自然科学論・科学史101  第一部:肉眼観測による宇宙の姿

第2回: 天動説と地動説

天動説と地動説
天動説と地動説という日本語は「何が動いているか」という観点から現象を記述していますが、
ヨーロッパの諸言語では「何が宇宙の中心にあるか」という観点からの記述を採用いています。
例えば、天動説は「地球中心説=Geocentrism」と呼ばれ、 地動説は「太陽中心説=Heliocentrism」と呼ばれています。
ヨーロッパにおける宇宙構造に関する議論はそもそも「宇宙の中心に何があるか」 という問いから発しているという歴史的事実があるので、ヨーロッパ式の表現の方が適切でしょう。 以下では、ヨーロッパ式の用語を用いることとします。

地球中心説の始まり

前回の講義で触れたように、直感的に身の回りの世界を視覚化するため、 「地球は平面である」という考え方から人類の宇宙観は出発しました。 それは古代ギリシアでも同様でした。

タレス(Thales of Miletus)は紀元前6-7世紀ごろ, 無限に広がる海の上に浮かぶ平らな島として 地球のことを考えました(ref. "Dante and early astronomers", M. A. Orr, 1913)。 なにが大地を支えているのかという疑問はどの古代文明の人々にとっても最大の問題でしたが、 タレスはこの宇宙は水で満ちていて、大地(地球)はそこに浮いているものとして この問題を解決しようとしました。 しかし、タレスの地球/宇宙観は、海の果てがどうなっているか説明していない上、 海や島を支えているものは何か、つまり「下の部分」がどうなっているか答えていないため、 批判を受けました。

アナクシマンドロス(Anaximandros of Miletus, BC610-BC546頃)は、 タレスの説が抱えていた問題点を解決するため、 「宇宙の中心」という概念を提案し、そこに地球を置くことにしました。 「真ん中」ですから、もうこれ以上落ちる心配はなく、支えるものが不要である、 というアイデアです。こうして、大地は水によって支えられる(浮いている、というべきか?) 必要はなくなり、大地が空中に「安定して」存在し続けることができることになりました( 科学的ではなく、詭弁による自己満足ですが)。 「宇宙の中心」の周りには透明な球面があって、そこに張り付いた 天体が球面とが一緒に回転すると想像しました。地球は円筒の形状を持ち、 その上面に人間が住んでいると考えました(イメージ的には、ガリバー旅行記のラピュタに 近い感じでしょう)。DielsのDoxography, Strom.2によれば、その寸法は幅3に対し厚み1 としているらしいです(注:原文がドイツ語とギリシア語なので、 まだ自分自身で確認しておりません)。

Picture taken from "Dante and early astronomers" by M. A. Orr, 1913.

ガリバー旅行記のラピュタ
(From Wikipedia, where the original source comes from the 1847 publication in Czech)

アナクシマンドロスの宇宙観は、 地球を中心とした同心円構造を最初に導入したモデルです。 これは後のピタゴラス学派の宇宙観に大きな影響を与え、 中世までの人々が抱いた宇宙観の根幹となったモデルの基礎となりました。

地球の形状を「平面」から「球形」と考え直したのは、人間の宇宙認識にとって 大きな出来事だったと思われます。それは、地球もきっと太陽や月と 同じ形をしているだろうという予想が契機となっているはずですが、 この「予想」を幾何学と結びつけて地球が球形であることを正当化したのが、 ピタゴラスとその学派でした。 ただし、この正当化はあくまで「理想」であり「想像」であって、実験や観測によって 実証した訳ではありませんから、「科学的観点」からすると失格です。 地球が球形であるという観測に基づく論証は、ずっと後の時代に下ってから行われました( 例えばアリストテレスの皆既月食の観測など)。

ピタゴラス学派(BC6-5世紀) が考えた宇宙観は(1)地球は球形であり、(2)宇宙(コスモス)の 中心にあり、(3)その周りを惑星や恒星が同心円状に取り囲んでいるといったものでした。 「宇宙」という概念を最初に提唱し、幾何学的な思考を自然科学に適用し、 円や球といった「調和のとれた図形」が自然界を記述すると考えました。 また、天体の運動は「調和」がとれた状態を維持するために、等速円運動であると考えました。 この考え方は、これ以降の「地球中心説」の基本を構成することになりました。

