2−2.環境勘定統計の課題――水俣病を素材として――
2−2節では、「水俣病」を素材として、<持続可能性の会計>という使命をアジェンダ21で与えられたと考えられる環境勘定あるいは環境・経済統合勘定にとって、何が課題なのか、何が記録されるべき内容なのか、といったことがらを議論したい。なお、「水俣病」については、武谷編(1967)、宇井(1968)、原田(1972、1985、1995)、宮本憲一編(1994)、矢作(1995a、1995b、1996)、高峰(1996)などを参照した。
チッソ(旧新日本窒素肥料株式会社、昭和40年1月1日社名変更)は、水俣が発祥の地である。野口 は、明治39年に曾木電気(鹿児島県伊佐郡大口村、水力発電所)を設立し、曾木発電所(水力発電)から電力供給を受けるカーバイド工場(日本カーバイド商会)を水俣に建設し、明治41年にカーバイドの製造を開始する。カーバイドの用途は、主として漁業用アセチレンランプであったという。同年に、曾木電気と日本カーバイド商会を合併し、社名を日本窒素肥料株式会社とする。「日窒」である。カーバイドを原料とした窒素肥料の製造を水俣工場で始める。第1次大戦の好況(大正9年上期には10割4分の配当を行なう)などを経て拡大。大正10年には、水素と窒素とからアンモニアを直接合成する方法を技術導入し、昭和初期には、硫安市場を制する。朝鮮半島に進出。ダム(水力発電所)を出発点にアンモニア合成、さらに肥料、火薬、関連製品を製造する典型的な電気化学コンビナートを展開してゆく。水俣工場でアセトアルデヒド・酢酸設備の稼働を開始したのは、昭和7年である。昭和16年に塩化ビニールの製造を開始。アセトアルデヒドにしても塩化ビニールにしても水銀触媒を用いる。
このように、戦前新興財閥として隆盛を誇った日窒であったが、敗戦により資産の8割を失ってしまう。『東洋経済新報』誌で「解散するほかなかろう」と評されたほどの惨状であり、子会社日窒化学工業も旭化成として独立してしまう。昭和25年、企業再建整備法により旧資本金の90%を切り捨て、債権者も48.98%の負担をして日本窒素肥料株式会社は解散し、新日本窒素肥料株式会社が設立される。「新日窒」は、戦後の塩化ビニールブームのトップを切れたこと、アセトアルデヒドからオクタノールを合成しさらにオクタノールからDOP(ジオクチルフタレートと呼ばれる油状の液体、ビニールの可塑剤として用いられる)を合成する過程の工業化の成功(昭和27年にオクタノール工場、昭和28年にDOP工場を完成)により有機合成化学工業として発展する。DOPの生産を独占できたことは、(品薄の可塑剤を抱き合わせに自社の塩化ビニール樹脂を売りまくることで)新日窒の業績に大きく貢献した。昭和30年に化学業界の売上高ランキングでは14位、営業利益は12位、昭和35年には、同9位と6位に躍進する。このように、水俣病の公式発見の時期は、チッソの戦後のピークの時期と一致する。しかし、当時のチッソは、古い型の電気化学で「石油化学へのバスに乗り遅れた」という意識が社内には強く、千葉五井などへの「新立地」を模索していた時期でもあった。古い生産工程を早く廃棄しようとして生産の拡大を続ける。もちろん、問題となるアセトアルデヒドの生産を含めてである。
「水俣病」は、アセトアルデヒド製造工程で副生したメチル水銀化合物が工場排水中に含まれ、水俣湾(その後、昭和33年9月に排水口の場所を変更したことから不知火海全体)に排出されたことを原因とする大規模かつ深刻な環境汚染・健康被害である。昭和31年5月1日チッソ水俣工場付属病院の細川一院長によって「原因不明の中枢神経疾患が多発している」と水俣保健所に報告されたのが、水俣病の公式発見である。
