研究と教育

1.講義の「権威」について
■「改革」の進展: 国際化・情報化の時代に適応した人間を育成することが,どこの大学でも教育目標と して掲げられている。またどこの大学でも、改革の進展が宣伝されている。 確かにメニューは整備されてきたし、色々な名称変更もなされた。大学経営の観点からすれば、 そうしたことは当然避けられまい。
■講義の「権威」という問題: しかし私が強く感じるのは、そうした改革によっても 日常の講義が学生に対してもつ権威 は増すものではあるまいということである。大学が社会制度である以上,そこで 行われる知識体系の伝授は,一定の権威(重み)を要求する。こう言うと,すぐに「権威主義」の レッテルを貼られそうだが,権威主義とは例えば,権威を自己顕示の手段に使うことである。
■「理解する」とは?: 権威の中身が問題である。そこでまず知識を「理解する」ということの意味を考えてみよう。 大学の教員は,一定水準の知識内容を「理解している」ことが要求される。 しかしその知識とは常に、現在においてこそ一定の妥当性を認められていても、 明日には全くのデタラメというレッテルを貼られるかもしれないものである。 あらゆる知識は仮説だと言ってもよい。よって「理解する」とは、 妥当性が暫定的であることを承知した上で,敢えて内容に関心を向ける という行為であるはずだ。
■知識に対する謙虚さ: 大学教員が同時に研究者でもなければならないのは, 研究者であればこそ自分の知識が一時的な仮説であることを知り, 知識に対して謙虚になれるからだと思う。 一見すると,そのようなことは「権威」とは反対のことに見える。だがそれは違う。
■知識の権威: われわれが現在もっている知識体系がどうやって生み出されたか,考えてみればよい。 結果として世間に受け入れられずとも,敢えて自分の思考の成果を歴史の評価に委ねた 先人たちの勇敢さが,われわれに貴重な諸テキストを残したのだ。そして彼らの業績が人類の文化を 豊かなものにしてきたことを知っているからこそ,われわれはそこに権威を付与するのではないか。 よって,知識が「一時的仮説」だということは,それを軽んじてよいということではない。逆だ。 それは,遺された知識体系がわれわれに「乗り越えてみろ」と訴えている ことを意味する。われわれ研究者は,先人たちの所業に 憧憬を抱くがゆえに,敢えてそれにチャレンジしてみようという気になる。
■講義における権威とは?: それゆえ,大学の講義における権威とは,単に伝達される知識の内容が 歴史的評価に耐えたものであることにのみ基づくのではない。重要なのは,教員が 研究者としての側面において,偉大な先人たちとの連続性をもつという契機である。 つまり,彼らと同じく私心と社会的偏見を免れ,自分の思考だけを武器に 問題に取り組むという思考の態度を備えているときにのみ,教員が語る知識は信頼の 念をもって受け止められる。教員の思考態度が普遍性をもつとき,講義は 普遍的な人類の知識遺産と結びつき,伝統の一部としての重みを獲得する。
■制度の問題: 単なる「奇麗事」を述べているのではない。実際に,私心と偏見を排除できない思考は, 対象に対してありのままに向き合うことができない。そういう研究が学会等の制度によって 低い評価を与えられることによって,われわれは自分が堕落していないか絶えず反省を 迫られるのである。大学の講義は,そういうアカデミズムの制度的枠組を 前提して初めて成り立つ(制度が良好に機能しないというのはまた別の問題だ)。
■現実は……: 高校までの受験中心の教育が影響しているのか,日本の大学では多くの学生が, 既にある「正しい知識」を見つけ出してきて それを覚えることが「勉強」であるとの発想から講義に耳を傾けている。だが少なくとも 教員がそのような発想に引きずられるべきではない。そういう「優等生的」な「お勉強」は,既成の (そして自分の)知識を不断に見直すことを旨とする学問的態度とは無縁である。 知識を鵜呑みにする(orさせる)ことは,それを生み出すのに貢献してきた過去の人々の 努力を軽んじることになる。
■「改革」に対して現場の教員は……: 結局,研究者としての思索を抜きにして講義の権威は維持できない。研究を止めてしまうと, 講義のときに「知らないと他人に笑われる」とか「大人社会の常識」といった,非本来的な権威 を持ち出さざるを得なくなる。だが,上昇志向で画一的な目標を追求すれば将来が切り拓けるという 時代は終わった。よく言われるように,現在求められているのは,自分で問題を発見し 解決する能力である。その中で,学問・大学・講義の本来の(権威体系を含めた)関係に 立ち戻ることが必要になっているように思われる。 現在の「大学改革」は,確かに受験生の気を引くかもしれない。 しかし入学して講義を聴いたとき,それが幻滅に変わってはいけない。教員にまず 求められているのは,大学改革について解説できる能力ではなく,本来の仕方で 権威を「稼ぎ出す」ことであると思う。 既成の権威を食いつぶしているようだと,大学の知的権威に対する幻想すら 維持できなくなる。
■魂を引き裂かれないために: 講義の権威などということになぜ考えを巡らすのか。それは,そこを考えておかないと, 教員が同時に研究者であることの必要性が私自身わからなくなるからである。 しばしば耳にするのは,研究を上昇志向や自己顕示欲の実現手段と暗黙にみなした上で, 「研究ばかりやっていないで,教育にも時間を割け」とする意見である。だが,研究に打ち込む からこそ,教育についても真剣に考えられるようになるのではないか。ところがそうした本質論 を持ち出すことは日常の会話の中ではタブーになっている。私はその辺りに日本の知的風土の 問題(外国のことはよく知らないが)があると思う。研究に打ち込む前にまず研究に対する そうした偏見と闘わねばならないということだと, 本来の研究に割く時間とエネルギーがなくなってしまう。 それが基礎研究の弱さ,独創性のなさを招く。せめて私が辿りついた考え方を 公表することによって,同じような模索をしている人の労力を少しでも 省けたらと願う。
(1999年11月18日)

「しかしほんとうに重大な点,容易に信じがたい点は,こうした学問の中で各人の
魂のある器官が浄められ,ふたたび火をともされるということだ」(Plato)

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