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森の日記―――書を捨てて森に入ろう
平成22年8月17日
今日は、「セミの好きな樹」がちょっと奥まったところにあるので、もう一度見に行った。突然、写真を撮っておかなければ、セミの抜け殻が全部落ちてしまうと思って、大急ぎで家に戻り、ケータイを取ってきて写真を撮った。
そのうち、シダや、木漏れ日や、つぎつぎ撮ってひとに見せたくなった。一番肝心な「友だち3兄弟の樹」を取ったとき、電池切れとなってしまった。なんていうことだろう、「ケータイもカメラとして使うときには電気を食うんだ」と一瞬考えたけれど、それは違う、森が、そんなことをしてはいけないよ、と教えてくれたのかもしれない。神社に寄って、「ごめんなさい」と心のなかでいった。
ぼくはせっかく森に入ったのに、写真を撮るという「目的」をもってしまった。目的をもっていれば何も発見することができない。森は、それを教えてくれた。確かに、今日は何も発見していなかった。散歩者は、どんな目的ももってはいけない。森に入りたいという動機だけにしなければならない。それが今日の発見だった。
ひとは目的を着実に遂行するひとを「立派なひと」だといい、目的を見失って変なことをしたり、それを実行することから逃避して、気晴らしなどに夢中になるひとを「ばかなひと」だという。そのことに依存してしまうひとを「病気のひと」だという。でも、ぼくは、そもそも目的をもつというそのことが、人間の愚かさではないかと思った。
とはいえ、動機だけで行動していると、目的をもっているひとたちからいいように利用されてしまう。それはそれで、愚かなことだ。だから、動機からだけ行動し、利用されないように気をつけながら、ひとが助けてほしいことをだけしてあげる、それを行動指針にしてはどうかな。
小川のせせらぎを聞きながら、ぼんやりと水の流れを追っていた。あまりにゆっくりしているので、こちらもいよいよぼんやりすることができる。ふと、鴨長明のことばを思い出した。「よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、とどまりたるためしなし」、名文だ。でも、ぼくの見ていた小川には、「うたかた」がなかった。残念。

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