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森の日記―――書を捨てて森に入ろう
平成22年8月30日
森の門番が扉を開くのは8時ころで、ぼくはもっと早くから森に行きたいので、小川の道を歩きます。そこは細い道なのに、朝からたくさんの車や自転車が通ります。すごい速度です。人間は、ひとりひとりは優しくても、機械を身に纏い、サイボーグになると傲慢になる。機械で巨大化した人間は、歩く人間を、顕微鏡で覗く微生物のように見ているのかな。通りに面したいくつもの樹の幹に枝を切ったあとのこぶを見つけます。樹は人間から車道にはみ出すことを禁止されているらしい。
そういえば、正門からの大通りの両側に、巨大なイチョウなどが等間隔に一列に立っている大学があります。それを美しいと考えた近代フランス庭園風の景観で、大学の荘厳さを感じるひともいるでしょう。ですが、わたしは「どうかしている」としかいいようがありません。西欧では、驚くべきことに、樹木を、鳥や熊といった動物の形に剪定したりしています。

樹木たちが道路沿いから出ることを禁止されている代わりといっては何ですが、道の傍の樹々のあいだから、森のなかを覗くスポットがどんどん見つかります。森の壁に穴が開いていて、入っていくことはできないけれど、森は人間に、覗くことを許してくれるのです。
水辺の植物の怖さについて、少し分かったような気がしてきました。水辺では植物の生え方が、水の流れにしたがって歪んでいるし、緑にはおさまりきれない色がついていたりする。土と水の境界で何かが起こっている、そうした胸騒ぎかもしれません。海のなかから最初に上陸してきた植物の祖先たちの、激しい葛藤の名残りがあるのかな。
以前、竹は人工的な感じがすると書きましたが、そう思って見ると、方々に一群の竹があり、その場所を独占しています。だから人間のやることのように見えました。しかし、竹の一本一本を樹と比べたから間違えたのです。竹は地下茎で繋がっています。竹の一本一本は、樹にとっては、枝にすぎなかった。竹やぶひとつが、一本の樹だったんだね。
昨日は渋谷の井の頭線の改札口でひとと待ち合わせをしていましたが、電車が着くたびに、すごい数のひとたちが眼の前を通り過ぎていきました。ふと、『マクベス』の魔女たちの「森が動かないかぎり」という予言を思いだしました。マクベスは、合理的に考えて、それはありえないとしたのですが、敵の兵士たちが枝を身にまとって、襲ってきたのでした。それを魔女たちは「森」と呼びました。古代には、投石器だって木材で作られたのだし、人間という動物の恐怖を教えてくれます。
ともかくも、そうこうしているうちに公園について、またしても写真に撮りたくなるようなたくさんの美しいものを見つけました。少しプロの写真家のこつが見えてきた。自然を撮る写真家たちは、自然をそのままに肯定している。枯葉だって、石ころだって、全部混じって美しい。葉っぱのうえに虫の死骸があって、そこにアリたちが群がっていましたが、カメラがあったら、それを撮ったことでしょう。それはそれで、とてもきれいなものでした。

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