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![]() 渋谷真奈美---菅谷一利---高橋和雅---利根川洋子---富田高暁 中原香織---藤樌 悠太---村田洋平---百瀬怜 ◆第1章 Bitter Truths Stine George(pp.11-15)by 渋谷真奈美 1931年生まれ、農夫・公務員 インタビュー1994年当時 63歳 Stine George(1931年生まれ)は子供時代に経験したことについて話している。 Stineは子供のころ、土地の所有に関して以下のような経験をした。Stineの父親Williamは、白人のMr. Morganに丘の上にあるよい畑を得るための算段をしてもらった。Mr. Morganは自ら、自分の畑をWilliamに与えるために連邦住宅局(FHA)へ行き、後はWilliamがサインをするだけというところまでの手はずを整えておいたのだ。この話を聞いたWilliamは早速、連邦住宅局へ行き、Mr. Morganにいわれたとおりに書類にサインをした。このことを知ったMr. Morganの息子たちは、父親が年老いているために自分のやっていることがわからないんだと、連邦住宅局に契約を撤回させるよう申し入れた。しかし、すでに契約は済んでいたために、この申し入れは却下された。するとMr. Morganの息子らは、すでにWilliamのものとなっている畑を囲む杭とワイヤーを自分たちに返却するようWilliamに要求した。Williamは当然、この要求に応じる必要はなかったが、Mr. Morganの息子らと平穏に暮らすために、杭とワイヤーを片付け、Mr. Morganの息子らに受け渡した。 また、Stineは子供のころに経験した火事について語っている。火は夜中の二時頃に玄関先から出火し、家全体を焼き尽くした。この火事でStineはまだ3歳と4歳であった二人の幼い兄弟をなくした。Stineは犯人を白人だと推測している。しかし白人たちは火事の原因をアイロンだといった。Stineの姉が前日の午後にアイロンかけをしていたと話したのだ。火が玄関先で出火したことや、時間帯から考えて、火事の原因がアイロンでないことは確かである。しかし、Stineの姉は白人の意見に同調し、アイロンから出火したといった。 土地の所有と火事の話の他にも、Stineは危険を避けるために森の中で二日間過ごした経験や、姉が白人の若者にレイプされ、自分が恐ろしさのあまり助けにいけなかったことについて話している。Stineは火事の原因はアイロンだといった人物のことや姉をレイプした人物を白人だったといっている。Stineが人を見るときに、白人や黒人といった人種を意識していたことは明らかである。Stineは子供のころに、Mr. Morganの息子たちの要求に従う父親や、白人の言うとおり火事の原因をアイロンだという姉の姿を見ていた。これはStineに黒人は白人に逆らえないものだという価値観を植えつけた可能性を示しているのではないだろうか。 Ruthie Lee Jackson (pp. 83-86) by 菅谷 一利 1909年生まれ インタビュー 1995年当時 86歳 【要約】 Jacksonは1920年初頭Mississippi州Crystal Springsで過ごしていた。ここでは、その時体験した彼女の経験(財産)の一部が延べられていて、宗教的な教え、埋葬の習慣、家庭での治療法、偉大なおば(Mammy Sue)の存在が主な内容となっている。そして彼女はこれらの話を、誇りを持って語り、祖先の過去に対して敬意を表していた。 Mammy Sueは彼女のおばにあたり、農場奴隷であった人だが、母のように慕っていた。Sueは彼女と妹を幼少時代通っていた教会(学校)に送ってくれていた。その影響から、妹とともに子供のころからキリスト教に親しみ、Baptist派となったが、SueはMethodist派であった。しかしSueは宗派に関係なく、彼女たちに接してくれ、面倒を見てくれた。そして、Sueからの教えとして埋葬の慣習(死者は亡くなった翌日に埋葬され、支えとなるお金・お皿などといったものと一緒に埋葬し、塩で清める)や、家庭での治療法(インフルエンザや肺炎にかかってしまったとき、牛から得られる獣脂を赤いタオルで、体に塗りこんだり、拭いたりする。またお茶や漢方薬を独自に作る)があった。Sueは115歳で他界してしまうが、Sueが生きてきた時代(20歳で奴隷となり、心の傷ともなる鞭打ちや、首吊り、リンチが常に隣りあわせとなる)にSue自身が生きて後世に経験を語り継ぐことに、感謝・敬意の念を抱き、語りを終えた。 【考察】 当時Jim Crow時代の苦しい暮らしの中で、宗教・宗派というものは心の支えとなるものだと考えていたが、そのようなものに関係なく、活動できる人物に存在に気付いた。また、その苦しい時代に独自で工夫をしながら生活の知恵のようなものを生み出し、生き抜いてきた人々はまさに尊敬・敬意を表するに値すると考える。 George Kenneth Butterfield, Jr. (pp. 130-132) by 富田 高暁 1947年生まれ インタビュー 1993年当時 46歳 【要約】 George K. Butterfield, Jr.はJim Crowの象徴の中に鉄道や街角があることを言っています。鉄道員は輸送ルートを示すだけでなく黒人と白人の人種の合流にも注意することが日課だった。ノースキャロライナ州のウィルソンの街角では雇用者用の回転扉が作動していて、その場所は仕事を求めている黒人の男性たちが、雇い主の白人農場者を待っていた。一方、家内女性労働者も仕事のために待っていた。 父は旅をすることがとても好きで私と一緒に旅をして、仕事は歯医者をしていた。そして、父はほとんどの歯科医の学会や、同胞会やNAACPに参加していた。その中で父は白人の歯科医グループだったノースカロライナ歯科団体を統合した。それらの会議に出席することが重要だと話した。ある日、私たちは黒人コミュニティの寄宿舎に宿泊した。ホテルは黒人を受け入れなかった(南部、中西部では一般的だった)。北部では夜通し黒人を受け入れるところもあったがすべてではなかった。食事をするときレストランへ出かけたが、追い出されて地元の黒人カフェで食事をした。 南部の町並みはすべて似たように見えた。そして、朝早くから仕事を得るために、街角には若い黒人や老人たちが待っていた。白人の農場主がタバコの収穫のための労働者を得るためトラックでやってくる。仕事を得るために並んでいる彼らは“cropping tobacco”=タバコの群れと呼ばれた。黒人女性もメイドとして裕福な白人の女性に車で連れて行かれた。 メイドは前の座席ではなく、ほとんどが後部座席に座らせた。しかし、革新的な概念をもっていた人は前に座らせることもあった。白人の男性は黒人と一緒になって前方に座っているのを見られるのが嫌だった。このことが、白人は前、黒人は後ろといったことがコミュニティの中で象徴となった。 【考察】 まず、はじめに驚いたこととして、Georgeの父親が、Jim Crow時代と呼ばれる人種隔離制度の中、白人の歯科団体と黒人の歯科団体を統合したことで、並大抵の活動力では成しえなかったことであろう。 