この時期、様々な宇宙論が提出されました。フィロラオスの宇宙は、地球と、 日、月、火、水、木、金、土といった肉眼で観測できる天体、さらに ここへ中心火と反地球を足した10個の天体でこの宇宙は恒星されていると考えました。 中心火と反地球は哲学的なものであり、実測し確認したわけではありません。 太陽系の天体の数を”\(10=1+2+3+4\)”と表せるように人為的にこしらえたのです。 この数は、順番に並んでいるというだけでなく、 テトラクティスという幾何学図形に由来しています。 正三角形の格子点を重ねていくと、4段重なったときの点の総数が\(1+2+3+4=10\)と なります。肉眼で観測できる太陽系の天体の数は8ですから、テトラクティスの観点からは 10が一番近い数となります(5段重ねたテトラクティスは\(1+2+3+4+5=15\)となるので、 想像上の天体の数が7つになってしまい、「でっち上げる」のが面倒になります)。 ピタゴラスは幾何学以上に数論に重きを置いていました。数論を音階(音楽)と 関連付け、調和する和音、そして調和する図形である円/球という道筋を通って 幾何学と宇宙を関連づけるようになったようです。

テトラクティスは ピタゴラス学派の調和のシンボルでもありました。

プラトン学派(BC5-4世紀):プラトン自身は大きな業績を残していませんが、 「調和」による宇宙/自然の記述を進めるべく努力を重ねました。 プラトン学派の考える宇宙では、太陽の位置のみならず、金星と水星の位置が逆転しているなど 現在の太陽系の理解と比較すると「間違い」が散見されます (中心から、地球、月、太陽、金星、水星、火星、木星、土星、という並び方)。 むしろ、弟子たちの業績が目立ちます。例えば、エウドクソスは同心球模型により、 複雑な惑星の運動(逆行など)を記述しました。 ただ、彼は自分の模型はあくまで自然現象の便宜的な記述にすぎず、実際の 宇宙/世界がそのように動いているとは考えなかったようです。もう一人の有名な弟子が アリストテレスです。彼は後にギリシアを代表する自然哲学者となり、 自然哲学の権威となりました。その影響は中世まで続きますが、詳しくは次の項で触れます。

アリストテレスの3次元球模型(イタリア、フィンレツェのガリレオ博物館所蔵)

アリストテレス学派(BC5-4世紀): アリストテレスの宇宙観は、独自のものではなく、それまでの宇宙観の総まとめのような ものでした。特に、ピタゴラスの幾何学に基づく宇宙観とエウドクソスの同心球模型 を中心にして組み立てられました。エウドクソスと違い、アリストテレスは自身の宇宙観は 実際に自然界で発生している「真理」だと考えていました。

アリストテレスの宇宙観をまとめると、次のようになります。 (1)宇宙の中心は地球である。地球とその周辺はウラノスとよばれる人間が住む世界で、 変化が生じ不完全な世界である。 (2)地球の外側には月、水星、金星、太陽、火星、木星、土星の順番で天体が並び、 これらの天体が属する世界は、神の住む完璧な世界「コスモス」である。(3)天体の運動は 3次元球面の表面を等速で円運動するが、3次元球面同士は複雑に組み合わさって、 惑星の逆行などの複雑な運動を再現する。

興味深いのは、アリストテレスの宇宙では、(地球、月)という組み合わせと、太陽の位置を 交換すると、現在小学校や中学校の理科で教えられている太陽系の惑星の順番と一致する点です。 プラトンの宇宙では、火星、木星、土星という「外惑星(地球より外側の軌道にある惑星)」 の並びは正しく記述されていますが、内惑星の順番、それに太陽と(地球、月)の順番が 間違っています。後述するように、コペルニクスはその著書で、アリストテレスの宇宙で 天体の並びが「ほぼ正しい」ことの理由を説明しています。その説明によると、 太陽中心説(天動説)を唱えたアリストテレス学派の人々も、 それなりに客観的な研究、すなわち天体観測を行なっていたことが推測されます (詳細は後述)。


地球が球形であること

地球が球形であることは、ピタゴラス学派の人々やその時代の前後の人々が考え始めたようですが、 実際の天体観測を通じて、それを証明したのはアリストテレスではないかと多くの文献で 指摘されています。このことは前回の講義 で説明しました。

