その他(教育・研究)
第01回 後編(2003.05.09)
【 アンデス高地の環境利用の特質に関する調査 2002年度 後編 】
2003年3月8-29日 ペルー共和国・ボリビア共和国

【図11:8日(火)Puno周辺】
PunoはTiticaca湖(標高3,812m)畔の観光都市です。 18日は、Punoに長期滞在して研究中の藤倉さん( 帯広畜産大学 ・院)と、 その知人 Sr. Aro Aroに案内を頼んで半日調査に出ました。 湖岸低湿地での浸水を防ぐため、巧みな工夫をこらしたcamellones(raised field)とよばれる盛り土耕地や、 最新氷期の高湖面期に生じた湖岸段丘が調査ポイントでした。 残念ながら双方とも典型例は発見できませんでしたが、何カ所かで断片を見ることはできました。 Titicaca湖の風物として葦船や浮島が有名ですが、 それらの材料になるのがtotola(トトラ)というカヤツリグサ科の水生草本です。 図は、totolaを運ぶロバです。[Pucara:南緯16.03505度、西経69.25498度]

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【図12:19日(水)Puno>La Paz】
国際長距離バスでボリビアに向かいました。客は外国人ばかりでした。 ボリビアの入国手続は簡単ですが、日本人は旅券写しが必要なので準備するとよいでしょう。 湖の眺めが美しい湖岸の観光地Copacabanaでたっぷりと昼食休憩があり、 午後にはTiticaca湖を小舟(バスも船で運ぶ)で渡って再び陸路を南東進します。 氷河を抱く東山系の山々が左手車窓に大きく見えてくればLa Pazまで一息です。 ボリビアの首都はSucreですが、事実上La Pazがその機能を果たしています。 図は、国境近くのTiticaca湖で、遠景が東山系です。

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【図13:20日(木)La Paz周辺】
体調を崩してしまい、午前中は宿で寝ていました。 そのころ英米軍のイラク攻撃が始まり、それ以降はCNNに釘付けになってしまいました。 午後は山本さんの案内でTiticaca湖南岸のTiwanako遺跡に行きました。 ここは精巧な石造神殿跡で有名です。 使われた石材が数十km以上離れた場所から運ばれたことを聞き、驚きを禁じ得ませんでした。 遺跡周辺には放棄されたraised fieldがあり、それらを対象にした農耕考古学的研究 (Kolata & Ortoff、1989; J. Archeol. Sci. )があることも承知していたのですが、 時間切れで精査できませんでした。図は、盆地縁辺から俯瞰したLa Paz市街地で、 氷河を抱くNv. Illimani(6402m)が遠方に見えます。 [展望地:南緯16.29316度、西経68.10076度付近]

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【図14:21日(金)La Paz周辺】
ボリビア前農林大臣Sr.Pocoacoの運転でNv. Sajama(6542m)にいきました。 道路事情はよく、片道約200kmの旅は快適でした。 途中、Titicaca湖から流出するRio Desaguaderoを渡るあたりでは、 著しい土壌侵食のために悪地地形を呈した赤色土の台地や、 風化花崗岩のキノコ状岩塔を見ることができました。 Sajama周辺には氷河をまとった山がいくつもありますが、 いずれも山麓部はIchuとよばれるイネ科草本(Stipa ichu) がみられる程度の乾燥地帯になっています。 この日はLa Pazに夕刻帰還し、西 昭三さんご一家とともに邦画鑑賞 (「きみが輝くとき」)@日本人会館と食事を楽しみました。 図は、Sajama南方のNv. Condorir(5762m)。 [Sajama集落:南緯18.08055度、西経68.58285度]

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【図15:22日(土)La Paz>Cuzco】
La Pazを早朝発ち、ペルーに再入国しました。 ボリビアーノ航空 で約500km・1時間を飛ぶと、 雲間に緑の段々畑が見えてきて細長い盆地底の観光都市Cuzcoに着きます。 顕著な森林はありませんが、斜面の多くが耕地になっていて目を楽しませてくれます。 降水量が増え、比較的湿潤な気候区に入ってきていることを印象づけます。 この街で長くツアー会社(Nao Tour)を経営されている篠田さんの宿に荷物を預け、 市内見物に行きました。ジャガイモの原産地だけあって実に種類が多いこと・・。 山本さんに教えを乞いながら市場を回りました。 体調も戻り、久しぶりに旨いビールを味わい、快眠しました。 図は、市街地から俯瞰したCuzcoの街なみ。[展望地:南緯13.30574度、西経71.59295度]

