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善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや

―――唯円『歎異抄』第三条


 「善人は救われる」というのが通説である。「だから、悪人は必ずや救われるだろう」と親鸞が述べたとき、それは逆説以外のなにものでもなかった。

 

 悪人の方がよく救われるということになれば、だれが一体善を行い、善人になろうとするだろうか。善人になろうとするひとがいなくなれば、この世はもっと悲惨なことになってしまうのではないだろうか。実際、それをまにうけたひとびとがいて、さまざまな悪行をなしては、「自分は、だから救われる」と主張したりもしたらしいのである。

 

 それは間違った考えではないか、と問質したひとに対し、親鸞はつぎのように答えたという。

 

 ―――行って千人殺してこい、そうすれば君は救われるはずである。だが、君にはそれはできないだろう。なぜかというと、悪をなすとか善をなすとかいうことは、君自身のはからいによって決まることではなく、運命(宿業)によって決まっていることなのだからである。

 

 これは、受容れやすいことであろうか。

 

 多くの倫理思想においては、「ひとは善をなすことも、悪をなすこともできる」ということになっている。さもなくば、「善をなすべきだ」ということもいえないからである。だが、親鸞は、「善をなすことも悪をなすことも、自分ではできない」と考える。とすれば、われわれには何ができるのか―――そう、何もできないのである。

 

 「何もできない」なんてことはないだろう、とわれわれは思う。というのも、日頃われわれは何かをしながら生きており、そのなかで、よかれと思うことをやっている。ときには悪いことをやってしまったと後悔したりもする。

 

 それに対し、親鸞は、「だれも何が本当によいことか知らないし、何が本当に悪いことかも知らない」と述べている。それにしても、「千人殺してこい」といったとき、それは、「殺すことは悪いことだ」という前提からではなかったのか。

 

 なるほどわれわれは、植物であれ、動物であれ、他の生命を食べながら毎日を生延びている。食べるために生命を奪うのは自然のことがらであり、必ずしも悪いとはいえないだろう。「なぜひとを殺してはいけないか」と問うひともいるが、そのまえに、「ひとを殺すとはどういうことか」と考えてみる必要がある。

 

 森鴎外の『高瀬舟』という小説がある。首に刃物を刺して自殺しようとしていた弟が、苦しさのあまりにその刃物を抜いてくれと兄に頼み、兄はそうしたがゆえに殺人犯ということになってしまったという話である。一体兄は、弟を殺したといえるのか。

 

 ひとが死に至るのに効果のあるすべての行為を、殺人と呼ぶことはできないであろう。そもそも人間が生命であって傷つきやすい身体をもっていることは、ひとが死ぬ原因である。たとえば死にかけている人間を助けられなかった医師や医療技術、ひとが生きていくのもつらい惨めな状態に置かれる社会状況、さらには弱者を救おうとせず、災害等によってだれかが死んでも仕方がないという事情を放置する政治等々もまた、ひとが死んでしまう「原因」であるとはいえないだろうか。

 

 他方、すでに死んでいるひとを、そのことを知らずにナイフで刺せば、やはりそれは殺人(未遂)である。重要なのは、「何がその人間の生命活動を停止させたか」といった事実ではなく、「殺したい」と思う思いがめざしたものである。「殺意」は何をめざすのか、いいかえると、ひとは殺意を抱く人間に、どのようにして生成することがあるだろうか。

 

 ところが、そうしたこととはまた別に、ひとは偶然に死ぬのである。事故や災害や病気によって、戦争やその他の政治状況によって、そしてまた、たまたま周囲にいた殺意を抱く人間の行為によって、ひとは唐突に死ぬのである。それにまた、ただそこにいたひとが、そこを通りがかったにせよ、そこで生活しているにせよ、それだけの理由で死ぬことになっても仕方ないと、ひとびとは漠然と考えてはいないだろうか。

 

 だれもが知っていることであるが、自然の出来事によって死ぬひとは、皆から好かれ尊敬されているひと(善人)であろうとも、皆から嫌われ軽蔑されているひと(悪人)であろうとも、そんなこととは無関係に死んでいく。自然がなすことであるならば、あなたもそれをしてよいとする理由にはならないが、あなた自身が「自然」になるときには、あなたはひとを殺すだろう。それが自然の一部なら、「悪い」といってどうなるだろう。

 

 では、何があなたを自然へともたらすのか。われわれは日頃、ひとびとの情念を、少しばかり重視しすぎているのかもしれない。嫉妬や憎悪や怨念それ自体は、確かにひとを殺すことがあるけれども、必然的にそうするというわけでもない。それよりもむしろ、よいことをしようとする意志のまわりに、そうした情念が生育してくることの方が問題である。

 

 よいことをしようとする意志のよくない点は、それが他人にもおなじことをさせようとするところにあり、そうしないひとを罰したい、そうしないひとが残酷な目にあっても仕方ないと感じさせるところにある。ところが、ほかのひとにはそうしないことがよいことだとする意志もあって、そうした行為は、どちらの側であれ、ひとを殺したくなるのも自然な情念を培うことになるのである。

 

 それゆえ、親鸞のいわんとしたことは、最低限つぎのようなことではなかったか。―――よいことと悪いこととは正反対の二つのことがらではなく、よいことをしようとする意志をもち、自分は悪いことをしないでいられると考えたりしているひとの方が、本当はかぎりなく度しがたい救いのないひとなのだ、ということである。


 親鸞(11731260)、鎌倉時代の一仏教僧であるが、今日ではわが国の代表的思想家のひとりに数えられる。十七歳で受戒し、比叡山延暦寺で十二年修行したのち、法然のもとに通って浄土教に帰依する。僧としては、非僧非俗を唱えて妻帯し、弟子をもたないという異例の生活をしながら、独創的な仏教解釈による『教行信証』を著す。「悪人正機」や「自然法爾」などの概念に見られるように、現に生きている人間のありさまを熟視しつつ、超越の意味を徹底的に掘下げた。かれの思想は一旦埋没するが、唯円が書きとめた『歎異抄』を通じて蓮如によって復興され、浄土真宗の開祖とされた。興味のあるひとには、佐藤正英『親鸞入門』(ちくま新書)を勧めたい。


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