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Mississippi Harmony


2008年度は、Winson Hudson and Constance Curry, Mississippi Harmony: Memoirs of a Freedom Fighter(New York: Palgrave Macmillan, 2002)を読みました。藤樌悠太(今年度ゼミ長)の小論を以下に紹介します。



2009年1月8日

Winson Hudsonの活動ともう一つの「公民権運動」

藤樌悠太

はじめに――Winson Hudsonとその活動
ウィンソン・ハドソン(Winson Hudson、1916−2004年、以下ウィンソン)は、ミシシッピ州リーク郡のブラックコミュニティであるハーモニー(Harmony、以下ハーモニー)に住む、女性の公民権活動家である。ウィンソンの活動は多岐にわたり、特にハーモニーやその周辺地域に大きな変化をもたらした。彼女の初めての活動で確認できるものは、1937年に選挙登録を試みたことである。その後、1950年代には「学校の差別撤廃のための組織的抵抗を行」い(1)、1960年代には地元の公民権活動組織であるCOFOが開催したミシシッピフリーダムサマー計画に参加するなどした(2)。60年代後半から80年代かけては、「隠された闘い」として、ハーモニーや周辺地域の生活水準の向上や地域格差是正を目指した活動に従事している。つまり、ウィンソンの活動はミシシッピ州の人種差別撤廃や黒人やマイノリティの公民権獲得を目的としつつも、コミュニティの貧困問題を解決しようとする、地域に根ざした活動であった。
 以下では、このようなウィンソンの活動を通して明らかになった点をそれぞれ考察する。


 1960年代前半まで、公民権運動の多くは徹底した非暴力主義で行なわれてきた。例えば1960年の学生によるレストランへの座り込み運動やフリーダムライド、有名な1963年のワシントン大行進がそれである。これらの活動はすべて非暴力主義、つまり暴力に対して非暴力という手段で抵抗し、人種差別や不平等を訴えかけるという形で行われてきた。
しかし、ウィンソンの活動は上述したような運動とは違った様相を呈した。それはミシシッピ州の法と慣例により作り上げられた人種差別的社会状況の中で活動していたからである。MISSISSIPPI HARMONY: Memoirs of Freedom Fighterの編集者であるConstance Curryはミシシッピ州の状況を次のように説明している。

 各州での大規模なリンチや他の暴力的な行為は、南部でミシシッピが最も弾圧的で全体主義的な社会秩序となる程度に、他の南部諸州のそれを上回った。それに加えて、黒人に対する暴力の容認、差別的な選挙や他の法令の制定、そして採算の取れるシェアクロッパー制は、綿花生産に従事させること立場におくことを許した(3)。

このことからミシシッピ州は人種差別が蔓延し、最も酷かった州ということがわかる。
また、地元新聞の報道からミシシッピ州がより保守的な傾向にあるということが明らかになる。1971年にウィンソンが健康問題の報告のためシカゴやワシントンの会議に参加した時、全国新聞では大きく取り上げられたが、地元新聞では「その女(ウィンソン)が北部に行くのを止めろ。私たちはこの女を無視しなければならないのです」や「ウィンソンたち黒人や貧しい人たちが必要としていることについて話を広げないようにウィンソンを止めたがっただけだった」と報道された(4)。この資料だけで証明することは難しいが、ウィンソンの地元はより保守的な傾向にあることがわかる。
つまり、ウィンソンが活動していたミシシッピ州は南部の中でも保守的な傾向にあり、他の南部諸州に比べてもクークラックスクラン(KKK)や白人市民会議(Citizen’s Council)などの白人至上主義団体からの暴力や嫌がらせが横行している場所であったことがわかる。
このような社会状況の中では、ウィンソンは自分を非暴力主義者として活動していたが(5)、KKKなど人種差別主義者たちの暴力から身を守るために武装しなければならない状況があった。その様子がわかる例として、1967年11月のKKKに妹ドーヴィ(Dovie、以下ドーヴィ)家が襲撃された時の話しがある。

私たちは車の音を聞いた。私が夜の12時まで夜番をしているとKlanが私たちの私道をバックしてきた。…(中略)…夫のクレオと私は銃撃の準備をしたがジャーマンシェパードが立ち去らせた。…(中略)…彼女の家で爆弾が爆発し、メリー(ウィンソンの姪)の呼び声が聞こえた。私は家を飛び出し、クレオはすべての銃が空になるまで撃ち続けた。(6)

ここではウィンソンは自衛のため武装し、暴力に対して暴力で対抗しなければいけならないような状況が読み取れる。これは、自分の身は自分で守ることが迫られている危機迫る状況だからこその一時的な対応かもしれない。しかし、ここではミシシッピ州で活動家が公民権活動を行なっていく上で、非暴力主義では対応しきれない状況に出くわす可能性があると言える。つまり、ミシシッピ州では、運動を続けていく上で非暴力主義を貫くには限界があった。

