*)本稿は、専修大学社会科学研究所のグループ研究助成A(1994年度〜1996年度)「国民経済計算――応用一般均衡モデルをひとつの柱として」の研究成果の一部であると考えられる。助成期間中にもたれた「国民経済計算研究会」では、環境・経済統合勘定に関して、有吉範敏氏(熊本大学)、佐藤勢津子氏(経済企画庁)の有益な報告に接することができた。そのうえ、佐藤勢津子氏には、本稿執筆に際し、必要な情報を提供していただいたし、有吉教授からは、草稿段階の本稿を丁寧によんでいただき、有益なコメントをいただいた。両氏に感謝する。草稿段階では、上記のほか、北畠佳房教授(京都大学)、古井戸宏通博士(農水省森林総合研究所)から、さらに、同僚の多辺田政弘、狐崎知己の両教授から貴重なコメントをいただいている。感謝する。また、「国民経済計算研究会」のメンバーでもある佐藤博教授の退職記念号に本稿が掲載されることは筆者にとって光栄なことである。もちろん、言うまでもないことであるが、本稿の全責任は筆者にある。
1)水俣・東京展実行委員会(1996)。1996年現在の認定患者2,260名、未認定患者1万1千名。認定患者の半数がすでに亡くなっている。ここで、「認定」が医療としての「診断」ではないということに注意すべきであろう。
2)その中でも行政当局の規制責任の問題、より具体的には、規制を行なえば被害を出さずに済んだときに規制を行なわなかったこと(行政の不作為)によって行政当局に責任が発生するかどうかという問題は、最近の薬害エイズ問題の脈絡で再提起されている。昭和32年8月に熊本県は、厚生省に対し、水俣湾内産の魚介類に食品衛生法4条2号(有毒な、もしくは有毒な物質が含まれ、もしくは附着し、またはこれらの疑いがある食品または添加物はこれを販売、または販売の用に供するために採取、製造、輸入、加工、調理、貯蔵もしくは陳列してはならない)を適用することの可否について照会したところ、厚生省は、「水俣湾内特定地域の魚介類すべてが有毒化しているという明らかな根拠が認められない」として食品衛生法の適用を不可とした。しかし、水俣病三次訴訟の熊本地裁判決(昭和62年3月30日)では、「国と熊本県は、食品衛生法など当然適用すべき法律を行使しなかったために水俣病が発生、拡大した」という原告側の主張を全面的に認めた。京都地裁判決(1993年11月26日)でも昭和33年に成立した水質二法以降には規制すべき作為義務があったと見ている。実際、34年11月には、水産庁長官は、法担当の経済企画庁あてに水俣湾にこの法律を適用することを要望している。水俣湾と周辺海域を水質保全法の特定水域に指定し、その水域へ排出される排水の水質基準を定めたうえで、工業排水規制法によりチッソ・アセトアルデヒド生産工程を指定水域へ排水を出す特定施設に指定し規制を行なうべきであったと考えられるのである。「弊害があり、それが立証された場合にのみ、政府規制は正当化され」(松下監修(1996)5ページ)、そうでない場合には企業の選択の自由を制限すべきではないという思想は、現在よりも昭和30年代に盛んであったようだ。なお、和解協定書調印(1996年)以後の残された問題については、さらに原田(1995)、高峰(1996)も参照せよ。
3)<制度コア>の主張である。Bochove and Tuinen(1986)を見よ。
4)Commission of the European Communities, et al.(1993)。
5)United Nations(1993)。
6)今回の国際収支統計の改訂には、財・サービス収支の導入によって国民勘定統計との連係が改善されたことや、付随的に表示通貨が円に限定されたことなどの多くの論点があるが、本稿のテーマではない。
7)経済企画庁(1995)。
8)訳書3ページ。
9)ストックホルムで1972年に開かれた、第1回国連人間環境会議は、1970年代の「環境の時代」を象徴するできごとであったが、3年後の1975年の国際自然連合(IUCN)総会で世界保全戦略(WCS)の作成方針が定められる。WCSは、国連環境計画(UNEP)、世界野生生物保護基金(WWF)、国際自然保護連合(IUCN)という3つの機関が、ユネスコ、各国政府、さらに多くの住民運動関係者や研究者の協力を得て作成することとなり、1980年に文書として公表された。
10)やはり、沼田(1994)の解説によると、「持続的」という用語自体は、畜産や水産の分野で従来から使われていたものであるという。たとえば、水産業では、ある個体群を維持しながらそこから永続的に生物体を収穫するとき、単位期間に収穫しうる最大量を「最大持続収量(maximum sustainable yield)」という。また、現在では、牧畜業で使われていた「牧養力」(carrying capacity、放牧地の適度な頭数、それを超えれば過放牧になる)の概念を広げ、“carrying capacity”を「環境容量」ないし「環境許容力」と訳し、環境が許容する範囲で行なわれる生産活動の範囲や汚染の限度を定量化しようとする概念として使っているという。「持続可能性」・「維持可能性」というアイディアのもうひとつのルーツは、Pearce and Atkinson(1995)や北畠・有吉(1996)が述べているように、J.R.ヒックスの所得概念であろう。Hicks(1946)第14章を見よ。
