専修大学 寺尾 教養ゼミナール[2010年度版]
【寺尾】
私は今まで、美少女とはただ可愛く描かれた女の子だという認識しかしていなかったが、実際は、目が大きいだとかの記号自体は同じで、性格によって差をつけているという事を知り、驚いた。
キャラクターの見た目で、性格を表していただなんて、アニメも奥が深いものなのだと感じた。そして、そういった美少女を好きな人は、ただ可愛いから好きだというわけではないのだということが理解でき、勉強になった。
【発表者】
美少女が好かれる理由は、見た目に対するフェティシズムだけではなく、そのキャラクターが見た目の記号を以て表現する性格にもある(と私は思う)、というのが伝わって幸いです。
『2次元の美少女をテーマにするとやっぱり『オタク』って言葉もついてまわりますし、現在2次元に対しての層も大部分変容が見られてきていて幅が広くまとめづらかったと思います。話題的には「2次元の美少女の観点」っていうものは見る人によって千差万別、感じ方考え方等終着点が違うのでそこをどの切り先でもまとめられる終着点をつくらないと難しいと思いました。』
先ず2次元で美少女について考えると、自分は真っ先に深夜とかでやっている目の大きな顔のパーツのバランスの取れてない女の子が出てくるアニメを想像しました。
自分は特撮とかバトルアクションモノのマンガとかが好きなタイプだったのですが、『美鳥の日々』という週刊少年サンデーで連載されてたラブコメディを原作、アニメと見だしてから美少女モノのアニメやマンガを好んで見るようになりました。
その時代は美少女モノのアニメを見ている、週刊誌で連載してるマンガでさえ、それが好きだと言うと偏見の目で見られ後ろ指をさされていました。
その時はそういった美少女モノが好きな人は、ストーリーの濃さを重点に置き、一般にはあまり見向きもされないアニメとかに制作者の意図や作品性をくみ取って楽しむマイナー趣味を持ってる人が多かった印象があります。
しかし、2000年後半以降……とくに2008年以降当たりからはそう言った美少女アニメの敷居が低くなり一般のあまりアニメを見ない層もアニメを趣味として見る人たちが増えてきました。しかし、敷居が低くなるにつれ、ストーリーよりもキャラクター原画の可愛さで勝負するような作品が増えたような気がします。
30分間グラビアアイドルのイメージビデオの2次元アニメ版を見せられているような憂鬱感。登場するキャラクター自体や絵が好きか、ところどころのあからさまに垣間見れる視聴者に媚びるような美少女のしぐさ(パンチラ等の少々Hなシーンも含む)を好まない限り視聴し続けることは辛い作品が増えてきています。
これは2次元アニメが一般化したことにより、現実のアイドルファンをやってたタイプが、佐藤さんの話した裏切らない等の理由から2次元に移ったことにあるのではないかと自分は思います。
マイナーでストーリーを大切にする昔からのアニメ好きに比べ、新規のキャラクターの記号としての可愛さのみを求める新規の層の方が一般化したため比べるまでもなく多く、その層に合わせてイメージビデオみたいな2次元アニメが増えてきたのだと自分は考えています。
佐藤さんが紹介した『けいおん!』はまさにそれの代表格であるアニメで、キャラクターのかわいさを求める層に対して広まりOP主題歌が売れたり人気を博しました。
ただ日常を描いてるだけ…軽音部なのに練習しないでお茶してるだけ、それに対してホワイトボードには「めざせ武道館!」、そういったおふざけでやってる部活なのに真剣にやってるアマチュアバンドのライブを見ては部活の方が一体感があると言う、プロの野外ライブを見て練習の描写が無いのに私たちの方がうまいと言いだす始末で、矛盾を多くうみストーリーの無さを絵に描いたような作品だと思います。
そのことからすべての2次元絵を美少女としてまとめるのは無理があり、増してや最近の萌えを狙ったようなアニメ絵は基本的なパーツは同じで、髪型、髪色、目がつり目かどうか、でしかキャラクターの性格を書き分けられず、そんな基本パーツが同じものに作品をみずに性格を当てるのは難しいと思います。