人種隔離の緩いとされる北部でも、黒人を例えばホテル側が、受け入れたり、受け入れなかったり、南部ではまったく受け入れてくれずに、結局は黒人コミュニティに頼らなければいけない状況から見て、当時、旅行や遠征をする際にも黒人は、いくつかの障害を乗り越えなければならないことと、ましてや気軽にできるものでもなかったことが分かる。 車の座席に関しても、白人は前、黒人は後ろといった概念が、特に白人男性の中に色濃く残っていて、さらには、黒人は後ろに座るんだといったことが、黒人コミュニティの中に広まり、黒人の意識の中に植えつけられていった様子がわかる。 ◆第三章 Families and Communities William J. Coker, Jr. (pp. 132-134) by 藤樌 悠太 1935年生まれ インタビュー 1995年当時 60歳 【要約】 このインタビューでは黒人コミュニティ内での黒人相互の助け合いや黒人にとってのコミュニティの役割について述べられている。 William J. Coker Jr.は1940年代にヴァージニア州ノーフォークで育った。彼の父は合衆国海軍造船所で働き(のちに紙工場で働いた)、母は白人公立学校の作業員として働いていた。このように安定した雇用(Williamの両親は子どもたちにマナーを身につけさせるために一生懸命働いた)があり、それに親戚の助けがあったので、親は安心した愛のある環境を子どもに与えることができた。ノーフォークに移住するとき祖父が死に、祖母とおばが来てCoker一家は拡大家族となった。 ここまでがWilliam一家の説明である。次にWilliam一家が体験した黒人コミュニティの助け合いについて説明されている。 ある朝、朝食を食べているときのことである。近所のクラスメートが家に立ち寄って、一緒にごはんを食べた。このように朝食が必要だったり、もっとほしかったりした友達はCoker家に立ち寄って朝食をとってから学校に行くことがあった。 また、第二次世界大戦の終わるころ、6〜8人の子どもを連れた一人の女性が近所の空き家に引っ越してきた。Coker一家の子どもたちは彼女の子どもたちと遊び相手になった。母は友達から古着を集め、女性に持っていってあげた。 白人学校の作業人である母は学校から食べ残りをもらってきて、それをWilliamの友達にあげた。Williamはこのことをコミュニティ間での経済的に貢献できることの一部分だ、としている。 最後にWilliamはもしコミュニティ内に経済的な基盤や組織がなかったら生き残ることができなかった、とコミュニティの必要性を述べている。またコミュニティのおかげで自分の存在証明や自分の(精神的な)焦点を維持でき、白人の言うことに注意を向けず白人に対して劣等感を持つことがなかったと述べている。 【考察】 このインタビューから黒人コミュニティの二つの役割がわかる。 一つ目は黒人が経済的に助け合う場としての役割だ。インタビューの内容からCoker一家は黒人コミュニティの内では比較的裕福な家庭であったことがわかるが、貧しい人たちをさげすんだりせずに経済的に協力をしていた。本文中に「コミュニティ内に経済的な基盤や組織がなかったら生き残ることができなかった」とあるように、本文中には出てこなかったがCoker一家も何かしらの協力を得ていたことが想像できる。黒人コミュニティでは貧富の差にかかわらず、相互に助け合いが行なわれていたということがわかる。 二つ目の役割は黒人たちに精神的な安定を与えるということだ。インタビューの中でWilliamが「コミュニティのおかげで自分の存在証明や自分の(精神的な)焦点を維持でき、白人の言うことに注意を向けず白人に対して劣等感を持つことがなかった」と述べているように、コミュニティは白人の人種差別や人種偏見に対して、黒人たちに精神的安定を与える役割をもっていたことがわかる。 Delores Thompson Aaron (pp.168-171) by 百瀬 怜 1924年生まれ New Orleans, LA 教育者。 インタビュー:1994年、当時70歳 【要約】 Aaronの暮らしていた地域では経済状況が様々に異なる人や、黒人だけでなく白人も暮らしていた。Aaronが子供のころ、学校はジム・クロウ体制により人種分離されていたため、途中まで一緒に登校した。そして学校から帰るとお互いに学びあったことを披露しあったりした。Aaronらにとって学校は良い情報交換の場であったのだ。Aaronにとって競争心を教えてくれたのは日曜学校の教師や親であった。日曜学校の教師は白人を基準として将来良い仕事が出きるようにと訓練してくれた。白人は常に基準であったが、白人のようになることが最良ではなかったとAaronは語っている。しかし黒人は白人並になれるよう努めていた。なぜなら白人が黒人に対して、自分達と同じように出来る様になれば十分であると思わせようとしていたからだ。そのため当時の黒人の中流層は白人に対してへりくだっていたとAaronは述べている。しかしAaronは白人が黒人を受け入れるようなことはなく、白人に出来るようなことは黒人でも出来たと語っている。このようにして競争心や職業意識といったものを学んだAaron自身も教育者となり、子供達に多くのことを伝えようとする。常に平常心でいることを覚えさせ、マナーを身につけさせた。あるいは大学へ入学出来るような人物になるよう、つまり大学が望むような質の高い人間になれるよう厳しく指導したりした。 【考察】 Aaronのインタビューからは二点、読み取れるものがある。一つ目は教育による人種意識の発生である。幼い子供にとって人種の別は意識されず、分離された環境下でも自然な交流を持っていたことがインタビューから分かる。しかし日曜学校の教師から「白人のように」なるよう教わるなどして黒人が白人に比べ下位に置かれていることを学ばされる。このように教育によって人種意識が作り出される過程を読み取ることが出来るのである。次に二点目でありそれは、幼少期を人種分離された環境下で育ったものであってもその環境に飲み込まれず批判的な姿勢をもって成長していった点である。このインタビューからは黒人差別に教育の立場から抵抗を試みた人物の存在を知ることが出来るのである。 Arthur Searles(pp. 190-197) by 木村亮 1915年生まれ、兵士・教師・ジャーナリスト。 インタビュー:1994年、当時79歳。 【要約】 Arthur Searlesは1915年にジョージア州のAlbanyで生まれる。1994年のインタビュー時79歳であった。彼はこのインタビューの中で自身の教師としての人生を語っている。 彼の母が教師であったことから、熱心に教育を受ける。当時の黒人小学校はレベルが低いこともあって、繰り上げで5歳にして3年生となる。その後、1930年、15歳で教師育成スクールのジョージア師範大学に通う。そして、1933年、文字の読み書きができるSearlesはニューディール政策の一環で作られた民間植林地水隊(New Deal’s Civilian Conservation Corps:以下CCC)に入り、読み書きのできない黒人を教育するため、教育部門へと配属される。 その後、CCCのキャンプ指導者Dr.Lightfoorの紹介で、Searlesのような黒人を受け入れてもいいという州立のテネシー大学(産業系の大学)へと入り、働きながら学ぶ。