11)Pearce, Markandya and Barbier(1989)第2章を参照せよ。
12)後者の、より広義の定義における「発展指標」について、「発展は、望ましい社会的目的のベクトル」であるという、同書巻末付録の「持続的発展」定義集にある、ピアスらが前年に与えた定義を参照すべきかもしれない。ベクトルの成分としては、選択の余地があるだろうが、『レポート』本文では、個人が経験する「効用」の増進、現在の自由(無知、貧困、みじめさからの)の保持・増進、自負心と自尊心の向上をあげ(33ページ)、巻末では、1人当り実質所得のほかに健康と栄養状態の改善、教育の成果、資源へのアクセス、所得のより公平な分配、基本的自由の増大をそれに含めている。
13)『ブルントラント報告』の著者たちが世代間公平の準拠基準としてセンの議論を使った証拠はないが、使ったとしても不思議はない。
14)ネコの狂死についての原田(1985、4ページ)の描写。「とくに、ネコの狂い死には劇的であった。涎を垂らし、よろよろと歩いているかと思うと突然、激しく回転をし、けいれんをおこし、あるいは一直線に走り出し海にとび込んだり、かまどにとび込んで火だるまになったりした」。
15)水俣市漁協の調査では、昭和25〜28年の平均漁獲高と比べ昭和31年の漁獲高は、79%の減少となっている。原田(1972)の引用による。
16)視野が狭くなって竹筒から世界を見ているような状態になる。
17)手袋・足袋様(グラブ・ストッキングタイプ)の手足の知覚麻痺。手足に紙が一枚かぶさっているような感じ。口周囲にも感覚障害がある場合もある。
18)小脳が障害されたときに見られる小脳症状であり、運動時の円滑さの障害、距離の誤測、急に運動を転換することができないことなど。
19)舌がもつれて言葉をなめらかに発音できなくなる。運動失調に分類する場合もある。
20)高音で話すと聞きとれない、言葉の意味がわからないという中枢性の障害である場合もある。
21)昭和31年の公式発見の後、熊本県(7月26日)と水俣市奇病対策委員会(8月14日)が熊本大学に原因究明の研究を依頼していた。
22)「水俣病は水俣湾及びその周辺に棲息する魚介類を多量に摂取することによっておこる、主として中枢神経系統の障害される中毒性疾患であり、その主因をなすものはある種の有機水銀化合物である」。
23)サイクレーターが完成するとその竣工式のときにチッソ社長がサイクレーターを通した水を飲んでみせるという茶番劇を演じた。実際の効果はないが、世論の手前つけたのだということは、新潟水俣病の裁判における昭和電工の常務取締役の証言から明らかである。原田(1972)を見よ。
24)不十分な行政認定の問題や企業や国・県の責任をめぐって多くの訴訟が提起されたこと、チッソが現在までに1,000億を超える補償金を支払い、また、水俣湾等のヘドロ処理(昭和52年〜)の工事費用などの支出で厖大な累積損失をかかえ上場停止に追い込まれたこと、など政府の公害認定以後にも重要な展開があるが、省略する。
25)矢印(→)の右のベクトルは、一定の時間が経過した後の包括的アクティヴィティーである。したがって、さらに変化がおこる可能性もある。自然資産の量的側面と質的側面とに対する影響は、『暫定ハンドブック』では、それぞれdepletion、degradationとして別個に認識されている。うえのベクトル表現では、たとえば、ひとつの環境要素を、ベクトルの要素2つで表現することも考えられる。また、人工・自然資産の中には、投入部分(a2,a3,...,an)’にトランスファーされると考えるべきものもあるかもしれない。たとえば、在庫の取り崩しや固定資本の使用がそうである(いずれにも自然資産が含まれうることに注意)が、そうした取り扱いについては、次節で議論する。
26)国連『暫定ハンドブック』(United Nations(1993))253段。
27)ヘキスト==ワッカー法以前には、石油化学によるアセトアルデヒドの生産は、エチレンからエチルアルコールをつくり、これを酸化してアセトアルデヒドにする2段階反応を用いる方法が知られていたが、これではカーバイド・アセチレン法より有利ということはなく普及しなかったという。ところが、ヘキスト=ワッカー法は、エチレンを塩化パラジウム触媒を使って直接空気または酸素で酸化するもので、従来のものより設備が安くカーバイド・アセチレン法に対抗できるようになったという。矢作(1995b)による。