チッソの工場廃水による漁業被害はかなり古く(大正年間)からあり、チッソが漁業組合に見舞金を(「永久に苦情を申し出ないこと」を条件に)支払ったこともある。第2次大戦後、昭和24、5年頃から水俣湾百間港の排水口付近に魚が浮上したり、カキが死滅したりするなど、様々な異常が見られるようになる。さらに、昭和28年には、ネコが狂死し、14)カラスや海鳥が空から落ちて海に突っ込んだりする。昭和30年水俣湾に面した漁村のネコが死滅したといわれる。この期間の漁獲高の減少も著しい。15)そして31年の公式発見となる。公式発見のきっかけとなったのは、水俣市月浦の船大工、田中義光家の5歳の女児の発病であった。ただちに水俣市奇病対策委員会が設置され、周辺漁村の調査から漁師とその家族など、魚介を多食するものから30名の患者が確認された。(その後の調査では、最初の発症が昭和17年、最も遅い発症が昭和46年であるとされている。)
水俣病の典型症状は、視野狭窄16)、四肢末端の感覚障害17)、運動失調18)、言語(構音)障害19)、聴力障害20)とされているが、英国で有機水銀農薬工場の労働者が職場で有機水銀に曝露されることによって起こった中毒症状である「ハンター=ラッセル症候群」との酷似から昭和34年までには、有機水銀中毒であることが強く示唆されるようになり、熊本大学の水俣病医学研究班は、同年7月22日「水俣病は現地の魚介類を摂取することによって引き起こされる神経系疾患であり、魚介類を汚染している毒物としては、水銀が極めて注目されるに至った」と公式発表した21)同年11月12日には、厚生省食品衛生調査会水俣食中毒特別部会もほぼ同様な内容の答申をして翌日解散した。22)
この答申に先だつ10月7日、水俣工場付属病院院長の細川一博士は、酢酸工場アセトアルデヒド工程の排水をネコに直接投与する実験により水俣病が発症することを発見した(ネコ400号実験、博士は、6、7月ごろから各工程の工場排水を順次採取し、直接ネコに飲ませる実験を始めていた)。確認のための追試を計画するが、工場長と技術部長の命令で排水関係の実験を禁止されてしまう。工場排水が水俣病の原因であることを会社側はこの時点で知っていたことになる。この昭和34年は、また、水俣市漁協や熊本県漁連とチッソとの紛争の年でもあった。年末の12月25日に排水浄化装置(サイクレーター)が完成するが、まったく役に立たないものであった。23)
細川院長の実験を知らない熊本大学の研究班では、アセトアルデヒド工程で使われていた水銀触媒は無機水銀であったことから(チッソ側もそのように抗弁していたから)、自然界でそれが有機化する仮説の検討にエネルギーを費やす(生物体内で水銀が濃縮することはすでにつきとめられていた)が、熊本大学の入鹿山旦朗教授は、35年に酢酸工場の反応管より直接採取したスラッジ(沈澱物)を分析することにより、無機水銀のほかに多量の有機水銀化合物(塩化メチル水銀)が存在することをつきとめ、昭和38年2月16日にその結果を発表した。また、熊本大学から神戸医科大学に移った喜田村正次教授は、工場の反応条件のモデルを作り、アセトアルデヒド工程で損失する水銀触媒のうち、数%はメチル水銀化合物になって排水中に流出することをつきとめた。一方、チッソは、昭和41年6月からアセトアルデヒド設備排水を完全循環方式に改良した。この装置によりメチル水銀の排出は確かに減っているが、オーバーフローや洗浄のための排水があり、結局、昭和43年5月にカーバイド・アセチレン法によるアセトアルデヒドの製造を中止するまでメチル水銀の排出は続いていたと考えられる。その4ヶ月後の9月26日、政府は、ようやく「熊本水俣病は新日窒水俣工場アセトアルデヒド酢酸設備内で生成されたメチル水銀化合物が原因」であると断定する公式見解を発表する。24)
以上が「水俣病」の発見と原因究明過程の概要である。このように、チッソという企業が600トン(メチル水銀27トン、発症値を25mgとすると11億人の水俣病患者をつくりだせる量である)の水銀を環境に放出し、(食物連鎖の中でそれが濃縮され)魚介類の体内に蓄積し、さらにそれを食べた人間(あるいは胎児)の体内に水銀を蓄積していったプロセスが「水俣病」であるといえるだろう。人間は、ここでは自然の延長上にある。生産活動といわれるものの多くは、自然のプロセスを隔離し、それを適当にコントロールしようとしたものにすぎない。