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森の日記―――書を捨てて森に入ろう
平成22年9月2日
少し遠回りして森に行くと、通りすがりの立ち入り禁止の森や家々の庭の樹に眼がいく。全然違う。オオカミとイヌの違いのようだ。刈り込まれていない庭の樹はまだましだ。
小川の澱みを見ていると、そこに鏡のような平らな面を見つけた。鏡の方が水を真似たものだろうし、鏡も水面も完全な意味では平面ではないのだけれど、古代ギリシアの哲学者たちは、そこに平面の観念を見つけたのだろう。万物のアルケー(始原)は水であり、水と土のあいだに直線があるように、水から水と空気を控除すれば、そこに平面がある。
一旦幾何学がはじまると、類比と類似の分類がはじまる。どうでもいいことかもしれないのに、一本の枝から出ている葉がみな類似しており、取り外して重なるかどうか、拡大縮小して重なるかどうか考えはじめる。同一性の観念。
ぼくは、木漏れ陽が道に描きだす、漠然として重なりのない模様の方が好きだ。葉っぱを見るにしても、蝶の翅と比べる方が好きだ。枝に無数の蝶がとまっていて、一斉に飛び立ったとしても、ぼくは驚かない。そういえば、蝶の漢字には葉がついているな。
蚊が散歩者の敵であることは以前に書いたけど、立ち止まるたびに寄ってくるのは閉口する。最近は、蚊から逃れようとして身をよじったり、急いで離れたりするようになった。何箇所かだけなら刺していいよなど、もう思わない。元気になったということかな。
元気になるとは、心が強くなるということだろうか。心が弱いということは、何でも受け容れてしまおうとすることか。とすれば、どちらがいいことか分からない。強いはよい、弱いは悪いというのは、だれが決めたのか。とはいえ、心が強くなるということは、体を信頼しているということで、心は体を守るために何でもしようと強気になる。怒りやすく、勝手になって、体を他の人間たちによって拘束されてしまったりもする。

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