地球が球形であることをもとに、地球の大きさ、すなわち半径を測定する試みがなされました。 最初に行なったのは、紀元前2世紀ごろのエラトステネス(Eratosthenes of Cyrene, BC276-BC195)です。 エラトステネスはアレクサンドリアの図書館で勉強しているとき、 シエネ(今のエジプト、アスワンのことで、ナイル川の源流に近いところにある町) の深井戸には、夏至のとき、太陽光が奥まで差し込むという 事実を知りました。彼が住む地中海沿岸の都市アレクサンドリアの深井戸には夏至の日でも太陽光は 奥まで差し込みません。実は、シエネは北緯23.4度にあるため、地軸が黄道面に対して23.4度 傾斜していることから、夏至のとき太陽が真上に来るのです。ちなみに、東京では夏至の日に 太陽の南中高度は78度にしかなりません。これは東京は北緯35度程度の位置にあるからです \([90-(35-23.4)=78.4]\)。

アレクサンドリアとシエネの経度がほぼ同じであることを用いれば、この2つの都市の間の 距離は、地球の大円を通る円周の長さに相当します。それを\(L\)とすると、地球の半径\(R_E\)は アレクサンドリアにおける夏至の日の太陽の南中高度\(\phi\)を用いて \[R_E=L/\phi\]と表すことがきます(簡単な幾何学です)。この方法によって測った地球の半径は かなり精度よく算出できたそうです。この公式は、経度が同じ2地点の夏至の日の南中高度の差 \(\Delta\phi\)を用いて\[R_E=L/\Delta\phi\]と拡張することができます。

現在の測定では、地球の半径は\(R_E\simeq\)6400kmであることがわかっています。

アリスタルコスの太陽中心説

アリスタルコス(Aristarchus of Samos)は、古代ギリシア時代(BC265年頃)に生きた自然哲学者です。 この時代の中では、もっとも科学的な態度で自然研究を行なったギリシア哲学者といえるでしょう。

まずアリスタルコスは半月を用いて、地球と月の距離\(r_L\)と地球と太陽の距離\(r_S\)の 関係を見出そうとしました。月の位相が半月のとき、太陽S、地球T, 月Lは直角三角形を 形成します(\(\angle SLT = \pi/2\))。このとき、月は「最大離角」の位置にあるとも言えます。 このとき、地球から見た太陽と月の角度\(\angle STL\equiv \theta\)を測定すれば, 三角関数を用いて\(\text{LT/ST}=\cos\theta\)、すなわち \[ \cos\theta= \frac{r_L}{r_S }\]と表すことができます。アリスタルコスの測定では \(\theta=87^\circ\)(実際には\(\theta=89.89^\circ\))でした。 したがって、\[\frac{r_L}{r_S}=0.052...(0.001919..)\]となり、太陽までの距離は、 月までの距離のおおよそ19.1倍(521倍)であることがわかります。

次に、アリスタルコスは皆既日食を利用し、月と太陽の半径の比を求めました。 皆既日食というのは、太陽と地球の間に月が入り込み、地球から見て太陽がすっぽり月に隠される 天体現象です。太陽と月の見かけの大きさはほぼ同じで、両方とも0.5度の大きさがあります。 太陽系広しと言えども、このようなバランスで皆既日食が観測できる惑星は 地球以外にはありません。見かけの大きさが同じことから、太陽と月に関しては、その 距離の比が半径の比に等しいという関係が得られます。見かけの角度を\(\phi=0.5^\circ\)と 表すとすると\[\sin\frac{\phi}{2}=\frac{R_L}{r_L}=\frac{R_S}{r_S}\]となります。 最後の等式を利用すると \[\frac{R_L}{R_S}=\frac{r_L}{r_S}\]を得ます。\(r_L/r_S\)の値は、半月の観測によって わかっていますから太陽と月の半径の比率がわかります。 アリスタルコスの測定値を用いると太陽は月の半径の19倍の大きさを持つことになり、 月よりも太陽の方がはるかに大きい天体であることがわかります。