マンガ家でも美少女をかければいいでキャラクターの描きわけができない人が増えてきています。昔のアニメも描き分けができていない作品も多々ありますが、同じ画風、同じパーツ、同じ作画で飽和した今の美少女アニメと同じ土台にするのは、ナンセンスですし、それがすべてであらわしていると評するのは少し違うような気がします。
とにかく2次元、美少女と言うモノはやはり終着点が無いので、論ずるのには難しいと思います。長くなって申し訳ございませんでした。
先日、ロッキーホラーショーのDVDをゲオの方で、借りてきましたので、大沼さんの発表の感想はその映画を見た後にさせていただこうと思います。
【発表者】
貴重なご指摘ありがとうございます。
私も『美鳥の日々』は全巻持っていました。純情系不良キャラに弱いので(笑)
アニメが大衆化によって敷居が低くなったというのには同意しますが、ストーリーよりもキャラクター原画の可愛さで勝負する作品の増加というのは、少し疑問に感じました。具体的にはどの作品でしょうか? 最近のアニメを見ていないのでわかりません。作品名を挙げていただければ、見てみようと思いますので、教えてください。
さて、話は変わりますが。
昔の美少女モノが好きな人間はストーリーの濃さに重点に置いており、今の人間はそうではないというのは、今のアニメ視聴者として納得がいきません。何を以てストーリーが濃いというのか。私はストーリー重視とされる美少女ゲームを何本か(『Kanon』『Fate/stay night』『同級生2』など)プレイしてきましたが、言われている割にはストーリーが濃厚だとは思いませんでした。無論、私はこれらのゲームが、嫌いというのではありません。ただ話のみで評価するのなら、騒ぐほどのものでもない、と思ったのです(『Fate』は例外かも……個人的にですが)。
2000年代におけるアニメにおいて評価されているのは、演出や動きではないか、と私は個人的に考えています。特に『涼宮ハルヒの憂鬱』『けいおん!』などは、話自体はそんなにすばらしいものではないかもしれませんが(ちなみに私は結構好きなんですよ?)、演出にかなり力を入れているように見えます。『Kanon』は二度アニメ化されていますが、東映アニメーション版と京都アニメーション版ではまったく評価が異なります。勿論、2000年以前のアニメにも、演出に力を入れている作品はありますが、2000年後半のアニメが全く陳腐であるとはいえないと思うのです。
グラビアアイドルのイメージビデオのようなものに憂鬱を覚えるのなら、見なければ良いのではないでしょうか。現在ならアニメのあらすじなど、ウェブで簡単に読むことができます。つけ加えておけば、アニメにおける美少女のちょっとエッチなシーンは、『機動戦士ガンダム』の入浴シーンからありますし、八〇年代以降には美少女アニメのアダルトビデオが作られています。別に今に始まったことではないのでは?
『けいおん!』に言及するなら、例えストーリーが陳腐であっても(こう言い切るのもどうかとは思うし、そもそもストーリーが陳腐か否かという基準が見えないので、『けいおん!』のストーリーが陳腐だとは一概に言えないのだけど、便宜上陳腐ということにしておきます)、キャラの動きだけで視聴者を魅せられるなります。それは他愛のない日常も、演出次第によっては輝くわけです。そういう点で『けいおん!』を代表とする京都アニメーションのような日常を描く演出重視のアニメも、分析対象としては面白いと思います(『らき☆すた』や『けいおん!』などの原作が、四コマ漫画であったことも、なかなか興味深いですね)。
それに大谷さんが指摘されている、>おふざけで〜 という箇所ですが、女子高生の部活なんてそんなものでしょう。私は高校の時に文芸部に入部しておりましたが、星新一を読んだときに「何でこいつが小説家なんだ」と思ったことがあります(今では星新一のストーリーの完成度の高さには平伏してますが)。ついでに言えば賞などには一度も投稿しませんでした。『けいおん!』は細かいところで高校生の傲慢さを表現している点で、むしろリアルであるとは考えられないでしょうか。勇者だけが主人公ではないように、トップを目指す人間ばかりが部活に入部するわけではありません。ある意味で今までの努力→達成→その道の頂点に、という物語よりはリアリティがあるのでは?