メチル水銀の環境への排出は、生産アクティヴィティーの継続であり、自然という<反応容器>の中でプロセスが進行し、ついには人体にまで影響が及んだものである。国民経済計算における従来のアクティヴィティーの記述が貨幣評価された投入・産出部分に限定されていたと考えられるのと対照的に、環境への関心は、より包括的なアクティヴィティーの記述を要請しているといってよいだろう。イメージを下に記す。アクティヴィティー・アナリシスの慣行に従って、+は産出、−は投入(資産の減少)をあらわす。n番目の要素までは自然から隔離されたプロセスであるが、副生した+an+1が環境に放置される。のぞまれない副産物としてのレジデュアルすなわち廃水、廃熱、廃気、廃物等である。それによって魚介類など、(非生産)自然資産ストックが(量的・質的に)影響を受けるプロセスがn+2番目以降の要素で表現されている。25)消費プロセス(通常の意味での産出がないアクティヴィティー)が環境に与える影響もほとんど同様に考察できよう。なお、レジデュアルは複数種類あるであろうから、n+1番目の要素をベクトルにおきかえる必要があるだろうが、単純化しておく。
次に、公害問題の多くは、最初、生産者間の<公害紛争>としてあらわれているということを確認する。水俣病も漁業者とチッソとの紛争、レジデュアルがもたらした自然資産の減少・劣化をめぐる2つの生産者の利害対立が、まず、あった。公害問題は、最初から分配問題なのである。戦前の足尾鉱毒事件は、鉱山所有者と農業者や農地を所有する地主との対立であり、水質二法の成立をうながした本州製紙江戸川工場の排水問題(浦安漁民騒動)もそうである。コモンズの管理者としての漁業者の責任やその交渉力の観点から問題をみてゆくこともできそうである。水俣病の場合、また、その他の典型的な公害問題では、生産者間の利害対立から消費者(非生産者)をまきこんだ利害対立として問題が顕在化する。 環境から隔離された、レジデュアルのないアクティヴィティーを(単純化のための)基準と考え、「0アクティヴィティー」と呼ぶことにする。たとえば、ある装置を設置して稼働させれば、問題のあるアクティヴィティーを0アクティヴィティーにすることができる場合、その装置を設置・稼働させないことにより費用を(私的に)節約しながら、付加価値・営業余剰を高めることができる。しかし、そのために、魚類ストックを減少させるなど、人工・自然の諸資産にマイナスの影響を及ぼし、そのような資産の所有者やそこから便益を得ていたひとびとに損害を与える。こうした場合、統計上記録された付加価値は、社会的には過大評価されているから、それを修正する必要があると考えるのは当然である。最近の用語法では、「エコ付加価値」を計算する必要性がある。しかし、節約された費用と損害額とはゼロサムになっている必然性はないから、両者とも貨幣評価の可能性はあるが、汚染責任主体がかけるべきであった費用で修正するのか、被害者側の受けた損害によって修正するのか、2つの立場が生じるであろう。国連『暫定ハンドブック』では、前者は、costs caused、後者は、costs borne と呼ばれている。26) ここでは、「責任者原理」「被害者原理」と訳しておく。
責任者原理による修正に関して、既存のアクティヴィティーの終端(エンドオブパイプ)に汚染物質の処理のための装置を設置すること以外にも、0アクティヴィティーを実現する種々の方法がありうるであろう。問題の場合であれば、アセトアルデヒドをつくるのにカーバイド・アセチレン法でなく、ヘキスト=ワッカー法などによってもよい。27)電気化学から石油化学への転換を行なうことになるので、そう簡単なことではないが、チッソによって現実に(遅すぎたことではあるが)とられた選択肢である。問題のアクティヴィティーの稼働水準を0にする(アセトアルデヒドは環境的に問題のない生産者から購入することになる)ことも可能な選択肢ではあっただろう。その中で、汚染を放置することにより最低限いくら節約できたかというミニマムを取ることも考えられよう。責任者原理の使用に伴うこのような評価方法は、「維持費用(maintenance costs)」と呼ばれているものである。ここで、若干疑問に感じられるのは、はたしてチッソは<節約>できたのかということである。結局、チッソは、補償費用や復元費用の支払いで巨額の損失を抱えるようになってしまう。排出の市場がないのではなく、潜在していただけではないのかという疑問もあるのである。
