専修大学 寺尾 教養ゼミナール[2010年度版]
『土曜日にアルバイトの面接後、三軒茶屋で『三茶de大道芸』というイベントをやっていまして、それを見に行ってきました。 ただ面接が思ったより長引いたのと、ちとふな→三茶へ向かうバス探しに手間取って、三茶到着後には15時43分。見たい方のパフォーマンスが既に始まっていました。 今回は自分がみた3組の方々の大道芸の感想を話そうと思います。ただネタばれで後日見るときに、つまらなくなってしまうと思う方は受け流していただくようお願いします。
まず、着いてから会場視察と移動に時間をかけ、16時半よりあい・あい・ロードにてJuggler Labyさんのジャグリングを見ました。実はLabyさんは今回自分が一番楽しみにしていた方でした。先週の9日の土曜日に雨の中で経堂に出張大道芸をしていて、たまたまその場に出くわし見ていたのですが、雨の中で道具が滑ったりしてネタの失敗率が高くなるもののその中でも必死で頑張る姿を見て、心打たれたのと、途中から観覧、雨天での観覧で、本調子の舞台でのパフォーマンスを最初から見たいと思い今回、三茶へ行く事にしたわけです。
パフォーマンスはと言うとやっぱりいつ見てもカッコいいです。特に自分が好きだと思ったのが、『トルコ行進曲』に合わせて踊りながらするクラブジャグリング。そして大技、支えの無い高い梯子に登ってのクラブ。ボールジャグリングは7個というこれも大技を、その日ラストパフォーマンスだということで特別に見せていただき、70%の確率でいつもやるという水晶では、あの重そうなガラス玉をゴム玉みたいにポンポン跳ねながら、ジャグリングする姿は圧巻でした。失敗することもありましたが(雨の日は雨天だけに多かったです)、客を楽しませるトークもしっかりと持ってるのも魅力の一つだと思います。小さい子が一つ一つのパフォーマンスのリアクションに、本当にうれしそうにしながら演じる姿、技が決まる度一息ついてホッとするような姿に、すごく好感を持ちファンになりました。
次に急いで駅前まで移動し17時6分当たりから見だしたオランダからのスペシャルパフォーマーのピーターポストさん。子豚のMr.ブラウン(ぬいぐるみ)とコンビを組んで、フォーマンスを行います。内容はコメディーショー。Mr.ブラウンに葉巻を咥えさせ、鞭でその葉巻をたたき落とすというパフォーマンス。しかしそこはコメディアン、何度も挑戦しますが失敗します。段々と居立たまれなくなったのか、慌てて次々と道具を出してはジャグリングや芸を行なうのですが失敗続き。段々ヤケになって失敗した道具をあらゆる方向へボンボン放り投げて行くわけです。指先で回せなかったサッカーボールを「イラナーイ!!」とカタコトの日本語でヤケになって蹴り飛ばしたり、(係の人や観客が見かねてボールを返したりする度に同じことをしてました)「モウ今日ハ、オワリデス!」と道具をしまうのに、帰らない観客に怒り倒しておもちゃの拳銃を取り出して見せびらかす。30分の間何回も声を出して笑ってました。しかし、最後には葉巻のパフォーマンスも成功させ、呼び出した観客にミニシーソーで飛ばして貰ったブラウンを、遠くからブラウン用椅子籠でキャッチ!と決めるところは決めてました。Labyさんと違って、こちらは失敗することに意味があるパフォーマンスだと思います。怒ってどんどん壊れていく姿をみて笑う。笑わせながらも観客の技の成功の期待度を下げ、そして最後はちゃんと技を成功させ歓声をかっさらう。すごくうまいパフォーマンスでした。15時30分から三茶パティオで行われた部にも、最後の方だけ少し見たのですが、地階からグランデから1.5階の遠くからのブラウンキャッチは、成功後思いっきり拍手をしていました。
最後に夜食を食べ、19時から同じ駅前で見たNAO&WAGANさん×貝瀬大地さん。 ラストの演目って事でコラボ大道芸でした。 サックスとセネガルの方が叩く民族楽器ンバラそれとギターの、 複雑に陽気な音楽、しんみりとした音楽を作り出すNAO&WAGANさん。 その中で貝瀬さんがブンブンと火のついたヌンチャク、剣、ダースモールが持ってるような双頭の剣を振り回す。技によっては火が髪の毛に乗り移ってしまうのですが、消しながら……片手では手を止めず火を振り回す。 ンバラの音が会場・貝瀬さんのテンションを一気に上げ、さらに踊りや手拍子・歓声が激しく、大きくなっていく。次第にその駅前プラザ全体に一体感を感じました。こちらは文章で書くは難しいのですが、本当にカッコよかったし、楽しい音楽でした。パフォーマンス後には汗ダラダラになった貝瀬さんに、投げ銭と握手を求める多くの人だかり。その姿がパフォーマンスのすさまじさを物語っていたと思います。また携帯に写を残して画像を取り込んでおこうと思ったのですが、火は明るく激しく、振り回すのも速いため、しっかりした写真が撮れませんでした。
長くなりましたが、パフォーマンスに関しての感想は以上にさせていただきます。長文にお付き合いいただきありがとうございました。
ネタ帳をやろうと言い出した身なので、そろそろ何か書きます…。
映画、テレビドラマ、アニメーションなどの映像作品では、しばしば「挿入歌」が用いられます。(舞台劇でも使おうと思えば使えるだとか、ミュージカルとの明確な線引きは何だとかいう議論もできますが、それを始めるとキリがないので、今回は一般的な映像作品に限って話を進めます)
著名な作品の中には挿入歌がよく知られているものもあり、ちょどSさんがご覧になっているという『3年B組金八先生(第2期)』の第24話で「世情」(中島みゆき)が用いられる場面はその代表的なものでしょう。主題歌「人として」を歌った海援隊の武田鉄矢が、完全に「食われた」と悔しがったという逸話もあるそうです。
