専修大学 寺尾 教養ゼミナール[2010年度版]
【寺尾】
『ガラスの仮面』という素材を上手く使いこなし、<わたし>と役割の問題を明快に説明し切った発表でした。非常に面白かったです。恐らく臼井さんは、人間は社会的動物としてしか存在し得ないという結論に至っているのだろうと(勝手に)思っています。そんな臼井さんの考え方を垣間見ることが出来た貴重な機会でもありました。
今回の発表の結論は、「人間は、社会における様々な役割(仮面)を通して、不確定な自己を常に循環させている」というものでした(私の要約、間違っている可能性があるので、信じないでくださいネ!)。そして、その結論を信じるのなら、人間は、多くの他人と触れ合えば触れ合うほど、新たな仮面を作ることが出来るのでしょう。そしてその仮面を通して<(常に仮面の影響下にあり変動する)わたし>は絶えず変化し続け、また仮面も社会的な状況や変化した<わたし>によって様相を変えていく。人に永久は無く、永久は人に無し。
エリクソンやフロイト先生の時代までは、アイデンティティとは常に一貫したものであり、人間は発達段階に応じて成長していく、という論説が主流でした。しかしアイデンティティを一貫したものとして見なすことや、人間を発達段階という物語に無理矢理当てはめることは、どれほどの弊害を齎してきたでしょうか。人間には生まれ持った本質があり、それを変えることは出来ない。その一文は絶望的な言葉ではありませんか。
この結論が示すものは、人は変われる、という希望ではないでしょうか。他人と顔を突き合わせた数だけ、新しい自分を演じる機会を得られる。そして、その分だけ、可能性がある。……とか書いたら、「そんな単純なもんじゃねえ!」とか怒られないですかね大丈夫ですかね。
ただし、役割というものには、注意しなければならない点があると思います。それは役割に伴う義務と責任です。役割というのは社会の中で構築された物です(つまり「先生という役割は○○すべき」というのは社会の中で作られてきましたよね)。役割の存在自体に、私は異論はありません。しかし、役割に伴う義務と責任については、常に考え直さなければならないように思います。
上記でも述べましたが、仮面もまた一定ではなく、常に変化していきます。例えば、一昔前まで子育ては母親だけの仕事でしたし、戦時下の教師は子どもたちにイデオロギーを植え付けるための役割を果たしていました。今はそうではありません(あるけど!)。社会的に与えられた役割に対して、疑問や批判の目を持つことも、大事だと思います。役割は作られたものである、が故に、作り変えることも出来る。自己の役割と常に対話することで、テンプレートの役割から抜け出すことができる、つまりオリジナリティが滲んでくるのではないでしょうか、ね……?
仮面論と現代を巡る問題を絡めるなら、出会い系サイトや、インターネット(チャット、ブログ、掲示板、ネトゲ等)なんかが面白い題材になるような気がします。あとは社会問題で言えば、個人的には、現代の中年男性のアイデンティティ、なんかは旬ですかね……?
とこれ以上長いと「またこいつはぐだぐだと……」と思われるので、ここらで終わります。演劇の話をしていないような気がしなくも無いけどいいや。人生は演劇だもの!
臼井さん、本当にお疲れ様でした!
【寺尾】
【発表者】
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