次に、被害者原理についての論点がある。水俣病の場合、「ハンター=ラッセル症候群」が労働災害として発見されたことを述べたが、このことは、労働災害と外部性(外部不経済、事前の合意のない負のサービス)との間の強い連続性の存在を示唆するものである。前者の場合、被用者の受け取る報酬の中には、労働環境から受け取る負の影響の受忍に対する報酬が含まれているかもしれないことに注意が必要である。環境経済学でいう「受け取り意思額」(損失を貨幣で補償してもらうために個人が受け取りたいと思う金額)である。28)原発の定期点検に携わる労働者の被用者報酬は、事実上放射能被曝料である可能性がある。人体そのものが自然の一部であるという観点に立てば、労働環境の悪さによるものであっても、外部性としても、健康被害は環境会計における重要な記録対象にならなければならない。その際、受け取り意思額が人体という自然の破壊の容認料にほかならないことからそれによる評価には大いに疑問がある。国連『暫定ハンドブック』でも受け取り意思額による環境被害の評価は推奨していない。実際、ハンドブックにおける「仮想市場評価(contingent valuation)」は、支払い意思額(一般に環境の便益が失われようとする場合にその損失を防ぐために支払ってもよいと思っている金額、ハンドブックで行なわれる若干の修正については後述)である。
おそらく、問題は被用者報酬だけにとどまらない。チッソが昭和34年末に行なった、いわゆる「見舞金」契約では、子供1人につき(年額)3万円という補償支払いが行なわれたが、チッソ水俣支社総務部長の某氏はインタビューに答え、「彼らが貧乏でなかったらもっと補償金を得ることができたでしょう。日本では損害賠償は収入にあわせてハジキ出されます。水俣の漁師は毎日の食事代をかせぐのがやっとだったんです。彼らの将来なんて、かなり限定されたものだったんですよ」と述べたという。29)人間資本の現在価値の減少のような市場価値を近似する、いわば「被害の市場価格」が存在しえた場合にも、その価格自体、分配や制度を与件として得られるものでしかないことは、誇張されたかたちであるが、上の引用からも明らかである。なお、この時点では、一種の情報の非対称性(すなわちチッソは工場排水の有害性を知っていたが、被害者はそれを立証できなかった)が存在したと考えられる。<市場の機能不全>である。
しかし、市場の機能不全がない場合でも、市場評価あるいはそれを近似する評価によって環境の変化を評価しようとすることは、総体としての資本維持のような目的30)にとって整合的かもしれないが、「持続可能な発展」とその前提としての自然と社会の物質循環の維持を目標とする立場からは、こうした評価の目的整合性は乏しいといえよう。たとえば、あるレジデュアルの排出という外部性に対して、市場が成立し排出に価格付けが行なわれ、被害を受ける漁民や周辺住民への所得移転が行なわれるようになったとしても、レジデュアルの排出があること自体は変わりはない。それが循環に乗らない物質である場合、物質循環の破壊につながりうるものかもしれないし、ありうる健康被害は、ひとの潜在能力に深刻な制限をもたらしうる。循環を維持・回復するためには、<禁止則>が必要なのであり、市場原理(<自由則>)ではない。31)すでに述べたことであるが、市場価値に受け取り意思額が反映されている可能性があっても、環境にとって市場が有害に機能する可能性を示唆するものでしかない。
企業と支払い意思をもつ住民の間で合意が成立し、排出をしない代わりに企業が所得移転を受けとる場合(正義にほど遠い分配状態であるが)、外部性そのものがなくなるので外部性の内部化が行なわれたわけではないことに注意する必要があるが、同時に、