アリスタルコスは月と地球の大きさについては調べていないようですが、皆既月食の観測などから 月の方が地球よりも小さいことが想像できたでしょう。そうだとすると、 太陽が圧倒的な大きさを持ち、その次が地球、一番小さいのが月、ということがわかります。 このような状況を鑑みると、太陽を「宇宙の中心」とおき、地球や月はその周りに回っていると 考えた方が「自然」な感じがします。アリスタルコスは太陽中心説を唱えましたが、 きっとこのような論理でそこへたどり着いたものと思われます。 加えて、宇宙の最遠にあると考えられていた恒星は、遥か彼方にある太陽と同等の星ではないか、 とも考えていたようです。いろいろな点において、進んだ考え方を持っていたアリスタルコス ですが、アリストテレス学派から無視されることになります。その卓越した発想と論理が 再発見されるのは1500年近く後のことです。アリスタルコスの太陽中心説に触発された コペルニクスが「太陽中心説」を復活させたのです。 図書館の片隅に埋もれ、人々に長く忘れ去られた「異端の書」を発掘したコペルニクスの 素晴らしさにも頭が下がります。

月と地球の関係についての研究は、もう少し後になってから進展がありました。 紀元前1世紀ごろ、ヒッパルコスは三角測量の技術を使って、地球と月の距離\(r_L\)を 測定し, \[r_L\simeq 60 R_E,\]すなわち月までの距離は、地球の半径のおよそ60倍である という結論を得ました。(具体的には、距離\(D\)だけ離れた地上の異なる2地点において 同時刻に月と地面の間の角度\(\alpha, \beta\)を測定します。このとき、 月までの距離\(x\)は\[x=D\frac{\sin\alpha\sin\beta}{\sin\left(\alpha+\beta\right)}\]と 計算されます。)

この\(r_L\)の値と月の見かけの大きさ\(\phi\)の測定値を アリスタルコスの式に代入して、月の半径を計算すると \[R_L = r_L\sin\frac{\phi}{2} \sim 60 R_E\frac{0.5}{2}\frac{\pi}{180}\sim \frac{R_E}{4}\] を得ます。つまり、月の半径は地球の1/4程度です。

半月の時の月と太陽の角度について、正確な値\(\theta=89.89^\circ\)を適用すると \(R_L/R_S=r_L/r_S=\cos\theta = 0.001919...\)となりますから、 \(R_S\simeq R_L/0.001919 =\frac{1/4}{0.001919}R_E\sim 130R_E\)を得ます (実際には\(R_S=109R_E\)です)。 また、\(r_S = r_L/0.001919\simeq \frac{60}{0.001919}R_E=3\times 10^4R_E\)を得ます (実際には\(r_S = 2.3\times 10^4R_E\)で、これを1天文単位あるいは1auと言います)。

さて、ヒッパルコスの手法、すなわち三角測量の公式に入れて 太陽と地球までの距離を直接算出してしまえばよいのではないか、 という疑問を持つ人がいるかもしれません。それが困難であることを示したいと思います。 以上の計算で\(x=2.3\times 10^4R_E\)であることがわかっています。また\(D\)としては 地球上で取りうる最大距離、すなわち直径\(2R_E\)を適用してみます。また、簡単のために 一方の地点における太陽の角度を真上、すなわち\(\alpha=\pi/2\)であるとします。すると \[\frac{x}{D} \sim 10^{4} = \frac{\sin\beta}{\sin\left(\beta+\frac{\pi}{2}\right)} =\tan\beta\]となります。関数電卓などを用いて上の式を逆に解くと\(\beta\sim 89.943...^\circ\)となって、ほぼ90度であることがわかります。古代ギリシアの人々はこれほどの精度で 角度の測定はできませんから、\(\beta\simeq 90^\circ\)と近似してしまったことでしょう。 すると\(\alpha=\beta=\pi/2\)となり、三角関数の公式は破綻してしまうことがわかるでしょう。 太陽までの距離\(r_S\)は地球の直径\(2R_E\)に比べて大きすぎるので、直接三角測量を用いて 測定することは困難なのです。

コペルニクスの太陽中心説

コペルニクス(Nicolaus Copernicus,1473-1543)は、ポーランドの天文学者/数学者 で、その太陽中心説によりよく知られています。コペルニクスの著書「天球の回転について」(De revolutionibus orbium coelestium)は、彼が死の床に就いた時に完成し、 出版されたときは死去していたという噂もあります。彼が着想を得たのは イタリアに留学していた学生時代で、就職のためポーランドに帰国してから一気に 自説をまとめ上げましたが、なぜか机の引き出しにしまい込んだまま発表せず、 死の間際まで自分の説を封印していました。 カトリック教会(バチカン)の迫害を恐れたからだと言われています。 実際、コペルニクスの後、バチカンの迫害を受けた「太陽中心主義者」は、少なくとも2人います。 一人はジョルダーノ・ブルーノで、火あぶりの刑に処せられました。 もう一人は、ガリレオ・ガリレイで、太陽中心説を支持した罪で宗教裁判にかけられ、 自説を否定するよう強制されました。

