと感じるのである。

 

 自分の胴体や手足は、じかに見ることができるから、他人が見る通りのイメージをもつことができよう。ところが、そうした胴体のうえに、われわれは左右逆転した首を載せた身体像をイメージしながら生活している。われわれは毎日ひとに出会っているが、自分の真の顔がどのようなものか、よく分からないままにそうしていることの奇妙さを意識はしないものなのである。

 

 ひとびとが顔をつきあわせている場面を想像してもらいたい。たとえば、雑談しながら、食べたり笑ったりしている。だが、そこにいるだれも、ほかのひとびとの顔を見ているその瞬間に、それぞれ自分だけは、ひとが見ているのとは左右逆転した自分の顔のイメージで、ほかのひとに向かいあっていると思いこんでいる。そうしたことを、その場の全員がやっている。

 

 だが、もっと変なこともある。そもそも、自分の身体は、手にせよ足にせよ、それらは眼からは放射状の方向にしか見ることができず、肩や背中でどう繋がっているか、見てとることができないのである。だから、自分の身体は、鏡に映った自分の身体の全体像とは、どう見てもおなじではない。とすれば、顔が左右逆転しているばかりでなく、自分で眺めると奇妙にくねくねした自分の身体が、他人に対しては、まっすぐに立って接しているということになる。

 

 なるほど奇妙だ、ということに同意してもらえるなら、だれか友人を引張って行って、鏡のまえに並んで立ってみよう。そのひとは、隣に立っていると同時に、鏡のなかに映っている。その二つの身体は、互いに左右逆転して正対している。とすれば、わたしの身体も、そのひとから見たらおなじように見えることだろう。わたしの身体は、わたしの身体の鏡像が左右逆転したように見えるに違いない。こうした推論によって、ようやくわたしも、他者とおなじ身体をもっていると確認して、ほっとすることができるのである……。

 

 そんなばかな、と思われたであろうか。だれもそんな「推論」などしていないとすれば、それでは何が、「鏡像の身体はわたしの身体を映しだしたものだ」と、わたしに確信させるのであろうか。

 

 もし人間の視覚が、光が網膜に像を結ぶことによって成立つとするなら、光景はいつもわたしを中心にしか捉えられないことになるし、その像は網膜のうえにしかないのだから、身体の外部のものを見ているということも分からないはずである。それなのに、わたしは世界をひとつの視点から見るのであり、そんなわたしもその世界のなかにいて、振りむけば世界のどんな方向も見えるのである。

 

 世界がそのようになっているわけは、メルロ=ポンティによると、わたしの身体と他者の身体が、おなじように相互の外部にあり、それぞれが物体とおなじ厚みを備えているからである。光景のなかの他者が、おなじ光景を別の場所からまなざしていて、わたしの身体が向かう方向を横から見ているから、視野には奥行が与えられる。他者から見られるわたしの身体の厚みによって、わたしは物体のあいだに分けいることができるのだし、見えた光景のそれぞれの位置に、物体を見出だすことができるのである。

 

 ということであれば、世界とは、デカルトの考えたように、客観的な物質で満たされた空間なのではなく、主観と対象とを媒介する厚みをもった身体があって、そうした複数の身体に共有された場なのである。では、どのようにしてそんな世界が可能になっているかというと、それは、鏡像として見られた身体のもつ原初的意味によってなのである。

 

 メルロ=ポンティによれば、わたしの身体の鏡像が出現するのは、わたしが〈見る身体〉から〈見られる身体〉へと回帰し、わたしの身体という〈見えないもの〉が、わたしの見ているもうひとつの身体を身に着けるときである。だが、それは、どのようにしてなのか。

 

 論理的に考えてみよう。鏡像がわたしの身体を映しているのであれば、鏡像の身体からするとわたしの身体はそのまた鏡像でもあることになる。鏡に映った身体がわたしにとって他者の身体であるとすれば、その鏡像からすると、わたしの身体はその他者の身体の鏡像であり、おなじ理由によって、その他者の身体からしても他者であるような身体の像であることになる。したがって、そこで見出だされたわたしの身体とは、他者の身体にとっての他者の身体なのである。それとおなじことがすべてのひとに起こるならば、それぞれにとって自分の身体が、他者にとっての他者の身体であり、結局、他者の身体とは、自分の身体の鏡像なのである。

 

 「人間は人間にとっての鏡」である。それゆえ、自分の身体は、それとして捉える瞬間に、光景のなかに現われ得るすべての他者の諸身体とのあいだに内的な繋りをもっており、ひとは鏡像のなかに現われた身体を、わたしの身体であると知ることができるのである。これはひとつの推論ではなく、逆に他のもろもろの推論の基礎になる、身体についての最初の経験の仕方である。

 

 それぞれが自分の身体をじかに見ることができないのであるからには、光景とその奥行は、そこで相手の身体に自分の身体の鏡像を見出だしあう「鏡の国」としての、間身体性によって基礎づけられた空間である。そうした空間の発生論的構造こそが、複数の主観がおなじひとつの世界のなかで出会って雑談し、食べたり笑ったりすることを可能にしているのである。


 モーリス・メルロ=ポンティ(19081961)、現代フランスの代表的哲学者。1945年にリヨン大学講師、1949年にパリ大学教授、1952年にコレージュ・ド・フランスの教授に就任した。現象学の立場から、身体を中心にして世界とを捉えなおそうとしたが、晩年は、〈見えるもの〉と〈見えないもの〉や〈触れるもの〉と〈触れられるもの〉の裂開や絡みあいから、相互主観的世界の成立ちを解明しようとしていた。主著は、『知覚の現象学』『見えるものと見えないもの』。興味のあるひとは、船木亨『メルロ=ポンティ入門』(ちくま新書)、同『〈見ること〉の哲学―――鏡像と奥行』(世界思想社)を読んでほしい。


船木亨『哲学の扉』へもどる


© 2006  Toru Funaki All Rights Reserved