黄斑円孔手術体験記


なぜ病院に行かなかったか?


1968年

わたしの眼はかなりの近視ですが、13歳くらいまでは2.0が見えるほどでした。中学3年のころ、本をよく読むようになって、仮性近視といわれました。眼科に行くと、隣室にあっためがね屋でコンタクトレンズを買わされただけでした。わたしは、見えるかどうか聞かれるたびに、くっきりと見えるまで正直に答えてレンズを選んだのですが、それはディオプトリにして2度、0.25を一段階としますと8段階も強いものを入れられていたのでした。しばらくして以前のめがねではよく見えなくなっているのを知り、愕然としました。

これが、わたしの眼科医に対するトラウマです。目医者さんやめがね屋さんは、その瞬間の視力ではなく、そのひとの一生のあいだの視力のことを考えてほしいものです。黄斑円孔の症状があってもなかなか病院に行こうとは思わなかったのは、何をいわれ、ちょっとした間違いのようなことで、どんなひどいことをされるか分からないという怖さがあってのことです。


2001年

もうひとつの理由もあります。わたしには、多くの心身症的な症状があります。たとえば片方の耳では、ときどき低音の耳鳴りがします。耳鼻科に行くと、特に問題はないといわれました。以前、一度鼓膜が傾くということがあって、そのときは耳鼻科で空気を通すだけで一瞬にして直してもらいましたが、体がそれを覚えていて、ストレスがあるときに、似たような症状を出してくるのです。

すべてをあげるのは差し控えますが、本当にたくさんあるので、ひとの病気の話は聞けないのです。病気そのものがうつらなくても、症状がうつってしまうのです。困った体です。だから、視野に変なものが見えたときも、「心身症的なもの、気にしないようにしないとひどくなるだけ」という発想をしたのでした。


1966年

わたしは、中学3年生のころからものを考えるようになりました。哲学書を読みはじめたのもそのころです。プラトンを読んで、「ぼくは何も知らないんだ!」とバスのなかで感動したこともありました。そのころ、肩こりしやすくなり、活動性が低下していきました。近視にもなりました。ひとづきあいも悪くなりました。哲学のせいではないですよ。

16歳のときには、おなかがすいたと感じないかぎり何も食べないと心に決めたり、17歳のときには、半年ほどまったく笑わずに過ごしたりしました。18歳のときには、いまでいう「ひきこもり」になりました。ひきこもりの先駆者ですね。


1969年

哲学書は17歳のときに、C・S・パースを読んだあとに、「哲学概念はジャングルジムのようなものだ」と判断して読むのを中断し、19歳で再開するまで、ひたすら文学作品を読んでいました。

17歳のときに日記に書いたことのうち、「ぼくのなかには猛獣がいる、何にでもつっかかっていきたくなり、何もかも壊したくなる」という文章がありました。リビドーのせいとか、うつ病だろうとか、思わないでください。わたしとしては、それを実行して人生を壊したくはなかったので、その猛獣を檻に入れる工夫をし続けていたのだと思います。


2010年

「心身症的なもの」とわたしが呼ぶものは、病院に行っても病気とは診断されず、気にしないひとなら忘れてしまうようなことを、気にするあまりに触ったり試したりしているうちに、自分でもつらくなるような症状のことです。それは、身体の孔という孔の周囲、襞という襞で起こります。眼底で起こっていたことも、ある意味では身体の孔のなかで起こったことではありますが、あまりに深く、あまりに大きな障害を起こす場所でした。

わたしは穏やかな方だと思いますし、学生から「癒し系」とまでいわれたことがあります。しかし、社会のこと、組織のこと、人間関係のこと、ちょっと出会った人物のこと、人生のこと、その他もろもろの、ちょっといやなことを考えはじめると、自分のなかにあるマグマのようなもので、自分がおかしくなってしまうので、世界と自分を取り繋ぐ自分の身体の表面を気にすることによって、問題を解決=解消しようとしてきたのだと思います。

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