『金八』シリーズでは、特に初期を中心として多数の挿入歌が使用されていますが、「世情」を使ったのはこの時の一度だけです。にも拘わらず、全25話で用いられた主題歌を食ったとまで言われるほど、視聴者に強い印象を残したのは何故でしょうか。
私は、「物語としての側面」「楽曲としての側面」があると考えています。
まず「物語としての側面」ですが、言うまでもない前提として、それを用いた場面が物語全体のクライマックスで、非常に印象的だったことが挙げられるでしょう。
見ていない方にはなかなか説明しづらいところですが……校内暴力で学校を追い出された生徒が、卒業式の直前にかつての仲間に乞われ、体罰教師との争いのケリをつけるために元の学校へ乗り込みます。彼なりの未熟な正義感が高揚した結果として立てこもり事件へと発展してしまい、体罰教師の謝罪の言葉を引き出したのとまるで引き換えのように、踏み込んだ警官隊によって手錠をかけられる……という状況で、「世情」が用いられました。
文句なしでシリーズ屈指の名場面、「ここしかない」というシーンに選択された曲だったということになります。(まあ個人的には、彼らが連行される該当シーンよりも、さんざん迷惑を被ったはずの3年B組が全員揃って釈放を出迎える場面の方がグッときましたけど…)
では、「楽曲としての側面」はどうでしょうか。
今回のケースでは、あくまでも『3年B組金八先生』というテレビドラマの枠組みが前提にあって、そのピースとして「世情」が用いられたわけですから、「世情」がいかに素晴らしい歌謡曲であるかを説明しても、この曲が“『金八』の挿入歌として”人々の印象に残った理由を述べることにはならないでしょう。
また、「曲が場面にマッチしていた」という説明も、当たり前すぎて不十分です。そのシーンで流すために選んだのですから。
テレビドラマとしては、“素晴らしい楽曲を”“場面に合うように”選んだことだけでも評価に値するところですが、私はこの場面が「世情」の曲とともに人々に記憶されていることには、さらに一歩踏み込んだ、この曲ならではの理由があると考えています。
それは、「世情」ではサビのメロディがしつこいほど、繰り返し繰り返し、流されるということです。
「世情」(中島みゆき)歌詞:goo音楽
「世情」は、ドラマで用いられる2年前の1978年4月に発売された中島のアルバムに収録された曲です。歌謡曲時代の円熟期にあたり、この時期にオリコン2位、年間8位という売り上げを記録した大ヒット商品で、その意味で全くの無名曲ではありませんでした。とはいえ、アルバムのみの収録ですからレコードを聴いていない人には馴染みのない曲であり、この時代の音楽番組を彩った「誰もが知っているあの曲」という扱いではなかったと推察できます。
そのような曲が、録画再生機器が普及していない時代にテレビドラマでの一度の使用で視聴者の印象に刻み込まれた要因は、サビが何度も繰り返されるという、「世情」の特徴にあったのではないでしょうか。(無論、それを引き立たせる中島の歌唱力や、ドラマスタッフの演出の巧みさがあってのものです)
一度や二度のリピートでは右耳から入ったメロディが左耳から抜けていくだけですが、一連の場面で5回も同じメロディが流れると、それまで曲を聴いたことのなかった視聴者でも、サビのメロディを覚えてしまいます。
“初めての曲を聴く”という新鮮な体験から、時を置かずに短時間に同じ体験を繰り返した結果として、スローモーションの印象的な映像と「世情」のサビのメロディ(あるいは中島の歌唱が)が視聴者の内面に強烈に印象付けられたのではないか、と考えています。
また、最初にこのような強烈な体験をした場合、その後再び「世情」を聴く時には、目の前に映像がなくとも『金八』にイメージを引きつけるようになるのではないでしょうか。初回放映から30年という時間をかけて、今度は長期的に「世情」と『金八』をセットで連想する体験が繰り返され、また他者との間で言葉にして語るなどの形で言語化され続ける中で、(視聴者個々の枠に留まらない)社会全体において“『金八』の挿入歌としての「世情」”への評価が確立していったと考えられます。
……という結論になりましたが、社会学専攻の私が得意顔で力説するまでもなく、心理学科の方には当たり前もしくは突っ込み所満載な内容かと思います。
この話を、専門的な文脈で整理してくださるとありがたいです。
(以下余談)
生徒が逮捕・連行される場面にスローモーションでBGMを流すという手法は、『3年B組金八先生』では第5期・第7期にも用いられています。この頃の作品はスタッフ自身が第2期に影響を受けた世代ということで、その再来を狙った演出でしょう。
第5期では定番中の定番曲「Amazing Grace」でしたが、そこへ至るまでの段階で演出が十分すぎるほど刺激的だったために、せっかくのクライマックスの場面が特段に目立たず、もったいなかったように思われます。(本当はこの点についてもっとボロクソに言いたいことがありますが、話題が逸れるので我慢…)
また、これはテレビアニメに多い気がしますが、同じ曲を繰り返し用いることで、主題歌と同様に視聴者にそれが浸透するというパターンもあります。
一般には、『ひとつ屋根の下2』(1997年)の挿入歌「ひだまりの詩」(ル・クプル)の例などが有名でしょう。
テレビアニメでは『おジャ魔女どれみ』シリーズ(1999年〜2003年)は4年間の放映でほぼ毎週必ず挿入歌を使っていたのが印象深く、いくつかの定番曲がありました。
P.S.
