History of the World(世界の歴史)

専修大学経営学部 綿貫理明


Copyright 1996, 1997 by Osaaki Watanuki

これは作者の個人的興味による主観的な世界の歴史であり、大学受験のためには適切な教科書、参考書を使用して下さい。


世界の初めについては、スティーブン・ホーキングの説(Cambridge Univ.)古事記の天地開闢神話(福井大学)旧約聖書の創世記(同志社大学神学部、野本研究室)グノーシス派のナグ・ハマディ文書(Gnostic Library)等諸々の説がある。ここでは最も簡潔に一言で述べているヨハネの説を紹介する。

「初めに、言葉があった。」(ヨハネ1.1)


下の写真はアメリカ、アリゾナ州のグランドキャニオンで撮影したものである。数億年かけて堆積した大地を水の流れが浸食し、写真のような景観ができた。この地層からは約三億年前(古生代)の三葉虫の化石なども採集される。

縄文時代 (東京都埋蔵文化財センターにて撮影): BC10000頃からBC300年頃の期間を縄文時代と言い、この多摩センターの遺跡にはBC4000からBC2000年頃の住居跡がある。縄文時代の代表的遺跡である青森県の三内丸山遺跡では、DNA分析の結果から栗等の植物を計画的に栽培した痕跡が見られる。植物の計画的栽培による農業は縄文時代にも一部行なわれていたようであるが、弥生時代に一般化したと考えられる。農業により、人類は比較的安定して食糧を確保できるようになった。(第1の波)

ミケーネ:下の写真はH.シュリーマンによって発掘されたミケーネの獅子門である。語学の天才ハインリッヒ・シュリーマン(1822-1890)は、幼い頃父から聞いたホメロスのトロイ戦争の物語を信じ、いつも心の中にそのビビッドな情景を思い描いていた。20才代で英、仏、蘭、西、伊、露等の言語を独学でマスターし、ロシアにおいて貿易で大成功して巨万の資産を築いた。彼の独特な語学学習法は、その国語の小説をまるごと一冊暗記することであった。30代でギリシア語、ラテン語、アラビア語、北欧諸国の言語を習得した。41才の時に、すべての事業を清算して、考古学を学び、古代遺跡発掘の準備にかかった。1871年にトロイ、1876年にミケーネを発掘した。ホメロスの伝説は、当時一般の人々にはフィクションであると信じられていたが、シュリーマンの発掘によって伝説が史実に基づいた物語であることが証明された。写真のミケーネの獅子門はBC1300-1200年頃のものである。この遺跡でシュリーマンがアガメムノンと信ずる者の王墓を発掘し、黄金のマスクを発掘した。このマスクはアテネ考古学博物館に所蔵されている。 シュリーマンは1890年ナポリに没した。
参考文献
H.シュリーマン(池内紀訳)「古代への情熱」小学館、1995
E.ルートヴィヒ(秋山英夫訳)「シュリーマン」白水社、1995


ギリシア、アテネ
パルテノンの神殿: ポリス国家アテネはマラトンの戦い、サラミスの海戦、でペルシャ軍を撃破し、BC478年にデロス同盟の盟主となり、アテネ黄金時代を迎えた。パルテノンの神殿は、BC447年にペリクレスの指導のもとに建設に着手され、BC438年に落成した。アレクサンドロス大王が、エジプトを征服し(BC332)、ダレイオス3世をガウガメラの戦いで撃破してペルシアを併合して(BC331)始まったヘレ二ズムの時代を経て、BC146年ギリシャはローマの属州となる。395年ローマの分裂により、ギリシアは東ローマ(ビザンチン)帝国の一部となる。1453年から1829年の間は、トルコ領有時代となり、パルテノンの神殿はトルコ軍の火薬庫に利用されたこともある。1687年ベネチア軍の砲撃により、火薬庫として利用されていたパルテノンの神殿は大爆発を起こし、貴重な人類の遺産が失われた。その後、建造物の一部や彫刻が大英博物館等、国外へ持ち出された。現在のパルテノンの神殿は、1829年の独立後に、残った建築材料で復元されたものである。 今日我々の使う学術用語は、ギリシャ語起源のものが多い。