排出による企業の便益>環境保全への支払い意思額
が成立する状態であれば、効率性からは、環境破壊を実行すべきであるという結論になるであろう。
排出による企業の便益>環境破壊への受け取り意思額
かもしれないからである。
環境破壊への受け取り意思額>排出による企業の便益
である場合にのみ、効率性の観点から環境破壊が中止されることになる。32)また、支払い意思額、あるいは受け取り意思額は、住民(不知火海沿岸の漁民など)の側の所得状況に当然依存することになることに注意する。このように、支払い意思額に基づく仮想市場評価は、市場評価を近似することに意味があるのではないと主張しておく。なお、以上の説明は、「支払い意思額」についての環境経済学における一般的な説明に基づいたものであるが、国連『暫定ハンドブック』における「支払い意思額」あるいは「仮想市場評価」の適用については、そのヴァージョンW.3にふれるときに述べる予定である。
一方、責任者原理について述べた維持費用による評価は、<後追い型>ではあっても、政策当局が必要な費用の支出を監視すれば、(復元可能あるいは不可能な損失がある程度発生するが)環境の保全に成功する可能性が高いであろう。ただし、早期に問題を発見し維持費用を計上する必要があることにも注意すべきである。さらに、問題の維持費用の累積額を指標化するのもよいかもしれない。
環境勘定の<キーセクター>としての環境保護活動について若干付言しておく。チッソによる<世論向けの>役に立たないサイクレーターの設置と稼働の例は極端であるとしても、何が環境保護のためのアクティヴィティーなのかということを判断するのには、困難な問題が存在する。過去に実行されたアクティヴィティーあるいは現在実行されているアクティヴィティーの環境への有害な効果を現在ないし将来に改善したり、無効にしようとする(相殺しようとする)様々なアクティヴィティーのことを環境保護アクティヴィティーと呼ぶことがさしあたって合理的であるように思われる。33)復元活動(たとえば、ヘドロの除去)は、過去に実行されたアクティヴィティーの環境への効果を無効にするためのものである。環境保全に関連する研究開発もこの定義に適合する。レジデュアルの排出を通した環境への影響とレジデュアルを通さない環境への影響(アクティヴィティーのn+2次元以降の要素として記述される)がありうる。34)経済活動によって直接、資源の消耗(depletion)がもたらされる場合があるからである。したがって、生物資源の回復をめざすような活動も環境保護である。
外部サービスを購入することによって制度主体としての環境汚染を回避するような(産業廃棄物の輸送のような)場合、環境への影響が減少しているかどうかは不明であるが、SEEA上環境保護アクティヴィティーにカウントされてる。内部(アンシラリー)アクティヴィティーに関して、たとえば、既存のアクティヴィティーの終端に汚染物質の処理のための装置を設置し、稼働させることは、この定義に適合するが、もともと不完全なアクティヴィティーの補正にすぎないと見る方が適切な場合もあるかもしれない。
また、レジデュアルの排出がない場合(0アクティヴィティー)であっても、貨幣評価された産出(屑を含む)自体がゆくゆくはゴミになることが考慮されるべきであるが、生産ではなく、消費(生産とともにアクティヴィティーである)の過程における環境への排出と見る。もちろん、ゴミの処理は、環境保護と考えることができる。
リサイクリング(資源リサイクリング)が上に述べた意味での環境保護活動であるかどうかはア・プリオリには判定できないというべきである。自然資源の利用を節約しているように見えるが、同時にあらたにレジデュアルの排出があったり、追加的な資源の投入があったりするからである。槌田(1992a)のリサイクル運動に対する懐疑が参照されるべきであろう。実際、「原料パルプから紙をつくろうが古新聞から紙をつくろうが、あるいは、牛乳パックから紙をつくろうが環境を汚染することに変わりはない」(38ページ)。一方、鷲田(1992、1995)は、リサイクリングの資源節約可能性のための条件を与えた。