7月30日から、CSのTBSチャンネルで『Romeo×Juliet』(2007年、中部日本放送)の再放映が始まります。
私も今回の再放映で初めて視聴するので詳しい内容は知らないのですが、タイトルの通り、『ロミオとジュリエット』を原案(“原作”ではない。話の内容にかなりアレンジが加えられているため、このようなクレジットになったと思われる)としたテレビアニメで、どうやらファンタジーの要素を盛り込んだ世界観のようです。
毎週2話ずつ放映で全24話という手頃な長さなので、興味のある方は是非。
【寺尾】
演劇と音楽の関係は本質的なものです。映像でも、実は相当に特に音楽に頼っていますから、場面と音楽の関係を探ることは、なかなか興味深い問題をはらんでいます。概念的に突っ込みたければ、現在読んでいる「パフォーマンスの美学」の第四章三項を参照してください。
去年の末ぐらいからですが、毎週金曜日のゼミの時間帯に録画した『それいけ!アンパンマン』を見ています。
『アンパンマン』と言えば私たちが子供の頃、最低1回は一度は見たことある『サザエさん』、『ドラえもん』、『クレヨンしんちゃん』に並ぶ長寿アニメです。それが、20歳になってこう改めて見てみると、小さかった頃とは違った視点で見ている自分に気づきます。
子供の頃は、バイキンマンが嫌いでした。アニメでは、ほんわかに描かれていますが、やっていることは、食料強盗、詐欺、恐喝等、現実世界では手錠をかけられてもおかしくないことをたくさんしています。子供の頃の自分は、絵に描いた悪役であるバイキンマンが嫌いでした。
しかし、現在ではアンパンマンより、バイキンマンの活躍を楽しみにしています。悪の限りを尽くすバイキンマンは、最終的にアンパンマンの「アンパンチ」で懲らしめられるのですが、アンパンマンや、その回ごとの登場ゲストキャラクターに振り回される描写が、すごくコミカルに描かれているからです。
今年の2/12日に放送した『メロンパンナとプリンちゃん』と言う回では、メロンパンナから折り紙で作った花を貰ったプリンちゃんとエクレアさんが、素敵な花を貰ったお礼に、素敵なお返しをしたいと思います。そしてアンパンマンを倒すしかけ(罠)を搭載した第二の秘密基地の建設に取り掛かるバイキンマンに出くわします。バイキンマンにとって、プリンちゃんとエクレアさんは苦手なタイプで、あまり関わりたくないため、『とっても素敵でびっくりするようなもの』を作る、と嘘をついたことにより、「二人は私達がメロンパンナへのお返しに困っていて、それを知って助けてくれてるのでは?」と勘違いするわけです。
こうしてバイキンマンは秘密基地を、プリンちゃん達はその秘密基地の周辺に建てる罠作りを行うことになります。しかし勘違いしたプリンちゃん達は、バイキンマンが書いた罠の設計図を読み間違い、シーソーを作ったり、ジェットコースターを作ったりと、バイキンマンをさんざんに振り回します。疲れたバイキンマンは、「俺様一人で基地を作るので、そこでみていろ!」と二人に言い渡し、一人で建設作業に取り掛かることにしました。しかし、休憩で昼寝したバイキンマンを、「自分達のためにがんばってくれたバイキンマンのために、私たちも頑張らなくては!」と、良いように解釈され、昼寝の合間に、秘密基地が遊園地に建て替えられてしまいます。「こんなはずじゃなかった〜。」と泣いて帰るバイキンマンに、アンパンマン達は「ありがとう。」と手を振って見送るのです。
これは『ドラえもん』でもよくあることですが、いつも「俺のモノは俺のモノ、お前のモノは俺のモノ!」の悪者で通っているジャイアンが、映画になると、男らしく善意に描かれているのを見て、好意を抱くのと同じことだと思います。
少し前に放映された『クリームパンダとだいふく和尚』という回でも、15分、ひたすらバイキンマンが、【だいふく和尚に大量の大福を貰う→大福を食べてお腹一杯→だいふく和尚「お腹一杯なら消化のため動きなさい」→動くために寺の掃除をする】の繰り返しの回でした。
このようにバイキンマンがメインではないか、と感じさせる回も少なくありません。現実だとただの凶悪犯(!?)でしかないバイキンマンを、どのように視聴者(見ている子供たち)に魅せるか、好意を持ってもらうか、を考えられて作っているなぁと感じさせられました。
そのままで見ても面白いアニメですが、見方を変えることで、また違った面白さを見出せるアニメだと思うので、もし余裕があれば、録画をして見てみてください。(その時間帯はゼミがあるので、休んで見るのはご法度かと思います。)
今日はどういった描写で、バイキンマンの【悪】を良いイメージに魅せていくかという視点で見ているため、バイキンマンがただの悪者一点になっている回は、自分にとって少し物足りなく感じてきています。純粋に見られなくなってきているなぁと残念でなりません。
【寺尾】
善人は同じようですが、悪人は千差万別です。悪役が上手に描けていなければ、ひたすら薄っぺらな内容になってしまいます。ですから「純粋に見られない」のではなくて、子供のころよりは、深く見ることができるようになっているということでしょう。いつも言ってますが、「何が」ではなくて、「どのように?」が大事です。それがパフォーマンスということです。
日時:5月22日 13時開演
場所:参宮橋トランスミッション
劇団:S.A.K.E 『オサムの女』
演出:高橋美幸
出演:S.A.K.E.(亀谷 さやか/平良 千春/野上 智加) 野嶋 廉 加々美伸次
あらすじ
売れない作家オサムと、心中を果たした超子。
しかし、病院に運ばれた超子を待っていたのは見知らぬ二人の女だった。
妙に腹の座った女・奈緒と、ロリ顔・天然キャラの春菜---
やがて、奈緒はオサムの元妻、春菜も元愛人と判明。
しかも、二人ともオサムと心中して、一人だけ死んでしまった女達だったのだ!
