研究と教育

6.言葉のモラルについて
■自由の増大とは?
 若者や少年が引き起こした凶悪な犯罪事件が報道されると,決まって,「今の日本の」道徳教育や 親のしつけが取り沙汰される。暴力や殺人がいけないことであることを,教育やしつけによって もっとよく教え込むべきだというのだ。もちろんそれも大切だろう。しかし,そういう法律で 罰せられることを直接に道徳として教え込むだけでは,問題の解決にはならないと思う。私が問題に すべきだと思うのは,物を手に入れそれを操作する「自由」を享受している人間が, 社会関係に関しては自由な働きかけをすることができないという事実である。 他人との関係をより良いものにするための率直な働きかけの可能性が閉ざされるとき, 人間はいかに豊富に物をもっていても,自由であるとは感じられない。 そして,突発的な行動に走る若者や少年を衝き動かして いるのは,そうした不自由・隷属の感覚なのではないか。
■言葉の問題
 日本人の人間関係の特徴は,「他人本位」とか「世間本位」にあると言われることがある。 そこでは,他人との関係を改善するということは,他人に合わせるということを意味する。しかし それは言葉の軽視をもたらさざるをえない。 なぜなら自分の言葉がもつ機能が,相手の感情に 触れないということだけになってしまうからだ。 言葉は「タテマエ」にすぎなくなり,公共的な (すなわち相手と自分の両方に関わる)問題について言葉を用いて掘り下げるとか,自分の意見を より適切な言葉で表現するとかいうことはなくなってしまうのである。 そして,言葉に「タテマエ」 以上の意味をもたせることを排除する暗黙の了解が,日本人の「和」を作っている(この点に関して, 加藤典洋『日本の無思想』平凡社新書,1999年,第1部は示唆するところ大)。だが言葉が他人への 自由な働きかけの手段でない社会は「不自由」という他ない。
■言葉のモラル
 そこで私が必要だと思うのは,言葉を重んじる人間関係の基礎となる道徳を明らかにすることで ある。暴力や殺人は法律で罰せられるが,法律で罰せられなくとも人間として絶対にしては いけないことがある。それを教えるのが道徳の役割であるはずだ。私は「言葉のモラル」として, 例えば次のような禁止事項を犯さないということがあると考える。つまり@「ゴシップ」,A 「対象化」,B「奴隷根性」である。
 @「ゴシップ」とは,当人のいない所でなら何を言ってもよいと いう考えである。これが行われると, タテマエとホンネを分けホンネを隠す上辺だけの人間関係しか生まれなくなってしまう。
 A「対象化」とは,「レッテル貼り」「キメつけ」のことである。 人間は様々な側面の全体であり, また人間は自己反省して絶えず現在の自分を乗り越えようとしている。にもかかわらず,例えば出身や 帰属(時には身体的特徴)ですべてが判断されてしまうと,言葉による表現が重視されなく なってしまう。
 B「奴隷根性」とは,威張る(強気の)人には下手に出て,下手に出る (弱気の)人には威張るという行動である。これを 採る人間は,例えば相手が目下なのか目上なのかを絶えず気にしたり,謙虚な振舞いを「意気地の なさ」と見なすことになる。問題は,言葉が権威づけの手段としてしか見なされなくなる ことである。
 文学作品などを参照することによって,他にも色々な禁止事項を明確にすることができよう。
■言葉の暴力について
 いわゆる「言葉の暴力」とはこれらの禁止事項を破ることである。それは法律的な犯罪に ならなくとも,道徳的には犯罪である。厄介なのは,「言葉の暴力」を執拗に繰り返す人間は 法律によって罰せられないし,言葉で訴えても,もともと言葉を<随時 撤回可能なタテマエ>としか考えない彼らには何の効果もないということである。他の人間は 品位を守ろうとすれば,沈黙をもって対応するしかなくなる 。そのとき公共的な言語空間は閉ざされてしまう。
■ノウハウとしてのモラル
 「言葉の暴力」が横行するとき,言葉への嫌悪が生じざるをえない。そのとき,公共的な問題を 解決する手段として言葉を用いるという自由は行使されなくなる。しかし「言葉のモラル」を明確に しておけば,「言葉の暴力」を暴力としてとらえることができ,暴力に対して暴力で 対抗しなければならないという強迫観念もなくなるのではないか。「言葉のモラル」とは, 「言葉の暴力」を振るう人間に聞かせるためのものではなく, これだけを取り敢えず守っておけば失礼に当たらない(ただし,相手の人格を尊重するという本質的な意味において) という安心を得るためのノウハウ,暴力に対して暴力で対抗せずにすむためのノウハウ である。日本人の多くは,そのような基準を立てようとしていないように思われる。 だから,他人本位(顔色窺いの疑心暗鬼)に陥ってしまうのではないか。 そうならずにすむための方法論がもっと語られてもよいと思うのだ。
■そして大学は……
 大学は本来,私の言う「言葉のモラル」を率先して実践する機関であるはずだ。言葉がタテマエで あっては,人類の生み出した文化を受け継ぎそれを組み替え豊富化するなどということは 不可能だからである。文脈は異なるが,J・ブルーナーは自伝(『心を探して』田中一彦訳, みすず書房,1993年)の中で,大学には「気前のよい人」が必要だと述べている。 「気前のよい人」とは,公共的な事柄に関して自分の知識と思考を惜しみなく振り向ける人間のことである。 しかしそういう人間に役立ってもらうには,言葉の使用の意図が公共的な 意見表明・説得・論議の手段であることに疑いをもたれない雰囲気 (したがって,自己顕示や優越感以外の目的で言葉が 用いられることを当然と見なす雰囲気)が必要である。だが現実にはそうした条件は必ずしも 満たされていない。それは教職員の間だけの問題ではない。言語空間はつながっているから, 弊が学生にも及ぶ。「今の学生が大人しい」というのは一面的な見方だと思う。 少なからぬ学生は言葉への不信に陥っているのだと思う。よって 「言葉のモラル」の明確化は大学においても(おいてこそ) 必要であると思われる。
■最後に
 最後に,勘違いすべきでないのは,言葉を発しなければ「言葉のモラル」が破られることも ないが,そういう消極的な態度は何ももたらさないということだ。私が「言葉のモラル」を 云々するのも,言葉を発することが重要であると 考えるからである。そして繰り返しになるが,言葉を発することが重要であるのは,それを 通じて自分の周りの関係を変える可能性が開けるからである。 「世の中は自分の思う通りにいかない,そんなに甘くない」と若者や少年に教え込むべきだという 意見がよく見られる。それはその通りであり,誰でもそのことは知っている。しかし 「変える可能性」がないということであってはならない。可能性があるということが「自由」の意味 であるはずだ。言葉が閉ざされている限り,若者や少年の閉塞感はなくならないと思う。
(1999年11月27日)

「素人は言葉を個人相互の関係,他者への呼びかけというふうに把握せず,
おのれの感受性の直接的なあらわれとしてとる」(S.de Beauvoir)
「社会の真の危機は不況ではなく,ひとびとが言葉と論理への信頼を失くすことだ」(柳美里)

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