2−3.自然と社会の物質循環
自然と社会の物質循環について述べておかなければない。環境の破壊は、循環の破壊であり(槌田(1995))、それは、後世代の潜在能力を大きく制限するものとなりうるどころか現世代の構成員の潜在能力にとっても脅威となるものであるからである。「持続可能な発展」の実現にとって、自然と社会の物質循環の維持がその前提となるということは自明のことである。そこで、<持続可能性の会計>は、まず、循環の持続とその危機を記録し、検証しようとするものでなければならないだろう。大気や水の<自然の大循環>を記録することは、国民経済計算にとって荷が重いことではあるが、人間の活動の規模は、物質循環を左右するものであるし、循環のプロセスのうち、ある局面は、経済・社会の中に取り込まれている。
国民経済計算における実物と金融の二分法から説明する。二分法によって、経済生活の実物領域(ブローデルの「物質生活」)を金融対象のやりとりをいっさい捨象して記録の対象とすることができる。35)そこでは、ものとひとが変換されるプロセスとそれらが移動するプロセスが(実際にはかなりアグリゲートされたかたちで、金額で)記録されることになる。ただし、ものは、経済主体の管理下にある場合、言い換えれば、所有権の対象である場合に限られ、しかも、相互の合意のもとで変換・移動が行なわれる場合に限られた記録がなされる。ものの廃棄は記録されないし、事前の合意なしに、ものやひとの変換・移動が行なわれた場合、すなわち、外部性も記録の対象外になる。この節でアクティヴィティーの包括的記録を要請したのは、環境勘定においては、国民経済計算におけるアクティヴィティーの「市場経済的」記録を補う必要があったからである。定常状態にある(環境的、社会的破綻のない)経済・社会は、価格に相当する金融資産のやりとりなしに、ひとびとは同じ物質生活=物理的過程をいくらでも――来年も再来年も――つづけてゆくことができる。すなわち、市場経済における価格システムによっていちど形成された定常状態を、価格なしに持続させることができる。
そのような経済生活(定常状態にあるかどうかは別として)の実物領域の営みを保証するのが、「自然の物質循環」すなわち大気の循環、水の循環、生態循環、養分(の大)循環であり36)、それらにより地球上の熱エントロピーと物エントロピー水準を低く維持することができるからこそ、人間の――そして経済の――営みがある。多くの文明は、この循環を破壊して滅亡し、砂漠化した。また、逆に最近の江戸文明の環境面からの再評価が明らかにしたように、人間の営みが「自然の物質循環」を豊かにすることもある。しかし、ケネー以来、人間の経済生活も<循環>として理解されてきた。「経済循環」である。その循環を上のように実物領域に限定して考察することができる。槌田(1995など)は、それを「社会の物質循環」と呼んだ。しかし、その循環はもともと完全なものではない。無尽蔵にあるとは限らない資源を投入する必要があり、物質の多くは、経済活動だけでは、循環しない。たとえば、水は、自然の循環によって経済活動に利用可能な状態に保たれる。さらに、廃棄物の捨て場も枯渇する。37)
このように、社会の物質循環は、自然の物質循環に支えられ、それを破壊することも豊かにすることもある。2つの物質循環を総合的に考察する必要がある。「環境と経済は別のものではない」「自然環境と経済は同じコインの両面」という『ピアス・レポート』、国連『SEEA暫定ハンドブック』等の主張は、このことをさしていると考えるべきである。それとともに注目する必要があるのは、槌田(1992a、1995)の市場的な経済活動の意義への着眼である。彼によれば、社会の物質循環は、資源を取り入れることができなくなったとき、廃物・廃熱を捨てることができなくなったとき、市場的な(営利的な)経済活動による物質循環が破綻したときにその持続可能性を失う。38)
