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病院は巨大な機械だ 2010年7月13日 退院の日が来る2-3日前から、退院が少し怖くなりました。これまで何か困ったことがあれば、ボタンを押して看護師さんを呼べばよかったのに、これからはすべて自分で判断しなければならないのです。 東邦大学病院は、渋谷の近くにある、たくさんの診療科をもつ大きな病院です。上空から見るとおそらく戦艦のように見える、東西に長く伸びた5階建てのビルです。中央棟が少し高く、その中心部に手術室があります。わたしのよく行った喫煙場所は、後部船底といったところでしょうか。 わたしが見てもらった3人の医師は、みな違うパーソナリティでした。主治医は楽天的なことばのひとで、気楽に手術を受けられるような気分になりましたが、それが逆効果の場合のショックも大きかったように思います。一時期主治医の代理をしてくれた医師は、一言質問すると、即座に最悪の場合のリストを列挙してくれましたので、それ以上何も聞けませんでした。手術をしてくれた医師は、職人のようで客観的ないい方をするひとでしたが、大学教員でもあり、自分の研究に一番関心があるという風でした。患者にとって、どの医師が一番いいかはいえません。相性が大きいでしょうし、そもそも患者が医師のパーソナリティに何かいえる立場ではないのです。 さきに病院を戦艦になぞらえたのは、比喩ではありません。このなかで働く医師たち、看護師たちは、それぞれの持ち場で、その敵である病気と戦っている兵士たちです。かれらは、患者を癒すのが目的ではなく、患者の身体のなかに「生息している」病気を絶滅させる作戦に従事しているのです。病気は、人間身体のいたるところを攻撃してくるテロリストのようなものです。患者の身体のなかでじわじわと成長し、ある日突然、決定的な症状で患者を痛めつけます。医師たちの使命は、これらをすべて抹殺することなのです。 したがって、入院するということは、ホテルに泊まって専門の医師にいつも助けてもらえるということではありません。逆に、かれらのスケジュールどおりにそこにいろ、ということであって、寝室をかねた待合室に待機するということでもあるのです。朝6時起床で、夜9時就寝という生活、配茶、朝食、状態の報告、薬を飲んだかのチェック、診察、掃除、配茶、昼食、診察、・・・という調子で、順番はおなじですが、食事以外の時刻はばらばらで、すべて病院の都合によって決まります。 もちろん、医師たちは人間的にはいいひとたちだし、高度な専門家だし、なかにはヒューマニストもいて、患者の心を気にかけるひとたちもいます。でも、病気に対して患者の「わがまま」を聞いていては、敵に敗れてしまいます。怖いことがいっぱい書いてある文書をわたしてサインさせること、怖がるひとは心療内科に行かせること、心療内科でその不安に対応する薬を処方すること。ヒューマニストは、あまり評価されないことでしょう。 ところで、入院しているとき、いつもうつむいているわたしはとても暗い人物に見えただろうと思います。眼帯をし、下を向いて、廊下を、中心に引いている青や赤の線を頼りにとぼとぼ歩いていると、さっと足を引っ込めてくれるひとがたくさんいました。ちょっと気持いいような、恥ずかしいような変な感じでした。 実際にも暗い気分なのですから、あまりひとと会いたくなかったのですが、遠慮なくいろんなスタッフがやってきました。「診察です」「点眼しましたか」と、いつ告げられるか分からずに、突然の看護師の到来を待っているだけの生活でした。あとは、午前10時ごろにくる掃除のおばさんがいて、掃除をしながら、わたしの持ってきたものや、天気の話や、やたらと話しかけてきて、ぼくはそのときは、社交的に気のない返事をしていました。 病院とは巨大な機械であり、医師たちは患者の器官=部品を修理するために患者を集めていて、自分たちのスケジュールでことを運び、うまく治療できさえすればいいと前提しています。入院するとは、その機械に組み込まれるということでした。入院したひとは、あたかも囚人のようにして、指示に従うよう強制されています。それを1週間も続ければ、自分でも何をしたいか、何をすべきか分からなくなっていきます。フーコーのいう「生命政治」の現場です。 とすれば、考えてみると、その掃除のおばさんは、病気の話しかしない医師や看護師とは別に、「ここに、ほかにも人間がいるよ、病気以外のことにもいっぱいの関心をもっているよ」とわたしに告げていてくれたように思います。退院するとき、わたしは、社交ではなく、本当に心からお礼をいいました。思い出してみると、実は、話しかけてもらったそれらのことばが、とてもうれしかったのに、あとになって気づきました。 |
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トップページ: ある散歩者の思索(黄斑円孔手術体験記) 船木 亨 (c) FUNAKI Toru 2010- |