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森の日記―――書を捨てて森に入ろう
平成22年9月7日
枯葉がいっぱい落ちています。こんなに暑いのに樹木はどうして秋を知るのだろうと不思議に思いながら歩いていました。道に小石と小さな草の群れと落ち葉とが重なってとてもきれいです。
そういえば、うえからギシギシと音がします。枝と枝がこすれあっています。そんなに強い風ではないはずなのに。光ばかりでなく、風も斜めからふいている。風は強いか弱いかだけかと思っていましたが、もっと多くの種類がある。
写真に撮りたいものがいっぱいありましたが、ぼくの技術では何を撮ったか分からないだろうし、たまたまうまくいってきれいな写真ができたとしても、ひとはそれを見て「きれいだね」としかいわないだろう。ぼくの感じた「きれい」と、写真を見たひとの「きれいだね」の恐るべき距離。
老木と思われるこぶだらけ孔だらけの樹を見つけました。老人のシワはあまり見たくないのに、樹だと、きれいで荘厳に見えるのはどうしてだろう。世阿弥に「枯れ木の花」ということばがあったけれども、こういうことなのか。老人のシワがきれいに見えるようになればいい、または、きれいなシワの老人に会いたいものだ。
おなじ時間に出たらしく、おなじ通勤者たちに出会います。ぼくがよけて待っていても、当然のように通り過ぎるひともいれば、昨日は「すみません」といってくれ、今日は自分から車道に出てくれたひともいる。昨日とおなじところにいたカラス、おなじカラスか分かりませんが、昨日は5mで飛び立ったのに、今日は、1mまで知らんぷりで、ちょんと場所を変えただけだった。明日はそのままでいてくれたらいいな。
ひとのこころは、森のようには発見させてくれません。そのかたくなそうな表情のしたに何が隠れているのだろう。森の入口が閉鎖されていて、がっかりしたこともありますが、森の番人に怒ったり、権利を要求したりするのではなく、樹木のように通れる方へと通ればいい。「かたくなさ」を捨てれば、こころも捨てることができるのだろうか。違う道を通って帰れば、またそれなりの発見ができます。

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