あるアクティヴィティーが市場的に(産業として)成立しているかどうかということの検討には、マイクロの、あるいは、少なくとも、かなり詳細な勘定の作成が要請されるであろう。そのような<詳細勘定>の構築は、うえに示した槌田(1992a、1995)の問題提起に答えることにもなるであろう。また、必ずしも同氏の問題意識ではないが、現実の貨幣的評価だけに限定せず、非市場生産を含めた全生産境界的な成立可能性の(詳細勘定ベースでの)検討も必要かもしれない。ボランタリー活動などの時間投入も、市場的な時間投入と比較可能な投入であることは明らかなことだからである。社会の持続可能性が個別主体の利害に適合する目標設定と矛盾なく成立しているのか、そうでない部分がどれだけあるのかといったようなことがらの検討は重要な課題であり得る。このような、個別主体の活動の(市場的)成立可能性を検討する<詳細勘定>は、経済活動全体の<環境的な成立可能性>=<物質循環としての持続可能性>を勘定というツールによって検証しようとする環境勘定あるいは環境・経済統合勘定の意義をいっそう高めるものとなるであろう。
最後に、持続可能性の当面の形式的定義を与える。まず、Aをn+m次元の生産(市場・非市場、p種類)、消費(レジデュアル以外に産出のない生産活動、h種類)の包括的(=自然への放置による生産の継続を含めた)アクティヴィティーを各列に配列した行列とする。ただし、n+1次元目は、副産物であるレジデュアルの生産、n+2次元以降は、自然資産への影響である。固定資本もn+2次元以降に含めておくことも考えられる。xを各アクティヴィティーの<稼働水準>を要素とするp+h次元ベクトルとする。b=Ax≧0であれば、(レジデュアルの排出を無視すれば)さしあたって初期の資産配置が復元しているから循環が持続していることになるであろう。レジデュアルの排出については、bn+1≦sを排出限度としておく(s≧0)。もちろん、sは0が望ましいが、自然のシンクとしての役割りがある程度期待できる。枯渇性資源については、bn+d≧w(w≦0)を利用限界として条件をゆるめ、<準持続可能性>を定義しておくのが合理的であるかもしれない。枯渇性でなく、自然の復元力(resilience)を期待できる自然資産の場合も同様である。
「持続可能な発展」が「潜在能力」から見た発展であるべきこと、また、そのことからは枯渇性であってもなくても資産の維持そのものは従わないという点は、すでに述べた。うえの定式化は、単純化のために技術(A)一定を仮定しているため、循環の維持という「潜在能力」の発展の環境的前提を確保するのに自然資産の各項目の維持が要請されてしまっている。ウランや化石燃料を維持すること自体は「潜在能力」の発展と無関係であるし、エネルギーとしての利用を想定すると資源の利用効率の経時的改善を見逃している。利用効率の時系列データを使ってwを特定することが考えられるかもしれない。ハートウィックのルールあるいはユーザー・コスト法のような「広義の持続可能性」を想定した資本維持ルールを使用するべきではない。循環は地球規模のそれであり、資源が枯渇したあとにも同様の所得が得られるように他の資産に投資するというような方法は、産油国の投資ルール(北海油田の収益をどう利用するかという)ではありえても、地球規模の指針にはならない。あくまで一国規模の勘定を作成すること(環境・経済統合国民勘定体系!である)が目的だというようなエクスキュースは成り立たないであろう。『暫定ハンドブック』266段で次のように述べている。「地下資源の場合、より効率的な資源の利用ないし生産と消費のパターンの変更によってのみ、その減耗を減らすことができるであろう。それでも残る資源の減少については、将来の所得減少を補償するために他の種類の資産の蓄積によって埋め合わせしておかなればならないであろう。ただし、その場合でも環境にやさしい生産を心掛けなければならない」。この引用の後半部分より前半部分がよりレレバントであり、「持続可能性」を「潜在能力」の観点から見る本稿の立場と整合性が高いと考える。
つづき
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