28)宇井(1968)131ページを見よ。なお、Pearce, Markandya and Barbier(1989)第3章、鷲田(1996)第2章、植田(1996)第5章に環境の経済的評価に関するサーベイがある。
29)原田(1972)219ページ。
30)ハートウィックのルールについては、Hartwick(1977、1978)、Solow(1986)などを見よ。
31)室田・多辺田・槌田(1995)第2章、第6章。
32)受け取り意思額は、支払い意思額の3倍であるという経験則があるといわれる。Pearce, Markandya and Barbier(1989)第3章付録を見よ。両者が異なる大きさであることの理論的検討については、鷲田(1996)94ページの図が明解である。
33)「無効にする」という上の表現は、次のようなことをさしている。すなわち、所与のアクティヴィティーないしいくつかのアクティヴィティーの総和に対して、なんらかのアクティヴィティーを実行する(前者のアクティヴィティーとの和をつくる)ことにより、それらのアクティヴィティーの総合効果としてのベクトルのn+1番目以下の要素(レジデュアルの排出と自然資産への影響)の部分が前者のベクトルより0ベクトルに近づいている場合である。実行されたアクティヴィティーは、環境保護アクティヴィティーと呼びうる。なお、人体が自然資産にカウントされていれば、投薬など、環境汚染・環境破壊を原因とする健康被害からの回復努力が環境保護とよびうる活動になるが、SEEAでは、それらを防御的(defensive)な活動ないしはねかえり費用と考えている。
34)採取産業の産出は、非生産自然資産が姿を変えたものであるといってよいだろう。直接的な生産・非生産資産の減少の自明な例として、在庫の取り崩しなど、人工資産ストックが投入にトランスファーされる場合があるが、それは、n番目までの要素に反映されるとし考えておく。固定資産の使用も同様に考える。歴史的記念物は、ボーダーラインケースである。
35)実物と金融の二分法については、作間(1996)を見よ。多辺田(1995)のブローデル理解には同意できない。
36)槌田(1995)258ページ以降。生態系の循環とは、リンなどの養分が土→植物→動物→微生物→土と回る循環のことである。深海に落ち込んだ養分が深海水の湧昇する海域で海水とともに引き上げられ、魚の回遊、鳥やサケなどの遡上する魚の役割によって陸地(そして順次高所)に再び運び上げられる。養分の大循環である。柴谷(1992)も見よ。開放系の熱学と物質循環については、槌田(1982、1992b)も参照せよ。
37)「地下資源はもともと固体だから、使用後ふたたび無毒の不溶性の固体となるのであれば、使用を禁ずる必要はない。不溶性固体の貯蔵庫から資源を取り出し、利用後、ふたたび不溶性固体の貯蔵庫にしまうだけである。これも物質循環のひとつとかんがえてよい」(槌田(1995)288ページ)。しかし、放射能廃棄物のある部分は、経済活動の継続によって環境から隔離しつづけなければならないから、物質循環の「サイクル」が完成することなくつづいてしまう。
38)室田・多辺田・槌田(1995)295ページ。「リサイクル運動と補助金行政が意図に反して廃棄物の量を増やしてしまった」(槌田(1995)272ページ)こと、すなわち、古紙リサイクルの失敗については、槌田(1992a)も参照のこと。なお、槌田の命題について、非市場生産活動によって支えられた物質循環もあり、その破綻の可能性にも言及すべきであろう。
39)国連事務局(1993)95ページ。
40)van Bochove and van Teinen(1986)。
41)このような包括性は、自然環境と経済の相互関係を記述するためのさまざまなアプローチの存在に対応するものであるが、SEEAの実施に関する『暫定ハンドブック』第6章(386段以降)では、実施のための優先順位に関するビルディング・ブロックを設定し、各国が環境・経済統合勘定を作成する場合、それを単位として体系を柔軟に適用することができることを示している。各々のビルディング・ブロックは、ヴァージョンよりも小さいデータ作成上の単位である。『暫定ハンドブック』図6を見よ。ただし、選択されたビルディング・ブロックについては、勘定としての一貫性が要求される。
42)さらに、『暫定ハンドブック』で一貫して行列表示が採用されていることもその特徴といえるかもしれない。ただし、正方行列ではない。
43)1993年SNAの10.2段は、以下の通り。
「体系」の貸借対照表に記録される資産は経済資産である。経済資産は、次のような実体として定義される。すなわち、経済資産とは、
(a)それに対する所有権が、制度単位により、個別的あるいは集合的に行使されるものであり、かつ、