初版本からは(なぜか)削除されてしまっていますが、原稿には「アリスタルコスの太陽中心説に触発されて、私(コペルニクス)なりの太陽中心説を思いつくに至った」という記述がありました。この但し書きは、第4版から復活しています。

コペルニクスが太陽を宇宙の中心にしたのには理由があります。 古代ギリシア時代の宇宙観は、ピタゴラス学派が基礎を築き、アリストテレスがまとめ上げた 「地球中心説」が主幹でした。この考え方は、その後プトレマイオスによって完成され、 「アルマゲスト」という形で集大成しました。ピタゴラスの掲げた「調和」を重視した結果、 実際の天体観測の結果とのずれが大きくなり問題となっていました。そこで、 地球中心説に離心円や周転円などといった幾何学的な概念が盛り込まれ、 複雑な理論と化していきました。 その最終版であるアルマゲストには、さらにエカントいう概念も新たに導入され、 複雑の極みを呈していました。コペルニクスは複雑化した地動説を嫌い(特にエカントの排除 を優先したようです)、ピタゴラスやアリストテレスの宇宙観のように簡潔にまとまった 宇宙観を理想視していました。 観測結果も説明しつつ、古い理論のように簡潔であるものはなにか探求した結果、 太陽中心説にたどり着いたのです。

太陽中心説の悪い点と地球中心説の良い点

コペルニクスが求めた「簡潔な宇宙論」を台無しにしてしまった幾何学的概念について 見てみます。ピタゴラスやアリストテレスの考える哲学的理想あるいは数学的理想から 遠ざかるようにするこれらの概念は、 実際の観測と理想とを折衷させるために、「仕方なく」導入されました。

地球中心説の修正のために加えられた幾何学的な技巧の代表として、離心円と周転円があります。 前者は惑星が等速円運動に従わない「アノマリー」の問題を解決するため、後者は 惑星の逆行の問題を解決するためにヒッパルコスが考案したものです。 逆行はデジカメで惑星の連続観測を行えば確認することができます。 火星が見えるときは火星が最適ですが、私は土星でもやってみました。 その結果が下の写真です。もし、ピタゴラスやアリストテレスの主張するような「調和する」 宇宙であれば、逆行は絶対に発生しないはずです。

土星の逆行の例(2011年, 大井による観測)
2011年の土星の運動:上の画像データを数値処理したもの

地球を中心とした円(従円=deferent)の周上を、 さらに小さな円(周転円=epicycle)の中心が等速で動き、 惑星はさらに周転円の円周上を等速で運動することで、 ピタゴラスのいう「調和」を破らずに逆行を実現するのが周転円のアイデアです。

周転円の基本的なアイデア

カレンダーを使えば 、アノマリーを確認することができます。 もし、ヒッパルコスが主張するように惑星が等速円運動するならば、 春夏秋冬の季節の長さはどれも等しくなり、365/4=91日ほどになるはずです。 が、実際に日にちを数えてみるとそうなっていません(例えば、春分から夏至までの 日にちと、秋分から冬至までの日にちを比較して見てください)。 離心円というのは、宇宙の中心(つまり地球)の位置が、惑星の軌道円の中心からずれている という考え方です。このため、円の中心、つまり離心点からみた運動は等速円運動ですが、 宇宙の中心、つまり地球から見た運動は不等速に見えます。

離心円の基本的なアイデア(宇宙の中心O'には地球がある。離心円の中心は離心点O)

さて、エカントというのは、「アルマゲスト」を書いたプトレマイオスが最後に付け足した 幾何学的概念で、これにより地動説の精度は格段に向上しました。 その内容の詳細は複雑ですが、簡単にまとめると、 離心円を導入しても改善しきれなかったアノマリーの問題を解決するために、 「等速度」を「等角速度」に読み替えたものと理解することができます。 しかし、これは言葉遊びのようなもので、 数学的には「等速運動」を完全に諦めたことに相当します。 つまり、惑星の運動はそもそも不等速である、ということを認めてしまったことになります。 数学が得意なコペルニクスは、そこを見抜いたため、エカントを目の敵にしたものと思われます。