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【図16:23日(日)Cuzco周辺】
Puicaの調査を終えた岩田・稲村両氏は一足早くLimaに戻りました。 稲村さんは帰国し、岩田さんはこの日から私たちに合流しました。岩田さんを出迎えたあと、 Cuzco周辺の遺跡を巡りました。 Cuzcoの裏山にあるSacsayhuamanもまた、 美しい石造遺跡として名をはせています。 遺跡に露出する基盤岩は氷食を受けた羊背岩にも見えますが、皆さんどう思われますか。 夜は市内のレストラン(図26:食事編)で民族音楽を聴きながら夕食を摂りました。 [にせ羊背岩:南緯13.30261度、西経71.58548度]

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【図17:24日(月)Cuzco>Machu Picchu】

Cuzcoは世界遺産Machu Picchuの玄関として有名です。 現在、この遺跡は地すべりで崩落する危機に直面しているとされ、 京都大学防災研究所 をはじめ世界各国の地すべり研究者が調査を続けています。 私は、Machu Picchuの観光写真に必ず登場する遺跡背後の尖峰Huayna Picchu(2743m) に登りたい衝動にかられ、午後を登山に費やしました。 図は、線状凹地起源と考えられる遺跡中央広場(前景)で、後方がHuayna Picchuです。 [Huayna Picchu山頂:南緯13.0924度、西経72.32452度]

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【図18:25日(火)Machu Picchu>Cuzco】
Cuzco帰還までの半日を使い、Machu Picchu遺跡とCamino de Inca(インカ道)巡りをしました。 遺跡の足元を深くえぐるRio Urubamba峡谷はどのようにできたのでしょうか。 また図にあるように、古い地すべり・崩壊も随所にみられました。 このあたりはアマゾンの多雨気候の影響をだいぶ受けると考えられ、 山の斜面は熱帯雨林の森になっていて林床には可憐なランも生えています。 図は、東方からみたMachu Picchu遺跡全体像で、 観光客は谷底の鉄道駅から手前に見える屈曲道をバスで昇ってたどり着きます。 [遺跡入口のHotel Machu Picchu:南緯13.0924度、西経72.32452度]

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【図19:26日(水)Cuzco>Lima】
調査も一段落し、Limaに戻りました。 Cuzcoからの アエロコンチネンテ航空 では窓側席が取れたので、 離着陸前後を除いてGPSの受信状態を確かめてみました。 予想以上に電波状態が良く、 エアバス A320は巡航高度約11360m(約37000ft)、 対地速度約800km/hでLimaに向かっていたことがわかりました。 図は、Cuzco南方でみたガリー斜面と、そこに作られた耕作地。

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【図20:27日(木)Lima滞在】
午前中データ整理などをし、午後は岩田さんと町に出ました。 晩夏とはいえ日差しは強く、日向では汗が滲んできますが、日陰は案外涼しいことに気づきました。 これも沖合を流れるフンボルト海流のせいなのでしょう。 午後には山本さんもCuzcoから戻ったので、稲村さんを除く3人でMuseo Amanoを訪ねてお礼を述べました。 夕食後にLima空港に向かい、深夜便の客となりました。戦時の北米行というのに機は満員でした。 図は、アルマス広場(Plaza de Armas)付近です。 [Plaza de Armas:南緯12.02483度、西経77.01498度]

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【図21:28-29日(金-土)帰国】
早朝Houston着。合衆国本土も予想ほど荷物検査は厳しくありませんでした。 東京行は北米大陸を斜めに横切り、Seattle近郊で太平洋に出ました。 往路以上の長旅でしたが、日本時間29日夕には 新東京(成田)国際空港 に予定どおり着陸。 事前申請しておいた 植物防疫 輸入禁止品(土壌)検査も滞りなく終って、 18時には自宅でくつろぐことができました。 図は、Alaska半島付近でみたBering海の流氷群。

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