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東京下町で生まれ、東京で育った私にとって沖縄は「未知の世界」のように感じられた。ここ一年ぐらいに起こった沖縄ブームは、我が家にもやって来た。妹は沖縄本土と島々を結ぶフェリーの船長になりたいと言い出す始末、叔母と従妹は沖縄フリークとなり毎日モズクを食べていると言う。「沖縄」と言う語が会話に出ない日は無かった。だからこのところ、「何なんだ、沖縄ってところは。」と思っていたのである。 1日目に訪れた首里城はすばらしかったが、余り沖縄に来た感じはしなかった。しいて言うならば、沖縄の豚肉料理はおいしいというのに似ていた。 しかし、ジャンボタクシーをチャーターして沖縄観光をした2日目は私に衝撃を与えた。何よりも一番驚いたのは、いきなり町の中に「違う世界」があることである。町のど真ん中、しかも立地の良いところにドカッとアメリカ軍基地があるのである。住民たちはアメリカ軍基地を取り囲むように「端っこ」に暮らしている。基地には許可が無ければ入る事が出来ない。基地は沖縄にあれどもアメリカ合衆国なのである。 しかも、ジャンボタクシーの運転手の上原さんによると、現在基地返還運動が盛んに行われているが、基地が無くなってしまったら沖縄の経済は破綻してしまうという。沖縄独自の産業というのが育っていないからだという。基地関連の仕事をしている人が高所得者であり、英語会話能力があるならば基地で働くのが一番なのだという。 もはやアメリカ軍基地は、沖縄にとってなくてはならないものになってしまっているのだ。私はネルソンさんの言葉を思い出していた。沖縄に駐屯しているアメリカ軍兵たちは我がもの顔で町に繰り出し、酒場でもタクシーでもお金を払わない。対抗されれば殴り倒す。町のど真ん中にドカンとある基地自体が、ヴェトナム戦争時代のネルソンさんの体験談に出てきたアメリカ兵を象徴しているようであった。 3日目、私は自由時間にコザ周辺を訪れた。コザという町にも、かつてアメリカ軍基地があったという。ガイドブックで見るコザの空港通りは活気に溢れて、かつてアメリカ軍の幹部たちが多く暮らしていたというパークアヴェニューには白い洋造りの建物が美しく列をなしているようであった。しかし、ガイドブックとは多違いであった。空いている店はポツポツしかなく、「それなら、何時に空くのかな。」と思い見てみると、店の面影はあるが店自体辞めてしまったところが多かった。パークアヴェニューも同じような感じである。ガイドブックで見たような白壁の美しい建物ではなかった。白壁は所々はがれ落ち、もはや白ではなくグレーだった。白壁のゾンビのようである。コザはまさにアメリカ軍基地に経済を支えられていた町だったのであろう。昨日、運転手の上原さんに聞いたことがまさしく「ここにあり」という感じであった。コザ町は静まりかえっていた。輸入洋服店がながすBGMだけが響いていた。 私は今まで基地返還問題について、あからさまに「もう戦争は終わったんだから、アメリカ軍はアメリカに帰ればよいのに。」と考えていた。しかし、そうもいかないのが現状なのだとはじめて知った。今から約60年前に起こった太平洋戦争で沖縄は壊滅状態になった。そこにアメリカ軍がやってきて基地をつくった。沖縄は壊滅状態、復興には、アメリカに頼らざるをえなかったのである。よく考えたらわかりそうなことなのに気づいていなかった。沖縄だけではなく日本も全体的に同じである。復興に際して、アメリカに頼らざるをえなく、そのままズルズルと来て今ではアメリカなしでは生きていけないような状態になってしまっているように思う。もしかしたら、沖縄は日本のおかれた状況を克明に表しているのかもしれない。 トップページ>ゼミ活動記録>太田圭「沖縄合宿に行って」 |