その大学で、彼は講演に誘ってもらうなど、教授陣に非常に助けてもらったという。そして、1938年、卒業後にビルの管理人の職を得る。しかし、彼の母親から彼女の住むAlbanyの黒人高校での教師の教育を勧められる。母親はユダヤ系の白人とともに、Madison高校での仕事を探してくれたのだという。同時期に、Mr.Homesという黒人学校運営の中心者からテネシーでの教職をスカウトされる。Searlesは、死ぬ間際の母の言葉に動かされ、結局AlbanyのMadison高校とMonroe高校で教鞭をとった。そこで黒人を教えるのはとてもうれしかったと語っている。 Madison高校で教え始めて間もなく、彼は第二次世界大戦のために徴兵される。そのため、Fort Benningへと3年間いることになる。だが、彼はFort Benningの軍隊にいる、小学6年生までの教育を受けることができなかった兵士を教育するためのトレーニンググループのリーダーとなった。そのため、戦場にはいかなかった。 このような人生を振り返って、彼は教育を受けられたことや、職を得たことをたくさんの人々に出会い、助けてもらったからだとしている。 【考察】「Arthur Searles を通してみる黒人と教育」 取り上げるのは、20世紀初頭から半ばの一人の黒人教師についてである。その黒人教師とは、1915年アメリカ南部、ジョージア州で生まれたArthur Searlesである。彼は15歳で教師育成学校を出た後、1938年にテネシー大学を23歳で卒業した(註1)。そのため、とても黒人の中で優秀な人材であった。そんな彼が教師として働いたのは、激しい人種隔離の時代である。この人種隔離の時代は、「ジムクロウ法」というアメリカ合衆国南部諸州で、白人の利益を守るために白人と黒人の人種隔離の条例や州法が存在した時代である。19世紀に制定されたこの「ジムクロウ法」が、1960年代に公民権運動で廃止されるまで存在していた時代で、この人種隔離時代を「ジムクロウ時代」とも言う(註2)。今回、その「ジムクロウ時代」に教師として活躍したSearlesを通して、その時代の黒人と教育との関係はどのようなものであったかを探っていく。 Searlesは黒人学校にとってどのような存在であったのか。テネシー大学卒業後に、彼の母親は白人をつてにして、仕事を探し、彼にMadison黒人高校で働くように勧めたという。このとき、Mr.Homesと呼ばれる、すべての黒人学校を束ねる人物がジョージア州アトランタを中心に黒人学校のスカウトを行っていたらしく、ジョージア州の学校には黒人教師が少なくなっていた。そのため、SearlesはMadison黒人高校に雇われた。しかし、そのMr.HomesがSearlesの下にも現われ、テネシーの黒人学校で働いてほしいと申し出たという(註3)。Searlesという黒人教師を、ジョージア州の黒人学校も、Mr.Homesも必要としており、取り合う格好になっている。このことから、Searlesのような黒人教師は黒人学校にとって重要であったことがわかる。 一方で、黒人学校以外の場で、Searlesは重要であったのか。まず、テネシー大学に入る前の1933年、Searlesはニューディール政策の中で作られた公共事業グループの民間植林地水隊に入り、Fort Benningで行われたキャンプにおいて教育者となっている。ニューディール政策は1929年の大恐慌によって生じた失業者救済政策でもあったため(註4)、このキャンプにも職を持たない貧困層が参加し、彼らの95%は読み書きができなかった。そのため、Searlesはキャンプにおいて、教育部門に入り、彼らへ読み書きを教えることになったのである。キャンプでは白人と黒人が分離していたので、彼は黒人にのみ教えていたであろう〈註5)。その10年後、高校に勤めて間もなくしてから、Searlesは第2次世界大戦による徴兵で、Fort Benningでの軍キャンプで教育者となる。そこではSTUと呼ばれる教育グループの管理者という役を与えられた。このグループは、6年生までの教育を受けていない軍人を教育するためのものであった(註6) 。彼はCCCキャンプや軍のキャンプにおいて教育に携わり、軍においては管理者にまでなっている。つまり、黒人を教える場は何も黒人学校ではなく、Searlesのような教師を使い、やはり黒人は教育を受けたのである。このことから、彼は黒人学校以外の場でも重要な人物であったことがわかる。 したがって、Serlesのような黒人教師は多くの場で重要であったことから、黒人にとって教育が重要なことであったことがわかる。Searlesのような人材を黒人学校、黒人学校以外でも必要とされていることから読み取れることは、黒人たち自身が教育を受けること、あるいは子供たちに教育を受けさせることの必要性を理解し、常に向上心を持っていたこと、また軍や国の機関の中で与えられた教育の機会を利用していたことである。Searlesが働いた30年代、40年代のジムクロウ時代における、黒人の向上心と国による教育機会の利用は、後にジムクロウを廃止し黒人差別をなくそうという、公民権運動が盛り上がる50年代に、知識を持つ運動家や若者たちが多数輩出されたと考えることができる。つまり、黒人にとって教育は未来へつなぐための重要な行為であったと言える。 註 1) William H. Chafe,etc. Remembering Jim Crow-African Americans Tell About Life in the Segregated South (New York: The New Press, 2001), pp. 190-191. 2) セラ&A・エリザベス・デレイニィ、A・ヒルハース著(樋口映美訳) 『アメリカ黒人姉妹の一世紀』(彩流社、2000)、pp.89-90. 3) Ibid., pp. 192-193, 195-196. 4) 有賀貞、大下尚一 『概説アメリカ史』(有斐閣、1979)、p. 140. 5) William H. Chafe,etc. Remembering Jim Crow-African Americans Tell About Life in the Segregated South (New York: The New Press, 2001), p. 191. 6) William H. Chafe,etc. Remembering Jim Crow-African Americans Tell About Life in the Segregated South (New York: The New Press, 2001), p. 196. 1919年生まれ、企業家・政治家 インタビュー:1994年、当時75歳。 【要約】 トーマス・クリストファー・コロンバス・チャットモン(Thomas Christopher Columbus Cahtmon、以下チャットモン)は1919年ジョージア(Georgia)州クフィー郡(Cuffee County)生まれ、1950年代にフロリダ(Florida)とジョージアにbeauty supply shopを経営し企業家として成功を収めた。それと同時に政治的活動も行い、ジョージアでNAACP youth councilの組織に尽力した。