参考文献:
中尾是正「パルテノン」グラフ社、1980年
秀村欣二「日本と世界の歴史2' 古代 '先史時代-5世紀」学研、1969年

ポンペイ

この写真はポンペイの遺跡である。遠くにベスビオ山がかすんで見える。AD62年の大地震を経て、79年8月24日ベスビオ山が大噴火した。この時、ナポリ湾西部の町ミセヌムに住んでいた博物学者の大プリニウスは、友人の要請によって船でベスビオ山の南にあるスタビエに救援にむかい、そこで被災した。小プリニウスはこの時の状況を書簡のかたちで書き残している。ベスビオ山の付近にはポンペイ以外にもヘルクラネウム(現エルコラーノ)のように噴火によって埋没した町がある。
参考文献:金子史朗「ポンペイの滅んだ日」原書房、1988年


敦煌の莫高窟(綿貫吉野撮影):敦煌は、中国からシルクロードへの道の西の玄関にあたる、オアシスの都市である。AD366年、仏教の禅の修行のために敦煌に最初の石窟が造られてから、10世紀以上にわたって延々と石窟を築く活動はつづけられた。現在600以上の石窟が残っているという。1900年に一つの石窟から大量の古写本、絵画等が発見されたが、1900年代の初頭に英国のスタインらによって次々に国外に持ち出された。
参考文献
東山健吾他「敦煌ものがたり」新潮社、1989


次の写真はアメリカのメサベルデ国立公園にある、アナサジ・インディアンの断崖の廃墟である。10世紀頃、敵の襲撃を防ぐために断崖に住居をつくったといわれている。


アッシジ(Assisi)の朝はまだ薄暗いうちに小鳥のさえずりによって目覚め、早朝の町を歩くと何とも言えない清浄な雰囲気を感じさせる。下の写真は、イタリア、ウンブリア州のアッシジにある聖フランチェスコ大聖堂である。
アッシジの貧者(il poverello di Assisi)とよばれた聖フランチェスコは、裕福な商人の息子として育てられたが、イエス・キリストとその弟子に倣った清貧の生活を志し、一切の所有を放棄して労働と托鉢により生活した。弟子に一冊の聖書を所有することさえ禁じたという。茶褐色のつぎだらけの衣だけをまとって苦行を行い、立派な住居を拒んで泥と木の枝で住処を作ったと言われている。鳥に説教をしたり、獰猛な狼を従順にさせたり、貧困を妻とし太陽や月でさえ兄姉と考え、天地一切の万物と和して生きた。聖人の死後、聖人の遺志を厳格に遵守して一切の所有を認めない派閥と、遺志をゆるく解釈して財産の所有や教団の組織化を図る派閥に分裂した。後者は教皇や諸国の王の協力を得て、下の写真に示すような壮麗な大聖堂を建立した。聖人に対する世間の崇敬は厚く、多くの寄進と奉仕を得て比較的短期間のうちにこの大聖堂は完成した。このような大建築は聖人の遺志に反したものであるが、一説によれば、当時聖人の遺骨は聖遺物として他国に奪われる可能性もあり、厳重な保管が必要であったため、まるで軍艦か城塞のような堅固な大建造物が建てられたという。この大聖堂は筆者が訪れて1年6カ月後の1997年9月26日昼前、ウンブリア地方を襲った大地震のために内部の丸天井が崩壊し、2カ月後の現在も修復のため立ち入り禁止である。壁画の断片を収集して、西暦2000年を目標に修復の努力が続けられている。
聖フランチェスコ大聖堂(綿貫弘子撮影): 聖フランチェスコ(1182-1226)の活動拠点であったイタリアの古都Assisiに、聖人の死後建立された。
次の写真は、Assisiの町から見おろしたウンブリアの平原である。写真の中央に見えるのが、天使のサンタマリア(Santa Maria degli Angeli)教会である。聖フランチェスコは、若い頃この地で天命を自覚し、またこの地で弟子に見守られて息をひきとった。聖フランチェスコは、万物と調和共存する彼の生き方のために、1979年エコロジストの守護聖人に選ばれた。
参考書
片桐すみ子編「わが心のアッシジ」人文書院、1994
下村寅太郎「アッシシの聖フランシス」南窓社、1965