心中マニアのオサムの被害者である二人は蘇りをかけ、ある画策をしていた。
やがて超子も、それにぐるぐる巻きに巻き込まれることに……。
蘇りをかけた女達のデラックスなバトルの火蓋が、今、切って落とされる!!!
感想
「オサムの女」という題名とフライヤーから受けた印象から、海外の作品か、もしくは舞台が海外の話かと思っていました。しかし、オサムは太宰治に憧れた売れない作家で、そのオサムと心中してこの世を去った女3人が主人公の作品でした。作品自体は「あらすじ」にあるよう、腹の据わった奈緒、ロリ系の春菜、そして心中したてで、オサムが自分の事を最も愛していると疑ってやまない超子という女性3人のキャラクターが立っていて、非常に魅力的な作品になっていました。
最終的にオサムの選ぶ選択肢が、観客の中には予想出来た人も少なくなかったと思います。しかし、個人的には誰を選ぶかということより、女性3人の葛藤と心の変化が手に取るように分かったこと。そして、心が温まる最後の一場面が、この芝居の一番の見せ場ではないかと感じた。
日時:6月11日 14時開演
場所:高円寺明石スタジオ
劇団:カムカムミニキーナ
「浜燃ゆ〜つばめ編〜」作・演出:松村武
出演:佐藤恭子 中島栄治郎 田端玲実 米田弥央 亀岡孝洋 長谷部洋子 元尾裕介
玉手みずき 浅見紘至 生山ヒジキ 篠崎祐樹 安藤有希 吉田晋一 松村武
<あらすじ>
【つばめ篇あらすじ】
一時は豊かなリゾート地として栄えた港町馬浜。
しかしリゾートバブルで街を牛耳る新興企業バミューダへの反感がついに爆発、 過激派市民グループによるシージャックテロ事件によって、浜一帯は炎に包まれ、 馬浜の栄光はリセットされる。
(以上らっこ篇)
その事件の数時間前。
クリスマス客をあてこんで臨時開業している馬浜海岸通り、 海の家「ぽせいどん」では、
オーナー夫婦の一人息子、 潮見帆人が小学校を休んで手伝いをしている。
そんな中、「若いツバメ」から母へあてた怪しい手紙を発見した帆人は、
妙に化粧を濃くして海岸沿いのホテルに出かける母セイを止めなかった父、
雄大の態度にイライラしていたが…
突然事件は起こり、馬浜は壊滅的な打撃を被る。
その五年後。
かつては海水浴でにぎわった馬浜の海岸は、事件以来、観光客はおろか、
土地の者も滅多に寄り付かない。
そんな状況を打破するための復興策のとして、浜を舞台にした映画製作の計画がもち上がる。
それは幽霊船に乗った海賊ジャック・スワローの物語だった。
<感想>
今回観た作品はカムカムミニキーナ20周年記念公演の2本目の作品であり、1本目との二部構成になっていた。そのため、一部の公演を観ていなかった私には多少難しくついていけない部分があった。
しかし、人気のある劇団だけあって、役者ひとりひとりの演技には迫力があり、内容も笑いどころ満載で、とても勉強になった。動作ひとつにしても、登場人物の心の動きがよく伝わるし、セリフも動きもない場面でも手持無沙汰にならず、その場に自然な状態でいられるところなど、お芝居を勉強する私にとっては、収穫の大きい作品であった。
また作品全体を通してテンションの高い人物が多く、テンポよく芝居が進んでいたが、その半面、重要な部分ではしっかりと間を取って観客に聞かせ、見せ、沈黙を楽しむ様な雰囲気もあり、そのギャップが相乗効果を生んでいた。この辺が、客演を使わず、劇団員だけで作り上げられた事による利点と感じた。
【寺尾】
観劇報告の第一号です。今後のための理想を言えば、舞台のイメージが浮かび上がってくるような書き方が欲しいです。
先日、ブロードウェイ・ミュージカル「オクラホマ!」がNHKでやっていたので、ビデオに録って見てみました。
ミュージカルに疎いので、ちょっと作品紹介を。
「オクラホマ!」
「サウンド・オブ・ミュージック」「王様と私」「南太平洋」「回転木馬」など、ブロードウェイ・ミュージカルの王道的名作を数多く遺した作曲・作詞コンビ、リチャード・ロジャーズ&オスカー・ハマースタインU世。2人が初めて一緒に仕事をした作品がミュージカル「オクラホマ!」である。
この舞台は、1943年にニューヨークのセント・ジェームズ劇場で初演され、アメリカのミュージカル史における重大な進化を遂げた記念碑的作品と言われている。
これまで内容から独立していたダンス・シーンを、振付家のアグネス・デ・ミルは役柄の精神面や物語の隠喩的意味を伝えるという構成上不可欠な一要素にまで高めた。対立するカウボーイと農夫の群舞や幻影を映し出すバレエ・シーンでは、作品が持つテーマの深さが示されている。
