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沖縄。沖縄本島をはじめ琉球諸島を含む日本最南端の県。亜熱帯気候に属し年を通じて温暖、面積2265平方キロメートル。人口129万5000人。夏ともなれば老若男女こぞって押し掛けマリンスポーツに名物珍味、旧所名跡を心ゆくまで楽しめるという夢のようなところである。そんな沖縄に関東では寒風すさまじい真冬の2月1日から3日、行って帰ってきた。もちろん、ただ行って帰ってくるつもりだったのかというと、そうではない。見聞を広め、また、かの地上の楽園たる沖縄でゼミを開催するという目的を持って、機上の人となったのである。 沖縄到着、初日。あにはからんや、沖縄は寒かった。関東よりはさすがに暖かいものの、聞けばこの時期が沖縄の一年でもっとも寒い時期であったらしい。寒い、寒い、ゆいレール、などと言っている間に首里城着。すごいなぁ、でかいなぁと貧弱な語彙を露呈しつつ見物。琉球王国の繁栄を垣間見た。寒くても沖縄は沖縄、満喫してその夜はオリオンビールに泡盛を飲んで寝た。 二日目。この日は前夜に滞りなくゼミを終えた解放感もあり、終日観光用のタクシー(ジャンボタクシー)に乗車して方々を周り、ソーキそばにラフテー、ちんすこうにゴーヤチャンプルー、豆腐ヨウなど、前日に引き続き様々な沖縄名物、珍奇なものを堪能した日であった。しかし、なにも食道楽にうつつを抜かしてばかりの一日だったわけではない。この日は観光地沖縄のもう一つの姿を見せられ、それについて考えさせられた日でもあった。 平和記念公園、ひめゆりの塔、旧海軍司令部壕などの先の大戦の跡。そして米軍基地。これらを巡りつつ、タクシー運転手の方がしきりに嘆いておられたことは、沖縄には産業が無い、ということである。太平洋戦争の傷痕と米軍基地と、そして沖縄に産業が無いこととに何か関係があるのか、といったら、これは大いに関係がある。 沖縄本島の大部分を今もなお米軍の基地が占めている。軍隊が、それも他国の軍隊が身近にいる、というのは住民にとって気色のいいものであるはずがない。ではなぜ沖縄が日本に復帰して数十年の歳月を経たにも関わらず、未だにそのような状況にあるかといえば、これは政治上の問題、日米同盟下の取り決めであったり、アメリカの政策或いは日本の政策上の理由が主な原因である。しかし、もし仮にそのような政治上の沖縄に米軍基地を必要とさせていた問題がすべて解決し、全米軍基地が沖縄から消えるとなったとき、すべての人が諸手を挙げて喜べるかというと、そう上手くはいかないように思える。それはなぜかと言えば、沖縄の経済が米軍に少なからず依存しているからである。 ではなぜ沖縄経済が米軍に少なからず依存しなければならないのか。ゴーヤチャンプルーもちんすこうもソーキそばも首里城までも沖縄にはあるではないか。つまり、観光、観光産業というものが沖縄にはあるんじゃないのか。米軍などに拠らなくても問題はないのではないのか。と思えるけれども、実際ではそうもいかないというのが現状であるようだ。 現在、沖縄県民の平均所得は全国で最下位であるらしい。沖縄の観光地としての魅力は疑うべくも無いが、その魅力をもってしてもである。何も平均所得で全てがはかれるものでもないが、それ以外の目ぼしい産業が無い中、観光ということで沖縄の経済が独立してやっていくというのはなかなか難しいのではないかと、そのような数字から思われる。在沖縄米軍は相当数であり、それが沖縄経済に与える影響は相当なものである。その米軍が消えるとなると、その損失は大きいものであるに違いない。沖縄経済危うしである。そんなところに沖縄経済が米軍に依存しなければならない理由もあるように思われる。 沖縄経済の米軍依存からの脱却ということを抜きにして、完全な基地の返還というものはなしえないのではないだろうか。 日本海軍司令部太田司令官はその遺言において、戦後、沖縄県民への特別の配慮をということを願われたそうだが、どうもその願いどおりに沖縄はいかなかった。むしろ日本の敗戦の後始末を今もなおさせられている。特別の配慮がなされるどころではない。これはどうもいけない。太田司令官の遺言はもっともであるし、沖縄県民はもっと所得を得るべきで、沖縄に米軍基地があるなどはもってのほかだ。 どうしても新たな産業が必要である。必要である、何かないか、とタクシーに揺られながら考え、考えあぐねたが思いつきもせず、華やかな観光地沖縄の影の部分をまざまざと見せつけられたショックもあって、その日は自棄になって泡盛を飲んで寝た。 三日目。この日は朝から快晴。宜野湾ビーチ、アメリカンヴィレッジ、プロ野球キャンプなど様々に見聞を広め、沖縄をこれでもかというぐらい堪能した。しかしもちろん、沖縄の新たな産業をどうするかという問題を忘れていたわけではなく、自分なりの結論をだしもした。それというのは、新たな産業の考案・開発などという一大事業は一介の歴史学を専攻する大学生である自分にはどうも荷が重い。都合よく沖縄開発庁という組織もあるようなので、それについては日本政府に任せることにして、ここは自分なりにできることを沖縄のため、沖縄県民のためにしてから沖縄を去ろうと決心した。それで、沖縄の観光産業興隆のためだ、太田司令官の意思を継ぐのだ、と念じながらお土産を買いまくって、散財した。 トップページ>ゼミ活動記録>伊藤友貴「沖縄旅行記」 |