研究と教育

10.「売れないラーメン屋」の話 (2006年5月30日「入門ゼミ」にて)
(1)ゼミの報告とは?
 ゼミの輪読テキストとして取り上げられる本は,「一通り読めばわかる」というタイプの本ではなく,言葉を調べたり して繰り返し読まないとわからない本である。そういう本を,毎回報告者を決めて分担しながら少しずつ読んでいこうと いうのが,「輪読形式」という方法である。そこでは,学生が先生(報告者)と生徒(報告を聴く人)の役割を交代で果 たしていくことが求められる。報告者は,他の学生にとって「ためになる」ような報告をしなければならない。この点に 関して,悪い報告の典型例は次のようなものである:
・1回読んで,大切だと思った箇所と,わからない単語に線を引いておく。
・大切だと思った箇所の線を引いた部分を抜書きしてレジュメとし,わからない単語の意味を尋ねられたとき答えられる ように経済辞典かインターネットからメモしておく。
・当日,レジュメを読み上げ,内容上の質問に対しては自分が思った解釈を述べ,言葉の質問に対しては単語の意味を答 える。
このような報告がよくないのは,@文章の論理構成を把握しそれをレジュメ上に一目瞭然となるように提示しようという 努力が欠けている,A本の筆者がなぜそのような構成で文章を書いているのか,その必然的な理由を著者の意図(何をど のように主張したいか)のうちに探り出すという姿勢が見られない[このうちAは,著者と対話(コミュニケーション)し ようとする姿勢に欠けるということである]。@Aのような姿勢でなされる報告は,聴いている人にとってためにならな い。自分で1通り本を読んだ方がましで,報告を聴くだけ時間の無駄ということになる。もっとも,単語の意味を知るだ けでも「ためになる」とは言えるかもしれない。しかし,それは,本を理解するという「輪読形式」の目的を達成するた めの最初の一歩にすぎず,その程度ではやはり長い時間耳を傾けるだけの価値はない。

(2)「売れないラーメン屋」とは?
 上記のような悪いゼミ報告は,「売れないラーメン屋」の仕事ぶりと似ている(「売れないラーメン屋」については, 内田樹『「おじさん」的思考』晶文社,2002年,参照)。テレビで,有名ラーメン店の調理人が客の入らないラーメン店 に行って指導するという番組がある。指導者はまず,ラーメンを作らせ,その味見をする。これでは駄目だということに なり,ああしろこうしろと指示を出す。ところが,そのたびに「売れないラーメン屋」は言い訳をして,指示に従おうと しない。「スープは鶏がらと……を使ってまして……」,「いや,それは……私としてはそういうふうにはしてこなかっ たので……」等々。指導者は,そういう言い訳には一切答えず,怒りを顕わにし「それなら俺を呼ぶな」という態度をと る。この繰り返しで,最終的に「売れないラーメン屋」が言い訳をしなくなるに至るまでのやり取りが,テレビではずっ と映し出される。その後の話はごく簡単にしか紹介されない。明らかに,番組の製作者は,最初は言い訳をしている「売 れないラーメン屋」が最後には黙って指示に従うようになるまでのプロセスを描き出したいのである。そして,それを見 る視聴者は,「学ぶ」ということの或る本質的な側面を知らされる。
 ラーメンが不味ければ,客を呼べるはずはない。だから,作り方を変えなければいけない。これは論理的に当然である 。しかし,「売れないラーメン屋」は「変える」ことには抵抗する。これは,「売れないラーメン屋」が,自分のやりや すいように調理の仕方をアレンジしておいて,そのアレンジした自己流の方法を変えたくないためである。その結果とし て客に不味いラーメンを提供することになったとしても,そのことは「売れないラーメン屋」にとってはあまり重要では ない(自分のやり方を変えてまで対処するべき問題ではない)のだ。「売れないラーメン屋」がもっぱら関心を向けるの は,自分が楽にできる方法を作り上げることである。そして自己流を傍から批判されないようにと,「だしの取り方」な どの知識を動員するのである。「売れないラーメン屋」は口に出しては言わないが,おそらく自分への言い訳として「私 もがんばっているのだから,認めてほしい」と内心で考えているだろう。しかし,そのときの「がんばり」の内容は,「 自分が楽にできる方法をやり続ける」ということ,つまり他の好きなこと(遊び等)をしないで仕事に向かっているとい うことにすぎない。がんばっているからいいではないか,自分のやり方にケチをつけるな,努力賞をよこせ,というのが 「売れないラーメン屋」の論理であろう。しかし,不味いラーメンを食べた客に対しては,「がんばっているのだから」 という言い訳は効かない。そこでテレビに出て,調理場を映してもらって「こういうようにがんばっている」と紹介し, 指導を受ければ,その内容をまた自分なりにアレンジして取り入れよう,というのが「売れないラーメン屋」の希望であ ったと推測される。ところが,テレビに出て実際に指導を受けると,最終的に,自分なりにアレンジして楽な方法を見つ ける,という発想が誤りであったことに気づかされる。
 客を呼べなくても,自分は努力しているのだからそれを評価してほしい,というのが「売れないラーメン屋」の論理だ とすれば,はたしてそれを「仕事」と呼べるだろうか。