本作品は、1998年、ロンドンのロイヤル・ナショナル・シアターにおいて、トレヴァー・ナン演出により上演され好評を博した作品を、テレビ用にスタジオで35ミリ、ワイドスクリーンで収録を行ったもの。1999年度の国際エミー賞を受賞。
主演したヒュー・ジャックマンはこの作品以降、映画への出演が相次ぎ、トップスターの仲間入りを果たした。
(内容・構成・演出フォーマット・出演者など)
演出:トレヴァー・ナン
脚本:オスカー・ハマースタインU世
音楽:リチャード・ロジャーズ
振付:スーザン・ストローマン
出演:ヒュー・ジャックマン、ジョセフィーナ・ガブリエル、モーリン・リップマン、シュラー・ヘンズリー ほか
収 録:1999年
ビクトリア・パレス劇場(ロンドン)
また、プレミアムシアター(演劇)「オクラホマ!」(再)6月21日(月)【20日深夜】午前0:40〜3:45にBS2でやるので、よかったら見てください。
NHKのホームページに載ってあったものを、そのままコピーしましたが、参考になったら幸いです。
あらすじは、オクラホマが正式の州として認められなかった1907年頃の開拓の話。歌のうまいカーリーは今夜の村祭に恋人ローリーを誘ったが、それ迄のソッケない態度が祟ってデートを申し込んでも断られる。ローリーはあてつけに雇人のジャッドと祭に行く約束をしてしまう。会場では学校建設資金にと婦人持ち手提篭のセリが始まる。セリ落とした者がその婦人を独占できるというのでジャッドは有り金を投げ出し、ローリーの篭に賭ける。驚いたカーリーは拳銃から馬まで売り払って遂に恋人を確保。なおもつきまとうジャッドを怒ったローリーはクビにしてしまう。オクラホマ!の大合唱の中で、カーリーとローリーは結婚式を挙げる。しかしジャッドはあくまでローリーを狙い、彼女を護ろうとしたカーリーともみ合い中に持ったナイフで自分を刺して絶命する。裁判の結果もカーリーはもちろん無罪。飾りのついた4輪馬車で2人がハネムーンに旅立つ処へ、オクラホマが合衆国に加入したとの朗報がもたらされる。
「ミュージカル映画」は、見たことがあるが、実際に公演されたミュージカルの録画というものを見たことがなかった。私は、全然知らなかったが、ミュージカルとしてはかなり有名みたいで、よくNHKで、放送されているらしい。
内容が開拓の頃で、カウボーイと農夫など、いかにもアメリカっていう感じがした。女性の普段着の丈の長いワンピースの具合が可愛くて好き。
いつも思っているのだが、ミュージカルってなんであんなに非日常的なのか。オペラもそうだけど、私が日常生きていて、いきなり歌い出すことは滅多にない(たまにあるけど)。別に演劇や舞台にリアリティを求めているわけではないが、いきなり自分の感情を隣のおじさんが一緒に歌ってハモってきたら、多分ビビるだろう。ミュージカルを根本的に否定するような話をしても仕方がないが、見ていてちょっと「あれ?」と思ってしまい、作品に入り込めない。うまく言えないが、この気持ちはなんだろう。
それはさておき、音楽もダンスも演技も上手くて面白かった。(←ボキャブラリーないです)歌やダンスは、本場ブロードウェイで見たいと思った。生の音にぶつかってみたい。他にも、歌やダンスのシーンで、歌っている役者にカメラのアングルがアップに向かって行ってしまうので、それを聞いている役者の顔や演技も見たかったからである。確かに映像だと、観客の視点の取捨選択ができないと実感した。
ただ、これぞ演劇(!?)的な部分が一つだけあった。つきまとうジャッドを怒ったローリーがクビにしてしまい、激情したジャッドからローリーがカーリーの所へ逃げてきたシーンだ。ローリーが恐怖感から泣き出しそうなシリアスなシーンなのに、カーリーが話しを聞きながら座ったのが、なんと台所の今で言うコンロの上。本当はその隣のベンチに座る予定だったらしく、舞台の本番中のNGに二人とも大笑いしてしまう。一通りアドリブを入れて、舞台を立て直そうと再びローリーが目に涙を浮かべた瞬間は、さすが役者だと思った。
こういうハプニングがあるから、やっぱり生の舞台(上演!?)を見たいと思ってしまう。
そういえば、今週の月〜木(6月14日〜17日)の四夜連続で名作ミュージカル「ジキルとハイド」「スモーキー・ジョーズ・カフェ」「プッティング・イット・トゥギャザー」「キス・ミー・ケイト」でやっていましたが、見たかったけどビデオを録画し忘れちゃったので、誰か録っている方いたら、貸して下さい。では、長文失礼しました。
【寺尾】
こういう情報を載せてほしいものです。ミュージカルは、最近になって、少しずつ研究蓄積が出てきましたが、日本語では、まだ本格入門書は少ないです。
書いてみました。前回のが硬すぎたらしいので、緩めてみたんですけど、緩めすぎましたかね?