(b)それを一定期間にわたり保有または使用することにより、所有者がそれから経済的利益を引き出すことのできるようなものである。
ここで、13.12段によると、「経済的利益(economic benefits)」は、当該資産の使用から得られる第1次所得と、保有利得・損失を含め、当該資産を処分したり、資産が満期になることによる価値からなる。
次に掲げる1.26段も参照する必要があるだろう。
……自然発生の──すなわち、生産されたのでない──資産の中でどれが「体系」に算入されるかを決定することに関して、所有権基準(the ownership criterion )が重要である。制度単位がそれに実効的な所有権を行使しているならば、――つまり、実際にそれから利益を得ることができる立場にあるならば、――土地、鉱物鉱床、燃料埋蔵量、未開の森林または他の植生、および原生動物のような自然発生資産は、貸借対照表に算入される。その単位が民間単位である必要はなく、社会全体を代表して所有権を行使している政府単位であることも可能であろう。したがって、環境資産の中にも「体系」内に算入されるものが数多くある。算入されない資産には、大気あるいは公海のようにどのような所有権も行使されることのないもの、または発見されていないかあるいは利用不可能な──すなわち、その時点の技術と相対価格等を所与として、その所有者にどのような利益ももたらすことができない──鉱物または燃料埋蔵量のような資産である。
しかし、『暫定ハンドブック』30段では、経済的管理を経済資産の要件としているため、うえに述べた定義をやや狭く解釈しているように思われる。実際、市場価値がある資産は、SNA上経済資産として扱われる十分条件であるが、それに加えて、管理下にあることをSEEAは要請した。「管理されていない自然」資産は市場での価値をもつにせよもたないにせよ、SNA[実はSEEA]の見方からすれば、それは経済資産ではない」(同段)。
44)CEPA分類された環境保護アクティヴィティーを市場主体・非市場主体別にクロス分類することも有効であろう。さらに、中央・地方政府、民間の対家計非営利機関などの活動を別個にとらえてゆく必要があるかもしれない。なお、環境保護活動の分類試案(CEPA)は、EUの分類をベースにして開発されたものであるから、工業化の進んだ諸国を念頭に置いたものであると考えられ、途上国への適用に関してはさらに検討の必要があると『暫定ハンドブック』117段で述べている。
45)1993年SNAにおけるアンシラリー・アクティヴィティーの定義と取り扱いについての規定は、5.9段以降にある。それは、典型的には、記録・文書の管理、会計、資材の調達、輸送、清掃や補修・保守、安全のための監視など、ほとんどどの生産活動にも投入され、主活動・副次的活動を支援するような、普遍的に見られる産出(サービス)を生産する。SEEAヴァージョンUの取り扱いは、5.13段(b)に反するものである。
46)たとえば、石(1992)は、80年代に入って飛行機の機体の痛み具合が大気汚染の影響で以前に比べて早くなってきたという専門家の話を紹介している(239〜240ページ)。
47)なお、「環境費用」と言った場合、「環境支出」とは区別され、資本形成は含まず、資本減耗を含む。
48)社会会計行列(SAM)に環境関連データを物量表示で付加する体系である、NAMEA(National Accounting Matrix including Environmental Accounts)も、ヴァージョンVのSEEAと同様の構想のもとにある環境(・経済統合)勘定であると考えられる。De Haan and Keuning(1996)を見よ。
49)洪水によって山から養分が耕地などへ流出する場合も同様に(ただし、使用カテゴリーではなくその他の量の変化のカテゴリーとして)記録することなど、「養分循環」の記述としては改善の余地があるかもしれない。
50)SEEAの行分類である「レジデュアルの排出」は、固形廃棄物、液体廃棄物、冷却水、その他の排水、微粒子、無機ガス、有機ガスに細分されている。「レジデュアルの経済的処理」についても同様の細分が行なわれる。
51)沼田(1994、115ページ以降)の解説による。
52)1993年SNAにおける本格的な数量指数である"volume index"と素朴な数量指数である"quantity index"との差が「質」の取り扱いの差であることも注意すべきであろう。
