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森の日記―――書を捨てて森に入ろう
平成22年8月15日
生物は機械だといって、あたかも人間が作る機械と原理的におなじようなものだと主張したひとたちがいるが、ひとりの人間が、一生かかっても、一本の樹に匹敵するものを作ることはできないだろう。台湾の故宮博物館に、親子二代で作ったとされる、高さ60センチはある象牙の繊細な透かし彫りの箱が展示してあったが、それは見事なものであるにしても、その辺の一本の樹に比べれば、何ということはないように見える。
竹はその見かけの単純さから、人間の作るものに似ているなと思っていたが、竹やぶの遊歩道のなかほどで、一本の竹が垂れ下がり、覆いかぶさるように道を塞いで、だれも通れなくなっていた。ぼくは、そこに行ってしゃがみこんだら、ちょうど竹に抱かれているような感じがした。竹の葉に頭があたったからといって、何の問題があるだろう。回りが全部竹の葉に取り囲まれて、その隙間から公園の風景が見えるのも、かくれんぼをしているようで面白い。後ろから来ていたひとたちが引き返していったが、こうした楽しみを想像できなかったのだろう。
森は多くのものを与えてくれる。緑の一言ではたりなすぎる。透き通って光を通す明るい緑の葉や、濃く分厚い肉のような濃緑の葉、葉の一枚一枚を見てみれば、たいていは、表と裏のツートンカラーだ。それが樹の枝の生え方によって、また風のちょっとした向きの違いによって、裏返ったり戻ったり、それで森は変化してやまないのだ。

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