チャットモンは、city commissionerの選挙にも立候補し、当選。1970年には、落選したものの連邦下院議員選挙にも立候補した。city commissioner在任にKu Klux Klanの脅迫行為を受けた際、地域の黒人たちの警護を受け事なきを得るという事件があった。同様に、教会で黒人が白人を理解することの必要性を説教した際、白人至上主義者の脅迫を受けている。インタビュー時、自らの政治活動や公民権運動への参加を振り返り、フランクリン・ローズヴェルト(Franklin Roosevelt)の言葉を引用して「恐れるべきは恐れそれ自体」であると語り、また自身の選挙体験と貧困な南部白人の集票について「金と票は同じ事」であると述べている。 【考察】 ジョージアでNAACP youth councilを組織するなどチャットモンは、地域に根ざした公民権運動を展開していたと言っていいだろう。キング牧師などカリスマの存在によって語られる事の多い公民権運動であるが、チャットモンのような存在がその助長には大きな役割を果たしていたのだ。そのことは、チャットモンがインタビューで語る「恐れるべきは恐れそれ自体」という言葉からうかがい知ることの出来る、KKKなど白人至上主義者の脅迫に打ち勝って、運動を完遂し成果を納めたという強烈な自負が物語っているだろう。このようなチャットモンの自負は「金と票は同じ事」という言葉からもうかがえる。この言葉は、企業家としての成功つまり経済的な成功によって貧困な南部白人の票を集め、選挙で当選する事ができた事、つまり自らの経済力によってJim Crow体制下で黒人として成功を収めることができたというチャットモンの認識が表れていると言える。 Leon Alexander (pp. 227-237)のインタビュー by 新井 伸之 1910年生まれ 炭鉱夫、組合員 インタビューした1994年当時、84歳 【要約】 Leon Alexanderの父親は合同鉱山労働者組合(United Mine Workers、以下UMW)の活動家だった。このインタビューはその父親が参加していた1922年のストライキ失敗という場面から始まる。 1922年のストは失敗に終わった。組合のストに対して炭鉱会社は州刑務所から囚人を借りてきた。囚人たちを代わりの労働者として雇うことによって、スト参加者を追い出したのである。また州知事は州の合衆国軍を動かし、スト参加者を締め出した。このスト失敗によって、参加者は農場へ行くしかなく、Leon Alexanderの父は扇動家の烙印を押され、新たな職を得られなくなった。そのためLeon Alexanderはそれから少しして働きにでることになる。 組合にはLeon Alexanderの父がいたUMWの他にもう1つ、炭鉱会社がわが作る組合が存在していた。会社側の組合を「brotherhood」もしくは「company union」と言った。会社はUMWではなくこの「brotherhood」へ働く黒人も白人も入れてしまう。しかし、会議では黒人に発言権がないという差別が存在していた。UMWと「brotherhood」は敵対関係にあった。1941年にはUMWの会長Jhon L. Lewisが「戦う相手は『会社』である」と語った。その言葉は、会社側が白人労働者を黒人労働者と同様に、労働者が互いに反発しあうように扱っている現実を説明していた。また、Jhon L. Lewisの主張は「組合はcolor-blindである」というものだった。 1934年、The Birmingham News紙の見出しには次のように書かれていた。「黒いカラスが白いカラスから仕事を奪って、白いカラスを食いつぶそうとしている」と。いかにして白人労働者をUMWといった組合から引き離すかが問題となっていた。Alabamaの黒人は組合作りの最前線に立っていた。白人は何もしようとはしない。それは「nigger lover」の烙印を押されたくないからだ。炭鉱会社の張るポスターには「組合に所属する白人は『nigger lover』である」とまで書かれていた。黒人への差別はいたるところにあった。雇用、昇進といった場面で。そういった差別は白人労働者と黒人労働者を分断した。会社は労働者を分断し支配することで、労働者の団結を阻止し「本当に戦うべき相手」が誰なのかをごまかしていた。 このような社会の中でLeon Alexanderは組合を組織するのを手助けするオルグとしての道を歩むことになる。それはLeon Alexanderが受け取った一枚のチラシが原因だった。彼はそのチラシをオルグのBill RaineyとWalter Jonesからもらった。そしてただチラシを持っていたというだけで、解雇されたのである。結果、Birminghamで組合活動によって解雇された最初の人間となったのである。 【考察】 Leon Alexanderが語ったのは組合闘争における人種問題である。会社が行なった行動は労働者の団結を人種差別によって分断、阻止するものであった。また、新聞なども人種差別を助長する行動をとっていた。経営者対労働者という図式に人種問題が利用されることで、労働問題も人種差別も複雑化していったことがわかる。また、John L. Lewisの主張した「組合はカラーブラインドである」という言葉の意味は「組合は黒人であろうと白人であろうと差別しない」ということである。「brotherhood」の中にある差別が仕組まれたものであるということ、「本当の敵は誰か」をはっきりさせることがこの複雑化していく問題へのUMWの対応であった。これによって、問題が解決したわけではない。白人労働者が黒人労働者と同じであると認めるのは困難であったからだ。労働問題以上に人種の問題が何よりも深くアメリカ社会に根ざしたものだったことがわかる。 Essie Mae Alexander(p.219-p.223)by 利根川洋子 1927年生まれ、治療活動家 インタビュー時1995年、68歳 【要約】 Essie Mae Alexanderは、1927年ミシシッピ州に生まれた。1995年のインタビューで彼女は、農場生活の様子や、コミュニティでの女性の仕事について語っている。彼女の家族はDoppler農場で穀類農地を借りて生活していた。しかし、農地の借用金が値上げされてしまったために、他の農場へと移り住むことになった。家族はMurphy農場で生活することになった。農場には他のアフリカンアメリカンたちも住んでいたので、彼らと様々なものを共有しながら生活した。家族は鶏と料理道具を持っていたので、彼女の母が料理を作り、農場のみんなで一緒に食べた。家族に乳製品がなくなったときは、他の人たちが乳製品を分けてくれた。また、コミュニティの女性は、自分の子供だけではなく、農場に住むほかの子供たちの面倒も見た。 7月〜8月中旬頃、女性は仕事がなかった。そのため、彼女の母が女性グループを結成した。女性グループの仕事は、冬に向けてのキルティング作業や、病人・けが人の面倒をみることであった。彼女の母はリウマチで手足が不自由であったが『もし私が誰かを助けられるのならば、私はどこまでも行く。そのとき私の生活は価値のあるものとなるでしょう。』と積極的に治療活動を行っていた。彼女はこうした母の姿を見て育ち、自身も治療活動を行うようになる。治療には、女性グループから伝えられた民間療法が使われていた。 