私は「セイバーたんとちゅっちゅしたいよぉ〜」とほざく俄かアニメファンの部類なので、どうしてもそういうアニメに惹かれてしまいます。残念ながら。勿論、それだけがアニメではないと思うし、量産が質の低下を招くという点も同意しますが、ストーリーばかりに目がいくのならアニメ化する理由がないように思います。そしてそれら全てが『美少女』という記号を駆使して作られている点は、結構研究しがいがあると思うのですが……駄目なんでしょうか?
タイトル通りの個性的な発表で面白かったです。佐藤さんの着眼点や考えていることは、毎回私の想像の斜め上をいく感じで、とても楽しかったです。
「美少女と記号消費」と難しいタイトルでしたが、漫画やアニメに出てくる『美少女』という記号を纏った登場人物が、どのように、どういった経過で、人々に消費されて(愉しまれて)いくのか、ということがわかりました。漫画などで「このキャラクター(美少女)が好きだ」と思った時、一見するとそのキャラの容姿に惹かれているようでも、確かに他のキャラも顔の構造的には美少女なわけで、どうしてその差別化に至ったのかというと、その好きなキャラの背後にある物語や設定、キャラの内面を消費しているから、ということを改めてわかりました。
シュミラークルされた美少女が蔓延している現代だからこそ出てきた「美少女と記号消費」という問題点だったのかもしれないが、よく考えたら普通のことなのかなとも思いました。漫画やアニメはそういう風に創られているわけだし、この話しだけだと『美少女』に限定しなくてもよかったので、この「美少女と記号消費」の話しを前提に展開していって、消費する側との関わりやジェンダー論をもう少しつっこんだものを聞きたかったです。卒論でやるみたいだけど。あと、『日常』について言及していたが、「美少女の表情や仕草を表現する舞台装置=美少女たちの新たな設定や記号といった情報の集積」とあったが、『非日常』と何が違うのかがわからなかったです。
【発表者】
斜め上は褒め言葉として受け取っておきましょう(笑)。そして私の発表中にいいたかったことを、綺麗にまとめていただきありがとうございます。
『日常』に関しては、先日お話しましたが、もう一度書こうと思います。AKBの発表を聞いて、なんとか考えがまとまった……気がするんですけど。はい。
『美少女戦士セーラームーン』などを見れば分かりますが、あのアニメの中では女の子の日常描写が妙に細かいんです。『セーラームーン』は基本的に戦士として変身して戦います。これを『非日常』とします。『セーラームーン』には『非日常』とのメリハリをつけるために、遊びに行ったりするような女子中学生っぽい描写を入れます。これを『日常』とします。『セーラームーン』には『日常』と『非日常』があるわけです。しかし、『けいおん!』にはもはや『非日常』ではなく、『日常』があるばかりです。こういった作品の差から、『けいおん!』は、女子高生がただ遊んだり友情したりお茶したりするようなアニメを作りたいがために選ばれたんだろうなあ、と思ったわけです。まあ言ってしまえばキャラ萌えって奴ですな。
最も、それらの『日常』は作られたものであることは、注意すべき点でしょう。二項対立はこの場合、日常/非日常ではなく、虚構の中で加工された日常/虚構の中の日常と対立するものとしての非日常、となりますね。
こうした事例を挙げるなら、AKBがいいですかね。AKBは舞台という『非日常』と、普段の姿という『日常』を持っていますよね。『日常』はカメラで作られてる点では、虚構なんですけど、舞台上の『非日常』との対比によって、『日常』が虚構でしかないことは忘れさせられてしまうんです。
さて、じゃあ『日常』の開示というのが、何に繋がるのか。それは、個性です。たくさんいる女の子の中から、自分の気に入った個性の子を見つける。個性っていうのは、好きな食べ物とか、趣味とか、癖とか。そういったものを知っていくことが、アイドルや美少女キャラを楽しむってことなんじゃないですかね。あ、別に美少年とかでもいいですけど。