53)一般的には、陸域の視覚的対象としての地形や植生や動物相を人間主体的(anthropocentric)な立場から(人間との関わりで)捉えたとき、「景観(landscape)」と呼ぶ。より広い定義もあり、A.フォン・フンボルトは、「空間に共存するものすべて」を景観と呼んだ。シュミットヒューゼンは、「無機的な自然、生物、人間の全部を意味する」ものとして「景観とは人間の影響やその歴史をふくむ地圏や生物圏の構造や動態のすべてである」と規定した(無機的世界をフィジオトープ、生物と人間をビオトープといい、両者を景観要素――エコトープ――という)。沼田(1994)59ページ以降を見よ。また、「自然景観」の保護という場合のかなりの部分は、人間活動の結果をそのまま残そうとするものであることにも注意すべきである。たとえば、景観としての草原は、放牧などの人間活動がなければ、次の植生に移ってしまうかもしれない。沼田(1994、178ページ)は、は、「日本は森林国なので草原景観はあまり注目されないが、東北地方のブナ林地帯で肉牛や馬の放牧が長年行われたところでは、八甲田の田代平のように美しいシバ草原を作っていた。島根県の三瓶山も長年の放牧で全山シバ、ネザサに被われ、その草原景観が美しいということで国立公園に編入された」ことを紹介している。阿蘇の草原が入会権によって守られていることも別の箇所で紹介している。これらの場合、放牧が衰退すると「ただの山」になってしまうし、過放牧だと、裸地になってしまう。日本は森林気候の下にあるので、モンゴルのステップのような極相的な自然草原は存在しない。日本の草本性植生の大部分は、遷移の途中相であり、放牧、火入れ、採草のような人間の営みによって維持されてきたものである。
54)筆者の理解によれば、わが国と欧米とで通勤費用の解釈が異なっている。わが国では、それは、実費が多くの場合支給されていることもあり、むしろ労働時間の一部分であると解釈されるが、欧米では、自然に恵まれた快適な場所に住むという被用者の選択にもとづく最終消費支出としての費用である。SNAの取り扱いは後者に近いが、作間(1996、222ページ)も参照されたい。
55)過剰採取に伴う減耗費用の場合、市場価格表示だけでも環境と経済の関わりをそれほど歪めて伝えないというインプリケーションがある。経済資産として経済主体に認知されていれば、意思決定に環境が関わっているからである。ただし、維持費用を用いる場合と市場価格を用いる場合とで、その大きさは異なる可能性がある。なお、維持費用で評価した生産自然資産の減耗が市場評価を超えている場合、超過額を非生産自然資産の使用として計上する(第5表の4行6列の0.9)。また、(W−2で記述の目標とされる)シンクとしての環境だけでなく、「景観」としての環境の劣化が本格的に問題になるのは、ヴァージョンW−3であるといえるかもしれない。
56)「環境権」については、たとえば、富井・伊藤・片岡(1994)第4章を見よ。
57)「酸性雨」とは、国際的に「pH5.6以下の雨(霧、雪、氷なども含める)」のことである。この定義が大気中の二酸化炭素(350ppm)が純粋な水に溶け安定した時のpHが5.6であることによっていることからもわかる通り、酸性雨と大気汚染とは密接な関係にある。酸性雨の原因物質は、亜硫酸ガスなどの硫黄酸化物(硫酸イオン)と窒素酸化物(硝酸イオン)であり、それと、カルシウムイオンなど、アルカリ化物質とのバランスで雨や霧の酸性化が決まること、また、大気汚染物質は、人体や植物の葉から取り込まれ、体内の水に溶ける過程を経てからその影響が始まることにも注意しなければならない。石(1992)、谷山(1996)を参照せよ。谷山(1996)によると、「日本では、1970年ごろまでは固定発生源としての火力発電所や石油コンビナートが酸性雨源の60〜70%を占め、移動発生源としての自動車は30〜40%であった。しかし、現在では、高速自動車網の発達によって、その比率は、ほぼ逆転している」という。なお、谷山(1996)は、簡単な実験を紹介している。5000ccのトラックと2000ccの乗用車の排ガスを直接水道水(pH7)に引き込み20分ほどぶくぶくと水の中を通して、比較すると、トラックはpH4程度に、乗用車はpH6程度に低下するという。pHの定義からそれが1下がれば10倍、2下がれば100倍であるから、トラック1台で乗用車100台分の水を酸性化することになる。
58)谷山(1996)による。
59)戦争中の森林の乱伐によっても森林は破壊するが、「独立採算制(いわゆる特別会計)の林野庁がアメリカ占領軍の影響下で発足し、拡大造林政策を実行に移すことにことによって森林(自然林)の荒廃は一挙にすすんだ」(沼田1994、161ページ)という。アクティヴィティーの市場的な成立可能性と環境的成立可能性との違いに注目すべきである。とくに保全すべき自然としてのブナ林の破壊は、戦後、まさに森林の市場的利用によって進んだ。
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Solow, Robert M.(1986)"On the Intergenerational Allocation of Natural Resources",Scandinavian Journal of Economics, vol 88 no.1. 1986.