先日「ハードルあげすぎだよ!」と怒られたので、今回は和やかな話をしようと思います。
金八第二シリーズの7〜9巻を見ようとしたら、パソコンのドライブがぶっ壊れて見られませんでした。どうも、Sです。
DVDが悪いとGE○にぶちギレてたんですけど、久々に『劇場版仮面ライダー電王 〜俺、誕生!〜』を見ようとDVD突っ込んでも起動しません。私の人生は終わりました。お先真っ暗です。金八終わったら『ふぞろいの林檎たち』を見る予定だったのにっ!絶望したっ!
まあそんな話はおいといて、とりあえず今回はハードル?を下げようと、今日は身体の話をしてみます。(理解できてないけど)記号論やアニメーションにばかり情熱を傾けて「気持ち悪い」という目で見られている私にしては、非常に珍しいチョイスです。
昨晩(16日)の午後九時頃は、夜空に火がぽつんと灯っておりました。赤い三日月が私の視力でそう見えたのです。暇だった私は、夜九時まで構内の外のベンチに寝転がりながら、吹奏楽の練習に耳を傾けつつ、電灯の明かりを頼りに西川長夫さんの『国境の越え方』という本を読んでいました。え? 難しそうな本を読んでるね、って? もっと褒めてもいいよ!
その日は気まぐれで生田緑地から帰ろうと思いました。涼やかな夜と濡れた森の静けさに誘われたのでしょうかね。
私は慣れない道を歩いて生田緑地に向かいました。
外灯の白い光でてらてらと濡れた坂道は、苔と雨上がりのせいで、妙に滑りました。道は一本道で、その左側には深淵がかぱりと口を広げ、右側には鬱蒼と森が繁っています。コンクリートのそれは、奥へ奥へと伸び、その果ては暗闇に呑まれて全く見えません。恐怖で足が竦んでいるのにも関わらず、私は魅入られるようにして坂を下っていきました。繁みのほうから、時折、パキリ、と小枝を踏む音が聞こえ、心臓が早くなります。自分に、獣か何かだろう、と言い聞かせながら、前に進みます。りんりんと涼しげな虫の声に、風に微かに戦ぐ梢の音も、暗闇の中で聞くと不安ばかりを掻き立てるばかりで、私は自然の恐ろしさを思い出しました。
闇の先は林でした。空は木々の繁らせる葉で隠れ、さっきよりもずっと濃厚な黒が、視界を覆っています。木のシルエットは辛うじて分かるくらいです。湿って緩んだ土と小枝を踏みしめながら、私はずんずんと進みます。
ええ、皆様、既にお分かりでしょう。
迷いましたとも!
それでも前に進む辺りが私だと思ってください。まだ子どもですから、危険な香りのするところに飛び込むのが大好きなのです。え? 成人したろ、って? やだな、私は永遠のモラトリアム期間ですよ。
最も、この行動力が発揮されるのは、夜限定ですが。昼間の光には弱いのです。あんなものにあたったら、灰になってしまいます。
さて、ここで身体の話です。
ゼミでよく言われている「生の感覚」を、無料で味わいたければ、森に行ってみてください。しかも一人で、です。五感が非常に鋭くなって、とても楽しい事になります。恐怖に見舞われる自分の卑小さに、笑いがこみ上げてきます。虫と風が作り出す静寂の中、突如飛び込んでくる些細な音に体を強張らせ、不安定で気色の悪い土や苔の感触を足裏で感じ、雨露で湿った木の匂いが鼻腔を擽り、神奈川とは思えぬほどの清らかな空気が舌に触れる。全身に自分よりも巨大で圧倒的な存在感をひしひしと感じつつ、外灯が白いだけその濃度が強調される深淵に向かって歩くこのスリル。これは映画では味わえません。
さて、その後の私がどうなったかというと、生田緑地を目指していたはずなのに、奇妙な場所に着きました。何かテントのような場所の裏側でした。ビニールの奥からは、男女の声が聞こえます。その瞬間、私は安堵しました。人の声が聞こえるだけなのに、それがこれほど心強いなんて、思いもよりませんでした。何やら話をしているが、妙にカツゼツがいい。耳を澄まして聞いていると、なんと劇をやっているらしいのが分かりました。
それが行き止まりでした。他には獣道のようなものしか見当たらず、流石にノートパソコンを入れたカバンでそこを通るのはリスクが大きいし、草負け体質なもので痒いのは嫌だと、私はすごすごと元来た道を帰りましたとさ。本当はもうちょっと行ってみたい気もあったんですけど、足滑らせて骨折る、なんて洒落にならないですからね。この時期に。
……あれ?あんまり身体の話してない?
