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水俣病の公式発見から40年の月日が過ぎていった。1)公害の原点といわれる水俣病は、いまだに解決されていない多くの課題を残している。2)
水俣病が経済学に提起したひとつの重要な課題は、経済のパフォーマンスを企業が認識するそのパフォーマンス、より正確にいえば企業が社会に主張するそのパフォーマンスの総和として測定しようとすることのおろかしさではなかったであろうか?最近の企業会計(と監査)の進展によって企業の会計記録の<環境整合性>が増してゆくであろうことは事実であるとしても、企業という制度主体の認識に近いところで経済のパフォーマンスを見ようとすること3)には限界がある。
環境問題への関心の高まりとともに、国民経済勘定の中にどのように環境への問題関心を取り入れてゆくのかということが国民経済計算の研究者・実務家にとって重要な課題となっている。そのことが四半世紀ぶりに行なわれたSNAの改訂作業4)にも反映され、伝統的国民勘定(SNA中枢体系)の役立ちを損なうことなく、体系に弾力性をもたせようとする試みである「サテライト勘定」のひとつ――重要なひとつ――としての「環境・経済統合勘定」の構想となっていちおうの結実を見、そのための『暫定ハンドブック』も刊行される。5)
この改訂されたSNAあるいは<1993年SNA>への対応については、わが国でも経済企画庁、国民経済計算調査会議を中心にさまざまな角度から検討が行なわれているし、改訂SNAに関する個人レベルでの研究成果も多い。改訂SNAの本体である中枢体系への対応については、理論的・実務的に多くの問題点があり現在の「新SNA」統計からの移行はまだ先のことになるであろうと予想される一方、周辺的な部分での<移行>がすでに行なわれている。国際通貨基金(IMF)によって国際収支マニュアルの改訂がSNAの改訂と同時に行なわれたことを受けてわが国で国民勘定統計の改訂を待つことなく行なわれた国際収支統計の1996年改訂がそれである。6)実は、わが国における環境・経済統合勘定の試算結果の公表7)は、本体の移行に先駆けて行なわれたもうひとつの実施例といえるかもしれない。
本稿の目的は、わが国における環境・経済統合勘定の試算を受け、それがめざす方向を検討するとともに、その課題を提起することである。まず、次節では、環境(・経済統合)勘定の開発の<基調>概念となったといってよいと思われる「持続可能な発展」の概念について議論する。そのうえで、いわば<持続可能性の会計>としての環境勘定の課題と役割りを議論する予定であるが、その際、冒頭でもふれた水俣病についての諸展開を議論の手掛かりとしてゆきたいと思う。実際、水俣病は汲み尽くせないほど多くの教訓をわれわれに残してくれているからである。第3節では、国連『暫定ハンドブック』の構成を概観する。このハンドブックは、コア・モデュールアプローチを取っているため、共通のコア(SNA中枢体系)にどのようなモデュールをつけ加えるかということからさまざまなヴァージョンが存在する。わが国の環境・経済統合勘定のスタンスを知るためには『暫定ハンドブック』の構成を理解することは不可欠のことであると思われる。さらに第4節では、このたび経済企画庁で開発・試算された環境・経済統合勘定の方法論を検討するとともに、残された諸課題を展望する。最終節では、あらためて環境・経済統合勘定の意義とその利用について議論する。なお、付録として、1996年9月28日と29日の両日、中央大学駿河台記念館で行なわれた環境経済・政策学会1996年大会における、経済企画庁の佐藤勢津子氏の報告「日本における環境・経済統合勘定」に対する、筆者の討論予稿を付した。本稿の要約として利用することができるものである。もうひとつの付録は、読者の便宜のためにわが国の環境・経済統合勘定の試算結果(1990年分)を再掲したものである。
2.「持続可能な発展」の概念と環境勘定統計の課題
――水俣病を手掛かりに――
2−1.「持続可能な発展」
