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上手な眠り方 1965年 わたしは、中学3年のころから、ものを考えはじめるようになったと、別のページで書きました。そのころ、睡眠に苦労するようにもなりました。床についてから2時間以上眠れないときを過ごすようになったのです。いろんな考えが生まれてきて、それを続けて考えたくなるのです。高校生のころは、それでは学校に行けなくなるし、近所の医師に睡眠導入剤をもらったりしていました。ネルボンという分かりやすい名前の薬でした。 1970年〜1982年 ひきこもっているころからでしたが、大学生になっても、なるべく午後の授業を選ぶようにし、思いっきり夜中におきるようになりました(教師になったいまも午後の授業しかやりません)。昼夜逆転です。わしは夜中のだれもいない、何もすることない時間が大好きです。本を読んだり、何かを書いたり、いろんなことを考えさせてくれます。 1982年 仕事として講義の準備をしたり、論文を書いたりするのに、夜の12時過ぎ、テレビが途方もなくくだらない番組しかやらなくなった時間帯を使うようになりました。するとその続きをやりたくて、興奮状態になって、いよいよ眠れなくなります。わたしはビールを飲むようになり、その酔いによって、興奮状態を鎮めるようになりました。ビールを飲んだら、もう仕事できない、と自分であきらめるようになったのです。 2010年 この長い睡眠法の「研究」の結果、わたしは好きな時間に大体20分で寝付ける技法を身につけました。ビールはやめて、赤ワインにしました。一番眠りやすく、ビールと違って、量を調節しやすいですから。もし寝つけなかったら、もう一度起きて、別の部屋でくつろいでから、また赤ワインを飲むと、つぎは眠れます。 眠りについて書いている哲学者はメルロ=ポンティです。身体は意識のとおりになるわけではなく、かつ意識がなくなるようにするにはどうしたらいいか、それはあたかも眠っているかのようにすることだ、と述べています。 横になって、まず体の力をを抜きます。そしてゆっくり呼吸しながら、呼吸の回数を数えます。少しでも思考やイメージを浮かべてしまったら、また1から数え直しです。それを続けていると、300を越えることはないです。眠りの徴候は、勝手なイメージが浮かぶことや、体の一部がかゆくなることです。そうなったらすぐ眠りに入ります。もし呼吸の回数が300に達したら、起きて別の場所に行って10分ほどたってから、またおなじことをしてください。 2010年6月14日 心療内科(心の診療科)にかかり、医師に、眠れない、起きても2時間はぼうっとしていると告げると、「うつ病」の可能性があるといわれました。うつ病?、だれだって眼の手術をしなければならないとなれば、憂鬱になりますよね。それは病気ではなく、あたりまえの反応でしょう、と思い、何とかうつ病の薬を処方されるのを拒否しました。 入院してからまず分かったのは、朝ぼうっとしている理由は低血圧だということでした。そうではないかと思っていたのですが、実証されたのです。朝に血圧を測りに来た看護師が、思わず「血圧がない」と口にしました。下が60、上が80です。昼には上は110〜120になっていますから異常ということでもありません。心療内科の医師にそれをいうと、もっと塩分をとるように教えてくれました。 「塩分はよくない」という、メディアのプロパガンダは、高血圧になりやすいひとのためでしょうから、しょっちゅういいつのるのは、やめてほしいものです。メディアは病気の話はするな、といいたいです(行政の圧力なのか?)。素人判断が余計な心配をひき起こし、生活が不幸になるのではないのか、自分の体に本当に変なことが起こったら、家族や友人と相談して、忘れるか病院に行くかするでしょう。と、考えてきて、だれにも相談できない孤独なひとは、きっとぼくよりも、もっとずっとメディアと行政に苦しめられているに違いありません。病気に関するページは読まないようにしましょう。 2010年8月17日 いまわたしは「6時起床病」にかかっていますので、睡眠時間を確保するために11時前に寝なければならず、睡眠導入剤を使っています。これからもしばらく使い続け、早寝早起きという「健康な」生活を続けるのでしょう。わたしは、そのような生活は、農業や漁業を仕事にしているひと以外にとっては、病気ではないかと思います。 でも病気であることは、いいことかもしれません。「病気なんだから」と考えれば、気楽になりますし、ひとも寛容になります。しかし、「病気なんだから」依存症が怖いです。病気なんだからと思えば、自分には寛容になり、それを思いやってくれないひとを嫌いになります。 「うつ病」と呼ばれて薬漬けになってしまったひとたちは、いつも自分の憂鬱度を気にしていますが、そのこと自体が「うつ病」なのではないでしょうか。自分の憂鬱さの程度についての意識の病。元気で明るいときと憂鬱で暗いときとがあるのは、普通のことなのですが、いまの若者は憂鬱であるときに、とてもそれをまずいと考える傾向にあるようです。きのうのゼミ合宿の飲み会の話題からそう思いました。 そうした空気を醸成して、病人を増やしているのは、医師たちではないでしょうか。よくない状況にあるひとはみな憂鬱で、それがあたりまえです。憂鬱(メランコリー)はひとにものを考えさせますが、薬はそれを他人事みたいにし、そのひとの心を、「薬をいつどれだけ飲むか」という思考でいっぱいにしてしまいますし、それで構わないんだと思い込ませてしまいます。 わたしは、いつか睡眠導入剤などの薬と手を切りたいと考えています。というのも、黒澤明など、優れた才能の人物が自殺したときに睡眠剤を使っていますが、かれらは多量の睡眠剤をもっていたわけです。心が弱っているときには、変なことを考えがちです。そのちょっとした不合理な発想を信じ込んで、思わず多量の睡眠剤を飲んでしまう、つぎの日には「しまった」と思うことすらできなくなる、そういう可能性があると思うのです。 2010年8月29日 わたしは自力で眠れないわけではないのですが、1時間くらいで目ざめてしまいます。なぜわたしは十分に眠らないのでしょうか。簡単にいうとそれは心配のせいではないかと思います。翌日に心配なことがあれば、早く目覚めてしまう経験はだれにでもあると思います。その心配が片付きさえすれば、またよく眠れるようになることでしょう。 わたしが何を心配しているのかというと、わたしの身体です。身体は、若いひとたちはとくにそうですが、みずから成長し、みずから癒してくれて、生きて能力を高めていくことを当然としています。そのようなひとはよく眠れます。二度寝すらできます。 わたしは病気になって、どこか自分の身体を信用できなくなっているのです。意識は、何かあれば、行動によって自分が自分の体の面倒をみなければいけないと思い込んでいるようなのです。それで、わたしは猛獣に襲われることを恐れる小動物のように、すぐに目ざめてしまいます。この心配は、なかなか消えそうにありません。 |
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トップページ: ある散歩者の思索(黄斑円孔手術体験記) 船木 亨 (c) FUNAKI Toru 2010- |