フィレンツェ

下の写真の人物の背景にある黒い物体は蒸気機関車と呼ばれ、昭和30年頃までは日本各地でよく見られたものである。この原動力である蒸気機関は1705年のニューコメンの発明がもとになっている。蒸気機関の発明によりイギリスで産業革命が始まった。以前は大半の人々は主として自宅付近での農業労働に従事していたが、産業革命により自宅から工場へ通勤して賃金を得て生活するようになった。また工場での製品の大量生産が始まり、人々は得た収入でその製品を購入するようになり、人々の生活様式にも大きな変化が起きてきた。(第2の波)
第二の波の影響で20世紀後半には、産業廃棄物や大気中の二酸化炭素による地球温暖化等の環境問題か生じてきた。環境問題は第2の波の副作用とみることもできる。人類が豊かさ、便利さ、快適さを求めることが遠因となって、現在大気中の炭酸ガス濃度は急速に上昇しつつあり、世界的に炭酸ガス排出の規制を行う努力がなされている。このような時に、聖フランチェスコの思想をふりかえってみる必要があるのではないか。


20世紀に入り、1940年頃アイオワ州立大学のアタナソフとベリーらによって最初の全電子式計算機の原型が作られ、1945年にはペンシルバニア大学のモークリーとエッカートらによってENIACが作られた。1949年には、これを改良して現代のコンピュータの先祖である最初のノイマン型計算機EDSACがケンブリッジ大学のウィルクスらによって作られた。
アルビン・トフラーは、第3の波である情報革命は、汎用大型のコンピュータが企業で使われ始めた1955ー60年頃始まったとみている。しかしコンピュータの歴史の中では、1969年にインターネットの起源であるARPANETの実験が開始され、1971年に最初のマイクロプロセッサであるインテルの4004が開発され、1972年に並列計算機イリアックIVが完成していることを考えると、筆者には1970頃に大きな変革の時期があったように感じられる。


次の写真は1881年創立のカリフォルニア大学(UCLA:University of California at Los Angeles)のロイス・ホールである。キャンパスの中心部に位置するもっとも古い建造物の一つである。1969年には米国の4カ所の大学・研究機関の計算機を通信回線で接続してARPANETの実験が開始されたが、UCLAはその一つの拠点であった。計算機がおかれた工学部のボールター・ホールはこの位置の南にある。UCLAにおけるARPANETプロジェクトの中心人物は行列理論(queuing theory)で有名なL.クラインロック教授であった。UCLAとカリフォルニア大学サンタ・バーバラ校、スタンフォード研究所、ユタ大学の4拠点を最初に接続したARPANETが、今日のインターネットの起源である。


1989年CERN(欧州核物理研究機構)のティム・バーナーズ・リーによるWWW(World Wide Web)の開発、イリノイ大学NCSA(国立スーパコンピュータ応用センター)のM.アンドリーセンらによる1993年のMOSAICの開発、1994年のNetscape Navigatorの開発を通じて、インターネットは地球規模のネットワークに増殖していった。(第3の波) アルビン・トフラーは、将来ネットワークによる通信のコストが下がり、人々が通勤するためのコストを下回ると、人々は自宅で端末を使用して働くようになると予想している。これは勤労者の時間の有効利用の点からも、また車による排気ガスを減らすことで環境保護の観点からも望ましいことである。


専修大学:明治時代の初期(1880年=明治13年)に創立された日本で最も歴史の古い大学の一つである。彦根藩士の家に生まれ米国のコロンビア大学に留学した相馬永胤ら4人の青年が、明治13年(1880年)9月に法律・経済専攻の専修学校を創立したことに始まる。大正8年(1919年)専修大学と改称される。昭和37年4月経営学部経営学科を設置、昭和47年4月情報管理学科を増設した。日本最初の電子計算機FUJICは富士写真フィルムの岡崎文次により1956年に開発された。FUJICを開発した岡崎文次先生は後に専修大学で教鞭をとられた。現在専修大学は、インターネットによる情報革命の中で、全世界に向けて情報を発信している。


参考資料・参考書
1)専修大学資料室編「専修大学115年(Senshu Unversity Toward Our Twenty-First Century)」学校法人専修大学、平成6年8月20日
2)専修大学資料室編『専修大学120年 1888-2000』学校法人専修大学、平成11年12月15日
3)アルビン・トフラー(徳山二郎監修)「第三の波」日本放送出版協会、昭和55年

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