黄斑円孔手術体験記


森の日記―――書を捨てて森に入ろう


平成22年8月29日

 昨日だったか、入り込めないところにある樹々について書きました。今日も、おなじところから覗き込んだ。「覗き屋」だね。以前、デュシャンの作品で箱のなかを覗き込むものがあって、覗いてみると、いろんな道具と寝そべっている裸の女のひとが見えたような記憶がある。まじまじ覗いていては、まずい感じがした。でも、森のなかを覗くのは、だれも咎めないでしょう。ぼくには、何箇所かの覗きのポイントがあります。

 樹木を見ると、根があって幹があって枝があって、葉っぱがついているというだけで、とても分かりやすい。人間のからだは、神経系や循環器系や消化器系やと、やたら複雑です。大昔のひとは内臓についてよく知らなかったから、お酒を飲むと肝臓に悪いとか考えることもなかったろう。豆腐のように見える脳についても、何のためにあるか分からなかったろう。その方がよかったかもしれないね。

 ひとびとは新芽の黄緑が美しいという。枯葉の黄色や茶色はどうだろう、おなじように美しい。葉っぱの美しさは、基本的に緑色のものすごいバリエーションであって、黄緑や茶色をそれから区別するのは人間の眼と言語だ。人生のはじまりと終わり、そのはかなさを考える人間の勝手な価値判断だ。

 ぼくの歩幅は30センチ、歩く速度は毎秒60センチ程度です。ひざを曲げず、能のように歩きます。というと、能楽者たちに怒られるね。かれらは確固として進んでいくのに、ぼくはふらふらと、いったりきたりだからね。

 今日は写真を禁欲しました。写真に撮りたくなるような美しい場所がいっぱいあったけど、もってこなくてよかったと思います。カメラをもつひとに二種類います。大体のひとは、花や風景全体といった、絵葉書のような写真を撮ります。もう一種類の特別なひとたちが、発見することと写真に撮ることを両立できます。それがプロの写真家かな。カメラは結局単眼視だから、発見した個体(これ性)をそのとおりに写すことは不可能です。何を発見したかを見せることのできる写真を撮れるのは、プロの芸術写真家たちだけです。

 ぼくが森に惹かれるのは、病気をして、人生のはかなさを感じているからかなとも思います。脳の血管が一本切れるというちょっとしたことで、そのひとは重大な生命の危機に瀕します。樹木は、ちょっとしたことでは、(ゼウスの怒りのような雷のほかは)人間という動物が切り倒さないかぎり倒れないのにね。前に「寝ぐせの樹」と名づけた樹の前のベンチに座って、その樹と対話しながら、その樹の名前を「お母さんの樹」に変えようと思いました。


         

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