今日では、『ピアス・レポート』(Pearce, Markandya and Barbier(1989))によって、「お母さんのアップルパイ」のような(誰も反対できない)概念となったとまで評される「持続可能な発展(sustainable development)」であるが8)、沼田(1994)によると、「持続可能な開発または持続可能な発展」という概念が環境問題の脈絡で登場したのは、1980年の「世界保全戦略(WCS)――持続可能な開発のための生物資源の保全」という文書においてであったという。9)10)
その後、1982年の国連環境計画UNEP特別会合(ナイロビ会議)で日本が提唱した「環境と開発に関する世界委員会」の最終報告書『われらの共通の未来』(World Commission on Environment and Development(1987)、委員長を務めたノルウェー首相ブルントラントの名をとって『ブルントラント報告』と呼ばれる、邦訳『地球の未来を守るために』)でも、「持続可能な開発(発展)」がその中心的概念になったことは周知の通りである。ところで、developmentの訳語として「開発」と「発展」とがある。訳語として「開発」を採る場合、ゴルフ場やスキー場の「開発」、あるいは「リゾート開発」というような用法があり、その場合、「持続可能な」と形容することはたんなる矛盾であろう。「開発は人間の目的にそって状態をかえていくことであるから、その意味で維持や持続とは本質的に異なる」という沼田(1994、40ページ)の批判があるように環境保全の立場に立つに人々にとって「開発」の語は禁句であるとさえ言われている。そこで、『ピアス・レポート』の解説に従い、以下では、「(経済)成長」と対比されて価値観を含んだ語として経済学で用いられる意味でのdevelopmentをさしていることを明示するために「発展」という訳語を採ることにする。11)
実際、『ピアス・レポート』(邦訳、38ページ)は、「経済成長」を「1人当りGNPが時間とともに増加しつつあることを意味する」と定義したうえで、「持続可能な成長」を「1人当りGNPが時間とともに増加しつつあることに加えて、生物物理学的なインパクト(公害、資源問題)、あるいは社会的インパクト(社会的破壊)のいずれかのからのフィードバックによって、その増加が脅かされていないこと」と規定している。一方、「持続可能な発展」について、フィードバックの要件は同じであるが、「1人当りの効用または福祉が時間の経過にともない増加しつつあること」あるいはより広義に「一組の『発展指標』が時間の経過にともない増加しつつあること」という定義を与えている。12)
一方、『ブルントラント報告』では、「持続可能な開発(発展)」は、「将来の世代が自らのニーズを充足する能力を損なうことなしに実現できる、現在の世代のニーズを満たすような発展」として沼田(1994)の表現によれば、「慎重に」定義されている。
筆者は、『ブルントラント報告』の「持続可能な発展」の概念は、アマルティア・センの潜在能力(capabilities)概念をベースにして理解・解釈すべきであると考えている。このことを説明するために、Sen(1985)によって、この概念のの内容を見ておく。Sen(1985、序文、鈴村訳による)において、「個人の福祉と好機の評価に関して、……私は(『実質所得』の評価におけるように)富裕に焦点をあわせたり、(伝統的な『厚生経済学的』枠組みにおけるように)効用に関心を集中したりする従来の標準的アプローチを批判し、ひとが機能する潜在能力、すなわちひとはなにをなしうるか、あるいはひとはどのような存在でありうるかという点にこそ関心を寄せるべきだと主張したい」として、潜在能力アプローチが提唱される。論理的内容を明確にするために、同書第2章の数式による展開によることにする。以下のように、記号を定める。
xi=個人iが所有する財のベクトル。
c(・)=財ベクトルを(ランカスター流の)特性ベクトルに変換する関数。
fi(・)=個人iがその所有する財の特性ベクトルから機能ベクトルを生み出すた めに実際に行ないうる財の利用パターンを反映する、個人iの利用関数。
Fi=個人iが実際に選択可能な利用関数fi(・)の集合。
hi(・)=個人iが達成する機能に関連づけられた幸福関数。