「隠された闘い」から見えてくるもう一つの「公民権運動」
 ウィンソンの活動において特徴的なことは、権利獲得や公立学校の人種差別撤廃だけを目指していただけではなく、「隠された闘い」としてコミュニティの存続と貧困問題の解決において積極的に活動していた点である。このことはミシシッピ州全体を取り巻く集団的・組織的な運動だけでなく、コミュニティ内にある生活上の諸問題の解決を目的とした個人的な活動を行っていた、と言い換えられるだろう。「隠された闘い」の具体的な活動は、ハーモニーの電信事業、土地、健康、住宅をめぐる問題の解決を目指したものがある。
貧困問題については、ジャクソン市の医師であるDr.Robert Smithは1950年から1960年代のミシシッピ州の健康問題について、次のように証言している。

生活の中で早期に深刻な健康状態にあった者は、適切な処置を受けることが出来ずに死んでしまうか、生活に支障が出るまで治療できずに悪くなる一方だった。健康問題においてミシシッピは「第三世界」のような状態であった。(7)

ここでは、ミシシッピ州全体の健康問題を指摘しているが、特に住民がすべて黒人であり、田舎の農村であるハーモニーではその状態はひどかったと考えられる。このような状況を改善しようとしたのがウィンソンの「隠された闘い」であった。
では、このようなコミュニティの存続や貧困問題の解決を目的とした個人的な活動は、はたして「公民権運動」といえるだろうか。
「公民権運動」の定義は難しく、最近の研究でもその多様性について議論が交わされている。一つの定義を参照してみると「米国において、黒人や他のマイノリティグループが教育、雇用、選挙などさまざまな領域における差別に抗議し、白人と同等の権利を求める運動」とある(8)。運動の第一義的な目的は「憲法」の変化であり、「生活」の変化は「後からおとずれるもの」とされ、二次的な目的となっている。この定義では、ウィンソンの「生活」の変化だけに焦点を絞った「隠された闘い」は、上述した「公民権運動」に該当するとはいい難いし、同じものだと考えると少し違和感を覚えてしまう。
そこで、私はウィンソンの「隠された闘い」は上述した「公民権運動」とは違う、もう一つの「公民権運動」であると考える。運動の目的の違いで「公民権運動」は二つに区別できると考えるからだ。つまり「平等」や「権利」の獲得をめざすことを目的とした「公民権運動」と、黒人およびマイノリティの「貧困」問題を解決することを目的とした「公民権運動」がある。これらは相互に関連しあい、別個に語ることは出来ないが、前者が「憲法」に運動の成果を求める運動であることに対して、後者は「生活」という実質的な空間に成果を求める運動であり、運動の成果がどこに向くかという点について違いを求められる。
このように「公民権運動」の目的に変化が現れたのは、1960年代前半の強力な公民権法制定以後であると言えるよう。「公民権運動」の成果により「法」の変化は達成できた。しかし、1964年以後のミシシッピ州は「いくつかの有権者登録や学校での人種差別撤廃における進歩があったにも関わらず、大多数の黒人たちの生活は絶望的に不平等」な状況にあった(9)。このような状況の中で、「公民権運動」は従来の「公民権運動」とは目的を異にした、もう一つの「公民権運動」へとその様相を変化させた。「公民権運動」にとって1960年代の出来事はひとつの転換点であったといえよう。そして、ウィンソンの「隠された闘い」、つまり、もう一つの「公民権運動」の特徴(目的ととらえられるかもしれないが)は、「法」と生活の場における「実態」の格差を埋めるための運動であった。

おわりに
ウィンソンの活動は、1950〜80年代にハーモニーを中心に草の根的に活動していたミシシッピ公民権活動家の姿とともに、地元の活動家の視点でとらえたミシシッピ州の実態を明らかにしてくれた。また、彼女の公民権法成立以後の活動は、広義の「公民権運動」について、その再考の必要性を提起するものであろう。


(1) Winson Hudson and Constance Curry, Mississippi Harmony: Memoirs of Freedom Fighter(New York: Palgrave Macmillan, 2002), pp. 8-9.
(2) この計画では、黒人と白人の学生を夏のボランティアとして招き、黒人の歴史を教えるフリーダムスクールの設立や黒人の有権者登録運動を行なわれた。詳細は、「付録1 アニー・ディヴァイン、思い出を語る」(アン・ムーディ『貧困と怒りの南部―公民権運動への25年―』彩流社、2008年)や川島正樹『アメリカ市民権運動の歴史』(名古屋大学出版会、2008年)の特に6章を参照。
(3) Winson Hudson and Constance Curry, Mississippi Harmony: Memoirs of Freedom Fighter (New Yor: Palgrave Macmillan, 2002), p. 3.,
(4) Ibid., p. 108.
(5) Ibid., p. 65.
(6) Ibid., pp. 1-2.
(7) Ibid., p. 96.
(8) 『百科事典マイペディア』(平凡社、2003)より引用。
(9) Winson Hudson and Constance Curry, Mississippi Harmony: Memoirs of Freedom Fighter (New Yor: Palgrave Macmillan, 2002), p. 95.





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