後に、詳細な天体観測データをもとに研究を行なったケプラーが示したように、 万有引力を受けて運動する惑星は、そもそも「不等速」運動を行なっています。 ただ、まったくデタラメな運動というわけではなく、「面積速度が等速」 となるように回転運動しています。エカントは、実質的には「面積速度を等速」にするために、 「速度を不等速」にする役割を果たしていたので、天体の位置を計算する上では「進歩」と みてよいのです。

コペルニクスの太陽中心説は、太陽を中心にした点が、プトレマイオスの地球中心説よりも 優れています。しかし、エカントを取り除いてしまったので、地球中心説よりも劣ります。 つまり一勝一敗というわけです。コペルニクスは周転円や離心円も取り除こうとしましたが、 その試みは頓挫し、結局、離心円と周転円が複雑に絡み合った宇宙論という意味では、 それまでの地球中心論と大差ないものとなってしまいました。

実際、プトレマイオスの方法で計算した惑星の運動は、コペルニクスの方法で計算した場合に 匹敵する、あるいは凌駕するような精度になっていました。どちらで計算しても似たような精度 であるならば、わざわざ新しい手法を導入する必要はありません。また、権威にわざわざ逆らう こともありませんから、大多数の人はプトレマイオスの「アルマゲスト」を使い続けることに なりました。太陽が宇宙の中心にある、ということにより深い意味を見出すことができたのは、 一部の天才に限られ、しかもそれはずっと後のことになります。

コペルニクスに対する2つ目の反論

宇宙の中心が太陽になってしまったという点に加え、コペルニクスの宇宙論に対する もう一つの反論がありました。それが、月の位置です。

コペルニクスの太陽中心説。月は地球の周りを回っている。

これまでに考案された様々な宇宙像では、宇宙の中心はただ一つでした。そして、中心には 地球が置かれるべきである、というのがアナクシマンドロス以降の宇宙論の主流でした (フォロラオスのように中心火を置く、という例外もありましたが)。 例外的なものとして、アリスタルコスの太陽中心説があることをすでに見ましたが、 実はアリスタルコスの宇宙像は、中心が太陽というだけでなく、地球の周りに月が回っているという 「2中心宇宙」 にもなっていたようです。さらに、その天体の並びも完全にコペルニクスの太陽中心説と 完全に同じです。(これだけ見ると、 あたかもコペルニクスはアリスタルコスの説をそのままコピーしただけのように 思えてしまいますが、コペルニクスの宇宙像では周転円や離心円が導入されていて、 案外複雑な構造になっています。)

コペルニクスの時代にはアリスタルコスの考えは ほぼ忘れされられていたようで、アリストテレスやプトレマイオスの理論を学習するだけ になっていた中世の人々にしてみると、中心が2つある宇宙像というのは 非常に奇異に見えたようで、コペルニクスの説を受けいれるのに難色を 示したといわれます。

この後の講義でやるのですが、17世紀初頭に発明されたばかりの望遠鏡を使って、 イタリアの科学者ガリレオは木星の周りを回る衛星を4つ発見します。 この発見は、地球だけでなく、木星も「副中心」に なっていることを意味しており、コペルニクス(やアリスタルコス)が提示した「複数の 中心が存在する宇宙像」が間違いではないことを示唆しているとガリレオは考えました。 木星の衛星の発見をきっかけに、ガリレオはコペルニクスの太陽中心説に傾倒していきますが、 その後、宗教裁判にかけられ辛酸を舐めることになります。

ところで、アリスタルコスやコペルニクスは、どうして地球と月をセットにしなくては ならなかったのでしょうか?その理由の一部は、コペルニクスの著書に書いてあります。 ここでは、その主要部分を紹介します。

プトレマイオス(やアリストテレス)の地球中心説において、天体の並びは (地球、月)、水星、金星、太陽、火星、木星、土星となっています。 一方、コペルニクス(やアリスタルコス)の太陽中心説において、天体の並びは 太陽、水星、金星、(地球、月)、火星、木星、土星となっています。 2つの説は随分異なっているような印象を我々は持たされていますが、その並び方は (地球、月)の位置と太陽の位置が入れ違っているだけで、残りの惑星の順番は 共通であり、正しい順番となっています。どうして、2つの説が ほぼ正しい順番を知ることができたのか、地球を中心に考える地球中心説の立場で考えると わかりやすいので、まずはその立場で考えてみます。