「あなたのことを知りたい」は、もしかすると、「あなたを征服したい」ってことなのかもしれませんねえ。
短くしようと思ったら長くなりました。ごめん……。
今回の発表では、学問的な用語が多くあり、その言葉の定義や概念が曖昧であるがゆえに話題が複雑化してしまっていたのが残念に感じました。しかし、個人的にはこのテーマはとても興味深く、特にキャラクターの基本的なパーツは同じにも関わらず、ファン個々人で好きなキャラクターが違うということは外的要因(髪の毛の色、格好、年齢設定、立場設定など)の他に、そのキャラクターの内的要因が絡んでいるのではないかという視点は非常に面白いと思いました。
一卵性双生児でもモテる方とモテない方に分かれることがあります。この場合も、実はこの辺りの内側の部分が表情や話し方、言葉のチョイスなど様々な部分で微妙な違いをもたらし、それが結果的に大きな雰囲気の違いに繋がり、そのようにモテる方とモテない方に分かれるのかな?などと思ってしまいました。
【発表者】
私自身、話していて分かりにくいよなあこれ、と感じておりました。ご指摘ありがとうございます。キャラクターの内的要因は、キャラクターという存在を考えるときに、非常に重要だと思います。キャラとは少しズレますが、AVでも最初にインタビューでどのような人物かを視聴者に分からせたりしますよね。今回『二次元キャラ』という枠組みではなく、『美少女』にしたのは、性的な要素(どのような異性が好きか)に関わってくるのだ、という主張”も”したかったからなんです。……不発に終わりましたが! 雰囲気で感じ取っていただけたようで幸いです。
薄々は感じていたので、言語化されてだいたい納得しました。美少女というものが記号化され、消費の対象になっていること。この性格ならこういう目とか、この性格ならこういう表情とか、容姿が記号化されていき、それを見て楽しむ視聴者の存在。アニメの市場が、以前に比べて大きくなったことのデメリットと感じます。商業主義的になり、より大衆受けする、低費用な作品が会社に好まれる。今で言う「ツンデレ」も、以前は素直になれないトラウマのようなものが存在し、それが克服されて素直になれるようになる過程に感動を覚えていたと思いますが、今やそれが単なる性格、しかも金髪ツインテールという「記号」付きなことが多くなった。「フラット化する世界」そのもの。
アニメ業界もハリウッド映画のような稼ぎ方を目指しているのかもしれません。実際、紹介されていたように『けいおん!』もこの方向で爆発的にヒットしたようですし。押井 守とか今 敏(ご冥福を・・・)みたいな尖った作品というか、メッセージ性のある作品を生み出している人達が金銭的な理由で淘汰されていかないか心配です。
・・・経済学部のせいか、結局こういう方向に思考が飛んでしまいます。遅ればせながら、発表、お疲れ様でした。
【発表者】
非常に経済学部らしいスマートな言葉でまとめていただき、ありがとうございます。自分が感動した部分や萌えた部分を冷静に分析してみると、結構単純な構造なんですよね……それでもセイバーは可愛いですけどね。
こうしたアニメキャラの記号化は、正直、ストーリーの質の低下を招いてる気がしなくもないんですよね。西里さんのご指摘のように、ツンデレという性格がもはや記号ですよね。ツンデレキャラ。でもツンデレって本当は人間の一側面なんですよね。友人相手には素直でも恋人にはツンツン、なんてのはリア充にありがちです。それをキャラ化してしまうというのは、現代におけるアイデンティティの問題と密接に繋がっている気がします。人を一面的にしか捉えられなくなっているというか。そしてそれが実は空気を読めないってことなんじゃないですかね?