World Commission on Environment and Development(1987), Our Common Future, Oxford University Press, London.(邦訳、環境と開発に関する世界委員会、大来佐武郎監修『地球の未来を守るために』福武書店、1987年。)
United Nations(1990)International Standard Industrial Classifications of All EconomicActivities, Third Revision.(Sales No.E.90.XVII.11 document symbol ST/ESA/STAT/SER.M/4/REV.3)
United Nations(1993)Integrated Environmental and Economic
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symbol ST/ESA/STAT/SER.F/61、邦訳、『国民経済計算ハンドブック 環境・経済統合勘定』経済企画庁経済研究所国民所得部、1995年3月。)
付録1:日本における環境・経済統合勘定:コメント
本付録は、1996年9月28日と29日の両日、中央大学駿河台記念館で行なわれた環境経済・政策学会1996年大会における、経済企画庁の佐藤勢津子氏(環境経済計算調整官)の報告「日本における環境・経済統合勘定」に対して、筆者が討論者として行なったコメントの予稿である。
SNAの研究者としての立場からコメントする。地球サミット(1992年)の 「アジェンダ21」で各国に環境・経済統合勘定の作成が勧告されていること、1993年SNAの第21章がサテライト勘定を取り上げ、その章の後半の部分が環境・経済統合勘定に充てられたことは、周知のことである。また、1993年には、環境・経済統合勘定の暫定版ハンドブック(Integrated Environmental and Economic Accounting Interim Version)が国連の手によって刊行されている。わが国が各国に先駆けて、この『暫定ハンドブック』に準拠し、環境・経済統合勘定の作成に着手したことは大いに評価されてよいことであると思われる。以下、3点ばかりコメントしよう。
1)ヴァージョンの選択が適切である。実は、この『暫定ハンドブック』はコア・モデュールアプローチを取っていて、SNA中枢体系(central framework)を出発点(コア)として何を考慮するか、また、その評価をどうするかということで、つまりモジュ−ルをいろいろ付け加えることによって、さまざまなヴァージョンがある。その中でW−2というヴァージョンが企画庁の選択であるが、これは、生産の境界は拡大しない(コスト・シフトの手法で処理する以外は)が、帰属環境費用を取り入れる、その評価は維持費用あるいはメンテナンスコストによるというものである。この維持費用の概念は、持続可能な発展(sustainable development)の概念と整合性が高いことはよく指摘されるところでもあるし、それと対立する仮想(市場)評価(contingent valuation)の概念(支払い意思額による評価)はまだ試行過程の段階にあり、実施は困難であろうからである。ただし、結果として得られた数値、たとえば、環境調整済国内純生産(EDP)の<ヴァージョン情報>(「維持費用表示のEDP」と表現するといったこと)を徹底する必要があるのではないかと思われる。
このコメントに関連してより基礎的な考慮事項である環境勘定における評価の必要性について評者の立場を述べておく。評価に反対する論者は多い。
a.まず、「代替性」を全面否定できるものではないということを述べておく必要がある。持続可能な発展の定義によっては、人工資本と自然資本との間に代替性を認める可能性があるし、そのような立場に批判的であっても自然資産どうしで代替性が存在しうる。不可逆性(一度失った多様性は戻らないことなど)を考慮すると、それにも限界があることも事実だが、全面否定できるものではないであろう。人工資本と自然資本の間にさえ、その認知された機能(「サービス」)に関して一定の代替性が存在するであろう。また、自然資本を人工資本に置換する方向に技術が進歩してゆくかもしれない。
b.分配の視点が必要である。たとえば、環境問題の国際的側面や地域間的側面を議論するとき(酸性雨の問題もそう)などである。1995年4月26日付けの『日本経済新聞』では、国連貿易開発委員会(UNCTAD)がCO2排出権を売買する市場を国連に創出する構想を国連持続可能な開発委員会(CSD)のハイレベル会合で提案することが報じられている。こうした排出権の配分に関する途上国の要求は、強く、分配上の要素が含まれている。1)