もし、全ての天体が同じ速度で 円運動をしているのであれば、その公転周期は地球に近いものほど短くなります。 というのは、円周の長さは半径に比例するからです(円周=2π×半径)。 天体の公転周期というのは、長年観測し続けて、その惑星が星座の同じ場所に戻ってくるまで の時間を測定するだけですから、辛抱は必要になりますが、比較的容易な観測で測定できます。 月は29日、水星は88日、金星は224日、太陽は365.25日, 火星はおよそ2年、木星は12年、 土星は30年です。したがって、公転周期の順番に並べると、プトレマイオスの宇宙像における 天体の並びに一致するのです。

ニュートンは絶対静止系が存在すると考えましたが、ガリレイの相対原理により、 全ての慣性系は等価であることがわかっています。アインシュタインの相対性理論でも、 重力の効果が加速運動の効果の見分けがつかないという等価原理が重要な役割を果たします。 すなわち、この宇宙でどの天体が動いていて、どの天体が静止しているか決めることは、 相対原理の観点から案外難しいことだということです。特に自分自身の運動を 正しく理解するのは難しいことです。例えば、新幹線に乗って高速で移動している乗客は 窓に迫り来る富士山が「動いている」と感じます。仮に乗客の中に幼児がいたとして、 「動いているのはあなたか、それとも富士山か?」と問えば、 多くの幼児が「後者である」と答えるはずです。地球中心説と太陽中心説を、 日本風に「天動説」「地動説」と呼ぶとするならば、これは相対原理 の難しさを表現した典型的な問題であるといってもよいと思います。 したがって、アリストテレスやプトレマイオスの地球中心説は、(地球、月)のペアと 太陽の相対位置を間違えているだけなので、「正しい間違い」をした説であるといえるのです。

地球と太陽の位置だけを交換した太陽中心説を構築すると、 月は太陽のすぐ外を回り、その軌道は水星よりも内側となります。 しかし、アリスタルコスの研究により、地球と月の間の距離は、地球と太陽の間の距離に比べて ずっと小さいことがわかっています。したがって、月の公転周期の短さは、 地球の回りの公転であって、太陽回りの公転ではないと考えなくてはならないのです。 つまり、月は地球とともに、太陽の周りをほぼ一年をかけて一周するのです。 アリストテレスも、コペルニクスも、このような理由をきちんと加味した結果、 地球と月をペアにして太陽の位置と正しく交代させたのです。 この処置は科学の観点からみて本当に素晴らしいと思います。

また、「地動説は観測もろくにしないまま、幾何学などの理想を盲目的に自然の記述に押し付けた 科学的水準が低い考え方」という印象を与えるような教えた方が採用されますが、 惑星の並びについてはきちんと観測データを反映させていたわけですから、科学的な精神も ちゃんと導入していたといえるでしょう。

ケプラーの法則

結局、コペルニクスの太陽中心説もプトレマイオスの地球中心説も利点と欠点が入り混じり、 その優劣は決まらないものでした。最終的に宇宙の正しい姿を記述したのは、 長期間に渡る精密な観測記録を、先入観なく客観的に解析したケプラーの研究でした。 観測記録は四十年にわたるティコ・ブラーエの業績で、彼の死後そのデータ全てが ケプラーに託され、それをさらに十何年もかけて数学的に解析したのです。 ケプラーの法則としてまとめられた、真実の宇宙の姿は、ギリシア哲学者が想像した宇宙像の すべてを破壊するものでした。まず、天体の軌道は円軌道も球面軌道でもなく、楕円軌道でした。 そして、その運動速度は等速でも等角速度でもなく、面積速度が一定になるような不等速運動に 従っていました。また宇宙の中心というものもなくて、太陽は惑星の楕円軌道の焦点にありました。

ケプラーの法則がどうして成立するのかと問題は、ニュートンによって解決されました。 逆二乗則に従う万有引力で引き合う天体について、運動方程式を適用すると、 ケプラーの法則の全てが導出できたのです。