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沖縄合宿を通して学んだこと高橋洋子


  2005年2月1日から3日までの3日間、樋口ゼミは沖縄南部を中心に訪問した。予想していた通り沖縄は2月でも暖かく、時折吹く強風がなければ日中は上着なしでも問題ないくらいの気温で過ごしやすかった。私たちはジャンボバスに乗り込んで沖縄を巡り、戦争について実際の記録や場所に接しながら学んできた。2日目に全員がまわった主な場所は、佐喜眞美術館、ひめゆり平和祈念資料館、平和祈念公園内の沖縄県平和記念資料館と平和の礎、旧海軍司令部壕である。1日目に首里城を、3日目の最終日は自由行動だったので上に挙げた場所以外も訪れたが、この文では省略することにする。以下でおおまかな場所の紹介を行い、最後にまとめとして、戦争を知らない世代としてこれからすべき課題はどういったことがあるのか、という事を考えたいと思う。

まず、二日目最初に訪れたのは佐喜眞美術館だった。そこには丸木位里・俊夫妻によって描かれた「沖縄戦の図」や戦争を題材にした版画が展示されており、美術品から戦争のむごさと非道さ、激しさが静かな迫力をもって伝わってきた。中でも特に目を引いたのが、黒や赤を基調にした、丸木夫妻による水墨画だった。私の身長の1.5倍はありそうなキャンパスいっぱいに、焼けただれた皮膚をさらした人間が描きこまれている。ぞっとする光景だった。生き地獄とはこういうことを言うのだろう、と思った。また、この美術館の屋上からは普天間基地を一望することができたのだが、規模が大きすぎてどこからどこまで基地なのか判然としなかった。後で主だった滑走路がある嘉手納基地の近くも訪れたのだが、高見から見ると、車を地平線の向こうからかなり走らせてやっと基地の周りをまわることができたのだとわかる。改めて沖縄に占める米軍基地面積の広大さを実感した。
 ひめゆり平和祈念資料館は私が小学生の時訪れたことがあったのだが、2004年に全面的な展示改装が行われており、改めて新鮮な気持ちで展示を見つめなおす事ができた。特に、資料館の終わりの方に、ひめゆり部隊の中で生き残った方々によって記された本が展示されている場所があり、それは非常に興味深いものだった。本の内容はひどく凄惨なもので、読んでいて気分が悪くなるほどだったが、私は時間の許す限り多くの手記に目を通した。展示されていた本によると、米軍に完全包囲されている状態で突如としてひめゆり隊に解散が言い渡され、砲弾の雨の中散り散りに逃げ惑ったたくさんの女学生が様々な形で命を落としたそうである。中には友人が自分の膝の上で砲弾に当たって死んだという体験談もあった。文章は淡々と情景が描写されており、そこに一切の感傷が入り込む隙はないように思えた。これは私の想像だが、戦場で取り乱したり感情的になったりする事は命取りだったのかもしれない。
 沖縄県平和記念資料館と平和の礎は同じ平和記念公園敷地内にあり、平和祈念資料館では映像や展示などさまざまな媒体を通して沖縄戦について詳細な説明を受けた。米軍が記録した映像には、降伏して早くも戦後の暮らしが始まっていた北部と、壕の中にいるところを火炎放射器や手榴弾で攻撃されていた南部、両方の様子が映っていた。それはとても対照的な光景で、これが同じ島の南北で同時に起こっていたこととはにわかに信じがたかった。資料館は映像に加えて音や照明で当時の様子を表現しようと様々な工夫が凝らされており、わずかな時間で展示に集中してじっくり見学する事ができた。そのせいか、資料館を出た後こわばってしまった顔を元に戻すのに時間がかかった。
 資料館を一歩出ると地面一面に石碑がずらりと並んでおり、そこには国籍を問わず沖縄戦及び沖縄戦に関する作戦・戦闘で亡くなった戦没者の名前が刻まれていた。おびただしい数の名前は全て、平和資料館内に設置してある検索機に登録されており、検索すると指定した目的の石碑の位置が表示されプリントアウトもできる仕組みになっている。石碑にはまだ空きがあるものがあり、それは韓国人の戦没者の名前が刻まれている一角にあった。樋口先生によると、それは名前が分からない外国人の戦没者のための空きであり、まだまだこの石碑に刻まれる名前は増えていくという事だった。私は戦後50年以上経つ今になっても名前のわからない戦没者がいるという事実がショックだった。沖縄戦自体は過去の出来事であっても、沖縄戦によって新たに生じた問題は私たちにとって、とりわけ戦没者とその家族にとっては、今なお重要な課題として捉え、取り組み続けなければならないものなのだという事を痛感した。
 最後に私たちは旧海軍司令部壕を訪れた。狭い階段をだいぶ下りなければならず、中は照明があったものの薄暗く気味の悪い空間だった。旧海軍司令部壕は沖縄戦時に4000人の兵士を収容した地下陣地で、司令官室・作戦室・暗号室・発電室・医療室などの部屋で構成されていたそうである。部屋といっても通路から数メートル掘り進めてあるくぼみがあるだけで、扉がある部屋はない。特に医療室は横幅3メートル、奥行き2メートルほどの狭い空間で、当時は通路にまでたくさんの負傷者が溢れていたそうだ。ここの幕僚室で自決した太田實海軍少将は上官に宛てて電報を送っている。その内容は沖縄戦における沖縄県民の献身的な努力を訴えるものだった。「人が人でなくなる」沖縄戦の展示をずっと見学してきた私にとって、彼の電報だけが唯一あたたかみのあるものとして印象に残った。

 沖縄合宿で美術品や展示品など沖縄戦に関する様々なものを見たが、実際の戦争経験がない私は想像することはできても、真の意味で戦争の恐ろしさを理解する事はできないと思う。しかし、戦時は平時の常識が通用しない無法地帯になり、人が人としての尊厳を保つことなく理不尽に死んでいくのが当たり前の状態になってしまうという事と、それがどれだけ恐ろしい事かということはわかった。同時に、今の平和がどれだけ尊いものかという事を再認識した。この平和を守るために、戦争を知らない世代である私たちが積極的に戦争について学び、沖縄の悲しみと訴えを広めていく努力が必要だと強く思った。



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