c.とくに、維持費用表示の場合、評価への抵抗感が少ない。汚染の責任主体に、もしそのアクティヴィティーがなかったとしたら、あるいは、汚染物質を環境へ排出しないような装置をとりつけたなら、いくらかかるかという帰属費用を負担させるので、「環境にやさしい」目標経済と現状との比較ができ、政策立案の背景データとしての意義が大きい。(つまり、これだけ費用をかければよかったのにということである。)ただし、波及が考慮されていないという問題点が同時にあることはたしかである。レーガン政権当時の米・加間の越境酸性雨をめぐる外交交渉は、本質的に米国が汚染物質を削減することに貨幣支出を行なうことに対する要求であり、その点では、維持費用をタームに行なわれた交渉であると議論することもできる。
d.しかし、評価すると、アグリゲートが容易に得られることから、あたかもEDP、あるいはグリーンGNPを得ることが環境勘定統計作成の目的であるかのような誤解を与えかねない。「政治的メッセージを別にすれば、GDPの全体としての調整だけを行なうのは誤りであり、そうしても、分析上あるいは政策策定のうえで有用な情報を多く伝えるものではない(『暫定ハンドブック』、para.382)」ことに注意すべきである。もっとも、それで予算が取れるのであれば、そのような宣伝をすることを止めないが……。
e.しかし、ヴァージョンV(あるいは自然資源勘定、NAMEA)の方向が否定されるわけではないと思われる。c.で述べたことからも知られるとおり、維持費用表示の(ヴァージョンW−2の)勘定は、政策志向が強く、その点で環境関連のデータを蓄積してゆく枠組みとしては適切でない側面を持っている。たとえば、人工衛星から得られる画像を解析することによって地球環境のさまざまなデータが、得られる(すなわち、従来国民勘定統計を作成してきた分野とはまったく別の方向からデータが得られる)ようになっており、それは必ずしも経済勘定統計に容易に組み入れられるものではないであろうから、経済勘定統計に無理やり組み込むのではなく、それと緩やかな統合をはかるかたちでの環境勘定統計の開発は大いに意義があると言わなければならない。
2)しかし、今回の勘定は、まだ<道半ば>であると感じられる。「環境調整済み」国内純生産というより、「環境調整中の」国内純生産といった方がよいかもしれない。推計対象の拡大が必要である。いったい、環境調整済みの経済勘定というようなものは永久に得られないのかもしれない。因果関係の確定は科学的知見の前進によって得られるものだから、過去に作られた環境勘定を遡及的に改訂してゆく必要が生じるであろうということもその大きな理由である。チッソの生産活動と水俣病の発生との因果関係が確立されるのは、水俣病の公式発見(昭和31年5月1日)から数年の歳月が必要とされた。
また、今回の環境・経済統合勘定では、輸入(輸出)された環境汚染がとらえられていない(たとえば、酸性雨)。越境酸性雨の問題が環境に関する国際的取り組み、たとえば、ストックホルム会議開催の契機となっていったということもある。2)それから自然の一部としての人体の健康被害(労働災害という面と外部不経済という面がある)はどこまで入っているのか?原子力発電は人体の放射能被曝を前提とする技術である。チッソに多額の累積損失をもたらしたのは、この健康被害である。3)
今後、どのような方向を考えているか?ひとつサジェストしたいのは、非実物的領域への勘定統計の拡大が意外に重要ではないかということである。たとえば、漁業権。ある種の権利を保護することによって、環境を保全しようとしていることは多い。水利権の問題もある。また、維持費用表示の勘定によって責任概念(だれが負債を追っているのか)をもちだす場合、擬制を非実物的領域へ拡大してゆくことはきわめて自然であるように思われる。さらに、Income and Wealthのコンファレンスで倉林教授が指摘した点でもあるが4)、文化遺産の取り扱いがある。文化遺産と自然遺産とは、強く連続的なものである。たとえば、棚田の保全とか、草原景観の保全などを考えてみればよい。5)そこで、自然遺産から文化遺産に勘定の対象範囲を拡大してゆくことも考えられよう。文化遺産(歴史的記念物を含む)への環境汚染の悪影響もあるだろう。また、環境関連の研究開発も別掲する必要があるかもしれない。
3)1996年8月21日付けの『日本経済新聞』では、「国有林野事業の累積赤字が1兆5000億円に達した」ことを報じている。記事をよく読むと、林野問題は環境、国土保全など幅広い観点からの検討が必要という農相見解も伝えているが、見出しの印象は強く、林野という環境を保護することが記者の視野から抜け落ちているのではないかという印象をもつ。環境勘定統計が開発され、さらにルーティン化した統計としてわが国の統計制度に組み入れられたとしても、政策策定に、あるいはその背景にある考え方に影響を与えるようにならなければならないのではないか?