民間療法の一例 ・切り傷→灯油を使い、腫れと痛みを止める。ススと砂糖を混ぜたもので止血する。 ・風、せき→豚のヒズメから作ったお茶に少量の砂糖を混ぜる。 ・おたふくかぜ→サーディンオイル(魚の油)を塗る 彼女は子供についても語った。彼女には3人の子供がいる。1人は病院で生まれたが、2人は自宅で助産婦の助けを借りてうまれた。医者は費用が高く、出産後は特に面倒を見てくれなかった。一方、助産婦は費用が足りなければ、卵1ダースかチキンで働いてくれた。また、出産後5〜6週間した頃になると、母親と子供の様子を見に来てくれた。人々は医者へ費用を支払う余裕がなかったため、助産婦を呼ぶことが多かったようだ。 【考察】 コミュニティのなかで、道具や食料品など、ものを共有することで人々の生活がうまく成り立っている。また黒人コミュニティ民間療法という伝統が人々を助けていたこともわかる。しかし、1920〜1930年代から公衆衛生の意識が高まってくる。今までと違う「科学的に家の中を管理する」という考えが出てきたのである。そのため黒人看護師が近代の治療技術をコミュニティへ伝えることも始まった。今までの民間療法と、科学的な考えが摩擦を起こしていたようだ。 Earl Brown (pp.237-243)by 中原香織 1918年生まれ、産業・労働組合 インタビュー:1994年、当時76歳 【要約】 第一次世界大戦後、採掘産業の分野で機械化が確立すると、それまで鉱山で黒人が担っていた肉体労働は白人が操作する機械に取って代わられた。1930年代に労働組合が支配権を得てからはますます状況が悪化し、労働組合役員の暗黙の支援によって、熟練労働の枠が白人鉱山労働者のために独占的に確保されるようになった。黒人石炭鉱山労働者は、仕事上で平等の権利も出世の機会も持たなかったのである。Earl Brown(以下Brown)のインタビューでは、黒人鉱山労働者が熟練労働に参入するために戦ったことが語られている。第二次世界大戦が始まるすぐ前、Alabama州Birminghamの炭鉱採掘地域Mulga Mineで働き始めたBrownは、Birmingham black Masonic支部のリーダー及び地方NAACPのメンバーであり、黒人が熟練の地位になり賃金を得られるようになるためにストライキを指導した人物である。 1940年代後半になり門戸が開かれてきた助手(helper)や電気工(electrician)の仕事にも人種隔離は存在していた。Brownは黒人少年Leroy Davisを助手の仕事に就かせて欲しいと頼んだが、その少年が助手になる資格を持っているにもかかわらず、現場監督は「熟練した人間が必要」と言って聞かなかった。そこでストライキを計画していると、白人鉱山労働者の少年がBrownのもとに現れ、現場監督が黒人たちを遠ざけるために助手を切り離してみな電気工にするつもりであることを伝える。それを聞いたBrownは助手の仕事を残しておくよう現場監督に要求し、そのようにしない場合は白人少年を証人として本社へ連れて行くとも宣言した。監督が「浴場などの差別撤廃を望んでいるのか」と聞くと、Brownは仕事が欲しいのだと答えた。その二日後にDavisが助手の仕事に就くことになり、労働での差別撤廃が浸透する第一歩となった。監督は「同時に白人も平等に雇うつもりだ」と話したが、仕事上の格差を崩したかったBrownはそのことを懸念してはいなかった。この他にも、機械運転士(motorman)の仕事内容や労働時間の平等を求めるストライキのこと、ランプやガスメーターの修理を行なうlamp houseの仕事に就いた最初の黒人となったことなどについても語っている。 Brownは、「同じ仕事をしたら、”nigger that”のような軽蔑的な認識なく同等に扱われ、同じ賃金を得るべき」と考え、地区労働組合の事務所に移る以前は労働組合の問題を対処する鉱山委員会で働いた。Brownが苦情委員会の鉱山委員だった頃、黒人労働者を欲さない白人労働者がストライキを起こした。Brownは残った黒人労働者を訓練することで白人労働者が引き起こした状況を持ち直そうと提案した。Mulgaの新しい鉱山監督Mr. Dobbsは、Brownの「白人たちが出て行ったのは他者に対する差別の感情からで、我々はここに残って働くつもりである」という主張を受けて、黒人をシフトに組み込むことにした。すると白人がストライキから戻り、ここから鉱山内での統合が始まった。 【考察】 電気工の助手になる資格を持っている黒人少年に対し「熟練した人間が必要」として雇用することを認めなかった現場監督の言葉からは、黒人は「劣等」であり熟練労働には就くことができないはずだという考え方、つまりジムクロウ時代の白人による黒人へのステレオタイプ的な見方が植えつけられていることがうかがえる。また、その後の「浴場などの差別撤廃を望んでいるのか」という発言からは、施設の改善なら考えようがあるが黒人労働者を熟練労働に就かせるという考えが思いつきもしない様子をみることができ、ここでも同様なステレオタイプの浸透が裏付けられる。黒人労働者を良く思わずストライキを起こした白人労働者にもこのようなステレオタイプが染み込んでいたと考えられるが、現場監督の思惑をBrownに伝えて証人にまで名乗りを挙げた白人労働者もいたため、白人・黒人の括りに囚われない見方が必要であろう。 Brownは、白人が独占していたlamp houseの仕事に参入したり、ストライキなどにより差別撤廃の第一歩を担ったりしてきた。黒人の労働状況の改善には、Brownのような考え方をもった人物による、現場監督らに何度も立ち向かう勇気ある行動の地道な積み重ねが不可欠であったことがうかがえる。また、現場監督が「黒人と同時に白人も平等に雇う」と述べているのに対しBrownは懸念を示さなかったとあるが、白人の仕事を黒人で乗っ取りたいというのではなく、白人ばかりであった仕事の領域に参入して差別なく同等に働く機会が欲しいのだという要望が見て取れる。このことから、後に述べているような、「みなが同等に扱われるべきである」という考え方が体現されていることが分かる。 Thomas C. Chatmon (pp. 223-227) by 村田洋平 1919年生まれ 経営者、政治家 インタビュー 1994年 当時75歳 【要約】 Thomas Christopher Columbus Chatmon(以下Chatmon)は1919年にGeorgia州coffee郡の農場労働者のもとに生まれ幼いころより親の作業を手伝う。当時の白人農場経営者の黒人農場労働者への対応は厳しく、一日中働いたとしても収入は非常に少なく、まさにPart slaveといえるものであった。農場経営者は、自身の経営する農場のために、黒人労働者の子供たちまで利用しようとし、農場労働者も子どもが教育の場から農場へ借り出されることを受け入れていた、しかしChatmonの両親はそれを許さなかった。両親は教育を受けてはいなかったが、子供には教育を受けさせることを望んでいた。 1936年の母の死後、Chatmonは、ほかの兄弟の子育てをする父を助けるために、4年間の休学をする。その当時、一日中働いて一日40セント、1週間で2ドルの稼ぎを得る。父も一日75セントを稼いでいたが、大勢の子供たちを養うには厳しかった。