ま、まあ、ほら、あれです、ハードルを下げたってことでっ!
余談ですが、歩いている途中は恐怖のあまり、常に携帯電話を触っていました。でも誰かにかけたら絶対に「戻ってきなさい!めっ!」って言われるの分かってたんで、触るだけにしておきました。お触りただですから。
昔の人は、そういう手段もなくて、大変だったんでしょうね(携帯電話はかなり歴史が浅いのですけれど……)。
本当はこの前見た『愛のコリーダ』について何か書こうと思ったんですけど、こっちのほうが面白いかな、って気を遣った結果がこれだよ!
以上、深夜テンションのSでした(現在午前2時44分)。
【寺尾】
う〜む、まさに真夜中のテンションで、おもしろいんだけれども、こんなのばかりでも困るなあ。
6月から、Kさんに勧められた『3年B組金八先生(第二シリーズ)』を、細々と見始めました。
このドラマは、皆さんご存じの通り、国語教師である主人公の坂本金八が、問題児の集まる3年B組の担任として、数々の問題に奔走する話です。
このドラマの面白いと思った点を幾つか挙げてみます。
1.放送当時の時代背景(1980年−1981年)や社会問題に対する、大人の考え方の一部が見て取れる。
2.話し手がよく噛む。大事なところでも噛む。そこにリアリティを見る。
3.後シリーズとの比較で、社会がどのように変化したかが分かる。
4.沖田浩之がカッコいい。
5.森田順平が若くて嫌味でカッコいい。
6.昔と今のジャニーズジュニアの顔の違いに驚く。
尚、4と5と6は私の本当に個人的な意見です。
私は1の視点で見るのが面白かったです。
例えば、ゆとり教育の問題について。ゆとり教育は現在、学力低下や、思った通りの効能がないことで、批判を浴びています。しかし、このドラマを見ると、当時の子どもと大人が、如何に「受験」という単語にナーバスになっていたかが分かります。ゆとり教育が正しかったかどうかは別として、大人たちがゆとり教育というものに託した願いがどのようなものだったか、それが、このドラマの登場人物たちの持つ「受験」というものへの憎しみ(?)や苦悩から分かるような気がします。
また、現代で口にしたら、差別だと言われかねない表現も、多々あったと思います。例えば、生徒のホモ疑惑のときに、金八があからさまに動揺して「そんな、ホモなんて」といったことを口にしたり、暴力を肯定するような場面も見られました。ただ、このドラマの良いところは、必ず対立する項目があるところです。違う意見を持つ者が、学校という1つの空間を舞台に、ぶつかり合いながら共存していく様は、もどかしくもあり、面白くもあります。人生とはこういうものなのでしょう。
他にも、「一億総中流」から約10年が経ったにも関わらず、恵まれない環境に置かれている子どもの問題や、大人になれない「思春期心身症(こんな言葉、今でも使うのか?)」の子どもの問題など、現代に通じる話が多く、戦後の歴史を考えるのにとても参考になりました。
さて、ドラマとしての、金八先生について。
登場人物が若干善人過ぎるとか、実は悪い生徒ほど良い子ちゃんに描かれているとか、子どものキャラクター像に理想が混じっている点が気になりました。ドラマだから、仕方がないのかもしれませんが、もう少し子どもに対する絶望感を持ってもいいような気がしました。最も、あまりに生々しすぎると、もはや金八先生ではなくなってしまうのかもしれませんが。
ただ、役者が伸び伸びと演技をしているように見えて、視聴者としては楽しかったです。金八が噛む辺りが特に面白かったです。また、生徒役が10代の少年少女たちだったので、端々の台詞自体は不自然だったのですが、笑い顔や仕草はとても「らしく」見えました。台詞よりも、身体という点に等身大の子どもらしさを感じるというのは、映像特有の物かもしれません。そうではないかもしれません。
金八の選択がハッピーエンドに繋がってしまうあたりが、教師ドラマとしての危険性であるとは思いますが(金八だけが正しいわけではない)、教師を志望しない方は、純粋に金八の体当たりや苦悩を楽しんでください。教師志望の方は気をつけて見てください。金八を熱血教師として捉えて彼を目指すというのは、個人的には少々危うい気がします。金八は非常に口が上手く、古典を引いて言葉に説得力を持たせているあたり、熱血だけの男ではないと私は思っております。
私の稚拙な文章では面白さが伝わらないかもしれませんが、暇な人は是非見てみてください。私は4巻以降を見ます。
【寺尾】
金八は時代を示すブーム現象でした。
そこからさまざまな問題を取り出すことができます。
単純に良い良い・・・ではなくて、しっかりと批判的な視点を確保していると、内容に深みが出ます。この調子でお願いします。ところで「噛む」というのが、よくわからないのですが・・・
最初に言っておく!!
俺はか〜な〜り、眠い!