(3)「売れないラーメン屋」か「ドジでのろまな亀」か
 ゼミの報告に戻れば,上記したような悪い報告の例には,「売れないラーメン屋」と同じ態度が見られる。つまり,担 当箇所を繰り返し読んで筆者の意図を探る,などということは意識の集中つまり「我を忘れる」ことを必要とする。これ が,慣れない人によっては苦痛に感じることがある。そこで,自分なりにアレンジをして,このプロセスを回避しようと する。つまり,1通り読んで傍線を引き……という上記のようなやり方でレジュメを作成し,報告の準備を終える。言い 訳として,「自分らにすればこれは大変なこと」とか「読んで見たんですけど……」といった言葉を予め考えておき,報 告に臨む。要するに,「一定の努力はしました」ということをうまく示すことができれば,自分にとって楽なやり方でや れる,という論理である。そこには,報告を聴く側が何を得られるのか,という配慮はない。自分の定義した「努力」を していれば,不味いラーメンを出しても許されるというわけである。
 この先,「売れないラーメン屋」的な態度で臨んでも,大学を卒業することはできるだろう。報告の「義務」を一応は 果たせるし,レポートも規定枚数を書くことができる。しかし,そうやって単位を取っていっても,その4年間の勉強 は,自分の潜在的可能性を引き出し,自分を向上させることにはつながらないだろう。入門ゼミの1つの重要な目的は, 「売れないラーメン屋」の態度からの転換を促すことにある。転換がなされなければ,4年間を無駄にすごすことにな る。本人がそれでよければいいじゃないか,という考え方もあろうが,大学教育への社会的要請というものがあり,大学 へ来た以上,どうしても「売れないラーメン屋」からの転換を求められるのだ。それを拒否するということは,「大学進 学」という自分の進路決定と矛盾することになる。
 では,なぜ社会的に見て「売れないラーメン屋」が許されないのか。個人営業のラーメン店ならば,自分の金銭的損失 につながるだけで自業自得の面があるが,会社組織に「売れないラーメン屋」的な人材が入ってくるならば,その害は自 分だけでなく組織全体にも及ぶ。そのような人材を入社させなければよいのだが,しかしそこには難しい問題がある。と いうのも,採用面接に際して,「売れないラーメン屋」的な求職学生は積極的で機転の利く人物に見えてしまうからだ。 つまり,そういう求職学生は,自分なりに仕事をアレンジしてしまいたいから,業務の内容に興味をもち積極的に質問な ども行う。そうすると,面接担当者の側は,自分の会社の業務内容に興味をもってもらって嬉しくなるし,求職学生が仕 事に主体的に取り組もうとする責任感のある人物であるように考えてしまうのである。「売れないラーメン屋」の出そう とする「仕事の結果」が自分の外見上の努力であり,製品やサービスの質ではないということが,そこでは隠されてしま う。
 こうして見ると,「売れないラーメン屋」の対極に位置するのが,「ドジでのろまな亀」であることに気がつく。と言 っても何のことかわからないかもしれないが,「ドジでのろまな亀」とは,かなり以前にやっていたテレビドラマ(『ス チュワーデス物語』)の中で主人公に付けられていたあだ名である。スチュワーデスの卵である主人公は,乗客に喜んで もらいたいという気持ちを強くもちながらも,不器用なために失敗を繰り返す。この「ドジでのろまな亀」の場合には, 本当の「仕事の結果」とは何かはわかっていても,技術が伴わないのである。一定の器用さはもっているが,「仕事の結 果」について勘違いしている「売れないラーメン屋」と比べた場合,どちらがましなのだろうか。答えは「ドジでのろま な亀」である。「ドジでのろまな亀」的な求職学生も,採用面接の場においてやはり業務の内容に興味をもち,あれこれ と質問を発するだろう。しかし,それは,「仕事の責任を果たせるかどうかの不安」に発するものである。「売れないラ ーメン屋」的な求職学生の場合,不安は「自分の楽なように仕事をアレンジできるかどうかの不安」である。主体性と責 任感に関して「ドジでのろまな亀」は「売れないラーメン屋」に勝っている。「ドジでのろまな亀」に不足している技術 の面は,その後の経験によって向上させていくことができる。他方の「売れないラーメン屋」は,入社して暫くの間は順 調に仕事をこなすだろうが,自己流の方法で仕事をしているのでそのうちに技術の向上が頭打ちになり,加齢による注意 面・運動面の能力低下とともに器用さが失われていく。その論理的な帰結は,「努力賞ばかりをねだる無能な人材」であ る。

(4)再び,ゼミの報告とは?
 こう考えていくと,「売れないラーメン屋」的な態度を貫いていると,最終的には本人が困ることになるし,また社会 的にも害をもたらすということがわかる。今日,大学には「職業意識の育成」が求められているが,その1つの重要な側 面は,「売れないラーメン屋」的な態度からの転換にあると思う。ゼミの報告の仕方に関して要求されていることが,実 は,物事に取り組む態度の在り方に関わっているということ,そしてゼミ報告が自己の態度を転換させる機会になってい るということを,認識してもらえたらと思う。

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