そんななか庭に飼っている家畜で何とかやりくりできた。 働いて得たお金で農場経営者のThomas Harper(以下Harper)への借金を清算して復学しようとHarperの家を訪ねるが、Harperは借金の返済分を無効にしてしまう。しかしChatmon達は反論すれば殺される危険があるためにこれを受け入れる。このようなことがありChatmonは注文していた背広をとりにOcillaへ行った際、そのままOcillaの学校に復学しChatmonはもうHarperの農場へ戻ることはなかった。ChatmonはOcillaでもデパートなどで職を見つけ高校に通う間も金銭面で父親を助けた。 大学卒業し実家に戻っていたとき訪ねてきた大学の友人Samuel Chatmanの提案でHarperに会いに行く際、Chatmonは妻のキャデラックに乗り友人とHarper Thomasの元を訪れ、出迎えたHarperに対して皮肉・批判を延べる。Harperの顔色は見る見る変わっていくが、そのとき友人は銃を持っていたためHarperはそのときは何もしなかった。だがHarperはChatmon達が帰った後、黒人コミュニティーに赴き、Chatmonが自分に何をしたかを話して回った。このような行いをHarperにしたのはChatmonが初めてであった。この行いについてChatmon自身はやらなければならばかったことだが、子ども達はこのようなことをする必要はないと考えている。 また1943年に軍隊へ入り、除隊のときに復員兵援護法を受け生活していくが、多くの黒人青年が同じことを経験したと述べている。 【考察】 この箇所からは、Jim Crow下を生きたChatmonの証言から当時の農場労働者の生活を知ることができる。Chatmonが自身をPart slaveと称しているように朝から晩まで働き日給40セント、週給2ドルの賃金しかえられず、非常に農場経営者の黒人農場労働者に対する態度は冷たいものであった。そんな低収入でも家族を養っていかねばならず、庭で家畜を飼いその家畜に利用して生活する。不当に低い賃金でも何とか生活して行く手段を持っていたことは必然のことだったのだろう。 また農場経営者が労働者の子供を教育の場から自身の利益のため農場の労力として使う事について、Chatmonの親はそれを許さなかったようだが、ほかの親はそれを受け入れていた。ただここからの記述ではChatmonの親が教育を重要視して周りの親は教育に関心がなかったようにも取れる。当然Chatmonの親は教育に周囲の親たちに比べ関心が高かったのだろうが、ほかの例えば農場経営者の土地や家で暮していたり、そこから出ることもできないものは、子供が農業労働に刈り取られることに内心反対していても、受け入れざるを得なかったということも考えられる。 Chatmon親子が借金の清算に行った際、Chatmon達の収入を帳消しにされたとき、そのことに反論すれば殺されるかもしれないために、受け入れざるを得なかった話からも農場経営者の厳しい仕打ちや、労働者の農場経営者に対する恐怖が伺える。 またこの箇所は”WORK”の中に含まれているが、教育・教育の場にも注目したい。この当時大学教育まで受けているといないでは暮らし向きに差が生じていた。それはChatmonがHarperに述べた、「ここにとどまっていたらHarperたちを金持ちにするだけだった。」「現金であのキャデラックを買った。」というところから、大学を出ていなかったら農業労働者になって、父たちのように厳しい環境の中で生活していたであろうが、大学を出たChatmonはキャデラックを買うほどの立場になれたという形で書かれている。大学教育を受けるか受けないかで成れる職業・収入に差が生じるのは確かである。しかし教育は経済的な差を生むと同時に思想的にも差を生じさせたのではないだろうか。 Jim Crow下の、白人・黒人で分けられ、白人学校よりも劣った施設設備や白人の教育員会などにより白人の思うままの教育体制で教育を受けていた黒人の子供は、黒人は白人よりも劣ったものと考えJim Crowの根底にある白人優位の考え方に組み込まれていった。これはCharles Gratton(pp7-8)の箇所に見ることができる。Chatmonがもともといた地区には黒人は7学年間までしか教育を受ける場所なかった。ではその七学年で教育過程が終わったならばその白人優位のプログラムに組み込まれた黒人が、一人社会に出て行くことになったかもしれない。ところが6章(pp288-293)を見ると大学まで行ったChatmonはそこでNAACPに出会い、その考えに触れ、活動に参加しNAACP youth councilを組織していく。NAACPは、確かに高校・大学教育過程の一環ではないが、この時期に高校や大学に通うということは、人種やJim Crowに対してそれまで受けていた教育とは違った価値観・思想を知る機会を得るということでもあったと考えられ、教育・教育の場が思想的にも差を生じさせる場にもなったということも十分に考えられるのである。 Wilhelmina Griffin Jones (pp.273-277) by 太田圭 1915年生まれ、公務員・事務員。 インタビュー:19914年、当時79歳。 【要約】 このインタビューでウィルヘルミナ・グリフィン・ジョーンズ(以下ジョーンズ)は主に1943年(当時28歳:1915年生まれ、インタビュー時79歳)に裁判所へ出頭せねばならなくなった一連の出来事について語っている。 事件の発端は、ある日曜、友人3人とアラバマ州(Alabama)のオペリア(Opelika)へ行った帰途に起こった。当時、住まいを構えていたタスキーギー(Tuskegee:ジョーンズは1942年からアラバマ州タスキーギーのTuskegee Army Airfieldで働いていた)に戻ったのは夜遅くであった。メイン(Main)通りを北に(現Alabama Exchange Bank辺り)走行していたとき、彼女たちは警官に車を止めるように注意を受けた。なぜなら、ジョーンズの運転する車が消化用のホースの上を誤って走行していたのであった。そのとき、近くで火事があり消化活動が行われていたのである。彼女らは、男性が居たのは見かけたがヒッチハイクをしていると思い、そのまま通り過ぎてしまったのだ。 ジョーンズたちは、誤りを犯したのだから素直に罰金を払うと言ってもとりあってもらえなかった。さらに、ジョーンズが警官に名前を聞かれた際に、自身を「Miss. Jones」と証したことが反抗的な態度と見られ、警官を刺激することとなってしまった。彼女は警官に「Miss」と称することができる黒人は居ないと言われ、同情していた友人にも「Miss」を使わない方が良いと忠告をうけた。結局、彼女たちは詳しい事情を説明されず、一方的に翌日、裁判所(mayor’s court)に出頭するよう命じられた。 その翌日の月曜、市庁舎の裁判所へジョーンズと友人の1人(男性)は出頭した。2人は不当な扱いを受けたことへの反抗として、三者三様の対策をしていった。ジョーンズは、昨日と同じように小奇麗なきちんとした感じにドレスアップをした。彼女は自身のことは今日も「Miss」と称することを主張し、真っ向から対戦しようと決めていた。一方、友人はとういと、ワンサスペンダーのオーバオールにキャップは後ろ前に被り、汚い紐無しの靴で、シャツの袖は捲り、襟元は肌蹴た感じに装った。