どうも、仮面ライダー大好きアポロ…じゃなかった(汗)
アホノガイストこと大谷です。
最近大学やら病院やら教習やらで朝が早い日が続いてるので、
眠たさをこらえる日々が続いています。
さてさて先週の日曜ですが、
映画仮面ライダー電王トリロジー の3部作の初作、
ゼロのスタートラインを見てきました。
いやぁいつもの電王主役じゃなくて、
今回はサブライダーのゼロノスがメインってことで見に行ったのですが、
う〜んゼロノスというよりは、ゼロノスに変身する桜井侑斗(中村優一)が
メインな話だったと思います。
ライダーにLOVEな要素をいつもよりふんだんに
入れたちょっと変わった作りで自分なりには楽しめました。
ただアクションは少し物足りない気がするので、
子供受けにはあんま良くない気がします。
9日には2部目が公開になりますのでモチのロン、そちらも行く予定です。
【寺尾】
最初のメールなので、とにかく載せます。
口語体は、うまく使えば効果的ですから、それ自体はよろしいのですが、以後の参考になるので、キツイ一言を。
全体がただの「つぶやき」で、こういう緊張感のない文章を公開するのは、別の媒体を使うべきでしょう。
映画の紹介であれば、いつ、どこで、どういう内容で、そのどこがオススメなのか、その他を、もう少し整理するべきです。
それからタイトルは『』です。
27日(木曜)、神宮球場のヤクルト×東北楽天2回戦を、外野ライト側自由席で観戦。
監督休養後の最初のゲームであり、久々に応援しがいのある引き締まった試合、22時過ぎの延長12回でも大勢の観客が残って応援する良い雰囲気……。
ただし、4時間半ゲームの疲れで全てが吹っ飛んだ。
【寺尾】
ホームページをリニューアルしてもらって、何もないのは寂しいので、とにかく何か書け!という次第です。
随分日にちが経ってしまったけれど、今回は六月に行った『東京ディズニーシー(以下『DS』)』の感想を書く。概要を述べておくと、『DS』は、株式会社オリエンタル・ランドのアトラクションパークで、二〇〇一年九月四日に『東京ディズニーランド(以下『DL』)』の傍へ設置された。名前から分かる通りにコンセプトは「海」、キャッチコピーは「さあ、冒険とイマジネーションの旅へ」である。
私の感想を率直に述べるなら、『DS』はオリエンタリズムの最たるものであり、近代西洋中心主義の色濃く出たテーマパークであった。
詳しくはwikipediaを参照にして頂きたいのだが、『DS』は七つの区域に分かれており、それぞれにテーマがある。例えば、『ミステリアスアイランド』はジュール・ヴェルヌの小説『海底二万里』『神秘の島』をモチーフとして作られ、『マーメイドラグーン』等はディズニー作品の世界を再現する形となっており、『メディテレーニアンハーバー』は西洋の港町をイメージして作られている。つまり『DS』の基本はパロディなのだ。そして『DS』は現実と空想の境界線が消滅した世界である。では、現実と空想とは、何なのだろうか。現実とは西洋であり、空想とはそれ以外の未開の地である。例えば、呪いという言葉が出てくるとき、その背後には大抵インドやアラビアや海底といった西洋とは別世界がある。それに対して西洋が空想の世界へ行くとき、大概そこには科学という媒介がある。そうすることで西洋/それ以外という二項対立を作り上げ、西洋を進歩、それ以外を土着として示すのである(これらは『DL』も似たようなものだが)。
西洋の夢は、海から始まった。時は大航海時代、人々は果てしない海に夢を見て、船で旅立ったのである。故に西洋諸国以外は外部として発見され、植民地を拡大していった。 今回の『DS』のコンセプトである海・冒険、それに(恐らく)十六世紀頃から二十世紀という時代設定は、そうした西洋における夢の時代の再現なのだ。故に西洋以外の国々や場所は、非科学的であらねばならない。近代化は常に科学と結びついている。
さて、現代は、外部が消滅した時代と言われている。発見すべき別世界も、開拓すべき地も、もはや存在しない。それによって世界は行き詰まりを見せている。だからこそ『DS』は船で今一度近代という夢の時代に立ち返ろうとしたのではないか。そしてメタ的に考えるのなら、『DL』及び『DS』は、アメリカによる日本支配の、経済的・文化的な植民地政策なのではないか。日本人に近代的な夢を見せることで、アメリカは正に近代的であろうとするのではないか。
『ミステリアスアイランド』の薄暗い穴倉の中にあるレストランに入ったとき、私は異様な雰囲気を感じた。『ヴォルケイニア・レストラン』は、火山の地熱を利用して料理が作られているという裏設定のある、中華料理の店だったのである。対して日本料理屋の『櫻』は、ニューヨークに移住した日本人による創作料理店として、『アメリカンウォーターフロント』に店を構えている。この対比からも『DS』の近代主義的な思考が伺える。
近代へ行き遅れた中国。西洋かぶれした日本。パーク全体に散りばめられた夢の記号。第二次世界大戦の起こらない停滞した幸福な未来としての『DS』を、我々は今一度冷静な視点から考えてみるべきではないだろうか。
※尚、友達とテーマパークに行ってこういうことを喋ると、嫌われるからやめましょう。間違っても「資本主義コーティングの夢の国」とか言ってはいけません。友情という夢も壊れます。とオチをつけないと気が済まない佐藤でしたとさ。あ、『DS』、楽しかったですよ!