押井さんは『スカイ・クロラ』大ごけでしたからね……感想サイトを見る限り。商業的には成功したとは言えないでしょう。エンターテインメントとメッセージを両立するのは非常に難しい。結局、作品を作るには、金銭が要りますからねえ。
個人的に、京アニは、結構凄いと思うのですけどね……勿論、『AKB』のような手法で売り出しているとは思うのですが、それでも動画のレベルが他のアニメとは明らかに違う。それでいて時折実験的なことを行う。商業的に成功しているが故に、好きなこともできる。そんな集団だと思うんですよね。『涼宮ハルヒの憂鬱』の『サムデイ イン ザ レイン』と映画版を観ていただきたいんですけどね……未だに自分でどうして好きか言語化できない作品であります。
今敏さんには同じくご冥福をお祈りします。
わけのわからん発表ですみませんでした。カッコつけて難しい言葉を使うもんじゃないですね!と反省しております。あと、どうせ歴史学科なんだから、もうちょっと歴史的に話せば良かった気がします。
正直なところ、『美少女』の記号的身体への問題提起って、私の中に全くないんですよね。
アイドルの記号的身体は非常に問題だと思ってます。記号は人間を窒息死させるからです。前に『モーニング娘。』の加護ちゃんが未成年喫煙で仕事を干されましたが、自業自得にせよ、普通の女の子だったらあそこまで言われなかったんだろうなあとぼんやり思いました。『SMAP』の草薙剛が全裸になった事件も、岡田有希子の自殺も、教師の鬱病も、全部記号的身体のせいです。勿論、臼井さんの発表の通り、人間は仮面を被らねばなりません。でも、仮面と顔がくっついて離れなくなってしまったら、その人はその役しか出来なくなってしまいます。複数の仮面を持つことができない状況を作り上げる社会がわるーい!……と叫んで社会が変われば楽なんですけどネー。
それは兎も角。人間の記号の身体化には反対なんですけど、しかし、『美少女』は本当に何が悪いか分からない。言ってしまえば人の娯楽なわけですから、『AKB48』と同じ商業主義の視点からでしか(今のところ)私には批判できない。
それか『美少女』を男性の摂取物として見做し、吐き捨てることしか出来ない。「おまえらはさー美少女の優しい心に胸を打たれて感動したとか言うけど、彼女らの顔が三浦とか久本みたいだったら感動するのか?え?」と。『美少女』が記号的に生み出され、髪型や色で差異をつけられることは発表のときにお話したと思うんですけど、そうした美少女たちが登場するアニメで「遥あぁぁあぁぁぁ!」とか叫びながら大泣きしてる人間に聞いて見たいです。おまえはこの子が美人だからそうやって感動してられるんだろう?って。いやこれは僻みじゃないんですよ。単に「俺は彼女の全てを愛してるんだ!」っていう態度が気に食わないだけなんですよ。美を表現する記号の結晶体である『美少女』の内面が綺麗だったらそりゃ勿論愛せるだろうよ。でも決まりきった記号で作られた美を愛してるだなんて、本当に脳味噌お粗末だなって思うんですよ。誰に対しての批判かって、勿論自分自身ですよ。涼宮遥やセイバー、川本真琴など、複数の美少女を愛してきた自分に対する批判ですよ。
今回の発表を通して考えたのは、『美少女』を愛するということは、差異を愛することなんだなあ、ということです。判子のような顔の中から、物語を通して、好きなキャラを決定するんですね。そうと分かってても私は多分『美少女』或いは『美青年』なんかが好きだと思うんですけど。でも人間を好きになるのは違いますよね。言語化できないけど。
ちなみに私はそろそろジブリ系アニメが美少女または美形をボッコボコにしてくれることを願っています。ハウルみたいなカッコいいおにいちゃんが、『紅の豚』のラストのような殴り合いで、ボコボコになるようなのが見たいんですよ。戦うのに、鼻血も出ない、青痣も作らない、そんなアニメはもうたくさんだ!『聖闘士星矢』とか顔面から落下しても綺麗なままだし!ふざけんな!もっと残虐なものを見せろ!と言いたいです。……これもある意味で記号的身体への批判か?
……また長くなっちゃったんですけど、はい、すみません。以上、深夜テンションでした。