その後2人は、取調べを長テーブルのある大きな部屋で市長と保安官に尋問を受け、事情を説明した。 ここでもジョーンズたちは、理不尽な扱いを受けることになる。ジョーンズは、「Miss」と証したことについて、再度注意を受けた。ジョージア(Georgia)で育ったなら「Miss」と証するべきでないことを知っているだろうとも言われた。さらに彼女は、「Miss」に値する黒人を見たことが無いとまで言われ、呆れ果てて反論できなかった。 彼女の友人のほうは、「Boy !」と扱われた。しかし、彼は市長と保安官の一枚上手を行っていた。彼は、どこで働いているか聞かれたとき、彼らの思い描くような黒人を演じて見せたのである。文法がでたらめな使いで、白人にへつらう「ニガー」を見事に演じて見せた。彼の気転により、市長と保安官の態度は一変、窓口へ行き17ドルを払えばすぐに帰れることになった。 【考察】 この裁判所へ出頭した際にジョーンズと友人のとった行動は、大変興味深い。固定された白人側の黒人に対するステレオタイプを示し、またジム・クロウの引かれる社会で黒人たちが白人社会とどのようにして接して暮らしてきたのかという対象的な事例を示している。真っ向から反抗するだけでなく、ジョーンズの友人のように白人側の黒人に対する差別意識を利用するということも一種の白人世界に対する抵抗であり、黒人たちが白人社会と接して生きてゆくための知恵であったのだ。 また、白人警官と市長がジョーンズの友人が「アンクル・トム」的な黒人を「演じている」だけにすぎないにもかかわらず、それを本気で信じ込んでいることにも注目したい。タスキーギーの軍隊というように、専門的な職についている彼女の友人が文法のでたらめな話し方でだらしの無い服装をしているとは考えにくいものである。その事実を知っているにもかかわらず、警官と市長は、ジョーンズの友人が自分たちの考える「黒人」であると信じ、それに安堵を得るかのようにして2人の主張に対して許可を出している。このことは、「黒人」を劣等とみなすステレオタイプが強固に固定化されていることの証明にもなりうるであろう。 Leon Alexander (pp.277-281) by 内田大二朗 1910年生まれ、労働者・労働組合員 インタビュー:1994年、当時84歳 【要約】 Leonは1910年生まれの炭鉱夫であり、合同鉱山労働者組合(UMW)の苦情処理係の代表を務めていた。インタビューでは彼が選挙登録に行った時に、選挙登録官が黒人の登録を阻むためにどのような手段や条件を用いていたのかを語っている。 郡の裁判所に登録官の委員会が在るので、Leonが最初に一人でそこへ入って行くと、登録官は手を洗いに行ってしまって彼の応対がなされない。白人が入ってきた時にはその応対をするが終わるとまた行ってしまう。粘り強く待った末にようやく記入用紙を渡されるが、書き終える前に回収され問答無用で不合格を言い渡されてしまう。事務所に帰り白人の組合員の同僚に事情を話し、代表者から知事に電話をしてもらったが、知事はもう一度行ってから電話をするように言われる。そこでLeonは白人の同僚二人を伴い登録所に向かうが、登録官はLeonを無視して白人の同僚の応対を始めようとする。同僚に前に行った時のことを問い詰めてもらい、Leonはようやく登録用紙を書くことが出来たが、それにも白人のサインが必要だった。それを登録官に渡したところ、合否の発表は数日後になると言われたため、彼らは事務所に戻り知事に電話をしたところ、登録官から即座に合格を知らせる電話がかかってきた。 また、Leonがはじめて投票に行ったときには、彼が証明書を持っていてにも関わらず、朝刊に記載される選挙名簿に名前が無いといって投票を断られる。そこで代表から登録官に電話をしたところ、そこに載せる手続きを忘れたといわれ、即座に名前を加えさせた。 【考察】 この登録官の応対の仕方は、その背後にある白人の黒人に対する姿勢を如実に示すものであると思われる。当時の黒人有権者登録への妨害は識字テスト、州憲法の暗記などの形を伴って広く見られるものであるが、このBirminghamでも徹底していた。まず、彼が一人で行ってもほとんど相手にされなかったこと、それと実際に登録には白人のサインが必要であったことから、いかに能力のある黒人であっても白人の後ろ盾を持っていなければ選挙権を獲得することは不可能であることがわかる。しかも、登録官が知事にはすぐに従ったことと、白人を伴ったLeonが合否の通達を先延ばしにされたことからも、それがある程度力のある人物でなければ難しいことであったことが推測される。以上のことから、当時の黒人にとって選挙権獲得がいかに困難なことであったか、また団結がとても重要なことであったと言うことができる。 Stine George and Doris Strong George (pp. 285-287)のインタビュー by 奥泉 直人 Stine 1931年生まれ 農業・公務員、Doris 1929年生まれ ビジネス・教育 インタビュー:1995年、Stine 63歳、Doris 65歳 【要約】 ジムクロウ時代において黒人は、政治的活動への参加が制限されていた。このインタビューで、スタイン(Stine)とドリス(Doris) のジョージ夫妻はGeorgia州、Moultrieでの選挙の状況と黒人投票者の関係を述べている。 Moultrieでは、白人立候補者が黒人を選挙権登録させようとしていた。理由は、白人立候補者は黒人の票を大きな後押しとして当選しようと狙っていたからだ。黒人は選挙に出馬することはできなかった。白人立候補者は黒人の下に投票をお願いにやってきた。ある者は自分を宣伝するうまい話をし、またある者は食べ物やお酒を持ってきて土産に渡した。白人立候補者たちは選挙で過半数の投票を得るために黒人たちと仲良くしようとしていた。しかし、白人立候補者たちは黒人たちに何も公約をしてはくれなかった。黒人たちは投票しても何も得ることはできなかったのだ。 【考察】 Georgia州のMoultrieでは、黒人のもつ投票権は白人立候補者の浮動票でしかなく、黒人には政治に参加する力がなかったことがこのインタビューでは述べられていた。ジムクロウの時代には、奴隷制の時代とは違い、黒人たちは投票権を得るようになっていった。しかし、黒人は投票権を得ることができても、出馬することはできず、さらに白人立候補者が黒人たちに何も公約してくれないという状況であり、黒人が選挙で何かを得ることはなかった。つまり、黒人は投票権を得ただけであり、政治活動に参加しているとはいえない状況であったことがわかる。政治に真の意味では参加できていないという点において、黒人の状況は奴隷制時代と変わっていない。 Olivia Cherry (pp. 296-303)のインタビュー by 青柳 洋和 【要約と考察】 Olivia Cherryは1926年、Virginia州Hamptonに生まれた。インタビュー年は1995年、彼女が69歳の時である。彼女はこの章において、自分がしてきた仕事のなかで遭遇したジムクロウの障害に対してどのように抵抗していたかを語っている。始めは農業労働者として、違う名前で呼ばれたときに「自分にはOliviaという名前がある」と白人の主人に反抗し、ポテト農場では約束していた給料をもらえないことから雇い主の白人を騙した。