|
森の日記―――書を捨てて森に入ろう
平成22年9月6日
風景を変えるものは、視覚のパースペクティヴと、見られる樹木や草花の変化ばかりでなく、光の角度でもあります。いつのまにか、光が斜めに強く差し込むようになってきた。それでまた風景も変わって見えます。風の匂いまで含めると、森のモナドは単一ではないなどと、定義と矛盾することまでいってしまいそうです。
樹木の葉っぱには、黄色いものや茶色いものも増えてきて、より美しくなっています。まえにも書きましたが、植物にとって葉が枯れることは生きることであって、死ぬことではありません。どんなに深い思索をした哲学者であれ、生きることを教えているのであって、死については、かれらは何も知らないのだから、何も教えてくれません。教えようとしていても当てにしてはいけません。
ときおり、季節はずれじゃないかというように、新緑でいっぱいの樹も見かけますが、それはそれ、樹は人間とは異なって後悔してはいないでしょう。人間が後悔するのは、目的や意図をもっていたからであって、植物には何の目的も意図もないからね。人間も、「後悔しないように」と呼びかけあっていますが、目的の手段をちゃんと考えようという意味ですね。でも、目的と意図をもつかぎり、必然的に後悔します。どんな成功者だって、「こんなはずじゃない、自分はもっと・・・」と思うものではないでしょうか。
今日はちょっと腹痛がして、余計に歩く速度が遅かった。歩きながら考えた。からだの調子が悪くて、からだに縛られて歩いている。自分が歩くのと、風景がじわじわと展開するのと、どこが違うのか。風景のなかで、風で枝が揺れるのと、ぼくのからだが揺れるのとどう違うのか。
意図や目的がなかったら、能動と受動もなくなります。ぼくは風景に引っ張られながら歩いているともいえるのです。視線は風景の方から引っ張られ、ぼくの方から風景に投げかけるというように、ぼくと風景は視線を通していったりきたり滑走し、会話します。デカルトがいったように、風景の反射した光が、棒のようにぼくの眼底をつついているわけではないよ。何かを発見するのは思考によってだけではないよ。からだが風景のあいだにあるからだ。
神社に寄る話はしましたが、手を叩いたあと、最近は、こころのなかで「ごめんなさい、ありがとう」というようになりました。何を謝っているかって? ぼくにも分かりませんが、サルトルのいうように「人間を代表して」森に謝っているのかな。

|