黄斑円孔手術体験記


診断からの1週間(手術を決断するまで)


2010年6月8日〜6月15日

診断を聞いた直後から、いつかは手術しなければならないだろうと思いました。医師は「翌週にでも」といっていましたが、講義をしなければなりませんし、放送大学の準備もありました。講義を休むと学生は迷惑だし、ほかのスタッフにも迷惑をかけることになりますし、放送大学の仕事の締切が9月中旬なので、ブランクが大きすぎます。手術は夏休みか、あるいは10月になってからかと考えて、予約を二週後の6月22日としておいたのでした。

水曜日には講義をし、木曜日には放送大学の収録に幕張まで片道2時間かけて行きました。このように、仕事をこなしているうちに、片目で見るのに慣れていって、能率は落ちるが仕事の責任は果たせると考えていました。いまはつらいが、慣れていくにつれて自信ができて、来週はもっと平気でできるに違いないと思いました。

それは間違いでした。仕事をすればするほど、疲れがどっと出て、動けなくなっていきましたし、パソコンのディスプレイがよく見えなくて、講義の準備は、すでにあるもの以上のことは、できませんでした。仕事をすればするほど、自信を失っていきました。

そのようなとき、その状態をあるひとに話したら、「責任感が強いようだけど、自分の体のことなのだから、責任なんて放り出して、すぐに手術すべきだよ」といわれました。いまもこのひとのこの一言に感謝しています。その一言がわたしの背中を押してくれました。

そのままいくと、次第に心が弱っていって、手術を決断する力も失っていたことでしょう。わたしは、診断した医師の直近の担当日の6月15日に病院に行って、「即座に手術してください」と申し出るつもりになりました。こう決断すると、合理的判断によって、いま何をすべきかが決定されたのですから、もっと落ちつくだろうと想像していました。

金曜日の講義は休講にしていたので、一日家にいましたが、夜になって奇妙なことが起こりました。とにかく手術することに決めたのに、不安で不安で、いてもたっていられなくなったのです。じっとしていることができない、じりじり、いらいらする、ということで夜中なのに近所の道を歩き回り、ようやく少し落ちつくことができました。あとで「心の診療科」(精神科)で、それを「パニック障害」というのだと教えられました。

何とか、日曜日をやりすごして、月曜の朝、車で病院に送ってもらう途中で、また同じような状態になりました。走っている車のドアを開けて飛び出しそうになる気分を抑えるのに必死でした。眼科にかかり、手術は7月1日と決まり、「心の診療科」を紹介されました。

「心の診療科」とこの病院では呼ぶのですが、いわゆる精神科、神経科、診療内科のことです。ひとびとに差別意識があって、怖がられるからでしょう。場所も、ちょっと奥まっている気づきにくい場所にありました。

そこで会ったお母さんタイプの医師に手術の恐怖を説明して、精神安定剤と睡眠導入剤を処方してもらいました。病院の向かいにある薬局で薬を買った直後、道端で、わたしは精神安定剤を飲みました。わたしにも先入観があったので、生まれて初めてのことです。家に帰り着いて、ソファに座ったとたん、わたしは数時間のあいだぐっすりと眠っていました。思い出してみると、この一週間、睡眠はまともにとれていなかったのでした。薬の威力を思い知らされました。


2010年6月16日〜6月29日

その後、入院するまでのあいだ、すべての会議は欠席し、精神安定剤を飲みながら、必死で講義は続けました。講義は1時間半ですが、教壇に立って1時間もするとふらふらになって、へたりこみそう、時計ばかりを気にするようになります。話が散漫になっているかもしれない、学生さんたちに申し訳ない、と思いながら少し早めに終わって、研究室に帰って、ぐったりと座り込んでいました。

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