召使として働いた時は、勝手口から家に入ろうとせずに正面入り口から入っていた。そして、New Yorkで事務職を探した時に雇用の差別に直面し、会社の黒人雇用状況を自分で調査していた。彼女は1930年代末から1950年代初頭までジムクロウ社会に個人で抵抗していたということである。公民権運動の中においても個人での抵抗がどれだけ危険なことであったかは想像に難くない。それから考えても、彼女がどれだけ危険な状況下にいたかがわかる。 このインタビューの中で、随所に黒人の対する白人の行動・態度が見える。Oliviaのことを“Susie”と呼ぶ・提示した給料を渡さない・黒人召使を勝手口から来させる・バス運転手による嫌がらせ・黒人を事務職員としては雇わない会社(New Yorkでの出来事)など、やはり白人優位・黒人劣位の状況を示している。しかし、このインタビューの中では基本的にそれ以上のことが見受けられない。つまり、黒人の反抗に対する白人の対応が度を越えていないのである。もちろんOliviaがそのような状況に陥っていないだけということも考えられるが、彼女が生まれ育ったHamptonにはしっかりとした黒人コミュニティがあるということなので、その地域的状況がOliviaの助けになっていたのではないかと考えられる。そして、彼女が女性であり個人で反抗していたことなどもそのような状況になった要因だと思う。つまりただ相手にされていなかっただけ。ここからジェンダーの差異があることがわかる。(男性だったらこの状況以上の対応が返ってきていたかもしれない) 最後に黒人雇用の部分に関してだが、この部分ではUrban Leagueについての記述が少しある。OliviaがNew Yorkで事務職員の仕事を探していたときにUrban Leagueに行ったが、会社に送り込まれるだけで自分がやりたい仕事が出来なかったという内容である。彼女にしてみればまったく助けになっていなかった。この記述から黒人支援団体にも差異があり、その対応いかんにより黒人の助けになっていることもあればなっていないこともあるということを改めて認識した。 【農業という側面からの要約と考察】 Remembering Jim Crowの中では、様々な職業につく黒人の生活の様子や、組合活動の内容が語られているが、特に私が着目したのは、農業に関してである。ここでは、直接その言葉が用いられているわけではないものの、農業に関するインタビューの中には、農務省が主導したagricultural extensionの影響を、顕著に見ることができるものがある。agricultural extensionとは、農務省が旧綿作地帯の貧困を救出しようと1908年に開始した改善運動が、1920年代に全国的に発展したものである。黒人農民に関しては、Tuskegee Instituteがその中心となり、agricultural extensionの黒人運動員を輩出していた。ここで、農業に関する改善運動の影響の一端を垣間見ることができる、あるインタビューを取り上げてみよう。それは、第4章で、農業学校における生活の詳細を述べているGeraldine Davidsonのものである。 1927年に生まれ、Arkansas州Zentで育ったDavidson[第4章]が語るのは、自身の通ったFargo Agricultural Schoolについてである。同州Fargoにあるこの学校は、1919年に、Tuskegee Instituteの出身者であるDr. Floyd Brownによって設立されたものであり、“Work Will Win”をモットーとした、職業訓練学校であった。ここで、Tuskegee出身者が農業学校を主導し、かつ地域コミュニティでの影響力を持っていく様は、前述したagricultural extensionの運動員がTuskegeeから輩出されていたことを裏づける記述であるといえよう。 また、Davidsonは、この農業学校のカリキュラムの内容として、home economicsという科目を強調している。home economicsは、縫い物、料理、手芸などを扱う科目で、彼女は10年生のとき、この科目に午前中の4時間を割いたと述べている。女子生徒がhome economicsを受けている時間、男子生徒は農場で、にわとりや牛の扱い方を習っていた。彼女のこのインタビューから見ることができるのは、agricultural extensionの求める、ジェンダーでの役割分担という側面である。この運動においては、男性には品種改良や農具の改善が、そして女性には適切な家計運営が望まれていた。ここでいう適切な家計運営を身につけるために行われたのが、Davidsonの語るhome economicsという科目なのであろう。その証拠として、Dr. Brownはhome economicsの目的を、学校を出た後、良い主婦になるための常識を身につけることとしていた、という内容の発言を挙げることができる。 また、Davidsonのインタビューの中には、農業学校以外でもDr. Brownがagricultural extensionの運動員として活動している様子を示した内容を語っている部分がある。それによれば、Dr. Brownは、近くの郡の農場経営者を集めて、farmers’ conferenceを組織していた。これは、農場経営者が集まり、どうやったらよりよい食糧を生み出すことができるかを話し合うものであったらしく、そこに前述した男性による品種改良、農具の改善のための活動を見ることができる。 これに近い内容を持つインタビューとしては、第3章で、自身の暮らしていたMississippi州Cantonのコミュニティについて語っていたMerlin Jonesのものを挙げることができるだろう。そちらのインタビューでは、やはり農業発展におけるジェンダー別の役割分担を示す、子供を対象とした組織である4-H clubの名前が挙げられている。また、州都近くのfair-groundで毎年行われていた、白人・黒人別の農業博覧会についても、若干あいまいな記憶ではあるものの、触れられている。これもまた、農作物、農業機械の展示を目的としたagricultural extensionの運動の一環であることを述べておこう。 ここで着目したDavidson、あるいはJonesのインタビューからは、ジム・クロウ時代に農業を営んでいた黒人たちを、いかにして導き、いかにして農業発展させるかという運動の様子、その実態を見ることができる。それを主導したのが、Booker T. Washingtonらの設立したTuskegee Instituteであったことを考えると、Washingtonの思想を継承したいわゆるタスキギ運動との関連も、多少なり見えてくるのかもしれない。 いずれにせよ、こういった運動の思想や概要を大まかに上から眺めるのではなく、実際にそれが行われていた様子、対象となった人々の感覚を、インタビュー感じ取ることができるというのが、本書を読解する意味であると考えられる。ここでは農業に着目したが、それはその他のインタビューにおける組合運動や差別への抵抗といったトピックについても、同様にいえることであるだろう。 トップページ>Students>Our Readings>>Remembering Jim Crow |