ひとが特定の利用関数を選択すると、財ベクトルxiを用いて達成する機能(functioning)は、ベクトルbi=fi(c(xi))で決定される。biは、<ひとのありさま>であり、センの例示では、栄養は行き届いているか、服装はきちんとしているか、移動能力は備わっているか、コミュニティーの生活に役割を果たしているかなどである。そのうえで、ui=hi(fi(ci(xi)))は、ひとの享受する幸福である。センによれば、生き方の<評価>とその生き方が生む<幸福>の測定とは2つのまったく異なる作業である。彼は、両者の混同を現代経済理論の普遍的傾向として批判する。「福祉」(well-being)とは、ひとのありさまの評価であると考えられるが、このことは、biの<集合>をランク付けすることであると考えてよいであろう。厳密に展開するために、集合
Qi={bi|あるfi(・)∈Fiとあるxi∈Xiに対してbi=fi(c(xi))}
を定義する。集合Qi(Xi)は、財の特性を機能に変換する個人的特徴Fiと財に対する支配権Xi(権限)が与えられたもとで個人iが機能の選択に関してもつ自由度を表現している。Qiをこれらのパラメーターが与えられたもとでの個人iの「潜在能力」と呼ぶ。集合Qiがもつ価値をその集合内の最大値の価値と同一視することは決して当然のことではない。
筆者が行なおうとする解釈は、『ブルントラント報告』の「自らのニーズを充足する能力」を「潜在能力」として理解すること、あるいはそうすべきであるということである。13)ただちに従う系は、「持続可能な発展」の功利主義(utilitarianism)的ないし効用主義(welfarism)的解釈は採らないということである。
すなわち、それぞれの状態における個人の効用を基礎としてのみあらゆる社会状態はランクづけられなければならないと考える立場(セン(1989)169〜170ページ)は取らない。Sen(1985)第3章で議論されるとおり、効用を幸福(happiness)と見ても欲望充足(desire-fulfilment)と見ても、それは、物理的条件の無視(精神的な態度に全面的に基礎をおくこと)であり、評価の無視(ある種の生き方を他の生き方と比較して評価しようとする知的活動を避けること)である。したがって、『ピアス・レポート』の「持続可能な発展」の前者の解釈を受け入れない(そこでいう福祉は効用の同義語である)。
若干のコメントが必要である。まず、センの定義が「個人」iをベースにしてなされていることを「世代」にどのように翻訳するのかということがある。ここでは、ストレートに個人iのかわりに世代iを考えることにより問題を回避しておくが、世代内の公平性に関する基準が必要になるかもしれない。また、個人iの財に対する支配権Xiを、世代の、一国経済レベルの生産物と自然資産に対するそれとしてどう表現するかという問題もある。世代間の人口の変動によって、1人当たりの環境ストックが低下してしまう可能性もある。さらに、社会的フィードバックをどう取り込むのかという難問もある。
しかしここでは、後世代jが現在の世界とまったく同じ量の生産・非生産ストックの利用可能性を与えられて居住する場合に獲得できる「潜在能力」を損なうことのない発展として「持続可能な発展」を理解しておく。ひとつコメントを追加する。「持続可能な発展」の概念にとって、枯渇性資源の取り扱いは困難な問題であった。もともと、持続性が再生可能な資源に適合的な概念であったことが困難の原因ではあろうが、将来の世代が保証されるのは、現世代が受け継いだのと同じ人工+自然の「資本」なのか、「自然資本」(全体、個々のカテゴリーの)なのかということは、広義の持続性と狭義の持続性の問題としてよく提起される点である。うえの潜在能力をベースとした接近による場合、「資本」維持の必然性は必ずしもないことになる。資産を特性に変換する特性関数、特性を機能に変換する利用関数という2つの中間項があるからである。しかし、<自然と社会の物質循環>が維持されないような経済・社会では上に述べた意味での「持続可能な発展」も実現できないという当然のことを確認しておこう。「自然の物質循環」と「社会の物質循環」については、槌田(1995など)によりながら、あとで議論する(2−3節)。