ここで、重要なことは、アクティヴィティーのより十分な把握が要求されているということではないであろうか?たとえば、アセトアルデヒドを生産するアクティヴィティーに実はメチル水銀化合物が副生されるということ、それが自然という反応容器の中に放置されるとどのような結果を次々におこしてゆくかということを十分研究することである。規制緩和論者はよくアクティヴィティーの貨幣評価された部分だけに注目して、主張を展開することがある。また、関連した事柄として、最近IOの自家活動分野(1993年SNAの用語では、アンシラリー・アクティヴィティー)からの撤退傾向があるようだが、必要な方向とは逆ではないかと思われる。
注:
1)米国ではすでに酸性雨の原因物質である硫黄酸化物の排出権が売買されている。石(1994)218〜219ページを参照せよ。Krugman and Obstfeld(1994)でも、排出権(pollution rights)が事実上市場で配分される希少資源となり、排出権が(H−O流に)国際貿易を決定する1つの要素となるとしている。しかし、同書では、このような権利の承認、また、貧しい国々の方が公害を我慢して所得を求める傾向が強いことから、豊かな国々から第三世界へ「公害の輸出」を認める結果になることがモラルに反するとして、このような提案の支持者であるとみなされたローレンス・サマーズのクリントン政権への参画の障害となったことが紹介されている(原書75〜76ページ、邦訳、101〜102ページ)。なお、柴田(1996)は、このような「再販可能汚染許可証制度」の達成する効率性(汚染削減が社会全体にとって最小コストで実現される)に懐疑的である。
2)木材の輸入に伴う熱帯雨林の破壊の問題もあるが、少なくともヴァージョンW−2の課題ではない。
3)健康被害は、リパ−カッションコストであり、コストコ−ズド(責任者原理)ではなく、コストボ−ン(被害者原理)として、W−3の記録対象となるとも考えられる。経済活動の自然環境への影響を考える場合、どこまでが直接的影響でどこから、リパ−カッションなのか、いったい、人体を自然の一部と考えると、そのような区別ができるのかどうか、疑問である。
4)Kurabayashi(1996)。
5)わが国の大部分は広葉樹林帯に属すので、草原は安定な植生ではない。したがって、放牧などの人間の営みによって維持されてきたものであると考えてよい。
参考文献
Paul R.Krugman and Maurice Obstfeld(1994)International Economics: Theory and Policy, 3rd ed. Harper Collins College Publishers.(邦訳、クルグマン=オブズフェルド、千田亮吉ほか訳、『国際経済 理論と政策(1.国際貿易)』第三版、新世社、1996年。
Kurabayashi, Yoshimasa(1996)"Towards the Interface between the Natural and Cultural Heritage," A Background Paper for the Opening Address at Internatinal Symposium on Integrated Environmental and Economic Accounting in Thory and Practice, Tokyo Japan March 5-8, 1996.
石弘之(1994)『酸性雨』岩波新書。
柴田弘文(1996)「現代環境税論の二つの誤謬」大山道広・西村和雄・吉川洋編、『現代経済学の潮流1996』第4章。
付録2 略。http://www.epa.go.jp:70/0h/doc/green-j-e.htmlを参照してください。
本稿は、『専修経済学論集』第31卷第3号、1997年3月に掲載されています。ただし、編集上の問題から、付録1(学会討論)は、『論集』では、省略されています。
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