|
森の日記―――書を捨てて森に入ろう
平成22年8月8日
今日は妙に枝や葉が垂れ下がっている樹があったので、近づいてみると、葉が穴だらけだった。虫に喰われたのかなと思ったが、よく考えると、その樹は虫が大好きな葉っぱをもっているだけだし、垂れ下がっているから病気だとはかぎらない。虫喰いの樹。
見渡すと、いっぱい枝や葉が垂れ下がっている樹がある。上に向かって伸びていく樹は元気、垂れ下がっている樹は病気と考えるのは、人間の精神だ。考えてみれば、植物は枯れていたっていい。植物は、伸びていける状況にあればぐんぐんと伸びていくし、枯れるしかない状況にあれば枯れて葉っぱを落としていく。元気なのでも病気なのでもない。生きているとは、そういうことだ。O・ヘンリーの『最後の一葉』という小説は、涙なしでは読めないが、本当は、あまりに人間主義(ヒューマニズム)です。ツタにとっては、葉っぱを落とすことが生きることなのに。
小さな小川が公園のなかに作られている。とても人工的ではあるのですが、水は勝手に流れ、設計どうりかどうかは知らないですが、流れる水の表面に、絶えずさざなみや渦や光の反射やよどみを造ります。ぼくの右眼は、これまでパステル画みたいになっていると説明してきたのですが、この流れる水の表面の一瞬のようになっているといったほうが近い。白く光って見えない部分や、波や渦のたち方で水底が歪んで見えるような感じで見えている。そういうと、きっとひとびとは「きれいに見えるんだね」といってくれるかもしれない。

いろんな音が聞こえてきた。セミの鳴き声のようなもの、鳥の鳴き声のようなもの、カサカサという何ともしれない音や風の音、風で樹が震える音か、それと自動車の音だった。自動車の音がどうしてそれらに混ざらないのか不思議な感じがする。連続的な音だからか。でもセミだってそうだろう。とはいえ、セミは微妙に音程を変えていく。横断歩道で道を渡ろうと待っていても、とまってくれる車はない。こちらが身を乗り出して、自分の身体が傷つくことを担保にしないかぎり、車は止まろうとしない。サイのような巨体が突進してくるのに、運転手はサイのようには優しくない。
上の方を見上げると、木々のあいだに空が見える。図と地を反対にして、空をひとつの模様として見てみると面白いかと思ったが、ちっとも面白くはなかった。空は空で樹は樹である。個体であるものの反転図形を考える幾何学は、人間の愚かな精神だ。

|