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眼帯をはずして見た風景(両眼視の風景) 2010年7月12日 手術からずっと眼帯をして生活していて、ようやく医師に「眼帯をはずしていい」といわれました。それで部屋に戻って窓の前に立ち、メガネをかけて両目で見てみました。そのとき、何が見えたと思いますか? しばしばひとは片目だけでは遠近感がつかめないだろうといいます。でも、片方の目だけでも遠近感はあります。ちょうど遠近法の絵画のように、遠くのものと近くのものは区別できます。 両目で見たときに驚いたのは外の風景でした。それまでは、「樹がたくさんあるな」くらいにしか思っていなかったのに、両目で見た瞬間、一本一本の樹が、それぞれにくっきりと浮かび上がり、それぞれが「ここにいるよ」とでもいわんばかりに訴えかけてきたのです。 一枚一枚の葉っぱの連なった固まりもまた、それぞれに、ちりちりきらきらと陽の光に揺れています。何かが生きているというのは、こんなことかな、10日ほど片目で生活したら、こんな普段のあたりまえが見えてきます。 遠近法と両眼視(双眼視)についての、多くの哲学者と心理学者の間違いについて、以前『<見ること>の哲学』という本のなかに書きましたが、遠近法は単眼視の光景で、両眼視が見せてくれるものは個体のもつ「これ性」(スコトゥス)です。 3Dテレビが売り出されていますが、その映像が不自然で疲れる理由は、個体性ばかりが強調され、遠近法的な奥行のもつ、自分の見たいものを見ようとする探索のできる視野が、そこには映っていないからです。 とすれば、3Dテレビの映像とは、眼球が縛りつけられて特定のものを見るように固定されたときに見えるものということになります。道端に犬の糞があったら、眼をそむけて見ないようにできますが、3Dテレビでは、強引に見させられてしまうということです。 ディズニーランドのアトラクションのように、乗り物にのって体験するようなタイプのゲームにはいいかもしれませんが、普通の映像がすべて3Dになったときは、そればかり見ていると、「発見する」能力も、そして、もっと大事な「見ないでいる」能力も、われわれは失なってしまうかもしれません。 |
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トップページ: ある散歩者の思索(黄斑円孔手術体験記) 船木 亨 (c) FUNAKI Toru 2010- |